4

 志貴からの連絡がはたと途絶えた。

 曖昧な関係になったとしても、微かな何かが私たちを繋げていたはずなのに、それすらもなくなって私は完全に暗闇の中に放り出されたような感覚に陥る。

 彼の家に行こうかとも考えた。少なくとも、普段彼と会っていた時間に行けば居るはずだろうし、合鍵を使えば部屋に這入ることは容易い。けれど、そこまで能動的で過度な干渉をすれば志貴は引くだろう。私たちの関係はそういう、人間的なべたつきから離れたところにあるものだったからこそ完成したものだったのだから。

 構内を歩くとき、いつもは自分の進む先だけを見ていたのに周りをよく見るようになっていることに気が付いた。同じ大学なのだ、偶然出会ったとしても不思議じゃない。可能性として賭けるに値するものではある。

 けれど、そうあるべくして決められたことのように、私たちが会うことはなかった。一度、彼が受けている講義の教室を覗いたこともあったけれど、タイミングが悪かったのか、そもそも出席をしていないのか、私を避けるようにしているのか、彼の姿は見えなかった。その事実がより一層気持ちを暗くさせる。

 どうするべきか、という問いがぐるぐると頭の中で執拗に私を責め立てる。どうするべきかなんて知るかよ。それでも、その問いに答えられる人間が居るとすれば私しか居ない。これは私の問題だし、志貴について最も深く知っているのは私だからだ。

 私でなければ、もっと良い解決策が見つかったのだろうか。いや、そもそも、私でなければこんなことにもならずに志貴との関係を保つことが出来たのだろうか。

 そうだろう。そうに違いない。

 ただ、そんなことを考えても無意味だ。いたずらに気分を沈ませるだけの、懐疑論や虚無主義に似た意味のない思索。「もしも」や「だったら」が意味を為すのは文章中だけで現実においては何の効力も持ちやしない。

 身体から大きな何かが抜け落ちた気がする。それは志貴というかけがえのない存在の日常からの欠落という意味でもあるし、単純な身体的意味でもある。栄養食だけで生きていくことが出来るのであれば、よりそれは社会に膾炙しているだろう。大切な何かが抜け落ちた身体は日々弱っていく。それでも私には動力を失った飛行機が落ちていくように、ゆっくりと地上へ向かって力なく落ちていくことしか出来ない。

「逃げないでよ」

 そう言って、久我が講義の終わりに私の腕を掴んだのは、あれからどれほどが経ってからのことだっただろうか。時間の感覚が曖昧になりつつあって、よく分からない。一か月が経ったような気もするし、三日しか経っていないと言われれば納得出来るような気もする。確かなのは、梅雨が明けて初夏の苛むような空気が蔓延し始めているということだけだった。

「逃げるって何?」

「ここ最近、ずっと私から逃げるようにして帰ってるでしょ」

「逃げるつもりならそもそも隣の席に座らないだろうし、久我が出る講義は休むようにしない?」

「だから嫌らしいんだよ、夜継の態度は。決定的なことは避けて、何かを起こせば私が悪者であるかのようになる」

 案外そうかもしれない、と思った。私が能動的に動くというケースは極めて稀で、善悪が問われるような問題は流れに身を任せるようにしている。そういう問題に関わるだけ、無駄なことだからだ。善にも悪にも興味がなくて、私が興味があるのは志貴についてのことだけだからだ。

 久我と話したくはない。逃げている自覚はなかったけれど、その感情があるのもまた確かなことだった。けれど、逃げるなとまで言われて拒絶をすれば私が本当に逃げているみたいで「分かったよ」と頷く。

「逃げないから、離して。用があるなら聞くから」

「……分かった」

 久我は不承不承といった様子で私の腕から手を離す。彼女が悪いわけではないけれど、他人の温度というのはどうにも苦手で離されたことに少しだけ安堵した。

「それで、何の用なの」

「少し場所を移動しよう」

「人前じゃ出来ない話ってこと?」

「そういうわけじゃなくて、話をするならもう少し落ち着いた場所の方がいいでしょ」

 諧謔混じりに、しかし半分は本気で言ったけれど久我は焦っているのか怒っているのか取り合うことはなく言って講義室のドアへと歩き始める。もしもここで私が逃げ出したらどうするつもりなのだろうか。そんなことを考えながら私は彼女の背中を見ながらついて行く。

 どんな場所にも人が寄り付かない区画というものは存在している。それは立地的な条件かもしれないし、良くない曰くがあるのかもしれないし、理由もなく誰もが避けたがるような何かがあるのかもしれない。私たちが向かった場所は、恐らく一番目の理由によるものだろう。構内の端の方にあるベンチ。それだけでも人は寄り付きにくいのに、近くには喫煙所があるせいで休憩のために座る場所として嫌煙家からすればあまりにも適していない場所だ。

 私は煙草を吸わないけれど、この場所のことは認知していたし何度か寄ったこともあった。志貴がたまに訪れる場所だということを知っていたからだ。彼は私の居ないところでは煙草を吸う。それは私が吸わないからという気遣いなのか、それ以外の理由なのかは分からないけれど好意的な理由であることは確かなのだろうという確信もまたあった。

 彼は時折煙草を吸った後で纏わりついた紫煙の香りに浸るようにしてこのベンチに座ることがあった。考え事をしているのか、その空虚な時間こそが彼にとって必要不可欠なものだったのかは分からない。同じ場所に座っても、ここからはコンクリートが狭めた小さな空しか見ることが出来ない。この小さな空には意味があるのだろうか、と考える。同じ風景があったとしても、世界の見え方は人によって変わる。私にとってのこの空と、志貴にとってのこの空は齎す意味がまるで違うのだ。そして私はきっと志貴が見ている世界を理解することは出来たことがないし、これからも出来ない。

 隣に座った久我はポケットに手を突っ込んで、それから再び出した。そう言えば、彼女も喫煙者だった気がする。喫煙所の辺りに来たからか、あるいは気持ちを落ち着かせようとしたのか、煙草を吸おうとしたのかもしれないけれど、近いとはいえここは喫煙所ではなくて煙草を仕舞ったのかもしれない。

 彼女は逡巡をするように言葉を言い淀んでいるけれど、私に助け舟を出すことは出来ない。何の話をしたいのかが分からないし、仮に分かったとしても彼女が呼んだのだ。彼女の方から切り出した方が良いだろう。

「体調はどうなの?」という無難な言葉が彼女から出た最初の言葉だった。

「体調は悪くはないと思うよ」

「その顔色をして?」

「常に万全の状態で生きていける人間なんていないでしょ。私、元から身体はあんまり強い方じゃないからさ。死ぬっていうほどでもないし、悪くないのは事実だよ」

 打撲による頭痛も鳴りを潜めてきたし、右腕を使わない生活にも慣れ始めた。ああ、でも志貴が届けてくれた栄養食のストックが尽きて、買いに行くのも億劫で暫く食事を忘れていた時があったな。その間は当たり前だけれども身体を疲労感が蝕んで酷かった。とはいえそれも今となってはまた食事を摂るようになって最低限度の状態にはなっている。これで何の文句を言えようか。

「最近寝てる?」

「どうだろ。ベッドの上に居る時間が長くなってるから眠りとそれ以外の境界線が曖昧になっててよく分からないや」

 気付けば眠っている時もあれば、眠ることが出来ずにぼうっと天井を見つめている時もある。意識と無意識の境目は徐々にぼやけていって、生活が空中分解を起こしていっている音がする。

 久我は神経質そうに指を組んで、一番上になった右手の親指で手を周期的に叩く。今まで私の前ではしていなかったのか、それとも私が見ていなかったのか、初めて見る癖だった。

「ただの体調不良みたいに言ってるけど、そういうわけじゃないでしょ」

「まあ、そうだね。ただの体調不良とは言い難いかな」

 嘘は得意な方だ。けれども、むやみやたらに嘘を吐く必要もない。私は素直に首肯をする。この問題が単なる身体的な問題ではないと。

「芥生のこと?」

「そうだね」

「……何があったのさ」

「何が。何がねえ。そりゃ私が聞きたいところなんだな」

 連続性が突如途切れたこの感覚を言語化することは出来ないし、その原因も分からない。ただ、強いて言うなら自殺に似ているのかもしれない。ひとつの大きな出来事の為に行われるものではなくて、過去の総決算の為に行われたものであるという点において。

「まあ、仕方のないことではあったと思う。私たちの関係は完璧に完成されていたけれど、それはあくまでも偽物なんだ。見せかけだけの完璧に過ぎなかったんだよ。そんな関係がいつまでも続くわけがない。いずれ糊塗された綻びが顕になって崩れていく。そういう予定だったんだ」

 このまま何かの間違いでこの不安定な関係が続けば良いと何度も願った。祈った。縋った。けれど、それがまやかしに過ぎないなんていうことは分かっていた。それでも、身構えていたとしても痛いものは痛い。

 強いて意外だったことを挙げるとすれば、もっと劇的に変化が訪れるのかと思っていた。分かりやすく安っぽいカタルシスがあるものなのだと思い込んでいた。しかし、現実はフィクションじゃない。そんな分かりやすい御涙頂戴の変化なんて訪れない。冬眠を忘れたリスが静かに死んでいくように、物事は抵抗することも出来ないほど密やかに進んでいく。

「久我の望み通り私と志貴はばらばらになったわけだ。良かったね。これで満足?」

「……満足なわけないでしょ」

「そう、自分が選んだ結果に対してさえも文句を言うんだ。他人を巻き込んでそれって随分我儘だね」

「違う、私が望んだ結果はこんなものじゃない」

「でもまず目指していたのはここでしょ。もしかしたら、貴方は私と志貴がばらばらになった先に何かビジョンがあったのかもしれない。でも、私は志貴と別れたらその時点で終わりなんだよ。それ以上は行けない、終点なんだよ。これはお前が齎した結果なんだ。それを受け入れる覚悟もないんなら、他人の関係に踏み込もうとするなよ」

 自分でもびっくりするくらいに残酷な言葉が容易く口から漏れ出た。つい以前まで好意的に見ていたはずの人なのに、今では久我に対する感情は凪のように存在せず、氾濫した言葉の羅列がそのまま彼女に押し寄せる。

 質が悪いのは、それが激情のままに現れた意味のない悪態の集合ではなくて、どこまでも私の本心だったことだろう。本心だと偽ったものが本心と取り違えられることはあれど、心の底から汲み上げられた言葉には相応の熱が篭っていて、それが取り繕われた言葉に過ぎないと思われることはない。私の言葉は私が発したのと同じ深度に届いてしまったのだろう。

 ため息を吐く。嫌になる。気が落ち着かない。もう少し冷静に世界を俯瞰しないと見つかるものも見落とすことになる。それに何より、これでは夜継青らしくない。深く息を吸って、それから立ち上がる。このまま座り続けていても悪い方向に思考が捩れるだけだ。居る意味がない。

「じゃあ」と言って立ち去ろうとしたところで、久我が私の手首を掴んだ。今日二度目の他人の体温。じっとりとした生暖かい「人らしさ」が肌を通して伝わってくる。不快だ。どこまでも。

「何?」とナイフのように冷たい声音で返す。悪意があるというわけではない。ただ、あらゆるものがゼロなのだ。

「確かに今ある結果は望んだものじゃないし、最低なものかもしれない。でも、私は後悔してない。あのままいったら、あんた擦り切れてたよ」

「……貴方に何が分かるのさ。私の過去も、志貴との関係も知らないくせに」

「過去は知らなくても今は分かるんだよ。あんただって分かってたでしょ、いずれ自分が擦り切れることになるであろうことくらい」

 彼女の言う通りだ。終わりは予期していて、それはきっと私が擦り切れた時だろうと思っていた。そしてそのいつかは遠からず来るであろうことも分かっていた。

「でも、幸せなままで死んでいくのと不幸なままで死んでいくのであれば、前者の方が幸せな人生だったと言えるんじゃないかな。例えそれが後者よりも早く訪れるものであったとしても」

「そうかもしれない。でも、あんたは擦り切れた先に幸せに終わることが出来るつもりだったの?」

「……はは、そうだね。それもまた不幸だったのかもしれない。でも、今みたいな状態が続いて、腐るようにゆっくりと死んでいくのであれば、少しでも幸せだった時間を身近な場所において一想いに死んでしまいたかったよ」

 どうせ死ぬのだ。最後くらい、束の間でも良いから微睡のように心地の良い夢を見てみたいものだ。今の私では、きっと後悔だけを抱えたまま死んでいくことになる。それは嫌だ。志貴の隣でなんて高望みはしないから、せめて私は後ろ暗いものを一切抱えることなく彼のことを思い出しながら死にたい。

「……夜継はどうしてそこまであいつに執着するの」

「どうして、ね。そんなの答えられるわけないでしょ。好きっていう言葉は、愛してるっていう言葉はそれが既に究極的なかたちであって、それ以上のものを求められても出てくるものは陳腐で本来の感情を損ねるレトリックに過ぎないよ」

 感情の行き着く先に言葉を付与したって本質を有耶無耶にするだけだ。それを無意識のうちに分かっていたからこそ、志貴は多くを語ろうとしていない。

 結局トートロジーでしか語ることが出来ないのだ、愛なんていうものに関しては。それ以上のものを求められても困る。久我は誰かのことを恋したこととか愛したことがないのだろうか。

「理由とか過程に意味を求めてもしょうがないでしょ。崇高な動機の下に行われたことが上手くいくほど世界って単純じゃないよ」

「私が言いたいのは、愛のかたちについてじゃなくて、愛した末に何があるのかってことだよ。そりゃどんな理由で愛そうが勝手だよ。恋してるから恋しいのでも、愛してるから愛しいでも良いんじゃないの。でも、強い願いの結果として何も残らないのであればいいのかもしれないけど、そういう曖昧な理由のままで何も残らずに終わるのは虚しいだけでしょ」

「何も残らないって、貴方に何が分かるのよ」

「何も分からないさ。でも、あいつがあんたのことを見ていないのは分かる。あいつが愛してるのは、あんたじゃないでしょ。あんたに映し出された自分にとって都合のいい何かだ」

 その言葉はきっと、久我が思っているよりも私の柔らかい部分を鋭く刺した。それは私にとって最も痛く、不快で、弱い部分だった。

 彼女の言っていることは正しい。彼が見ているのは、私じゃない。愛しているのは、私じゃない。

 芥生志貴が愛しているのは、夜継青だ。私では――夜継雨ではない。そんなことは、分かり切っているはずなのに息が苦しくなる。自らを慰めるように最初に彼に触れたあの温度が思い出すけれど、それはやけに虚しいものに感じた。

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