第9話 渦巻く
意識が戻ると、闘技場に立っていた。
「あ……」
思わず息を呑む。
胸が早鐘を打ち、全身から汗が噴出す。
「……や」
足の力も徐々に抜けていき、その場に崩れ落ちそうになった。
「いやだ……」
この場にいることが耐えきれず、足に力を込める。が、今にも崩れ落ちそうな足腰では鈍重な足運びしかできない。
「いやだ」
この場から遠ざかりたいという一心で動かぬ足を強引に動かしていると、体勢を崩してしまい、その拍子に視線が移った。
「ッ!?」
移った視線の先は、五人を殺した場所。
「あ……」
その場所を目にした瞬間、全身から血の気が引いて体が震え出す。こめかみが締め付けられ、視界は狭窄し始める。
だが、視線を外すことはできなかった。
「……あ」
やがて、釘付けとなっている視線の先にそれは忽然と現れた。
――鮮明で、
「や、やめ……」
――ありありとした、
「ち、違う、おれは……」
――五人の今際の際、が。
「止めろッ!」
咄嗟に手を伸ばした。しかし――、
「あァ……」
伸ばした手が、萎れるように下へと落ちる。
「ああああああああああああァァァ!!!」
慟哭が、闘技場に木霊する。
「うッ、おえェ」
吐き気が込み上げ、嘔吐した。
「はァ……はァ……、うッ、おえェ」
断続的に込み上がってくる吐き気と精神の乱れが合わさり、浮遊感に似た感覚に苛まれる。
「はァ……はァ……」
寒い。体が凍えてしまうほどに。だが、両手だけは焼けるように熱かった。
恐る恐る、両手に目をやる。
――すると、
「あ……」
天井から降り注ぐ光に照らされた両手、その両手は鮮血に塗れていた。
「あァ……、ああああああああああああああああああァァァ」
両手を見たことで、精神が限界に達した。
「うッ、おえェ」
悲痛な叫び声を上げながら崩れ落ち、今度こそ全てをぶちまける。
「おえェ、はァ……はァ……、おえェ」
暫くの間吐き続け、胃液すらも吐けなくなった頃に、ようやく吐き気は治まった。
「……」
吐き気が治まった後は、口も拭わず緩慢な動作で膝を抱え込む。そして、虚ろな目を伏せ――、
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」
壊れたように、謝罪の言葉を呟く。
あの日から、この繰り返し。
改造と実験は、あれからも続いた。
ただし、あれ以来一度も人が闘技場に現れることはなかった。
だが、闘技場に連れて来られる度に蘇った。
あの時の記憶、命を奪った感覚、が。
当然、化け物と戦う気などない。
そればかりか、向き合うことすらしなかった。
自分の殻に閉じ籠るだけ。
無論、化け物は構わず襲ってきた。
拳を、足を、尾を、爪を、牙を全て体で受けた。
傷を負いたかった。
痛みを求めた。
しかし、この体では傷も痛みも得ることはできない。
そのことが、より心を追い込んでいった。
(俺は死ななきゃいけないんだ……)
謝罪の言葉を止めた。いくら謝罪の言葉を口にしても、何の意味も無いということを頭の片隅では理解しているからだ。だからこそ、口を閉じ、自身への罰を思い浮かべた。
人を五人も殺したのだから、生きていていいわけがない、と。
しかし、叶わなかった。
化け物の攻撃では死ねない。であれば、もう自ら命を絶つしかない。そう思い、首に手をかけようとした。が、寸でのところで体は停止した。
何度やっても、他の方法を試しても命を絶とうとすると必ず停止する体。
やがて、察した。
自分は死ねないのだ、と。
(俺は死ななきゃいけないんだ……。早く、早く……、早く死ななきゃ……、死ななきゃ、死ななきゃ……)
生きていることが罪であると考えているのに、今ものうのうと生き続けていることが狂おしいほど許せなかった。
(死ななきゃ死ななきゃ死ななきゃ……――)
ただひたすらに、死だけを渇望する。
それ以外は何も望まないと、そう考えていた。
――そんな時だった。
突然、心がさざめき立つ。
思いもよらぬ心の動きに、一瞬思考が停止する。
「ッ!?」
直後、最悪な展開が脳裏を過る。
自身が想像してしまった展開に体を震わせ、歯が音を鳴らす。
「……」
ただ、そのままじっとしてもいられない。想像した展開が当たっているのかどうかを確認しなければならないからだ。
息を止め、周囲を窺う。
闘技場内には、自分以外誰もいない。
壁の奥を探れるだけ探ってみたが、何の気配もない。
体が操られる気配もない。
「……」
小さく息を吐き、自身が想像した展開が間違っていたことに安堵する。
ただ、疑問も残った。
想像した展開が違うのであれば、一体何に対して心はさざめいたのか。
残る可能性は、一つ。
魔族。
あれからも、壁の上から観察を続けている魔族たち。その魔族達に対して、心は反応したのではないか。
「……」
刻み込まれた強迫観念が、意識を魔族たちへ向けさせた。
「……、……脳……、……弄……」
魔族たちは、何らかについて話し合っていた。
それだけだった。
魔族同士の会話のためはっきりとは聞き取れなかったが、会話以外は何もしていない。
つまり、心は魔族たちの声に反応したということになる。
一刻も早く死ぬことこそが唯一の償い。そう考えていたはずなのに。
膝を抱えていた手に力が入る。
自責が足りない。心のどこかにまだ余裕がある。だから、たかが魔族の声などに反応してしまうのだ――という考えが頭を巡る。
(死ね死ね死ね死ね死ね! 死ねッ!)
自己嫌悪に陥りながら、心のさざめきをかき消すように強く死を念じる。ところが、意思に反して心のさざめきは徐々に大きくなっていった。
(なんだ……?)
あまりに不自然な心のさざめきに、違和感を覚える。
(あいつ等……)
なぜ、ここまで心がさざめくのか。
あの日から今に至るまで、このようなことは一度も起こったことがない。
心のさざめきに突き動かされるように、魔族たちの会話に耳を澄ます。
「……下等……、じゃ……失敗……」
まだ、聞き取れない。
「……数体……で、なぜ動かなく……」
まだ、だ。全神経を集中する。
「……確かに、下等種共の最後はどれも醜かったわい」
全神経を集中することで、魔族たちの声を聞き取ることができた。
ただし、聞き取れたのは会話の途中からであり、内容を推測しなければならなかった。
(下等……失敗……)
魔族たちの言葉を、頭の中で咀嚼する。
(最後が、醜い……下等種、共……)
「あッ」
向上していたのは、身体能力だけではなかった。
様々な事が立て続けに起こり、真面な精神状態ではなかったあの状況下の中で、魔族たちが五人に向けて発した言葉やその瞬間の光景が鮮明に浮かんだ。
(あの人たちのこと、なのか……?)
会話の内容は理解できた。できたが、その意味が分からない。
(あの人たちの最後が、醜い……?)
あまりにも適さない言葉に、頭は混乱し、思考が鈍る。
何が醜いのか。なぜ、そのような言葉が出てくるのか。決して結び付く筈のない言葉に、いくら思考を重ねても混乱は増すばかりだった。
「……」
やがて言葉の真意を知るため、視線を魔族たちに向けた。
――笑ってる……
吊り上げられた口角。変色した歪な歯。光に照らされている魔族達は、満面の笑みを浮かべていた。
「「「「ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ――」」」」
会話を聞くために神経を尖らせたことで、今まで聞こえていなかった魔族たちの嗤い声が聞こえる。
――あの人たちを、笑ってる……?
言葉と真意が一つとなり、空っぽになっていた心に沁み込んでいく。
「「「「ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ――」」」」
――あの人たちを嗤ってる……
沁み込んでいく最中、言葉と真意が一粒の雫となる。
「「「「ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ――」」」」
――あの人たちを……
心の底。
自分でも認知できない心の奥底に、濃く、重く、粘く、 黒い液態が溜まっていた。
雫は、その黒い液態へと滴り落ちる。
それが、呼び水だった。
底に溜まっていた黒い液態が、滾々と沸き立つ。
空っぽだった心が瞬く間に黒い液態で満たされ、水面が穴に達する。
この穴は、凶行を犯してしまったことで心に空いたものだった。
その穴から、黒い液態が勢いよく零れる。
心の下。
そこには、度重なる実験の末に灯された青い火が揺らめいていた。
黒い液態は、その青い火に降りかかる。
――すると、
青い火が眩い青光を放った後、烈しく燃え盛る大火と化した。
「……笑うな」
大火と化した青い火から、烈日の如き光が発せられる。
「ふざけるな」
光は鼓動に同調して、波紋のように全身へ巡る。
「取り消せ」
青い大火から水に垂らした墨のような黒煙が立ち上り、意識を浸蝕していく。
「取りケセ」
意識だけでなく、五感や自我すらも黒に浸蝕され始める。
「トリ、ケセ……」
ただ、心の中で渦巻き合っている二つだけは形を保っていた。
二つの正体は、否定と怒り。
もっとも肝心で、もっとも純粋なものだけは辛うじて形を保っていたのだ。だが――、
二つの中にも、黒は浸蝕してきた。
渦巻く度に黒は浸蝕し、二つを染め上げていく。
それだけではない。
黒が浸蝕するにつれ、渦は荒れ狂いながら球状へと収縮する。
保っていた二つも黒に浸蝕されてしまい、心の中に渦巻く黒い真球が出来上がった。
「コロス」
渦巻く黒い真球が、膨大な激情を発する。
コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス――
一歩踏み出した時、体が停止した。
◇◇◇◇◇
意識が覚醒すると、暗闇の中だった。
実験が終わったことで、戻されたのだ。
いつもであれば、崩れるように座り込んで死ぬことだけを考えていた。だが、今は違う。
脳裏に焼き付いた、魔族たちの表情と嘲笑。
「殺す……」
鼓動が高鳴り、血が滾る。
(ここから出るには……)
思い浮かべたのは、脱出を試みた時の記憶。
暗闇に連れて来られた当初、脱出を試みたことがあった。手枷や拘束はされておらず、見張りもいないという状況だったからだ。
しかし、脱出は失敗した。
独房内を眺める。窓の無い、石材で造られた三畳ほどの広さの独房。湿気とカビ臭さが充満し、低い天井、硬い床と相まって息の詰まる場所である。
そんな独房の中を、探るような足取りで歩く。
(ここまで、か……)
歩みを止め、出入り口に視線を向ける。
ただし、この独房に扉は無い。
四方が壁で覆われていなければならない筈の独房の一面、そこにだけ壁が無いのだ。鉄格子すら無く、独房の意味を成していない造りをしている。だが、出ることはできない。
(あいつ等……)
魔族たちが定めた規定に抵触すると、体が停止するように改造されてしまった。 それだけでなく、即座に意識を切ることも、頭に激痛を走らせることも、傀儡のように操ることも魔族たちはできる。
このままでは、魔族たちを殺せない。
(何をされた……)
手掛かりを求めて、記憶の中へと潜っていく。
――牛の化け物……
闘技場で初めて対面した化け物。
――格が違う……
一目散に逃げ出した化け物に対し、魔族達が発した言葉。
―生気の無い目……
一変して、襲い掛かって来た。
何故。
(操られてた?)
牛の化け物も自分と同じ改造を施されていたのなら合点がいく。
(何をした……)
さらに、記憶の中へと潜る。
(……ッ、この化け物……)
やがて、闘技場で対面したある化け物の記憶が目に留まった。
その化け物は、闘技場で対面した化け物の中で一番青い火が小さかった。それが原因かは不明だが、魔族が薬品を打ち込んだ途端、その化け物は暴走した。
雄叫びを上げ、自らの体を傷付け出した化け物。そして、突然壁に向かって突き進んだかと思えば、頭を壁に激突させて絶命した。
一瞬の出来事だった。
目に留まったのは、その後に目にした物。壁に激突したことで飛び散った頭部の中身に紛れて、明らかに臓器ではない見た目をした物が転がっているのだ。
(これは……)
見た目は学校で使われている
(人工物……?)
化け物が死んだ場合、闘技場内の後処理や新たな化け物の手配が終わるまで意識を切られていた。そのため、残っている記憶だけではそれが何なのか判然としない。
異世界の、それも人間ではなく化け物である。
臓器の一部かもしれない。
(俺にも……?)
しかし、可能性はある。
(頭の、中……)
躊躇いなく、指を頭頂部に突き刺す。
(……)
心臓と並んで重要な臓器である脳は、複雑な構造をしている。万が一、傷ついた脳が再生されず、植物状態、あるいは記憶喪失になってしまったら――、
魔族たちを殺せない。
過った考えを否定できず、指を引き抜く。
(どうする……?)
脳裏に浮かんだのは、化け物。
実験の最中、化け物の頭部を潰して異物があるのかを確認する。
ただ、この方法にも問題があった。
仮に化け物の頭に異物があったとして、どうやってその異物を手に入れるかだ。
実験中は当然、魔族たちが観察している。そんな状況下で転がっている異物を拾えるわけもなく、たとえ運良く拾えたとしても、簡易的な衣服には忍ばせる場所がない。
(改造する時は、服は脱がされてるだろう……口の中……無理だな)
もし異物を隠し持っていることが魔族たちに見つかってしまったら、新たな規定を追加されてしまうだろう。そうなれば、二度と異物を手に入れることはできなくなる。
(どうする……?)
魔族たちに毛程も悟られず、異物を手に入れる方法。
(……ッ)
閃く。
改造されたことで得た力を使えばいい、と。
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