6

 最初は愛されたかっただけだった。

 昔のことを考えながらいつから、私は狂いそうなほど志貴のことが好きになってしまったのだろうかと思う。その境界線は溶けたかき氷のようにぼやけていて、分からない。

 志貴が本当の私のことを愛していないなんていうことは分かっている。私に映し出された青のことを愛していることなんて、初めから分かっていたし、そうなるために私たちは積み上げてきたのだ。けれど、その事実は改めて他人から突き付けられて痛くないわけがない。

「あんたたちの関係は、歪だよ。それが例えば二人して仲良く落ちていく心中みたいな関係だったら、それは本人たちの意志だ。私が何を言っても意味なんてなかったんだろうと思う。でも、あんたたちの関係はあんたが一方的に負担を強いられて、壊れるところが終わりでしょ。それは、駄目だろ」

「何が駄目なの。好きな人に好かれようとして性格を偽るなんて、誰でもやってることでしょ。むしろ、やらない方が不自然だ。ありのままの自分がありのままに愛されるなんて、フィクションでもなければ有り得ないんだからさ」

「ありのままの自分が愛されるなんて考えるのは確かに都合のいいことかもしれないけど、でもそうした偽りっていうのはあくまでも自分っていう土台があってこそ出来上がった偽物の自分でしょ。あんたのは、全く何もかも、人格を変えるように人を変えてる。それはいつか、耐えきれなくなって崩れるものだ」

 久我は私の過去を知らない。それなのにも関わらず人格を変えていると言うとは、なかなか鋭い視線を持っているものだと感心する。彼女の言うことは全く正しい。私が志貴の前で演じているのは、夜継雨の欠片すらも存在しない夜継青なのだから。

 本当に、久我の観察眼には嫌気が差す。初めに声をかけられた時もそうだ。いずれ追いかけて来る志貴が青の人格で過ごすことを期待していることは分かっていたから、大学で過ごす時は常に青の人格であろうと意識をしていた。誰かと深く関わろうとしていなかったというのもあるけれど、誰にもその演技が見透かされるようなことはなく、夜継青として生きることが出来るようになっていた。

 それなのに、久我は容易く私の嘘を見抜いた。夜継青が偽物の人格で、私には底があるということを暴き立てた。

 彼女の存在に助けられた部分があったことは確かだ。嘘を見透かした彼女の前ではありのままの夜継雨で居ることが出来た。本来のアイデンティティを見失わないように、夜継雨というものを現実の世界に繋ぎ止めておくことが出来た。

 ただ、こうなるのであれば、志貴と離れ離れになるのであれば、夜継雨なんていうものは要らなかった。心の底から渇望するものを手放してまで得られる本当の自分に何の価値があるのだろうか。本当の自分なんて曖昧なものの正体すらも私たちは分からないというのに。夜継青を演じ続けていた私も、そしてその私を動かし続けていたこの激情も、全て本当の私だろうに。

「傍から見たら不幸だとか、そんなことは知らないよ! 私は私の人生を生きてるんだ! お前の同情なんて知るか! お前の感情を押し付けるなよ!」

「押し付けるに決まってるだろうが! 私はあんたにありのままで生きて欲しいし、生き急がないで欲しいんだよ! そう願うことの何が悪いんだ⁉」

「エゴだって言ってるんだよ、それが! そりゃ、一般論とか倫理を振りかざして正義感に酔う方は満足だろうさ。でも、そういう一般論とか倫理とかの枠組みの中で生きることが出来ない人間も居るんだよ! 誰にも迷惑なんてかけてないんだから、ほっといてよ!」

 私は既に死んだ人間として生き続けている。志貴は死んだ人間に対して語らい続けている。私たちの前に常識みたいなものは最早意味を為していなかった。押し付けられるだけ、迷惑だ。

「ほっとけるわけないでしょ! 私は――私は、あんたのことが好きなんだから!」

「……はあ?」

 意図していたことなのかは分からないけれど、唐突なその吐露によって私の感情はよく分からない方向へと捻じ曲がり、勢いを失った。

 自分が誰かに好きだと言われることも、久我が誰かに好きだということも、想像だに出来ないようなことで思考が一瞬虚しく空転する。勿論、好きという言葉には一義的に括れないほど意味が詰め込まれているけれど、一般的に他人に差し向ける意味として、それから脈絡から判断するにおいて、その好きとはつまり、私が志貴に向けているものに似ているのだろう。

 なんで? という考えが頭に充満する。志貴が好いているかどうかは別にしても、夜継青と夜継雨を比べれば前者の方が魅力的な人格を持っていて後者はろくでもない人格をしているなんていうことは分かり切っている。私は青のように俯瞰するような見方をすることは出来ないし、達観するように物事を見限ることも出来ない。じりじりと腐るように後退し続ける性格と、みっともない執着がコンプレックスによって固められた人間。それが私だ。

「それは、違うでしょ、多分。何かを間違えてるよ、久我は」

「間違えてなんてないさ。私は夜継雨のことが好きなんだ。確かに、絶対に」

「こんな奴のどこを好こうとしているんだよ。何かを掛け違えてるでしょ、きっと」

「あんたもさっき言ってたじゃん。好きとか愛してるっていうのは究極的な言葉だって。理由なんてないんだよ。ただ好きだから好きだとしか言えないんだ」

 自分から出た言葉を使われるだけに、否定をすることも出来ない。痛いほどに、分かってしまう。

 いっそ、その場凌ぎみたいに取り敢えずで取り繕われた嘘であればいいのだろうに、久我がそういう嘘を吐かない人間だっていうことは分かっている。

 今まで、ずっと志貴から好意を、あるいは愛を向けられていた。けれど、それは私ではなくて青に向けられたものだったし、何より彼のそれは良くも悪くもべたついていないものだった。けれど、今久我から向けられているものは明確に夜継雨に対して向けられているものであり、何より指紋のような人の痕がべったりと付いている。それが悪いものだとは言わないけれど、私にとっては好ましいものではなくて、良い気分はしなかった。

 表情に出したつもりはなかったけれど、久我はそれを察知して伏し目がちにして陰鬱さを発露する。

「ごめん、急に。気持ち悪いよね、ただの知り合いが急に愛とか性欲みたいなものに変わったら」

「いや、正直それはどうでも良くて、単なる私の問題。久我だろうが他の誰だろうが、男だろうが女だろうが、こういう感情を向けられることに慣れてないの」

 私は私という人間が嫌いだ。いつだって思考はマイナスに引き摺られていて、世界を見渡すレンズには悲観的なフィルターがかかっていて剥がれない。それでいて解決策を見出すわけでも受け入れることが出来るわけでもなくて、愚図愚図自分の殻に閉じこもる。青を演じているのは、志貴のためでもあった。ただ、それと同時に嫌いで嫌いで仕方がない自分から逃げるためのものでもあった。自由で、どこか達観していて、好きな人に愛される。青は私の理想だったから。

 そんな風に自分から逃げるような、大嫌いな私を好いている人間のことが好きになれないのだと思う。誰しもがとは言わないけれど、私は自分の大嫌いな小説を褒め称えている人間が好きになれるほど余裕のある人格をしていない。

「理解は、出来るよ」と現実を噛み砕き、嚥下しながら私の呼吸器を通して言葉に変換していく。

「久我の言いたいことは分かる。確かに、私も志貴が目の前で終わりに向かって進んでいっていることが分かったなら止めると思う」

 好きというのは、そういう気持ちなのだ。仮にどれほど志貴が終わりを切望していたとしても、「彼が望んだものだから」なんて殊勝な態度で見送ることは出来やしない。醜くてもみっともなくても相手が望んでいることじゃなくても引き留めようとするのが好きって気持ちだろ。

「でも」と私は言う。

「理解も共感も出来るけど、そのうえで私は久我じゃなくて志貴を取るよ」

「知ってるよ。同じような状況になったとしたら私は自分が愛している人間を取る。それでも足掻くんだよ。何かが起こらないかって、何かが変えられないかって」

 立派な考えだ。理解を出来るからこそ、実行に移している人間を目の当たりにして嫌になるくらい。

「偽物の自分を愛されて、その先に何があるの。確かに一時的には満たされるかもしれない。けれど、愛されれば愛されるほど、近付けば近付くほど、きっと偽物のあんたは見透かされていく。完全に何もかもを見破られることがなかったとしても、その疑われているような状況に、偽っている人間が耐えられるわけがない」

「そうかな。偽り続ければ――それを貫き続けることが出来たのであれば、きっとそれは本物じゃない?」

 偽物と本物の境界線は、どこにあるのだろうか。青という人格は確かに私のものではない。あれを演じ続けている間、自分が不自然な状態にあるということは分かっている。けれど、それが続いたならば、続けることが出来たならば、偽物との間にどのような違いがあるのだろうか。贋作であったとしても、誰しもがそれこそが本物だと信じれば、それは本物になるのではないだろうか。

「それじゃ、あんたが救われないでしょ」

「……そうだね。夜継雨という人格が救われることはないのかもしれない。でも、それは志貴の存在に関わらずずっと決められていたことなんだよ。悲観なんてする必要がないくらい、絶対的に定められていたことなんだ」

 彼が居なければ、私は愛というものを知らなかった。取ってつけた才能に人生を蝕まれた憐れな少女はきっと、一生をそれに振り回されたまま自分の意志なんて持たずに両親が定めた道を進み続けた。

 夜継雨に救いなんていうものは要らない。夜継雨じゃなくても、「私」が救われるのであればそれは十分過ぎる結末だったのだ。

「違う」と久我は絞り出すように言葉を零す。

「私は――私はあんたを愛してる。偽ったような、都合のいいあんたを愛してる。ありのままのあんたを愛してるんだよ! それじゃ足りないの⁉ 私じゃ、あんたを救うことは出来ないの⁉」

 それは世界に罅を入れるような痛切な叫びだった。思わず、心が幻肢痛を覚えるほどには。

 彼女の言葉には真実の熱があった。そして、混じりっ気のない、極めて純粋な愛を向けられることはありふれたことではない。それこそ、救いと言えるほどに素晴らしいことだ。

 夜継雨が愛されるなんていうことは、ないと思っていた。それでも、一時的な気の迷いだったとしても、彼女は夜継雨を愛している。私が志貴を愛するのと殆ど同じように。

 今久我を否定すれば、もう二度と誰かにここまで純粋に愛されるということはないのかもしれない。生きている間に一度あるかないかというような、そういう感情を私は向けられているのだろう。

「足りないわけでも、救うことが出来ないわけでもないよ。久我を受け入れれば、私は救われるんだと思う」

「なら――」

「でも」と続きを継ぐ。

 答えは考えるまでもなく決まっていた。残酷なことかもしれないけれど、その言葉こそが真実の気持ちであり、残酷なものであってもそれを伝えることこそがせめて私に出来る誠意だった。

「私は久我を受け入れることは出来ない。例えそのせいで死ぬとしても狂うとしても、私は志貴を愛し続けるよ」

 逃げずに、久我の目を見つめて私はそう言った。人の目というのは、改めて覗いてみれば不気味な虚だと、なんとなく思った。

「……あんたは、既に狂ってるよ」

 沈黙の後で久我はそう言ってベンチを立ち、去って行った。捨て台詞でもなんでもない、ただの事実だ。確かに私は、狂っている。

 残されたのは私だけだった。随分久しぶりに、独りきりになった気がした。

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