廓の女は夢を見る。見世の向こう、格子の先には、想像もつかないような素晴らしい世界が待っているのだと。籠の中で哀れに羽を遊ばせる蝶のごとく。その為だけに己を売る。夢を見る為に夢を見せる。自由になろうと踠いて、羽ばたくその日を待っている。されど、忘れてはならない、ここがどこであるのかを。

 たとい外へ逃げおおせようと、見上げたそこに、天道はない。ここは床夜。浄土など夢のまた夢。逃げても逃げても、逃げ場はない。

「………ん」

 がこんという鈍い音がして、腕を組んだまま長いこと考え事に耽っていたのに気がつく。ぱちくりすると、途端に腕の痺れが襲いかかってきた。流水の音は相変わらず、ひっきりなしに聞こえてくる。それに混じって、高下駄の、地を強く踏み締めるのが規則正しく。恐らく看板娘のものだろう。

 滑るように扉が開く。想像通りの人物だった。

「戻った」

 ひらり、蝶が先んじてこちらへ飛んできて、後から髪飾りの曼珠沙華が、火花を散らしてふつふついう。廓の主人は揶揄いの笑みを浮かべた。

「道中でもないくせに」

 蝶は主人と太夫の周りを回って飛んで、辺りをぼんやりと照らす。行灯に火も入れずに、闇の中で何をしていたのかとは、太夫はもう主人に問わない。それが彼女の日課だと知っているからだ。主人が太夫の下駄を指して言ったのに対し、彼女はあからさまに眉間を顰めた。

「こういうのは形だろ」

「そう、不機嫌ね」

「ったりめえだ、わざわざ別のシマになんざ渡らせやがって」

 死水で満たされた床夜は、舟でもなければ移動はできない。万物を許さぬ透き通った水は、息を呑むほど美しく、底に所狭しとひしめく曼珠沙華は圧巻の光景である。海と島の関係よろしく、それぞれの屋敷や廓をシマと呼び区別をしているのだ。

 主人は手をひらひらさせた。

「えいじゃないか、そんだけ惚れ込んでんだから」

 下駄すらそこらへ脱ぎ捨てそうな機嫌の悪さだったが、彼女はきちんとつま先を揃えた。さすがは太夫、腐っても立ち振る舞いは気を抜かないらしい。彼女は主人が天塩にかけて育てた遊女たちとは事情が違う。だからこそ、その行動が主人には少し意外だった。

 衣擦れの音が妖艶に板間を抜けた。

「太夫を歩かすたぁ、人使いの荒い」

「好きにさせてやってんだろう、こんくらいおし」

「けっ。格が下がらあ、二度と御免だ」

 太夫がぶっきらぼうに言った。

 炎の蝶は主人の手にじゃれついていた。

「そりゃアガりが見込めなきゃあ、あんたを寄越すなんて真似させないさ」

 廓の主人は、禿のような、とても成人には見えない背丈と幼い見た目をしていて、しかしその口から放たれる言葉の節々には、禿というにはあまりにも似合わない大人びた雰囲気を纏っている。

「あんたの得意じゃないか、きちんともてなしたんだろうね」

 傍に寄り添う蝶々を、主人は優しい眼差しで追っていた。彼女には目もくれない太夫の髪飾りがまた火花を出した。線香花火のようだった。

「叩っ斬るまでさね、一線を超えたやつは、誰であろうと」

「はあ!?」

 主人は目を丸くした。驚いたように蝶が彼女から飛び退く。

「あんたまさか」

「いやいや、やってねえよ。いくらなんでも太客だ、お空の眸に誓ってやってねえ」

 太夫は口角を吊り上げて、天井を指した。眸というのは、床夜の空に浮かんでいる目玉のような何かの呼称である。主人はあれが嫌いだった。いつ何時も浮かんでいて不気味なので、嫌いだった。

 茶目っ気を出そうと、太夫は指を唇に当てがった。

「気持ちは山々だったけど」

「よしてくれ、縁起でもない……閻魔庁への入廷も認められてる有力株だよ、蓮華は。床夜の連中をまとめあげつつもある」

 それを聞いた太夫の下瞼がぴくりと引き攣った。主人は気づかずに天井を見上げた。

「あのお人だけはいけないよ…それこそ、大目玉だ」

 おかっぱ頭をさらりと揺らして、主人の視線が太夫に戻る。

「さあ、分かったらさっさとそのハレ着を落としちまいな、おまんま食いっぱぐれないようにな。勤めはまだまだあんだから」

「……ふっ。怖い女将だ」

 太夫が廓の奥へと進む。彼女の周りをひらひらしていた炎の蝶も、それに伴って太夫の背中を追った。主人のいる辺りは暗がりとなって、彼女は小さな体を屈伸させた。

びいな

 遠くから主人の名を呼んだのは太夫だった。甲高いわけでもないのに、よく通る声をしている。雛は頬杖をついて、退屈そうに玄関を見つめた。

「なんだい」

「しばらく客は取らねえ」

「ああ!?」

 雛は文机を勢いよく叩いた。くぐもった太夫の笑い声が後に続く。

「笑い事じゃあねえぞ彼岸…今なら聞き違いって事にしといてやる。もういっぺん言ってみろ」

「……やらなきゃならねえことがある」

 それきり太夫は口を噤んで、階段の軋む音だけが廓にこだました。板間の足音がだんだん聞こえなくなっていく。息を詰めたような真摯な響きに、雛は何も言い返せなかった。

 太夫と入れ替わるようにして階段を駆け下りてきた新造が、不安げに雛を見やる。

「女将さん。彼岸様、どっか体の具合でも……?」

 雛は困ったように笑って、ため息をついた。階下へやって来たこの新造だけでなく、廓の奥からは多くの遊女たちの耳をそばだてている気配がした。裏表のはっきりした態度と、忖度のない出で立ちの彼岸太夫は、遊女の間でも特別に慕われている。皆、彼女を心配しているのだ。おまけに、様なんて敬称まで使いやがる。嫉妬ではないが、羨ましいと雛は思った。

「やだね、じゃじゃ馬はこれだから」

「えっ?」

「……そんなんじゃないさ、放っておきな」

 呆れたように首を回した雛もまた、それ以上何も言わなかった。新造は再び、彼岸の座敷の方を見つめる。面持ちは当然、晴れなかった。やがて新造が腑に落ちていなさそうにして、のろのろと玄関を去った後、雛は今はまだ静かな廓を見渡すように頬杖をついた。

 廓の女は夢を見る。夢見心地のままに遊ぶ夢を見せる。

「おいでなんし、憂世を忘れたいのなら」

 雛は呟いて、彼女の幼子のような小さな手を、格子窓の外へ延ばした。

「此処は床夜。魂の幽郭」

 どこかでまた、死水を掻く音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る