5
才能なんていうものは呪いだ。それも、偽物の才能であれば尚更に、持っている人間の人生を不可逆的に穢し、蝕む。そして最悪なことに、私は偽物の才能に恵まれてしまっていた。
両親は私に見えた早熟さを才能だと見誤り、期待をした。例えば、それで偽物の鍍金がすぐに剥がれれば良かったのかもしれない。例えば、そんな期待を跳ねのけて自由に生きようとすれば良かったのかもしれない。けれど、質の悪いことに偽物の才能はすぐに剥がれ落ちることもなく、そして幼い私にとっては夜継の家こそが世界の全てだった。両親に逆らうこともせずに、むしろ最初の方は期待に応えられたという事実に嬉々として様々なことに手を出していた。
いや、それだけじゃない。私の中にあったのは妹への――青への優越感だった。同じ年齢、同じ顔、同じ苗字を持った人間として当然彼女と比べられ続けていたけれど、才能によって私は彼女よりも認められるようになった。態度や待遇も、青へのそれと比べて明らかに良いものへと変わっていった。それを手放したくなくて、私は才能に縋り続けた。才能を演じ続けた。
ただ、幼かったとしても少し経てば理解をすることが出来るようになってくる。自分は偽物であり、この先には何もないのだということがハッキリと身に染みてわかる。私はピアニストになることも書道家になることも水泳選手になることも出来ない。小手先の器用さとかけた時間によって糊塗した才能はいずれ剥落し、平凡な、ありふれた人間が現れるということを、直感していた。
両親からの期待が徐々に重たくなっていく。優しい言葉や買ってくれた玩具の裏には常に期待と重圧が隠れていて、対価としての成果を求められる。私は次第に恐ろしくなっていった。いつか、本当の私が露呈した時に彼らは私のことを軽蔑し、捨てるのではないかと。青のように、蔑ろにするのではないかと。
この頃から、今まで優越感を覚えていた青に対して嫉妬の念を抱くようになる。彼女は両親からの態度を気にするような様子はなく、束縛がない時間を自由に生きていた。書架に置かれていた本を読み、気ままに散歩をして、望むままに生きていく。それは私には出来ない生き方だったし、してはいけない生き方だとすらも思っていた。ゆえに、それを持っている彼女のことが妬ましかった。どうして自分はこれほど苦しいことをしているのに、彼女はあそこまで自由に生きることが出来るのか。私たちは殆ど同じ人間なのに、この不平等はおかしい。心の中ではどす黒い彼女に対する感情が徐々に膨らんでいく。
一度だけ、両親から言いつけられていたピアノの練習を抜け出して彼女の後を追ってどこへ向かうのかということを観察した時があった。それは純粋な好奇心によるものだと自分の中では思い込んで起こした行動だったけれど、今になって思えば外に出たとしても青には居場所なんてないんじゃないかという仄暗い希望を抱いていたんだろうと思う。
歩き慣れた彼女を追いかけるのはかなり辛かった記憶がある。ただ追いかけるだけでも追いつくのに苦労をするペースだったうえにこちらの存在が気付かれないように息を殺しながらついて行かなければならなかったのだ。春の陽光がやけに暑く感じて、べったりと汗がつき肌に貼り付いたシャツのあの不快な感触は今でも覚えている。
そして辿り着いた先に、彼女の居場所があった。山の奥まった場所にある、廃バス。そこは酷くみすぼらしい場所で、とても快適と言えるような場所ではなかったけれど、それでも満ち足りている場所なのだと分かってしまった。青が必要としていたのは私が貰っていたようなくだらない玩具や賞状ではなくて、独りで居ることが出来る時間だったのだから。
私はその時、世界に失望をした。私と青は殆ど変わらないはずなのに、どうして私だけが苦しい思いをして彼女は大切なものを手に入れているのだろうと、憎くて堪らなかった。平等なんていう言葉はまやかしで、信じるべきではないのだと世界を呪った。
そして、絶望には際限がない。世界は私を殺そうとしているかのように、責め立てる。
決定的となったのは、家族で外を歩いている時の出来事だった。ふと、青が視線を歩く先から逸らし、どこかへと向ける。その先には、見知らぬ男の子が居て、青に対して優し気なはにかみを浮かべていた。その口元は一切の音を発しなかったけれど、彼らのその表情は二人にだけ通じる特別な言語だった。友情も愛情も関わることなく育ってきた私には得られるはずもなかった、輝かしいもの。
いっそ清々しいとさえ思った。私はどこまでも報われなくて、青は私が得られなかったあらゆるものを得ていく。そういう風に決まっているのかもしれないと思った。藻掻いても足掻いても意味なんてなくて、ただ落ちていくだけ。幸か不幸か、私の憎悪の火はそこで途端に弱まることになる。どうしようもないと知った時、訪れるのは諦観だけだ。
どうか、許して欲しい。青が死んだ時、少なからず喜びという気持ちが存在したことを。
彼女の死因はどこまでも単純な事故死だった。雨が降り、視界が悪くなった車が轢いてしまったというありふれた不幸な事故。あの日も彼女は一人でどこかへと出かけていて、だから両親や私は怪我すらすることはなかった。死んだのは、損なわれたのは、青一人だけだった。
残酷で醜悪なことに、夜継の家で彼女の死を心の底から悼んだ人間は居なかったと思う。私は心の中で小さく燻ぶり続けていた憎悪の火からようやく解放をされたし、両親も扱いに困り始めていた青が死んでどこかホッとしているようにさえ見えた。勿論、私も彼らもそんな表情はしない。葬式では沈痛らしい面持ちを浮かべて、哀しみ浸る振りをする。けれど、本当の哀しみが蔓延するようなことはなくて、いとも容易く娘の、妹の死という事象は夜継家の中をすり抜けて行った。
青の死により、私への贔屓が正当化された結果として両親は更に私に期待をかけるようになった。練習を強いられ、結果を求められる。ある程度の結果を出すことが当たり前だと思われるようになり、常に求められる水準は高いものへと更新されていく。呪いが、肥大化していく。疲労と緊張で頭がおかしくなりそうになる。
何かを考えることすらも出来ないほどに疲弊をしていたのは、幸いと言うべきことだったのだろうか。堆積し続ける疲労の末には一切のものが表れず、砂を噛むように苦痛である耐久性のない日々を無機質的に消化していた。
あの冬の日、家を飛び出したことに理由はなかった。いや、後から考えれば理由はあったのだろう。もう、何かを耐えるには私の魂のようなものは軋み始めていて、身体の中では不気味な音が反響している。いよいよ、決壊しそうな自分の身を守るために、本能的に私はあの窮屈な小さな世界から逃げ出したのだ。
けれど、あの頃の自分には自分がどうしてあの場から抜け出して逃げているのかが分からなかった。気が付いた時には身体は動いていて、溺れかけた人間が空気を求めるように、私は外に飛び出していた。
私は外の世界をあまりにも知らない。決められた場所へ向かい、決められたことをただ熟すだけの生活に公園の場所や神社への道を知る必要はなかったのだ。それでも、走る。本能のままに、ただ意志はなく身体が壊れてばらばらになるまで走ろうと思う。冬の冷たい空気が喉と肺を切り裂く。脚が徐々に苦痛を訴え始めてくる。横腹が痛くなって、口の中には吐き気を呼び込む甘ったるい唾液が溢れ出す。
最悪な状態だ。けれど、足を止めてはならなかった。どこにも行き着けないのであれば、それは私にとって死んだも同然のことだったから、どこかに辿り着かなければならないと思って走り続けた。
そこへと足を向けていたのは、私が知っている場所というのは結局そこしかなかったからなのだろうと思う。気が付けば、あの時木陰から見た廃バスの前に私は居た。
青が居た場所に縋るのは、どこか負けたような感覚がするもののはずだったけれど、無我夢中で走っているうちにそんなことを考えている暇はなかったのだ。
酸素が欠乏してぼうっとした頭を抱えながら休もうとバスのドアを押す。そこには、やけに乾いた虚しい空間が広がっていた。
あれほど望んでいたもののはずなのに、いざ自分がその場に立ってみると輝きは失われる。この場所は、ただ居る場所としては寒すぎる。それでも、青にとってはこの場所こそが安息の地だったのだろうか。家よりも、どこよりも。
帰ろうか、という逡巡が生まれてけれどこのまま帰れば青に負けたような気がして私は意地を張るようにしてバスの奥へと進んでいった。木で張られた床はかなり古びていて、ぎしぎしと、壊れかけの自転車のペダルが空転するような悲鳴をあげている。
意図的なのか、意図はしていないのか、青が居たという痕跡は一切このバスの中からは見つけられなかった。物も、落書きのような痕も、何も残されていない。あるのはただ嫌になるくらい寂しい空間だけだ。
毎回追っていたわけではないけれど、彼女はかなりの頻度でここに訪れていたはずだ。ここに。こんな場所に。
一体何がそれほど素晴らしかったと改めて思う。冬の寒さに、あるいは夏の暑さに耐え忍んでまで居るべき場所なのだろうか、ここは。そうだとは思うことが出来ないのに。
何かはないのだろうかと座席を見回して、ふと一冊の本が置かれていることに気が付く。日焼けした薄茶色の表紙をしたそれは、母親の書架からいつも青が勝手に持ち出していた一冊に違いなかった。
ここで青は本を読んでいたのか。ただでさえ古びたバスに籠り、世界から身を隠しているのに尚彼女は物語の世界に浸り、現実から逃げ続けた。それが強さと呼ぶべきものなのか、弱さと呼ぶべきものなのかは分からなかった。
表紙には「ソネット」という表題と「ウィリアム・シェイクスピア」という著者名が書かれている。ロミオとジュリエットを書いた著者であるということくらいは分かったけれど、ソネットという響きは初めて耳にするもので、惹かれるように本を開く。
ソネットはシェイクスピアの遺した詩集だった。ひとつひとつのものは短く、当時の私でも読むことだけであれば出来たことを覚えている。ただ、読み、それを理解することは難しいものだった。
それでも、美しい文章はどこか読んでいて落ち着くものがあった。時代背景や意味を分からずとも、美しい絵に圧倒されるように、ある閾値に達したものは理解よりも先に感動を呼ぶ。この詩集には、そういう不思議な力があるように思えた。
青は、この詩を理解していたのだろうか。死により完全となった謎のヴェールに包まれた彼女は私には出来ない理解をしていたようにも思えるし、真っすぐに音や響きだけを楽しんでいたようにも思える。最早それは、世界の暗闇の中に投棄されてしまったものであり、墓を暴いたとしても分からないのだろう。それでも近付きたくて、私は頁を捲る。
誰かに強要されたものではなく、自らの意志で本を手に取り、読んだのはひどく久しぶりのことであるように思えた。本というものは、意識をこの世界から切り離してくれる。ここが冷たいバスの中であることを忘れて、私は詩を追い続ける。
ふと、何かに気が付いた。いつの間にか、私のことを見ている影があった。ただ、面を上げる前からそれが誰なのかということは不思議と直感することが出来た。
面を上げて居たのは、青と言葉にならない言語を交わしていた、あの少年だった。
咄嗟に、頭の中に湧いたのは憎しみに近い何かだった。青が死んでから半年ほどが経っているのに、どうしてこの人は未練がましくこの場所へ通っているのだろうか。それほど、青のことが大切だったのだろうか。自分には手にいれることの出来なかった関係がまざまざと自分の前に見せつけられて、どす黒いものがふっと頭の中を過った。
怒鳴り散らしてやろうかと思った。殴り飛ばしてやろうかと思った。けれど、その激情は彼の今にも壊れそうな脆く、嬉しげな表情でかき消される。
愛しさの詰まった花束のような表情を向けられたのは、人生において初めてのことだった。
「青」
彼は小さく、零すようにその名を告げる。そこでようやく、私は彼が私ではない人にその眼差しを向けていることに気が付いた。
私と青が並んで歩いている時でさえも、彼は青のことを見違えることはなかった。いつも視線は揺れることなく青に向けられていて、彼らはささやかな挨拶を交わしていたのだ。彼が私と青を取り違えるなんていうことは、有り得ないはずだった。
それでも彼が私のことを青だと思い込んでいるのは、彼は縋っているのだ。未だ青の死を認めたくなくて。青が生きていると信じたくて。
違う、という声が出かけた。私は青ではなくて、雨なのだから。彼が求めているのは私ではないのだから。けれど、それを言ってしまえば彼のその温かな表情は私に向けられなくなってしまう。再び手に入れることが出来るかも分からないそれを手放すわけには、いかなかった。
「なんで、青が――」
彼の手が私の手に触れる。人間というよりも道具のように私へと向き合う両親とは違う、人間の温度を持った手。冬で、温かいものではなかったけれど、心がぼうっと温かくなったような感覚を覚える。
嗚咽が聞こえた。いつの間にか、彼は泣いていた。彼は私が現実に存在することを確かめるようにして私の身体に触れる。私も、それに呼応するようにして彼の身体を抱きしめる。束の間の幻想のようなそれを手放さないように。
もしも私が私ではなかったら。私が夜継雨ではなく夜継青だったら。彼はこのまま私を愛してくれるのだろうか。そう思ったのと、私が夜継雨を殺したのは殆ど同じタイミングだった。
憎悪の元となった双子という繋がりはこの時に限ってそれ以上ないほど有難いものだった。本来死んだのは雨であり、事情があって今もその名を継がざるを得ないという、稚拙だけれども最低限の論理を伴った言葉はあっさりと彼の心の中に沈んでいった。
少しの間でいい。私も誰かに愛されたかった。必要とされたかった。どうせ嘘は暴かれるのだ。一時だけでも夢を見たかったのだ。
それが、始まりだった。蜂蜜で出来た泥濘に沈んでいく、幸せなのか不幸なのかすらも分からないような嘘の。
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