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 青と話している時、どんな表情をするべきなのかが分からなくなった。自分が上手く笑えているのか、話せているのかが分からない。それは立ち止まったからこそ気が付いてしまったことなのか、それとも胸の空が原因なのか、どちらなのだろうか。

 僕は信頼に甘えていた。青であれば僕のことを理解してくれるだろうという幻想に溺れていた。しかし、現実はそれほど都合の良いものではなくて、完全な理解なんて得られるはずがない。僕たちは一人の、それぞれ違う人間であり、その事実は単純だけれども決定的なものなのだ。

 幻想と期待の剥落は現実を直視させる。そして、現実というのは往々にして直視するには耐え難いものである。

 あれほど望んでいた青との会話も、今となってはむしろ自ら避けようとする機会となっていた。何を話せばいいのかも、分からないのだから。

 僕が自分についてのことで意外に思ったのは、青と話さなくなったとしても、普通に生きていくことが出来るということだった。

 結局のところ、何かがないと生きていけないなんていう言葉はレトリックに過ぎない。どれほど精神が死に近付いたとしても細胞が死を否決する。そうして肉体が惰性的な生を続けている間に精神はやがて緩やかな回復を果たし、日常へと回帰していく。

 生きている限り、癒えない傷はない。残った傷跡を見て痛みを思い出すことはあっても、永遠に続く苦痛なんていうものは存在しない。僕も、いつかこの痛みを忘れて当たり前のように生きていくのだろう。成長をして、大衆に迎合をして。モラトリアムを終える時期が来たのだ。ホールデン・コールフィールドにいつまでも共感をしているようでは、とてもじゃないけれど生きていけない。

 人間が社会性生物である以上、成長とは世界と折り合いをつけていくことが出来るようになることなのだろう。独りで生きていくなんていうことは、出来ないのだから。

 煙草を吸う本数が増えた。ただ、長く生きたいだなんて思ってもいないからそれで良かった。早く死にたいのであれば、縄で首を括るのが一番だ。けれど、能動的に死を選ることが出来るほどの余力も、勇気もないからこうして緩やかな自殺をしている。

 独りの時間が増えるにつれて、思考はどんどんと悪い方向に捻れ、曲がり、変形していく。集中が途切れ、本を読むことも難しくなっていく。

 することがなくなり、眠る時間が増えた。大学へ行き、バイトを熟し、帰って眠る。時折、体裁を整えるようにして青と顔を合わせ、今まで通りに時間を浪費する。彼女と向かう先は映画館が増えた。映画が放映されている最中であれば、話をせずとも、顔を合わせずとも自然に過ごすことが出来たからだった。

 積み上げるのは時間がかかり難しいけれど、崩すのは簡単で一瞬だ。それまでの経緯なんていうものはまるで関係がなくて、風が吹いたというような程度の些細なきっかけが暴力的に全てを崩し、壊す。世界とは、運命とは、そういうものだ。

 何かが崩れていく音がした。温度が失われていく感覚があった。自分の中の何かが死んでいった。

 それでも僕は死ぬように生きている。生きていく。そうするしかないのだから。

 喫煙所から出る。次の講義は、なんだったか。教室の場所は覚えているのに講義の内容が今ひとつ思い出せない。昔からその気はあったけれど、生きるという行為が疎かになっていっている実感があった。

「志貴」という声が階上からした。その声が、僕の名前を呼ぶ人間が、この大学において一人しか居ないことを僕は知っている。今までであれば呼ばれるだけでも嬉しいと思えた、その声が今では他の世界の音と同じような響きを持って聞こえる。

 話すようなこともないはずだ。僕たちの間を繋いでいたのはかたちのない、言葉のない同情であってそれ以外の共通点がない僕たちには話さなければいけない話題というようなものはない。

 酷く、疲れていた。思考が、肉体が。未だ眠りから醒めていないような、水中に放り出されたような感覚がした。答える必要はないだろう。そう思いながら、僕は彼女の方から顔を背けるようにして歩き始める。

「待って」という声がした。聞こえないふりをした。

「あっ」という声が聞こえたような気がした。そして、鈍い音がする。何かが、重力に従い転がり落ちていく音がする。

 べたり、という音がして静寂だけが残った。それから、喧騒が突如として生まれる。救急車、という声が聞こえる。

 ゆっくりと、僕は後ろを振り返る。それが何かは分かっていた。最も見たくないものだということも。けれど、目を逸らすことも出来なかった。どれほど最悪なものであっても、僕にはそれと向き合う義務があったのだから。

 夜継青は、床に倒れていた。頭から血を流し、身体は一切の動きを停止している。

 吐き気がする。僕は、逃げるようにその場から離れていく。

 罪は、どこにあるのだろうか。僕は何をすれば良かったのだろうか。

 リノリウムに広がった赤黒い死が、頭からこびりついて、離れない。

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