一
床夜に日は昇らない。どこまでも暗い空には大きな目玉のような何かがあるばかり、営みのあるところには、雪洞提灯なんかがずらりと垂れ下がり。
外からは相変わらず、水の流れる音が続いていた。時折、愉しげな声と三味線が、水音の合間に聴き取れるくらいで、他には何もない。
最上に座った男が構わず手酌をしようとしたのを慌ててひったくる。
「蓮華のオジキ、酌くらいさせてくれなくちゃあ!」
手下共があたふたと動くのを、蓮華は豪快に笑って見守るだけだ。持っていた大きな一升瓶をもぎ取られても、その目には優しい光を湛えたままだ。仕切り直してなみなみと注がれた酒をぐいと呷る。
「ぷはぁーあ…おお、おお。やってるかぁ、お前ら!」
「そらもちろん」
「オジキのおかげでさぁ」
酒盛りの場には大勢が詰めかけ、かわるがわるに蓮華へ挨拶を言いに来る。連なりに連なった宴会机は、向こう端を見ようとすると気が遠くなるほど。まさにどんちゃん騒ぎの真っ只中と言ったところ、畳には酔っ払いの笑いが染みていく。
「太夫のお着きにございます」
突如としてシラフの声が、だらしのない雰囲気を一喝するように響いた。蓮華は眉を上げた。襖が開くと、そこには中居が頭を低くし、すんと遊女が立っている。いるだけで空気が変わるくらいに、美しかった。手下共は静まり返って、ごくりと唾を呑んだ。
「彼岸様、ささ、どうぞお入りに」
中居が示すと太夫は目だけで部屋を見回した。そして太夫の鋭い視線が蓮華を射止めると、彼女の足先が畳を踏んだ。髪にふんだんの曼珠沙華を飾りつけ、太夫に似つかわしくない黒無地を纏っていた。
「おいあれ……彼岸って、彼岸太夫?」
「まさか、廓一の遊女だぜ、こんなとこ来るかよ。蓮華のオジキにゃ相応しいけど」
「あの曼珠沙華の飾りは間違いない。噂に聞くが…オジキもあいつの客なのか?」
「おお彼岸!」
宴会場を支配するヒソヒソ声を、蓮華がかき消す。
「待ちわびたぞ、さあ、さあ。こっちへ」
「……」
太夫は視線をしなと伏せ、蓮華の傍に座った。一挙一動の艶やかさに、誰もが目を奪われた。指先すら蝶の遊ぶようで目が離せない。
「彼岸、今宵も変わらず麗しい」
蓮華は上機嫌で太夫にとっくりを突き出した。
「飲もうじゃないか」
「……ふう。得意のあんさんがそう仰るのなら」
太夫がお猪口を受け取った。彼女の口ぶりから、酒を含むのはあまり乗り気ではないようだった。だが、蓮華が彼女を懇意にしているとあって、さすがに引けないと観念したらしい。蓮華はにっこり笑って、自分と人一人分を空けてしなだれる彼女に酒を注いだ。
辺りがすっかり静まってしまっているのに気がついた蓮華が、膝を打った。彼ら二人を夢中で見つめていた手下共はそれで一斉に我に返ったようだった。挨拶のためにできた行列は再び、どやどやと蓮華の元に向かっていく。
「流石です、蓮華のオジキ。彼岸太夫を呼びつけるなんて!」
「うん。できれば呼ぶようにと廓の主人には言伝ておいたのだが。まさか本当に来てくれるとは思わなんだ」
「……」
蓮華が嬉しそうに、なあ、と呼びかけるも、太夫は鼻先を高くするばかりだ。
「…………あんさんの頼みだと言って聞かねえもんですから」
「意外だな、あの主人がか?」
「……ええ」
媚びるつもりの毛頭ないといったような声、もったいつけて、一言一言を吐息に混ぜる。普通のおなごがしようものなら何をのろまなと叱りつけたくなる仕草だが、不思議なことに彼女がすると、眩暈を覚えるくらいの色香に変わるのだ。瞬きで瞼が開閉し、呼吸で胸が上下して、その全ての様が艶っぽい。呼吸を忘れてしまいそうだった。
「いい女ですね、オジキ」
「だろう。俺もすっかりほの字でな」
「こんな別嬪、誰だって一服つけてもらいてぇもんだ」
「気位のたけぇ冷たい女だが、粋ってもんを分かってる。そこが堪らないんだよ」
「それだけで客になっちまうんだ、オジキはさすがだあ。こんなとこまで来てくれるくらい、彼岸太夫の心を掴んでるってこった。あっしらにゃあひっくり返ってもできねぇ。粋ってなあ、オジキのような男を言うんだ」
「はは、褒めても何も出ねえぞ」
何も言わずとも、ただそこにいるだけで、蓮華の株を上げる。床夜に数えるほどしかいない、太夫の位を冠する女は、つまらなさそうに畳を見つめていた。
「……」
そしてふと、美しい顔を険しくさせて、眉間を皺寄せた。蓮華はそれとなく宴会場を見回して、末席の誰かが煙草を吸っているのを見つけた。
「そこな」
「へえ!」
「やめてもらえるか、それ」
蓮華は手下の煙草を指差した。
「彼岸は煙が嫌いでね」
「えっ」
「なぁ彼岸」
「……いやです」
屈するほどの色気を醸して、太夫は困ってみせた。
「わっちのせいにして」
太夫が蓮華へ意味ありげに目配せをすると、彼は片眉を上げて笑う。多くは語らないが、やり取りをする二人の間には彼らだけの心の間合いがあるようだった。
注意された手下は驚きの表情で蓮華と、太夫とを交互に見る。ぽかんとする手下よりも先に、周囲の男たちが急いでその火を消させた。
「これで……?」
「……よござんす」
おそるおそると言った調子で伺いを立てる彼らに、視線をちらとくれてやりもしない。ただ、蓮華に向かって太夫が言った。彼に持たされた猪口が太夫の唇へ運ばれることもない。それでも蓮華は嬉しそうだった。
「随分とおしゃべりだ、今夜は」
「ふん」
「初めの頃は口なんて利いてくれなかったからなあ」
「…………太夫とは、廓の顔。着物で言う…ここ」
彼女の竹爪の指がするりと俎板帯の上を滑る。その仕草に誰もが見惚れた。
「わっちに値のしない衣紋、締める気はさらさらござんせん。主人が太鼓判押そうとも、この目で柄を見、この手で生地に触れ、好かねえものはそれまで……ただ、それだけのこと」
「そんなら着てくれるか。俺を」
「……」
酒の入った眼差しにしては、蓮華の表情は精悍だった。
「……ふふふ。さあ?」
太夫は重そうな頭を微かに傾けた。揶揄うような、愉快そうな声をしていた。
「着せてくれんなら、袖を通しんしょう」
挑戦的な視線を蓮華に投げかける。彼女の片手にある注がれた酒の水面が波をつくった。ほうと皆が息をつく。蓮華は徳利から直接、ぐいと酒を飲み干して、唇を拭った。
「せいぜい袖にされねえようにするさ」
蓮華の言葉に、太夫が初めて口角を上げた。ずっと手をつけずにいた小ぶりの盃を、何も言わず彼に差し出す。蓮華は、少し寂しげに彼女へ願った。
「ここは俺の宴席だ。飲んじゃあくれねえか」
「
太夫は、宴会へ招かれた身でありながら、あくまでも遊女と客という、廓での立場を通そうとしていた。強い魅力を持つ彼女の瞳が、客に注がれた酒など飲むかと言っていた。
「それじゃあ廓と変わらねえ」
「太夫のいる場所は廓。太夫のいる場所が廓。客に憂き世を忘れさせるひと時を……わっちの仕事はそれにおざんす。わっちを太夫でいさせてくれぬとおっせえすなら」
彼女の笑顔は面のごとく完璧で、故にこそ怖くもあった。
「おさらばえ」
太夫が猪口を蓮華の手に持たせる。美しい動作で指先を揃えた礼をして、彼岸花が茎を伸ばすように、すらりと立ち上がる。一分の隙もなかった。酔っ払い共が呆気に取られているうちに、太夫は宴会場から去っていった。小舟を漕ぐ水音が、彼らの元にまで届いた。
静かになってしばらくしてから、蓮華が目を伏せた。
「口数が多かったなあ。不機嫌だった」
「オ、オジキ?」
彼は突き返された盃を傾けて、膝下に置かれていた豪勢な膳に零した。突然の彼の所業に手下共がギョッとする。いくら酔っているとはいえ、蓮華らしくない行動だったからだ。だが、狼狽する彼らの声など、蓮華には聞こえていない様子だった。恍惚とした表情で、格子窓の向こうを見据えていた。
「ああ……いい女だ」
滔々と零した酒に濡れた飯が、見る間に炭化していった。どす黒い焦げのような何かに変貌したそれを、蓮華は無関心の目線で捨て置いた。
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