第9話 理由

 音もなく脇腹部分の布が裂けた。相手の剣はすでにはるか遠のいている。

 レオニアスは汗を拭った。防具はつけていない。この相手には意味をなさないからである。

 今日の訓練相手は、若くしてすでに達人級の腕を持つ姉アルナールだった。


 アルナールの容姿は、若い軍馬を連想させる。しなやかな筋肉に覆われながらも均整の取れた美しい肉体、陽光を浴びてたなびく長い髪と、生気あふれる黄金の瞳。

 社交界での礼装はそれは美しく、弟のレオニアスでさえ目をみはるものがある。しかし当人は動きづらい格好を嫌っていて、訓練でもそれ以外でもそっけない茶色のズボンとブーツ、白いシャツを着ているこが多い。

 彼女の手には今、訓練用に歯をつぶした長剣が握られている。構えは青眼。ただそれだけなのに、驚くほど隙がない。これがミラーノ相手であればいくらかの隙を見つけ出すことが出来るのだが(しかしそれがフェイクということもままある)、姉を相手に剣を打ち込む自分の姿が想像できない。

(ならば、一番自信のある速さで勝負!)

 レオニアスは相手と同じく青眼に構え、間合いを詰めつつ、切り上げると見せかけて剣先を戻し、腹に突き入れる。

 しかし読まれていたのだろう、アルナールは軽く身を退き、剣身を水平に倒して攻勢を抑え込んで返す刃で逆に弟の腹を突いた。

 ピタリ、とレオニアスは止まる。これ以上進めば、シャツが破けるだけの被害では済まない。

「ふぅ――イテッ」

 思わずため息をついたレオニアスの頭頂部に、姉のこぶしが打ち下ろされる。

「何するんだよ、姉上」

 レオニアスが抗議すると、

「訓練中にため息なんてつくんじゃない。力が抜けちゃうじゃないの」

というごもっともな説教が返って来た。

 レオニアスが口ごもっていると、アルナールもふっと力を抜いて剣を下ろした。それだけで、場の空気が変わる。

「ホントあんた、もうちょっと強くなりなさいよ。その腕じゃ、キレイな顔を守れないわよ」

「姉上こそ、口より先に手が出る性格を直さないと、キレイな顔を生かしきれないぞ」

 アルナールは顔の横でひらひらと手を振った。

「いいのよ。私のこぶしを受け止められる男と結婚するから」

「……顔もよくないとダメなんだろ?」

「当然でしょ。毎日あんたと自分の顔を見ているのよ。そんじょそこらのじゃがいも顔で満足できるわけないじゃない」

「……」

 姉は一生結婚できないかもしれない、とレオニアスは思った。『帝国の薔薇』と呼ばれた祖母の美貌、すでに達人級に達した姉の武術の腕。兼備する人材は極めて稀だろう。美醜の判断は個人に委ねられるが、20代前半にして達人級の腕を持つ人材は歴史に名を刻む。現世代においても、公式に記録されているのは姉ひとりである。非公式の猛者を探すか、歳の差結婚を求めるか……。

 ふと、美しい衣装にも宝石にも興味を示さない姉に尋ねてみたくなった。

「あのさ。剣術って、そんなに楽しい?」

「楽しいわよ。どうしたの、急に?」

 アルナールは首を傾げた。

 尋ねたのは思い付きだが、疑問は長年レオニアスの中にわだかまっていた。

「剣術は、希少な宝石や、華麗な装飾品より楽しいものなのか?」

 レオニアスには「剣術が楽しい」という感覚が理解できないのだ。ウラヴォルペの血族だからと、この姉の弟だからと必死に訓練してきたが、心が躍るということがない。それよりは、邸宅の建築美、季節の植物に彩られた庭園、宝石の品質と加工の腕が調和した装飾品――そういったものを眺めている方が好きだった。自分を包みこんで流れる時間が、鮮やかにきらびやかに輝いているように感じられるからだ。

 弟の声音に切実さを感じ取ったのか、アルナールは剣を収めると少し考えるそぶりをした。

「そうねぇ、勝ったらもちろん嬉しいけど。なにより、自分の体が隅々まで、末端の神経まで意のままに動く……その爽快感がクセになるのよね」

 ただ姉の言うところの「爽快感」を味わえるようになったのは、比較的最近のことらしい。

「最初は、剣術名家の娘だからやってたの。あんたと同じ。上級騎士に上がってからかな、剣術がすごく好きだって気づいたのは。あんたが楽しいと思えないのは、まだ下手くそだからじゃない?」

「……仮にも公爵令嬢が『くそ』はやめてくれ」

 呆れつつも、姉の意見にも一理あると思ったレオニアスは、彼女の言うところの「下手くそ」な面子にも質問を投げかけることにした。


 もつれた赤髪を二つのおさげにしているセシル・ディシャンの意見はこうだ。

「剣術が楽しいかって? さぁ、あまり考えたことはないですね。そもそもうちは兄弟が多くて、はやく独り立ちしたかった私には、手っ取り早く稼げる職業が必要だったんですよ。それでたまたま、剣の才能、のようなものがあって今に至るわけでして」


 枯草色の髪を後ろでちょこんと括った最年少騎士イシャーダ・ラミーは、とうもろこしのクッキーをかじりながらこう話す。

「体動かすのは楽しいっスよ。堂々と人を蹴り飛ばしてもいいわけだし――いやいや、犯罪者に限ってですよ。俺の歳で今と同じくらい稼ごうと思ったら、騎士以外には……危ない仕事しかないんじゃないっスかね?」

 なにせ昔から人よりよく食べるイシャーダには、買い食いする資金が必要だったそうだ。


 レオニアスと同い年の騎士、浅黒い肌と勝気な水色の瞳を持つデュエルブ・ジラールも似たような事情らしい。

「俺の下に、兄弟姉妹が4人いるんですよ。働くしかないでしょう。騎士の道を選べば、公爵家から支度金ももらえる。すみませんが、楽しいかどうかなんて考えたことないです。あくまで、仕事としてやってるだけなんで」

 なお彼は、公式記録ではレオニアスより上位の下級騎士2級を持っている。


 どうやら平民たちは「職業選択」の一環として、騎士の道を志すものもいるようだ。レオニアスのように、最初から一本道しか用意されなかった例は少ないのかもしれない。


 先の三人とは異なる意見を出してくれたのは、落ち着いた色の金髪と鶯色の瞳を持つサラヴィエ・ラナトスだ。彼女も、下級騎士2級の保持者である。

「祖父母が、暴漢に殺されました。傭兵向けの宿屋を経営しているだけの、善良で、戦うことが出来ない人たちでした。彼らのような人たちを守れるのが騎士だと思ったので、こうして騎士団に所属しています」

 立ち入ったことを訊いてすまない、とレオニアスは謝罪したが、彼女は薄く微笑んで首を横に振った。

「同期はみんな知っていることですから。隊長、あなたは誰のために剣を取るのですか? お姉さまのおっしゃる『楽しい』も決して悪いことではありませんが、剣を持ってどう感じるかではなく、何を為すのか、を考えてみるのも良いのではないでしょうか」

 これまたごもっともな助言を受け、レオニアスはまじめな表情で頷いた。


 そして、今。

 『野郎どもの食堂』で麦酒を前に考え込んでいる。今日のお通しはポテトサラダだ。胡椒がよく利いている。

 トン、と陶器がテーブルに置かれる音がした。

 顔を上げると、店主エアルヴィオニーが顎で皿を指している。

「何を考え込んでるのか知らないが、まず食いな。健全な思考は健全な食欲から、だよ」

 レオニアスは皿の上を見た。豚肉のステーキのようだ。タレの匂いが香ばしい。

 改めて見ると、エアルヴィオニーという女性は非常に背が高い。男性の中でも長身の部類に入るレオニアスとほぼ同じくらいだろう。濃茶でやや癖のある髪を大胆に後ろに流し、薄暗い正面の下で翡翠色に光る瞳には威圧感が漂う。一目見て戦士と分かる、鍛え上げられた体躯たいくだ。

「訊いてもいいか?」

 レオニアスが話しかけると、エアルヴィオニーはじろりと皿を睨んだ。おそらく冷めないうちに食えという意味だと理解し、ナイフで切り分けつつ話を続ける。

「僕の噂は聞いているだろう……特別な才能のない平凡な剣士。姉上に言わせれば『下手くそ』なんだそうだ。そして仲間のように、剣を持つ立派な理由もない。今さらだが、戦士たちはどうしてその道を選んだのだろうと、気になってな」

 フライパンと雪平鍋で料理を同時進行しながら、エアルヴィオニーは笑ったようだ。

「坊ちゃん、下手くそなのか」

「……後半は否定しないが、坊ちゃんはやめてくれ」

 いまだに乳母もそう呼ぼうとするので、やめるよう訴え続けている。

「それじゃあ、レオニアス。あたしの弟子になりな」

 さらりと言われた言葉が理解できず――レオニアスは間抜けにも肉を口に入れたままおうむ返しをした。

「わあいのうぇしにわいな?」

「美形がそれをやると、面白いからやめてくれ」

 エアルヴィオニーは、今度は声を立てて笑った。手際よくフライパンから皿へ料理を移す。タイミングを見計らったかのように筋肉男のサンディがやってきて、皿を持ってカウンターを出て行った。本日は、カウンター席で飲んでいる客はレオニアスひとりだ。

「あたしの名前はエアルヴィオニー・ガロテ。元『太陽ソルの傭兵団』の傭兵さ。いっしょに姉上を見返してみないか?」

 翡翠の瞳に、いたずらな光が宿っていた。

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