5

 青の体調は事実として僕が負担をかけていたかのようにそれからほどなくして回復した。とはいえ、それは完全な復調というようなものではなくて取り敢えず大学に顔を出せるほどにまではなったというようなものだった。

 雨は未だ降り続けている。六月も後半に入り、どっぷりと梅雨に浸かった季節は青のように体調を持ち崩すことはなくとも気分を落ち込ませるところがある。ただ、雨の日が続いているお陰か大学の構内は日に日に閑散としていくのは唯一の好転だった。

「ごめんね、心配かけて」と言う青の顔色は相変わらず優れたものではない。彼女との時間を作った後は書店を周ったり、どこかカフェで休んだりするようなことも多かったけれど、無理をさせるわけにもいかずに彼女の部屋へと向かうことになった。

「まだ本調子じゃないみたいだし、休んでなくて大丈夫なのか?」

「あんまり塞ぎ込んでると気分まで落ち込んで悪い循環に陥ることになるでしょ。私も久しぶりに看護とか抜きで志貴と話したいしさ。話すことがないならただ一緒に居てくれるだけでも良いから」

「青が良いならそれでいいけど」

 僕は元よりそれを望んでいたけれど、本当に彼女の身体に障らないかということが不安になる。どれほど打ち解けている人間であったとしても、独りで居る方が気を休めることが出来ることは確かなのだ。安静を優先するのであれば僕は行かない方がいい。

 けれど、青はそんな僕の逡巡を見抜いたように中身を覗き込むように僕の瞳を見て言う。

「身体の健康も大事だけど精神の健康も大事でしょ、こういう時ってさ。それとも志貴は私と話すのは嫌なんですかね」

「いや、それは違う。僕だって青と話したい」

 我ながら馬鹿じゃないかと思うようなことを素面で言うと青は満足そうに笑った。

「なら行こ。また体調が悪くなったら帰ってもらうから安心してください」

 彼女の言葉は僕を安心させるものというわけではなくて事実なのだろう。恥ずかしげもなくあけすけに話すことになれた僕たちは必要に応じて相手を否定する時もあれば拒絶する時もある。もしも体調が悪くなったのであれば、彼女は躊躇することもなく「帰ってくれない?」と言うのだろう。

「オーケー」と言って僕たちは駅へと向けて歩き始める。たった一週間ぶりのことではあるけれど、その間にも会ってはいたけれど、それでも彼女とこうして肩を並べて歩くと無性に嬉しさが込み上げてくる。それはきっと、彼女が生活から欠けたという状況があの頃のバスと似ていたからなのだろう。顔を見ていても、声を聞いていても、実際に生活に触れられるということはやはり特別なものなのだ。

 電車に乗って、彼女の部屋の最寄り駅まで行く。会話が見つかれば、僕たちは何かを話すけれどそれ以外の時は何も話さないことも少なくない。けれど、沈黙のやり過ごし方はバスの中で十分に会得していたし、何より僕にとって青との間にある沈黙は苦痛ではなかった。絵画に存在する空白が、詩に存在する空行がそれらにとって必要不可欠なものであるように、僕たちにとっての沈黙もまた必要なものの一部のように思えたのだ。

 青の部屋へと着くと「座ってて」と言って何かを用意し始めようとするので「僕がやるから」と押し止める。

「飲み物と、簡単につまめるものだろ。何が飲みたい?」

「ウィスキーがあるから、それを水で割って貰っていい?」

 病み上がりの身体に、というより現在進行形で病んでいるとも言える身体にアルコールを入れることが望ましいことではないということは保健の授業を殆ど聞き流していた僕でも分かるようなことだったけれど、僕は結局二人分の水割りを作る。一杯分くらいであれば大きく体調を崩すというようなこともないだろうし、であれば彼女の気分を晴らすためにも悪いことじゃないだろう。

 幸いというか、食欲のなかった彼女の冷蔵庫には買い出しに行っていないにも関わらず何かを作れるだけの十分な食材が存在していた。

 簡単に昼食代わりになるものを作る。青は食欲がないと言うかもしれないけれど、それでも何も食べなければゆっくりと身体は悪くなっていくだけだ。卵をフライパンに放り入れてスクランブルエッグを作る。ソーセージもついでに入れたところでこれじゃ朝食だと自嘲した。僕の頭の中に収納されている料理本は小説に挟まっている投げ込みチラシより情報量が少なくて、その中で簡単にすぐ作れるものがこれだったのだ。

 どうせならと開き直るように食パンをトースターにかける。完璧な朝食だ。時間は昼下がりで、飲み物がウィスキーであるということを除けば。出来上がったそれをテーブルに持って行くと、彼女は笑ってくれた。

「なんでこんな朝食みたいなメニューなの」

「簡単に作れるものを作っただけで特に理由みたいなものはないんだ」

「あはは、志貴のそういうところ好きだよ」

「昼にも関わらずスクランブルエッグにソーセージ、トーストを用意するようなところが?」

「そうじゃなくて、結果のためなら何かに縛られるようなことなく行動するところ」

 縛られるというよりは、単に忘れていただけだから誇れるようなことではないのだけれども、好きと言われただけで僕には十分だった。自分のことを好きになることは難しいけれど、青が好きだと言ってくれるから嫌いではないままで居ることが出来る。

 青は箸を使いスクランブルエッグとソーセージを食べ、トーストを齧る。僕はスクランブルエッグとソーセージをトーストに挟み込み、サンドイッチのような何かにしてから頬張る。これらの食べ物とウィスキーを並べるのは絵面としてとても奇妙なもののように思えたけれど、実際に飲んでみると意外にも食い合わせは悪いものじゃなかった。

 僕たちは蟹を食べるように朝食もどきの昼食を食べる。大丈夫だろうかと青の方を見ると、彼女はいつも通りのペースで食事をし、ウィスキーを飲んでいた。思っていたよりも彼女の症状は重たいものではないのかもしれない。この調子であれば、あと数日も経てば完全に回復をするだろう。

 食事を終え、空になった皿を洗う。一連の所作を惰性的に思考を止めたままで熟し、空になったグラスには代わりとしての水を入れてリビングへと持って行く。

 僕たちは隣り合わせに座り、水を飲んだ。あのバスに居た頃のことを思い出す。こうして今にも腕が擦れ合いそうな距離で座り、沈黙に身を委ねた。思い出したかのように言いたいことを見つけると話し、疲れれば眠る。

 動物のような生き方をしていたものだと薄く笑う。したいことをして、したくないことから逃げて。自分勝手で我儘な、醜い生き方にも見えるけれど、それの何が悪いのだろうか。僕たちの世界は僕たちだけで完結していた。ただ、誰を傷付けることもなかった。それならば、例え滑稽に見えるような世界であっても存在を許されるくらいはあってもいいんじゃないだろうか。

「体調が優れなかった間、色々やってくれてありがとうね」と青は思い出したように、零すように口を開いた。

「大したことはしてないし、別に無理をしてたわけじゃない。どうせ青と会わなければ予定もなかったような日なんだ、申し訳なさみたいなものを覚えられる必要はないよ」

「本人の感情に関わらず時間は平等に流れるものでしょ。それを使ってもらったことには変わりないんだから、礼くらいは素直に受け取ってください」

「じゃあ、どういたしまして?」

 改めて礼を言うのはなんだかひどく奇妙な行為のように思えた。僕たちが互いのために何かをするということは細胞が傷を治癒するような、極めて自然なことに似ていて、礼を言い合うようなことはなかった気がしたからだった。

 遥か昔、人間は二人でひとつの人間だったという。それが分たれたからこそ、今の人間はその分たれた半身を追い求めて他人を愛するのだと。

 僕たちは今、成長と共に分たれていっているのかもしれないと思う。境界が曖昧だったあの頃から変わり続け、時間は僕たちの差異を顕にし始める。同じだと思っていた二つは鮮明になるにつれて異なった存在であるという事実が明るみに出ていく。

 分かっている。比翼の連理がただのレトリックに過ぎないなんていうことは。自分以外の世界のことを完全に理解するなんていうことは不可能なのだ。いつかは何もかもが分たれ、最後に残るのは孤独だけだ。

 ならば、その先にあるのは哀しみなのだろうか。あるいは、成長だと肯じた喜びなのだろうか。

「そう言えば」と青は思い出したように言う。

「また久我と話した?」

「彼女がその話をしたのか?」

「いや、そういうわけじゃなくて、何も持ってこなくていいって釘を刺して置いたのに色々持ってきたから。そういう時に私の言葉を無視してまで持ってくるような子じゃないし、だったら君が渡したのかなあって」

 結論に至るまでの過程は恐らく僕と久我の会話を正確に思い浮かべられていたわけではないのだろうけれど、最も大事な結論の部分は確かに当たっていた。僕は久我にあれを渡し、久我はそれを持って青の部屋まで向かったのだ。

「久我と志貴ってよく話したりするの?」

「まさか」

 どこからそのような可能性を見出したのだろうか。話をすることを能動的に避けようとするほど、僕は久我のことを嫌ってはいないけれど、好んで話をしたいと思うはずがない。機会がないのであればそれ以上のことはないと思っている。

 しかし、良いことなのか、今のような質問をしたということは青は僕と久我の間に再び起こったやり取りについて、冷たく静かな警告については知らないのだろう。逆に言えば、久我も青に対してそれを伝えていないということになる。本当に青に近付けたくないのであれば僕だけに言うのではなくて青にも説得をするべきだろうに。

 どうして。どうしてそのように不合理なやり方を選ぶのだろうか。あるいは、久我にはそうすることしか出来ないのだろうか。だとすれば何故?

「なあ、青。どうして君は久我と付き合ってるんだ?」

「どうしてって、そうだね。昨年も今年も同じゼミだし、講義が被ってることも多いからなんとなくっていう感じかな。話していて疲れるっていう子じゃないし、知り合いが一人くらい居ると楽だからさ」

 システムを理解して、柔軟に自分の考えや主義を曲げるということに関して青は上手だった。僕のような、どこまでも縋るようにひとつのことに傾き続けるようなことはしない。だから、知り合いを作るというところまでは納得をすることが出来る。

 けれど、それが久我夏目である必要はあるのだろうか。

 これは個人的な好悪という意味ではない。雨という人格であることを強要し、個人的な空間にまで無遠慮に入って来るような人間である必要は僕には見えなかった。あるいは、後者に関しては青の変化なのかもしれない。僕のようにいつまでも小さな世界に閉じこもることはせずに、彼女は少しずつ世界に対して自分というものを曝け出していっているのかもしれない。それでも、僕には前者を肯定することは出来なかった。

「久我夏目じゃなくても、知り合いを作ることくらいなら出来ただろう」

「君は私に何を期待してるのさ。知り合いを作ることが簡単に出来るほど器用じゃないよ」

「そうは思えないけど」

 青の世界に対するシニカルな見方やあっさりとした態度は万人に好かれるものではないだろう。ただ、表層的な付き合いをするだけにおいてそれを隠し通せるだけの嘘を吐く技術が彼女にはある。韜晦めいた言い方はただの謙遜なのだろうか。

「志貴は久我のことが嫌いなの?」

「好きと嫌いの二元論で語るのであれば」

「嫌いなんだ」

 嫌いと断ずるようなことはあまりしたくなかったし、嫌いと言えるほど能動的な感情を抱くことが出来ていない。けれど、確かに僕はそうして誤魔化しているだけで久我のことが嫌いなのかもしれない。

「そうだな、否定は出来ない。ただ、僕が君と久我が居ることを好ましく思っていないのはその問題とは別のところにある」

「問題っていうのは何?」

「君が雨を演じている時の姿が、僕は好きじゃない。君が雨であることを望んでいる奴らはここには居ないんだ。もう、それをする必要はないだろ」

 どうして彼女はありのままに生きることが許されないのだろうか。あるいは、既に雨を演じることを選んだ時点で彼女にはこうした道を歩むしかなくなっていたのだろうか。本当の夜継青は、純粋な夜継青はあの事故によってもう死んでしまったのだろうか。

 他者の痛みに対して憤ることがどこまでもエゴイスティックな行為であることは分かっていたけれど、それでも僕はこの現状が許せなかった。許すべきではないと思った。身勝手な感情だということを受け入れてでも、僕の中の感情は蠢き続けた。

「青の言っていることは分かる。知り合いが居た方が便利だというのは否定のしようのない事実だ。ただ、今の久我との付き合い方は都合のいい知り合いという関わり方とは違うように見えるんだよ。どうして、そこまでして君は久我と関わり続けるんだ。久我に――」

「違う」

 青は僕の言葉を遮って、否定をした。

「違うよ。私は、君を求めているのとは違う理由でまた彼女のことも求めている。それって、そんなに特別なことでもないでしょ」

 全く彼女の言う通り、特別なことではないのだろう。二人だけで完成する世界なんていうのは幻想で、それだけでは心の隙間は埋まらない。様々な人と関わり、様々な経験をして、そうして人は断片を拾い集めるように生きていくのだ。

 それでも、例え分かっている事実であったとしても、彼女から突き付けられると心がずたずたに裂かれたような気がした。関係の認識の齟齬はその関係をいつ壊してもおかしくない罅だ。僕と青との間に、明確な境界が引かれたような錯覚に陥る。錯覚というよりも、それは単なる現実なのかもしれないけれど。

「……そうだな。君の言葉の方が正しいよ。何も特別なことじゃない」

 胸の中に大きな虚が空いたような気がする。あるいは、気が付いていなかっただけでずっと空いていたのかもしれない。

 青との間に出来た沈黙は、いやに息苦しいものであるような気がした。息を出来る場所が、世界から減っていく。その果てに、息が出来なくなった先に、何があるのだろうか。

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