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 講義を終えて昼食を摂ろうと食堂の方へと向かうと、青と久我が話をしている姿を見た。普段はそれだけで特別な何かを思うようなことはなく通り過ぎるはずなのに、どうしても視線は青の表情へと向かう。

 当たり前だけれども、顔は何も変わらない。けれど、表情が違うだけで、人というものはまるで別人に見えるものなんだということを痛感する。久しぶりに見た、あの顔は夜継青のそれではなくて夜継雨のものだった。

 青の性格は明るいものとは言えない。どちらかと言えば厭世的であり、後ろ暗いようなことを言うことも少なくない。ただ、彼女には不思議と陰鬱な空気のようなものが纏わりついてはいなかった。どれだけ厭うべき現実であっても、現実なのだから受け止めるという静かなスタンスを取っている彼女は能動的にネガティブへと足を踏み入れるようなことはしていなかった。

 けれど、夜継雨は違う。落ち着いている、大人びていると言えば良く捉えられるかもしれないけれど、彼女の澄ました表情の中には偏頭痛に襲われている人間のような陰鬱が見え隠れしていて、僕は好きじゃなかった。例えば、彼女が演じるべき人格が今の陰鬱なものではなくてもっと明るい溌剌としたものであれば、僕の気持ちはもう少し晴れたのだろうか。いや、明るさを演じるのは痛ましさを曝け出しているだけだ。いっそのこと、今の方がマシだったのかもしれない。

 僕は今まで彼女の人間関係について詮索をするようなことも、興味を持ったこともない。それは青が中学、高校と電車で通う私立の高校に通うようになったからという物理的な距離の問題もあるけれど、対外的に見せる彼女の表情は夜継雨のものであり、僕には関係のない話だと思っていたからだった。上京をし、両親の目から逃れ、彼女が青として生きることが出来るようになってもその癖は続いていて、気にしようとはしなかった。僕たちの関係は僕たちの中だけで完結をすればいいのだから。

 けれど、いざこうして夜継雨として話をしている彼女を目の当たりにすると耐えがたいものがあった。コルセットを身に着けた中世貴族のような、不自然な痛ましさが存在していて、言うまでもなく好きな人のそんな姿は見たくない。

 仕方のないことだとずっと諦めていた。それでもいつまでも夜継雨として生きる必要はないのだと割り切ることが出来ていたからこそ耐えられている部分があった。けれど、姉の亡霊はいつまでも追いかけて来る。

 いっそのこと、夜継雨としての何もかもを捨て去ってしまえばいいのにと何度思ったことだろうか。しかしそれを言えるだけの安定性が僕にはなかった。中途半端に成長をした僕は何かを思いきれるだけの勇気も、自信を持って自分が責任を持つと言えるだけの力もない。自分が生きることに精いっぱいで、情けないばかりの自分が嫌になる。

 僕の視線に気が付いた青がこちらを見て薄く笑った。昔と同じような状況だと思いながら、話しかけるべきかと考えているとそれを遮るように久我は話を再開した。タイミングひとつ取ってみても、僕と彼女は全くもって折り合いが合わないらしい。

 とはいえ敵愾心のようなものを抱いたところで仕方がない。彼女と僕との因縁には決着がついているのだ。久我がどう思おうと、僕は青の傍に居るし、彼女もそれを望んでいる。これからも何かを言われるかもしれないけれど、僕たちの意志が変わらない以上意味はない。

 食堂に這入り、いつも通り最も安い定食を選ぶ。味は上等なものではないけれど、値段と量から考えればこれ以上のものはない。それに、味のお陰か食堂にはいつもあまり人が入っておらず、落ち着いて食事をすることが出来るのもいつもここで食べている理由だった。

 講義が終われば、バイトがある。今日は確か、コンビニだったか。時間に対して無頓着だけれども、バイトを入れているお陰でなんとか曜日の感覚だけは狂わずにいられている。

 起きて、食べて、講義を受けて、食べて、講義を受けて、バイトへ行って、眠って。殆どがそれの繰り返し。岩の周りを廻る蟾蜍のような生。意味なんてなくて、意義なんて見つからなくて、撃たれた鳥が落ちていくように、ただ重力に従っているだけの生活を続けている。そんな中でも、生きている意味があるのだとすれば青が居るからなのだろう。彼女が居るからこそ、僕は息をすることが出来る。自分の場所を見失わないでいられる。

 健康的ではないだろうけれど生きていくために最低限度必要な栄養を補給して、食事を終えた。無味な生の果てなんていうものは知らない。ただ、目の前の小さな何かに縋り続けるだけ。生きているということは、そういうものだ。

 講義とバイトを熟す。そこに意志なんていうものは介在しない。そうあるべくして作られた機械のように、指定された事柄を終えるだけだ。それは純然たる事実だけれども、同情を引くように悲劇的に言うようなことではない。いつの時代の誰もこんなようなものだ。生の無為に絶望をして虚無主義に傾倒するのは悲観に酔いしれているだけに過ぎない。

 バイトを終え、眠る。起きて、食事を摂り、講義に行き、バイトへ行き、眠る。判を押したように同じ日々が量産されていく。雨が降り、やがて梅雨が始まったことを青から教えて貰う。

 いつも通りの日常が延長していく。けれど、どこか罅のようなものが入ってしまった今、日常は些細なことで崩れることになる。

 それはメールの着信音から始まる。再び問題は不吉に浮かび上がる。

 届いたメールは青からのもので、体調不良により講義に行けないとの旨が簡潔に書かれており今日は講義後に落ち合えないとのことだった。昔から、青は身体があまり強くない。特に気圧が不安定になる影響か、雨の日は優れていないことが多かった。

 何か必要なものはあるかと尋ねてみると頭痛薬との返答を貰ったので帰り道、薬局により頭痛薬を買って青の部屋へと向かった。

「ごめん、わざわざ買ってきてもらって」

 彼女の表情は確かに優れていない、曇ったようなもので見る度に心配になる。たかだか体調不良と言ってしまえばそうなのかもしれないけれど、一度彼女の死を経験してしまっている以上常に失ってしまうかもしれないという不安は頭の隅にこびりついて離れなかった。

「いや、手間じゃないから問題はないけど、大丈夫か?」

「ん、まあいつもの感じ。今日明日には治るんじゃないかな」

「食事は?」

「食べてない」

「お粥くらいなら作れるけど」

「あー、じゃあお願いしようかな。何か食べておかないとずるずる状況を悪化させるだけだもんね」

 彼女はグラスに入れた頭痛薬を飲みながら倦怠を逃がすようにソファに深く腰掛ける。

「ごめん、よろしくお願いします」

「了解です」

 僕の惨憺たる冷蔵庫とは対照的に彼女の冷蔵庫にはしっかりと食材が収められていた。当然、お粥を作れるだけの最低限のものもある。

 特別凝ったような調理をすることは出来ないけれど、栄養を摂るためのものとしては十分なものを作り、持って行く。

「ありがとう」と言って彼女は身体を起こし、スプーンでゆっくりとお粥を頬張り始める。苦痛は共有出来ない。彼女の体調不良がどれほどのものかということは分からないけれど、それでも食事をすることが出来るくらいの体力はあって良かったと思う。

 今までの彼女の体調が優れなかった時には彼女の両親が傍に居て僕が近寄るようなことはなかった。だから、こうして彼女の弱った部分に立ち会うのは殆ど初めてのことだったが、考えていたよりも酷くはなくて安心をした。勿論、やつれていることには違いがないけれどいつもの青と大きな違いのようなものは見えない。

 持っていた文庫本を読みながら食べ終えるのを待っていると少しした後でかちゃりという食器が置かれる音がして食べ終えられたことが分かった。

「お粗末さまでした。美味しかったよ」

「そんな立派なものじゃないけどな」

「こういうものは他人に作って貰ったっていうだけで価値があるし美味しく感じるものなんですよ」

 そういうものなのだろうか。誰かに看病をされた記憶がないのであまり実感は湧かないけれど、美味しかったのであればそれ以上のことはない。

「じゃあ、そろそろ帰るから」

「あー、うん。分かった」

「何かまだやって欲しいこととかあった?」

「いや、そういうのはないけど、なんでもない」

「また何かあったら連絡してくれよ。僕に出来る範囲でするからさ」

「分かった。ありがとね」

 彼女の力になれることは嬉しいことなのだけれども、わざわざ口にするのも妙な気がして結局取りやめた。彼女が使った食器を洗ってから僕は部屋を出る。

 いつもであれば何かをするか、あるいは何かをしないかして青と共に時間を潰しているけれど、それがなくなったため時間は空虚に存在していた。とはいえ、その空虚を埋めるような目的があるわけでもなく、僕は部屋へと戻り読書をする。

 カポーティの短編を読みながら、ベルモットを飲み微睡を誘う。けれど、多くの願いがそうであるように、眠りもまた欲している時に限って都合よく訪れてくれることはない。キリの良いところまで読んだところで煙草を吸い、ベルモットを二杯飲んでからベッドに横になって目を瞑る。

 彼女の体調不良に対して心配をしていないわけではないけれど、その心配はごく当たり前の範疇のものであり、大袈裟な心配をしているわけではない。ただ、それとは別の妙な不安が頭を過っていたのは確かだった。その妙な不安がどのようなものかは、説明をすることが出来ずに、だからこそその不安は大きくなっていく。

 きっと、梅雨のせいだろう。雨は嫌いではないけれど、仄暗い空が続けば気分が塞がることは確かだったし、何より梅雨には良い思い出がない。あの頃、彼女が姿を見せなくなったのもこの時期なのだから。

 黒々とした良くない考えを払うようにして、意識と無意識の境について考える。自分はいつ眠りにつくのか。眠る瞬間を意識することは果たして出来るのか。幼い頃から眠れない夜に考える僕のルーティンのようなものだった。言うまでもなく、意識は気付かぬうちに無意識の中に埋没していて、観測をすることなんて出来やしない。この日も例外ではなく、いつの間にか僕は眠りの中へと沈んでいた。

 翌日になって、またいつも通りのイレギュラーの存在しない日常が始まる。昨日ざっと確認をした感じからするに青の家には喫緊で必要な物は揃っていたし、メールも特には来ていない。僕は僕でいつも通りの日々を消化するだけだ。

 心理学の講義を受けていると、教授が成長についての話をしていた。人は絶えず外界から影響を受け、自省をし、死ぬまで成長を続ける。その話を聞いて思い出したのは、中学と高校が同じだった箕作さんのことだった。

 中学で同じクラスになった時、彼女は孤独だった。ただ、それは周囲から疎んじられての孤立というよりは自ら選んだ孤高というようなものに近くて、教室の隅に独りで居る彼女にはある種の美しさがあったように見えた。

 彼女は美術部に所属していて、絵画を描き続けていた。文化祭の度に出し物として飾られる彼女の絵画を僕は何度か目にしたことがあるけれど、それはただ何かを模写した、中学生によくある絵画というよりは一種の痛切な叫びのように思えた。それがきっと、彼女が孤独の中で育み続けたものだったのだろう。

 三年間、孤独を抱えたままで彼女は高校へと上がり、僕と同じ高校に進学をした。僕たちが住んでいた場所の周辺には高校があまりなく、地元から出ないことを選択したものにとって選択肢はかなり限られていたのだ。ゆえに、少なくない同級生が同じ高校へと進み、箕作さんもまたその一人だった。

 ただ、意識をしたのは同じ中学の人間で固まって高校へと願書を出しに行った時だけで、僕はそれから暫く彼女が同じ高校に居るということを完全に忘れていた。同級生の名前を同じクラスに属していた当時ですらも殆ど覚えていなかったほどに、他者に対しての感心がなかったのだ。それも当然のことだったと言える。

 彼女が同じ高校に進んでいることを思い出したのは、というよりも目の当たりにしたのは再び文化祭の時だった。けれど、今回は飾られた絵画によってではない。裏庭から聞こえて来たバンドミュージックからだった。

 僕の高校だと文化祭の日は図書室が閉鎖されていて入ることが出来ない。それゆえに本を読んで時間を潰すとすれば空き教室になるわけだけれども、空いている教室は裏庭に面したものしかなかった。時折思い出したかのように演劇が行われるけれど、大抵そちらから聞こえてくるのは軽音楽部による曲名の知らない流行りのJ-POPの演奏だった。

 バンドらしいことを真似ている彼らは演奏の途中で簡単な自己紹介のようなことをするのだけれども、その中で「箕作結実」という名前が聞こえた。ああ、そうだ。彼女の下の名前は結実だった。

 僕はここでそう言えば、彼女も同じ高校に来ているんだということを思い出して窓から裏庭にあるステージを見下ろした。スリーピースバンドがそこには居て、つまるところ三人しか舞台には見えなかったわけだけれども、僕にはどれだ箕作結実なのか、暫く観察するまで分からなかった。

 彼女は変わっていた。髪を染め、楽し気に笑いながら演奏をする姿。それが、悪いものだというつもりはない。ただ、中学の頃の彼女を知っている僕からすればその変化は衝撃だった。独りを好んでいたような彼女が大衆に迎合するような姿になったことが。

 世界との折り合いをつけて、我を抑え込み周囲に同調する。それは賢い生き方なのかもしれないけれど、肯定だけされるような生き方でもないと思ってしまうのだ。きっと、高校生になりスリーピースバンドを組んでいる箕作結実に中学生だった頃の絵画を描くことは出来ない。

 成長とは何かを捨てて何かを得ることなのだろう。それは時の経過を表すだけの言葉で必ずしも良いものだとは限らないのだ。

 ふと、僕と青は何が変わったのだろうかと思う。僕たちは何を捨てて、何を得たのだろうか。考えても明確な変化は浮かばずに思考は断ち切れる。何も変わっていない。最初から完成をしていたような関係においてそれはこれ以上ないことなのかもしれないけれど、それが理想論であることは分かっている。どんなものであれ、経年による変化には耐えられない。せめて願うのはそれが劣化ではないことばかりだ。

 チャイムが鳴って、講義が終わる。思索に沈んでいたせいで講義がどこまで進んだのかは分からないけれど、どうせまともに聞いていたところで頭には入ってこなかったのだろうからあまり変わらないか。

 次の講義へ向かう準備をする。煙草を吸うだけの時間はない。倦怠を引き摺りながら、校舎間を移動する。階段を降りて、昇っての繰り返し。その果てにあるのは命を浪費するような講義。神話的な罰のようだと思う。シーシュポスのような、無為を積み重ねるだけの繰り返し。問題はシステムではなくて僕自身にあるというところがどうしようもない部分なんだけどさ。

 教室を移動している最中に、久我夏目を見かけた。青が共に居るわけでもないのに彼女の存在に気が付いたのは、やはり嫌でもあの時言われたことが引っかかり続けていたからなのだろう。

 誰と話すわけでもなくむしろ人を厭うように歩いて行く彼女の姿はどこか中学生の頃の箕作さんに似ているような気がした。ある種の脆い美しさのようなものを気高く持った、世界に対する毅然とした態度。彼女とどうしても反りが合わないことは確かだけれども彼女のその生き方自体は尊敬出来るものだと思う。

 ふと、視線に気が付いたのは久我と目が合う。彼女は嫌なものでも見たように、あるいは大切な人間の仇でも見るように僕の方を見て、それから再び歩き始める。彼女の感情は、僕が青と離れずに居るままであることが理由なのか、それとも青が大学に来ていないことが原因なのか。前者に関しては甘んじて受け入れるけれど、後者に関しては僕でもどうしようもないのだ、僕に責任を求められても困る。

 唾を吐くようにして久我は僕から目を逸らすと再び彼女の目的地へと歩き始めた。話すようなこともないし、話すような仲でもない。これが正解なのだろう。僕も僕の目的地へと向かって歩いて行く。

 青の状態は良くならなかった。重症というほどではないけれど、慢性的な不調が続く。病院では偏頭痛用の痛み止めの薬を貰うだけで、抜本的な改善にはならない。一度大学に来たこともあったけれど、顔色があまりにも悪かったので講義を休んで送り返したこともあった。

 頭痛や倦怠以上の症状を訴えることがないことがまだ救いだったけれど、それでも不安は膨らんでいく。僕に出来ることなんてないことは分かっているけれど、それでも少しでも長く彼女に時間を割くことが出来るように努力をした。そうして一週間ほど経った頃だった。再び久我と話すことになったのは。

 意外にもそれは大学の中でではなくて青の部屋へと向かう途中の道でのことだった。いつものように、簡単に必要なものを買って向かうと「ねえ」と声をかけられる。声というのは不思議なもので、あまり聞き慣れていない声であったとしてもそれが自分を指して言っているものだということは直感することが出来た。

 振り返った先に居たのは久我だった。声の時点で気が付いていたのか、あるいは振り向いてようやく気が付いたのかは自分でもよく分からない。

「あんた、夜継の部屋に行くつもり?」

「そっちこそどうしてこんなところに居るんだ」

「私の質問に答えて」

 詰問するかのような語調で彼女は僕の質問を無視して質問を重ねる。いや、するかのように、というよりそれは実際に詰問だったのだろう。彼女の目には天気を訪ねるようななんとなしのものではない、ハッキリとした意志が見えた。

「そうだよ」と頷く。ここで嘘を吐いたところでしょうがないし、そもそも疚しいことでもないのだ。嘘を吐く意味がない。

「それで君はどうしてここに居るんだ?」

「私は、あの子に部屋の場所を聞いたから。今まで殆ど休むことなんてなかったのに急に休んだら心配もするでしょ」

「去年も同じようなことはなかったのか?」

「二、三日休むことはあってもここまでは有り得ない」

 ここまで休むというようなことは確かに今までもなかったものだから、安直に大学という場所へと環境が変化したことによるストレスだろうかとも思ったけれどそういうわけでもないらしい。病院で検査をした以上、大丈夫だとは思いたいけれど病という単語が頭から離れない。もしも、彼女が今命に係わるような病に罹患しているとすれば。

 一人、そのようなことを思案していると久我は僕のその様子に苛立ったように口を開く。

「あんたさ、私が前に言った言葉覚えてるよね」

「僕が負担をかけている、というようなことだろ。覚えてるよ」

「それでも、あんたは何も変える気がないんだね」

「そうだな、変える気はない」

 それは僕の望みと青の言葉によって決定された意志ではあったけれど、何よりも重要な要素として久我の言葉があまりにも足りていないものであるということもあった。

 僕があの言葉を聞いて動揺をしたのは確かだ。けれど、今になって俯瞰をしてみれば彼女の言葉はあまりにも茫洋としていて、信用をして身を委ねるにしては頼りないものであるからという理由でもあった。

「なあ、負担をかけていると言ったけれど、それがどういうことなのかを教えてくれないか。君の言葉が真実だとして、それを知らない限りにおいては改善のしようもない」

 そう言うと久我は一瞬力の籠った目で僕のことを見た後で深く、疲れたようなため息を吐いた。

「あんたのそういうところが嫌いだ」

「そういうところ?」

「あの子のためなら簡単に私にも踏み込むところ」

「是が非でも話をしたくないという風に嫌えるほど僕は君のことを知らないし、仮にそういう感情を持っていたとしてもそうするしか方法がないなら縋るべきだろ。それに、君からしても離れさせることが不可能になったのであれば無理にその方面からアプローチをするんじゃなくて他の改善策を提示した方がいいんじゃないか」

 僕と青が共に居るという事象自体が問題だと言われればどうしようもないけれど、彼女が問題としていたのは僕が青に負担をかけているということだ。ならば、離れさせるという極端なやり方をせずともその負担が何かということを教えてくれればそれで問題は解決するはずだ。僕にはそれを直そうという意志があるのだから。

 しかし久我は諦観したような目線を僕に差し向けた。それだけでも、彼女の答えは明白なものだった。

「例えば、身体の中に病巣が出来たとする。それは小さな段階で気付いて切除をすることが出来ていれば問題なんてなかったのかもしれないけれど、既に大きくなってしまっていて切除をしようとすると内臓を傷付け命に係わることになる。こういう場合に正しいのって、命の危険を冒してでも長く生きて欲しいと望んで切除をすることなのか、それとも緩やかで安定した死に向かわせることなのか。どっちなんだろうね」

「その大きくなった病巣が僕だと?」

「あるいは」

 病巣に喩えられて覚えたのは不快な感覚ではなくて、僕が思ったのはどうしてそのようなメタファーを用いたのかということだった。単に詰るためなのか、それとも僕には見えていない側面から見れば彼女の比喩は的確なものになるのか。

 久我は青の過去をどれほどまで知っているのだろうか。彼女のことは雨と呼んでいたのだ、別の人間として生きざるを得なくなったというグロテスクであり、そして今の彼女の核を為している事実については知らないのだろう。では、それ以外のことは? 僕との関係。夜継家の歪んだ環境。どこまで知ったうえで彼女は僕のことを責め立てているのだろうか。

 そもそも、と僕は考える。どうして久我はここまでの行動を起こすのだろうか。他人を拒絶して、嫌われるなんていう役回りを望んでやりたいと思う人間は居ない。それが他人のための行為であれば尚更に。

 彼女の行動原理はどこにあるのだろうか。妄執めいた僕への憎悪はどこを端に発したものなのだろうか。あるいは、ただの友人でさえ看過が出来ないほどに残酷な行いを僕はしてしまっているのだろうか。

「改善のしよう、ってあんたは言ったけどさ、私はそういうものはないと思ってる」

「……さっきから結局、具体的な言葉が出されていないけど、僕の何が負担なんだ」

「前も言ったでしょ。あんたと一緒に居る時のあの子は辛そうなんだよ。だから、私はこうやってあんたを呼び止めたんだ。病人が休んでるのに更に無理をさせるなんて最悪だろ」

「辛そうっていうのは、君と一緒に居る時と性格が変わるからっていうことか?」

「……へえ、気付いてたんだ」

 久我は意外そうな表情をする。それは言外にどうせ僕には青のことを理解出来ていないとでも言われているようで苛立ちが募る。

「そうだよ。夜継があの性格の振りをする時はいつも無理をしているように見える。特にあんたが一緒に居る時は顕著にね。そりゃ当たり前だよ、誰だってあんな他人を演じるように性格を変えれば疲れるに決まってる」

「逆だって考えたことはないのか」

「逆?」

「君の前に居る時の彼女の性格こそが演じられたものであるという可能性」

「あんな暗い性格演じて何になるのさ」

 確かにあのような性格を演じることに得らしいものはないのかもしれない。ただ、あの性格をしていた夜継雨という人格を演じることに、意味があったのだ。そのために彼女は夜継青という自らの人格を捨てたのだ。

 そういう言葉が出かけて、やめた。これ以上を話せば必然的に姉の死について、そしてそうして始まった彼女の作られた人格についての話をしなければならない。仮に青が久我夏目という人物にそれを打ち明けてもいいと思えていたとしても、それを言うべきなのは僕の口ではなく青自身の口でだ。しかし、そうなると僕が言える言葉は既になくて肯定も否定もせずに居ることしか出来ない。

 そして大抵の場合において沈黙は肯定と受け取られる。久我もそう思ったのか、嘲るような笑いを浮かべた。

「あんたの方が長く夜継のことを知ってるし、あんたの方が近くで夜継のことを見て来たんだろうね。でも、必ずしもよりよく見えた方が正しい答えではないっていうことを知っておくべきだ。私が見えている彼女は、あんたからすれば僅かな一側面に過ぎないのかもしれないけど、でも確かに現実に存在している側面であることに違いはないんだから。それを否定する権利はない」

 だから、あんたは夜継に近寄るべきじゃない、と吐き捨てるようにして言葉は締めくくられる。

 僕は逡巡をした後で諦めることにした。久我の意志は強く、そして全く別のものを見ている僕たちの議論に果てはない。平行した線のようなものだ、どれだけ続けても交わることはない。だったら、いつまでも果てのない不毛な争いをするよりは一歩退いておいた方がいいだろうと考えたのだ。

 久我の言葉はそのまま彼女に返ることになる。もしも久我が行けば、青は雨を演じることになり、病気の人間に無理を強いることになる。ただ、久我は必要以上に踏み込んだことをするようには思えないし、雨の性格は消極的なものだ。演じることそれ自体は疲れるだろうけれど、それ以上に疲れるようなことを要求することはないだろう。

「分かったよ、見舞いに行くのはやめる。ただ、それなら代わりにこれを持って行ってくれないか。最低限必要なものを買っておいたから」

 そう言って持っていたコンビニ袋を渡すと久我は複雑そうな顔をした。彼女がどうしてそのような感情を持つようになったのかは分からないけれど、彼女の行動原理は僕と同じで青のためのものだ。ゆえに、反目している僕から青のことを慮るようなものを渡されてアンビバレンスな状態へと立たされているのだろう。

「分かった」とだけ言って久我はぶっきらぼうに僕の手からコンビニ袋を奪い取り、それから青の部屋の方向へと歩いて行った。ここまで来ている時点で察しては居たけれど、青は本当に彼女に部屋の場所を教えたらしい。

 ただの友人関係を築くならまだしも、部屋の場所を教えるほどにまで青は久我夏目に胸襟を開いているのか。雨としての付き合いを続けながら、それでも信頼をすることが出来る人物ということだろうか。それとも、執拗に聞かれたがために断ることが出来なかったという可能性は――。

 ……まさか、違うだろう。物事を悪い方向に考えるのは僕の悪い癖だ。僕は身を翻して駅の方へと歩き始める。この後に出来た空虚なる時間をどうやって埋めるのかを考えながら。

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