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 目を開くと視界が真っ白に染められる。ここは、どこだろうか。自分の部屋でもなければ、志貴の部屋でもない。それ以外の場所で眠るようなヘマをすることはないはずだ。どうして、自分は眠ってしまっていたのだろうか。

 取り敢えず周囲の状況を確認しようと身体を起こすと、頭が割れそうながんがんとした痛みが響いて呻く。それから悶えるようにして身体を動かすと右の腕にも痛みが走り、満足に動かせないことが分かる。その方に目を落とすと、いつの間にかギプスがつけられ固定されるようになっていた。

 自らが怪我をしているという状況をようやく理解する。どうして自分が怪我なんかをしているのかと記憶を遡る。幸い、記憶に損傷はないようで、少し時間をかければどうしてこうなったのかに辿り着くことは容易だった。

 志貴と話をすることが出来ないことが続いていて、だから話をしたくて、そして――。

 思い出したくもない現実に向かい合わされる。最悪の状態に加えて最悪の状況。いっそこのまま眠り続けていたかったものだと半ば本気でそう思う。

 がらり、という音がしてドアが開いた。看護師が起き上がった私を見てホッとしたような表情をする。

「夜継さん、大丈夫ですか?」

「ええ、まあ」

 頭がおかしくなりそうなほどに痛くて、右腕が動かないことを大丈夫というのかは疑問だったけれど、取り敢えず生きている。少なくとも、今の私にとってはそれだけで十分なように思えた。

「先生を呼んで来ます」と言って看護師は足早に部屋を出て行く。部屋には私以外の人影は見えない。どれほど、眠っていたのだろうか。両親との繋がりのようなものは出来る限り持たないようにしていたから連絡はいっていないと思うのだけれども、もしいっていたら面倒なことになるな、と想像して気が滅入る。ここへ来ることでさえも渋った人たちだ。ここまでの怪我をすれば無理やり自分たちの手元に置こうとしかねない。それだけは、死んでも嫌だ。

 暫くしてから足音が二つして、白衣を着た老人と先ほどの看護師が部屋に這入って来る。悪い人たちではなさそうだ。真っ先にする判断がそれというのが自分の悪癖を自覚させる。

「体調はどうですか? 記憶の連続性はありますか?」

「ええ、まあ。怪我をした箇所が痛みはしますがそれ以外に異常らしい異常はないですね」

「そうですか、なら良かった」

 老人の言葉は同情の存在しないシステマチックなもので、個人的にはその方が有難かった。妙な感情なんて持ち込まれるだけ厄介だ。

「貴方は階段から転げ落ちて、ここに運ばれてきました。結果としては頭部打撲と右腕の骨折。頭部打撲に関してはCTによる検査を行いましたが特に大きな異常は確認出来ませんでしたので、不幸中の幸いといったところですかね」

「はあ、そうですね」

 全くそうだ。身体が重力に従い落下を始めた瞬間、私は死を覚悟した。去って行く志貴の背中を縋るように見つめながら。あれが最期の光景だったとすれば私は死ぬに死ねなかっただろうから、死なずに済んで本当に良かったと思う。

「骨折もそこまで酷いものではないので安静にしていれば時期に治るでしょう。頭を打ったという事実が危険なものであることには変わりありませんので、異常を感じたらすぐにご来院ください」

 ベッドでここまで酷い状態で起き上がったせいで自分は不治の病にでも侵されたのではないだろうかと錯覚をしたけれど、老人の言葉を汲み取る限りどうやら入院をする必要はないらしかった。良かった、と心底思う。入院をするとなったら好むと好まざるに関わらず両親に連絡をする必要が出てくるのだろうから、多少の不便はあれど自分の部屋で過ごせるに越したことはない。

 これで話は終わりだろうかと思っていると「それから」と老人は言葉を付け足す。

「打撲や骨折に関わらず、顔色が優れていないですよ。もう少し栄養を摂るようにした方が良いかと」

 その老人の言葉は的を射ていて、「分かりました」と情けなく首肯をすることしか出来ない。私が階段から転げ落ちたのは、ただ足を滑らせたというよりも栄養失調が祟り足がもつれた結果だと自覚をしているのだから。

 家族と一緒に住んでいると嘘を吐いて、病院から帰宅する。幸いというか、意識を失っていたのは数時間程度のことだったようで転げ落ちたあの時から日を跨ぐこともせずに、部屋へと向かう。どうやら、自分で思っていたよりもずっと、私は芥生志貴という人間に対して狂っているらしいということを考えながら。

 私が軽い栄養失調の状態になっていたのは、何も体調不良が長引いた末のことではない。志貴との間に出来た境界について気付いてしまったから。そして、彼がそれを意識し私から距離を置くようになったからだった。

 芥生志貴と話すことが出来ない。ただそれだけで食欲が失せ、無理やり食べようとしても固形物は喉を通らなくなる。あの両親の下で過ごしてきたのだ、精神面での耐久性に関しては脆い方だとは思っていなかったけれど、こうしていざ自分の心の柔らかい部分を突くような事柄に直面すると想像していたよりもずっと参ってしまう。誰だって、自分の弱さを突き付けられるのは好きなことじゃない。

 彼が何を思って、見抜いて、私から距離を置いたのかという正確なことは分からないけれど、彼にも私の嘘が気付いてしまったのではないかという不安が頭の中を埋めつくす。そんなはずはない。私は周到にやってきた。大丈夫、まだ知られていない。そう何度言い聞かせても不安というものは膨れていき、身体を蝕んでいく。

 やり直すことは、出来るだろうか。少なくとも、容易なことではないだろう。私たちの間にあった関係は不安定な均衡の下に完成されていた。それを、一度壊してしまったのだ。もう一度同じようなものを作り直すことは難しいのだろうし、出来たとしても以前と全く同じものが作れるはずがない。

 それでもいい。元より、歪な関係が今更更に歪んだところでどうなるというのだろうか。私にとって、芥生志貴はかけがえのない存在だ。今、この瞬間も彼が私から離れていっているかもしれないと考えると狂いそうになるほどに。

 骨折をしている人間が物珍しいのか、電車の中では時折視線が私の腕へと注がれていたけれど、他人の視線には慣れているお陰で気になるようなことはなかった。存在しない才能を期待されて様々な舞台に立たされた経験がようやくここで役に立ったと思う。

 ピアノ、書道、水泳も一度やらされたっけ。私を天才に仕立て上げたそれらのものはもう既に触らなくなってから久しい。神童も二十歳を過ぎれば、というけれど私もその例に漏れずある一定以上の年齢になれば突出した才能を持つ人間に容易く淘汰される、ただ小手先が器用なだけの人間に過ぎなかった。幸いというか、娘が一人になったことで愛情の捨て先を明確にすることが出来たからか、それとも勉強くらいはまだ出来る方の人間であることが出来たからか、両親が私に冷淡になるようなことはなかった。私は彼らのことを一生かかっても好きになれないだろうけれど、今こうして不自由のない生活を送ることが出来ているのは彼らのお陰であることも確かで、一応感謝はしているつもりだ。

 才能の剥落について、彼らは小言のようなものを挟まなかったけれど、進学先についてだけは文句を言われたことを思い出す。「雨ならもっと上の大学を目指せるんじゃないの?」という、子供を過信する親の吐く定型句。

 ただ、それは実際事実だった。驕っているわけではなく、ただ純粋に現実を直視した結果として、私ならもう少し上の大学を選ぶことも出来ただろうと思う。それでも今の大学を選んだのは、両親から離れることが出来るという理由もさることながら、ここが両親が渋りつつも私が通うことが出来る最低のラインであり、志貴が受かることの出来る最上のラインだったからだ。

 躊躇なく、彼のために大学を選んだ時点で私はこの時既に狂っていたのだろう。そもそも、私はいつから彼に狂ったのだろうか。いつから、ここまで彼のことを愛しいと思うようになったのだろうか。初めて会った時? 初めて手を繋いだ時? 初めて彼の涙を見た時? 答えは分からない。コーヒーに砂糖がゆっくりと溶けていくように、私の感情はいつの間にか他の世界に向けるものとは別の、特殊なものに移ろっていたのだ。

 電車は最寄りの駅に着き、降りる。改札を出て、ほどなくしたところにある部屋へと戻ったが鍵を取り出そうとして改めて片方の腕が自由に使えないことの不便さを痛感する。こういう時、志貴が居たらきっと何も言わずに助けてくれたのだろう。その優しさに見返りを求めるようなべたついた感情はない。彼にとって、夜継青に対する奉仕は自らに対する愛情と変わりがなく、することが当たり前なのだ。そういう時の彼の表情を見る度に、私は堪らなく彼のことを愛おしいと思ってしまう。

 けれど、今の私の隣に彼は居なかった。もしも呼んだとしたら、彼は来てくれるのだろうか。今の不完全な関係であったとしても。そこまで考えて、意識が途切れる寸前の記憶がフラッシュバックする。私は、彼を呼び止めようとして、そうして階段から落ちた。であれば、私から逃れようとしていた彼だって私があの状態になったことは気付いたはずだ。

 もしも、今までの彼であれば、起きた時隣に居てくれたんだろうと思う。何日も昏睡をしているのであれば、都合が合わなかったということもあるのだろうけれど数時間程度であれば彼なら待ったはずだ。私の隣に居てくれたはずだ。けれど、目が覚めた時、私は独りだけだった。

 息が苦しくなる。きっと、呼んでも彼は来てくれない。私は独りで世界に立ち向かわなければならない。

 深く息を吸って、呼吸を整える。進みつつある現実に対してないものねだりをしたとしても仕方がない。いつまでか、あるいは一生か。私は独りで生きていかなければならないのだ。片腕は不自由なままで、けれど最低限何かを口にしようと動き始める。誰だって、痛いことは好きじゃない。せめてまた階段から転げ落ちないようにしなくてはいけない。

 幸い、インスタントのカップラーメンの買い置きがあったのでそれにお湯を入れ、残っていたウィスキーを口にする。不味い。安物だから美味しいわけはないのだけれども、ここまで不味かっただろうかと思う。落ち込んだ気分こそが最悪の調味料なのか、浮ついた気分こそが最高の調味料なのか。それでも一気に飲み干して思考をアルコールで消毒する。

 カップラーメンが出来上がるまでのたった三分間が、地獄のように長く感じる。いつまでも終わらないのではないかと錯覚をするほどに、秒針は進まない。世界から目を背けるように目を瞑り、開いても時間は緩慢な進み方しかしないで、結局二分と少しが経ったところで待つのをやめることにした。

 いつも通り箸を用いて食べようとしても、利き手が塞がっている以上まともに食べることが出来ないことに気が付く。これは、今後の生活が改めて危ぶまれるなと思いながら箸を仕舞ってフォークを取り出し、それでようやく食べ始めることが出来る。

 胸のあたりのつっかえたような拒絶感を無視して麺を掻き込む。味噌味と表記はされているけれど、味噌ってこういう味だっただろうか。仮に今、このカップラーメンの中に劇毒が仕込まれていたとしてもそういう味なのだろうと勝手に納得をして食べてしまいそうな気がする。

 これからの時間を、自分をどう処理しようか。それから明日も、明後日も、死ぬまでも。

 思考が身勝手に暗い方向へと突き進み続けていることを自覚して打ち止める。遠いことを考えるべきではない。未来みたいなものは結局レトリックに過ぎなくて、私たちはもっと身近なものと向かい合い続けなければならないのだ。今だけを見つめて未来から目を背けるのは愚かなのかもしれないけれど、それでも実際に見つめることが出来るのは今だけで未来に関してのあらゆる思考は空想に過ぎない。

 ならば今私がすべきことはなんだろうか。私はどうすれば良いのだろうか。決まっている。志貴と再び話をしなければならない。けれど、どうやって話を切り出す? 仮に話を始めることが出来たとして、何を話す? 結局思考はそこで行き詰る。具体的な解決策は何一つ現れない。

 例えば、今から久我との繋がりを切れば何かが変わるだろうか。久我と志貴を天秤にかければ、迷うような隙もなく後者に傾くに決まっている。それで解決をするのであれば、私に迷いはない。

 いや、変わらない、とすぐに否定する。一度起こってしまったことに意味があるんだろうし、何より志貴はそのような解決手段を望んではいないだろう。自分のために何かを強要して変化が起こることを彼は嫌う。更に嫌われるようなことをするわけにはいかない。

 どうしようもないんじゃないかという考えが頭の中を支配する。私に出来ることは既になくて、ただ諦めることが冴えたやり方なのかもしれない。時間は戻らない。だから、先を見ろという人も居るのだろう。けれど、そんなことを言えるのは本当に他人のことを愛したことがない奴だけだ。愛なんて、綺麗な言葉で着飾っているけれど、その実情はどろどろとした身勝手な感情に過ぎない。どんなことになっても良いから、相手と一緒に居たい。それが愛の本質なんだろうと、私は思う。そうして、私は志貴のことを愛していた。

 三分の一ほどを残して食べられなくなったカップ麺の残りを捨てる。こんな調子では、いつまでもこの最低な体調は治らないのかもしれない。ただ、大学には行かなければいけない。せめてそれだけでも熟さなければ両親は私に帰って来いと言うだろうし、そうすれば志貴と離れることになる。それは、嫌だ。

 そう言えば、少し前の体調不良の時に志貴が持ってきてくれた栄養食が幾つか残っていた気がする。その程度であれば今のような状態であったとしてもせめて喉を通るはずだ。健康的な生活からは程遠いのかもしれないけれど、それさえ食べれば最低限私の命を繋ぎとめてくれる。今の私にはそれだけで十分だった。

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