3
夜継青は死んでいる。
夜継青は生きている。
これらの事実は互いを損傷することはなく、毅然と、この世界に存在している。レトリックではなく、勿体ぶった戯言でもない。夜継青は死んだということになっている。けれど、夜継青は今でも生きている。ただ、それだけの話なのだ。
少し、昔の話をしようと思う。あの時のことを二十歳の僕が「少し昔」と表現するのは、奇妙なことだという人もいるかもしれない。一定以上の年齢を過ぎた人間にとって十年以上前の出来事は確かに少し昔の出来事かもしれないけれど、二十歳の人間にとって十年以上前となれば今までの人生の半分は過去に遡ることになる。それでも、今の僕にとってあの出来事は少し昔と表現するような位置に属していた。それが時間の感覚が曖昧であるという僕の欠陥がゆえなのか、あるいはあの時の記憶が嫌でも忘れることが出来ないような鮮烈さを持っているからなのかは分からないけれど。
七歳の頃。僕が手にした境遇について、なんと言うべきなのか当時は分からなかったけれど、今となってはそれに対して適した名前を与えることが出来る。孤独。それが、あの時から呪いのように僕に纏わりついているものの名前だった。
僕が意識というものを明確に持ち始める頃には既に父と母の仲は良いものではなかった。その理由が何なのかは今でも分からないし、分かりたいとも思わない。ただ、ぼやけた記憶をかき集めて唯一断言をすることが出来るのは、彼と彼女は結婚をするべきではなかったのだろう。彼らに存在している欠陥は人間として持っているべきである範疇のものだった。けれど、不協和音のようなものだったのだ。それぞれに罪はないが、重なった途端に酷い音を生み出す。それは極めて不快なもので、当然当人たちが耐えられるものではなかった。
そうなるべきだったとでも言うように、彼らは離婚をした。それが、僕が七歳の時のことだった。手切れ金とでもいうようにあらゆるものを置いて出て行った父のことは、苛立った時に小指の爪を噛む癖があったということしか覚えていない。
そうして一人分広くなったあの部屋が、僕は心底嫌いだった。憂鬱と倦怠と紫煙が常に立ち込めているような淀んだ空気をやり過ごす術を七歳の子供が知っているはずもなくて、食事をする時と眠る時以外は部屋に帰らなかったことを覚えている。殆どの時間を目の届く範囲に居ない子供に対して、母親は心配をするようなことはなかった。彼女はしがらみから解放された自由に浸っていたし、ある時期からは男を連れ込むようにもなった(僕はそれを散乱していたビールの空き缶と匂いで知った)。僕が居なかったことは、彼女にとってむしろ都合のいいことだったのだろう。
幸いと言えばいいのか、僕が住んでいた場所には自然が多かった。有り体に言ってしまえば田舎と区分されるような地域であり、子供が一切の物を持たずとも時間を潰すには十分すぎるような、そういう場所だったのだ。
昆虫を捕まえたり、魚を釣るようなことはせずに、僕はただ歩いた。巡礼をする者のように山や畦道を見境なく、時には座りぼうっと空を眺めながら歩き続けた。
今から考えてみれば、どうしてあんなことをしていたのかは分からない。歩くのが好きだったという覚えもないし、風景も感動をするほど美しいものがあったようには思えない。しかし、それでも推察をするのであれば、あれがあの頃の僕に出来た最大限のフラストレーションの発散だったのだろう。意味もなく、意義もなく、何かを考えることすらも放棄してただひたすらに脚が軋むまで歩く。果てしない徒労は、だからこそあの頃の僕に必要なものだったのかもしれない。
名称すらない、荒れ果てた山があった。僕はそこが好きだった。人工物の一切存在しないそこには人特有のべたついた空気というようなものがなくて、酷く安心をすることが出来た。親の諍いを眺め続けていた僕にとって、他人とは他人に過ぎず、理解をすることの出来ない、信頼の置けない異物に過ぎなかったのだ。
七歳の半ばから八歳になるほどまでの半年間。僕は地図を埋める探検家のように少しずつ山の全貌を把握していった。勿論、完全に山をわが物のように扱えるほどの記憶力は僕にはなかったけれど、それでも迷ったとしてなんとなく入口の道路へと辿り着けるほどにはなっていたと思う。僕の小さな世界に革命をもたらしたとも言える大冒険は、しかし今の年齢から見てみれば大したものでもないのだろう。きっと、もう一度あの山に登ろうと思えば一日もかからずにぐるりと巡ることは出来るのだろう。けれど、当時の僕にとってあの冒険はあまりにも大きなものだったし、今でもそのようなものだと思っている。
そうして山を廻って暫くが経った時。僕はそれを見つけた。一切恣意的なものが存在しないと思われていた世界を壊す、小さな世界を。
それは、バスだった。既に使われなくなり、投棄されたのだろう。外装は錆びれていて元々は何色をしていたのかすらも分からなくなっている。ここから動かないという意思を示すようにタイヤはパンクをしていて、生物であればそれが亡骸と言われるような状態であることは確かだった。けれど、窓ガラスはひとつでさえも割れておらず、錆やパンクしたタイヤも元からそうなるべきであったかのように見えてくる。
恐る恐る近付き、ドアを押す。ぎい、という人生に疲弊したものが吐く溜め息のような音を立ててドアは開く。そうして、僕はゆっくりとバスの中へ足を踏み入れた。
中は誰かが管理をしているのではないかと思うほどに、美しく保たれていた。勿論、時の流れによる劣化を感じはするけれどそれ以外に目立った損傷は見えない。葉や虫も多少は入り込んでいるけれどそれらの巣窟となっているというようなこともない。山の中に出来た空洞のように、そこだけには外と隔絶された新しい世界が出来上がっていた。
あらゆるものから見棄てられたようなその場所は、僕に親近感を覚えさせた。あの窮屈で陰気な家よりも、こここそが僕の居るべき場所なのだろうと、直感的に思いさえした。
何があるというわけでもない。ただ、廃れたバスがあるだけで他には何もない。それでも、僕はその日からそのバスへと通うようになった。何かをするわけでもなく、ただ腰を落ち着けるための場所として。あそこは、僕が孤独に耐えるためのシェルターだったのだろう。絶えず蝕み続ける孤独を凌ぐための空間。
しかし、虚しい調和は終わりを告げることになる。季節のような来訪者によって。
その日、僕は初夏の暑さから逃れるように、日に当たらない座席に座り眠っていた。座ったままの姿勢で眠るというのは睡眠の質からして好ましくないことなのかもしれないけれど、あの部屋で眠るよりはずっと気が楽だったのだ。
瞼の裏をぼんやりとした明かりが照らした。意識が暗闇の中から引き揚げられ、微睡から這い上がって来る。目を開け、世界が輪郭を伴ってくると明らかに居るべきではないものが視界の中に映った。
そこには、少女が居た。
意識は白濁としたところから一気に覚醒し、世界を鮮明に認識する。けれど、彼女は夢でも幻覚でもなく確かにそこに存在していて、僕は声をあげたつもりになったけれどある一定以上の閾値を超えた感情は声にすらならないものだ。結局口すらも開けることはないままで恐怖と敵意を抱いたまま僕は彼女のことを見る。
少女もまた、僕のことを見ていた。虚のような暗闇の中に少しの光が見える、黒猫のような不思議な瞳だった。僕が抱いているような敵意は感じず、けれど他の何かの感情を読み取ることも出来ない。静かに僕のことを見続けるその視線のせいで、敵意はしぼんでいきやがて霧消する。
「誰」
「夜継青」
よつぎあお。彼女は極めて端的にその五音を口にした。その答えは誰、という問いに対して十分であるとともに不十分なものでもあった。僕が聞きたいのは、名前が何かということではなくてどういう人間なのかということなのに。
しかし、僕の疑問は置き去られたままで彼女は口を開く。
「君は?」
「芥生志貴」
「志貴は、いつからここに居るの?」
「朝からだけど」
いつから、という問いかけが何を表しているのかが分からず、今日のいつからと解釈をして答えると彼女は「そういうことじゃなくて」と訂正をする。
「いつからこのバスに居るようになったの」
「……梅雨の前くらいからだと思うけど」
「そう」
彼女は一人納得をしたように頷いたけれど、当然僕は彼女が何を納得したのかなんて知る由もない。けれど、それを冷静に問い質せるほどその時の僕は冷静ではなくて、ただ彼女に気圧されるままで彼女の顔をじっと見つめていた。
「どうして君はここに居るの?」と彼女は聞いた。
「友達は?」
その質問は僕にとって苦痛に思えるほど退屈なものだった。友達は居るべきだ。居た方が健全な生き方をしている。そういう風な常識の押し付けを幼さゆえの繊細さは機敏に感じ取っていて、酷く不快に思っていた。
人間を厭う僕にとって、友達というものは極めて猥雑で邪魔な存在だった。そんな奴らを関わるだけの時間があるのであれば、バスの中で孤独を育んだ方がよっぽど有意義だと、当時の僕は本気で思い込んでいたのだ。だから僕は彼女の質問に対して「居ないけど」と敵意を持って返す。
けれど、彼女は僕の敵意を受け止めるようなことはせずに、ただ乾いた笑みを浮かべて「じゃあ私と一緒だ」と言った。
「私もたまにこの場所に来ているの、君が来るよりも前から。この場所は誰も居ないから、落ち着く」
孤独を貫きながらも、孤独というものはいけないものなのではないかという一種の後ろめたさを感じている僕にとって、孤独をいともあっさりと吐露した彼女の言葉の響きはひどく新鮮なものに感じた。彼女には、僕にはない強さがあったのだ。彼女の強さは今まで受けて来た傷の多さを裏付けるもので誇れるようなものではなかったわけだけれども、何も知らない僕は純粋に彼女に憧れた。
「邪魔をするつもりはなかったんだ、ごめんね。でも、君がどう思っているかは分からないけど私にとってこの場所は大切な場所だから、居させてもらえると嬉しいな」
ここは僕の所有している場所というわけでもないし、否定をする権利なんてあるはずもなくて僕は小さく頷いた。けれど、仮にここが僕の所有している個人的な空間だったとしても、僕は彼女が居ることを許していただろう。彼女の言葉の裏には脆く美しい色が見えて、否定をしてしまえば崩れてしまうような気配がしたのだから。
彼女は僕の頷いたのを見てから僕が座っているひとつ前の座席に腰を下ろした。何をしているのかと覗いてみると、静かに小説を読んでいる。当時の僕からしてみれば小説というものは大人が読むものであり、子供には遠い存在のように考えていたから驚いたことを覚えている。
それが、夜継青との出会いだった。
青は頻繁にバスを訪れるというわけではなかったけれど、僕の方が毎日のように訪れていたため出会わずにすれ違うというようなことはなかった。彼女はいつも僕より少し遅れてバスに訪れて僕の前の席に座り、数冊の文庫本を自分の隣の席に置くとそのうちの一冊を読み始める。今まで静寂しかなかったバスの中に、彼女が来てからは頁を捲る音が心地よく響いて、僕はそれが好きだった。
何をきっかけに話すようになったのかを、僕はもう覚えていない。僕から話しかけたのか、彼女から話しかけたのか。ただ確かなことはある時から僕たちはバスの中で話すようになり、孤独を分かち合っていたことだ。それはシェルターの中で爆撃から隠れながら祈りを紡ぐような行為に似ていた。
話をするうちに、僕たちは自然と、互いの境遇について話をすることがあった。ただし、それは安っぽい同情を誘うためというよりは監察医が死体を解剖するような必要で必然的なことのようなものだった。互いに簡単には曝け出せるような過去を持っていないからこそ、そして相手にも似たような何かがあるということを感じ取っていたからこそ、話すべきだと思ったのだ。
青には双子の姉が居た。そして、それこそが彼女を孤独にした原因だった。
閉鎖的な地方において、名のある家というのは存在する。夜継の家はまさにそのような家だった。そして、少なくない名のある家がそうであるように、彼女たちの両親もまた子供に期待をした。いや、期待という受動的な言い方は正しくないのだろう。家名に相応しい人間であるように、娘たちに強要をしたのだ。
外見に全くといっていいほどの違いはない姉妹だったけれど、才能という面において姉は妹を圧倒していた。勿論、才能なんていう言葉はあまりにも乱雑な括り方をする暴力的な物差しで、そして小学校にも入学をしたばかりの青の何を判断したのだろうと今でも思う。ただ、恐らく青がある程度の成績を残したところで彼女の境遇は変わらなかったのだろう。それほどに、彼女の姉には才能があったらしい。
姉ばかりが期待をされ、両親からの愛を受けるうちに彼女は自分に期待をすることを辞めた。そうして努力を放棄し、凡人へと変わっていく彼女に対して両親の態度は更に冷たくなっていった。しかし、彼女からしてみればそれはむしろ都合がいいことだったらしい。彼女もまた、自分には超えることの出来ない相手と比べられ続けることに疲れていたし、自分への失望と同じほどに両親への失望も感じていたのだから。
そこからは、僕の状況に似ていた。隙を見つけては外を歩き、そうしてこのバスを見つけた。彼女もまた、惹かれるようにこの場所に来るようになったと言っていて、誘蛾灯に蛾が集まるように、ある種の人間を惹きつける魔力のようなものがこのバスにはあるのかもしれないと思ったことを覚えている。
僕も彼女も、互いの境遇に対して同情をするようなことはなかった。それが意味のないことだということを、互いに知っていたからだ。だから、事実を報告し合った以上のことを僕は知ろうと思わなかったし、彼女も同じだった。
本を読む癖がついたのは、この頃からだ。彼女が持ってきていた本を読ませて貰ったことがきっかけで、最初に読んだ小説はサン=テグジュペリの星の王子様だったが、挿絵として挟まれていた帽子に収まったゾウ以外の内容はあまり覚えていない。当時の僕からすれば、というより八歳の子供からすれば彼女が読んでいる本は難しいものが多かった。それでも小説を読んだのは彼女に追いつきたかったからなのだろう。内容は分からずともただひたすらに読んでいたことを思い出す。
近い場所に住んでいたため、たまにバス以外の場所で彼女を見かけることはあった。大抵の場合、それは気取った恰好をした両親に姉とともに連れられていて、これが精いっぱいの抵抗というように極めて退屈そうな顔をしていた。ただ、僕と目が合うと薄く笑い、二人だけにしか分からないような暗号を目線で交わし合っていた。姉は彼女から聞いていた通り、彼女と全くといってよいほど同じ顔をしていたけれど、それでも僕にとって彼女と姉は全く別の存在であり、見間違えるようなことは一度たりともなかった。
けれど、僕たちの世界はそういう例外の除いてあの廃バスの中だけで完結していた。あそこだけが、僕たちにとって自由に息をすることが出来る場所だったのだ。
初めて手を繋いだのは、冬の日だった。バスの設備は当然のように停止をしていたけれど、ドアを閉め切りさえすれば僅かながら車内は二人分の体温によって温められ、僕たちが座っている近くの窓が結露により外の景色を白くぼやけさせるような、そういう季節。彼女は柔らかい生地のマフラーをしていて、それをひざ掛け代わりに使っていた。
「ねえ、寒いから隣に座ってもいい?」と彼女は言った。断る理由もなかった僕は頷いて、少し窓の方に詰めて座った。僕にとって彼女は隣に座られても個人的な領域を侵されているような感じのしないような人になっていたのだ。
彼女は腕が擦れ合うような距離で僕の隣に座り、マフラーを僕の膝にもかけた。そこで初めて、僕は彼女が自分の近くに座ることを意識して、認識して、鼓動が高鳴ったことを覚えている。冬によって可視化した息は早まっていることを如実に表していて、急いで息を殺したことも。
冬の、殆ど外とも言って良いような場所で本を読んでいると指が冷たくなってくる。僕は気を紛らわせるように温度と感覚を失いかけている指を握り、掌で温めていると彼女は「寒いね」と呟いた。
「何もない場所だから仕方ないけど、やっぱりここは寒いや」
「青は前の冬もここに居たの?」
「ううん、私がここを見つけたのは春。志貴よりもほんの少し前のことだよ。だからこんなに寒い冬は初めて」
慣れたような所作から彼女はここに住み続けていたのではないかとさえ思っていたけれど、どうやら彼女がこのバスを見つけたのは僕の少し前のことだったらしい。些細なことだけれども、彼女が僕と近い存在であることを知る度に、少しだけ嬉しくなった。
「私、寒いのは苦手。志貴は?」
「僕も苦手だよ。好きな人なんているのかな」
「どうだろう。もしかしたら、居るのかもしれない」
各々の家に帰れば、少なくともここよりは温かい場所が待っていただろう。それでも、家の温もりを求めようという選択肢は僕たちの中には当然のように存在しなかった。そうしようと思えるだけの復讐心のようなものが僕たちにはあったし、何より僕の場合はこのバスに居たかった。どれだけ寒くてもいいから、彼女と一緒に居たかった。
そっと、柔らかい何かが手に触れた。僕のそれよりも少しだけ温かい、温度が身体の中に這入って来た。
彼女が僕の手に触れていたのだ。随分と久しぶりに他人の温度を感じた気がして、僕は言いようのない温かいものが胸の内から溢れていることを感じた。科学的に見れば、体温もまた数値化される温度に過ぎないんだろうけれど、人の体温にしかない力というものは確かに存在しているのだろう。そしてその言語化されていないような力学が、僕の何かを決定的に動かしたのだ。
「志貴の手、すごい冷たいね」
「青のだって十分冷たいじゃないか」
「それでも私のよりほんの少しだけ志貴の手の方が冷たいよ」
そう言って、彼女はゆっくりと僕の指と彼女の指を絡めた。その時の僕の感情を言い表すことは出来ない。ただ、膨大な何かが心の中から溢れて、頭がかっと熱くなる。僕は彼女のことが好きなんだということを自覚した。
しかし、僕がその感情を彼女に吐露することはなかった。それは完成をされた現状を壊すことに対する恐れでもあったけれど、言わずともある種の特別な親密さというものを僕たち互いに理解していたからだった。言葉というものは、結局のところ不定形な感情の本質を表すことが出来ない。あらゆるものを一言に、たった数音に押し込めれば本当の気持ちというようなものは必然的に歪むことになる。幼い僕たちには果てのないような時間があったのだ。急くように感情をかたちにする必要もなかった。
冬の廃バスは、言うまでもなく最低の環境だった。けれど、冷たい季節のその多くの時間を僕たちはバスの中で過ごした。彼女はよりバスを訪れるようになり、日が沈むまでの時間に反比例して帰る時間は遅くなっていった。冬が厳しくなるにつれて、それから身を守るように僕たちは身を寄せ合い、シェルターの中に閉じこもった。
「小説を読むことは息継ぎをすることに似ているんだ」と彼女は言った。
「ここは水の中みたいに自由に動くことの出来ない、息をすることの出来ない空間で、だからそこから逃れるために、息をするために小説の世界に入らなければいけない。そんな気がしてるの」
そうして彼女はゆっくりと目を瞑りながら椅子に体重を預けた。
「このバスは小説の中に似てる。私が息を出来る場所」
僕たちのような世界に耐えることの出来ない人間は、自分たちで小さな世界を作り、その中で自分を守ることしか出来ない。彼女にとっての小さな世界にこのバスもなることが出来たのは嬉しかった。僕にとっても同じだったのだから。好きな人と同じ世界を見ているということが分かるほど嬉しいことはない。
冬が終わり、春が訪れる。季節は移ろい、山には緑が増え景色が変わってもバスの中は変わらない。何もない山の深い場所に位置するこのバスを訪れるような人影は見えるはずもなく、二人と数冊の本だけがこのバスの全てだった。
誰にも知られていない大切な秘密を抱えているということは、少しだけ心を楽にしてくれる。誰にも侵されることのないスペースを心の中に作ってくれる。バスの中に居ない時でも僕はバスの空気を、彼女の温度を思い出す度に孤独を紛らわせることが出来た。僕は孤独に慣れていたと思っていたけれど、それでもあの時期を乗り越えることが出来たのは青のお陰なのだろうと今になれば思う。彼女が居たからこそ僕という存在は孤独の中でばらばらになることはなくひとつに繋ぎ止められていたのだ。
雨が降り始める。春の陽光は身を潜め、季節は初夏へと移行していく。僕がバスを訪れてから一年が経ち、彼女と出会ってからももうすぐで一年が経とうとしていた。時間の感覚というものは歳を経るにつれて鈍くなっていくものであり、あらゆるものに感じる幼さは僅かな時間の中にも密度を見出すものだけれどもその感覚の差を差し引いても僕にとってその一年は非常に長く、濃密なものだった。
そうして、五月雨が降りしきる季節。山の道はぬかるみ、傘を持ってバスへと向かうことは困難になり始めると僕はレインコートを着て雨をその身に耐えながらバスへと向かうようになった頃。ある日を境に、夜継青は廃バスへと訪れなくなった。
最初の頃は単なる忙しさがゆえのことだろうと、そう思い込んでいた。去年のこの季節も彼女はここへ殆ど訪れていなかったのだ。何か都合がつかずに顔を見せることが出来ないのだろうと一人で納得をしながら、一人溶けた油絵のように歪んだ風景を車窓越しに眺めていた。
この頃、学校へと向かう道に保護者が立ち、交通整備を行うようになったことを覚えている。多くの小学生がそうであるように、僕は信号のない道で一々厳重に注意をしてくる彼らをただ煩わしく思うだけだったけれど、今から考えれば少しでも引っかかりを覚えていさえすれば良かったのだろうと思う。
けれど、雨が止み、山の緑が映え虫が煩わしいような季節になっても、彼女はバスを訪れなかった。それは、明らかに異質で異常なことだった。
夜継の家がどれほど厳しいのかというような話は何度か青から聞いていた。しかし、それでも彼女はずっとこのバスへと通い続けていたのだ。仮に今までと同じように通うことが不可能になったとしても一度たりとも顔を見せないなんていうことは有り得ない。
最初に浮かんだことは、彼女が僕に愛想を尽かしたのではないかということだった。自分というものに対する期待と信頼のない僕は自分の存在がふと、ある時から彼女の気分を害するようになってしまったのではないかということを危惧した。喧嘩をしたというような、分かりやすい契機はなかった。ただ、それでも僕が気付かないうちに彼女をここへと寄せ付けなくするような失態をしてしまったのではないかと、果てのない煩悶と自省を続けた。
けれど、その考えを違うと否定する。それは単なる意地だったのかもしれないけれど、僕は彼女と過ごした時間を信じた。特別だった、輝いてさえいたあの時間の全てが嘘だとはどうしても思えなかったのだ。
次に浮かんだのは今も彼女は息をすることが出来ているだろうかという心配だった。小説とこのバスの中でしか息をすることが出来ないと言っていた彼女は、一か月もの間息を止めて生きることが出来ているのだろうか。勿論、息をすることが出来ない、という言葉が比喩であることは分かっていた。このバスを訪れることが出来ずとも、彼女の肉体が死ぬようなことはない。それでも、僕は精神が死ぬことの恐ろしさを知っていた。それがどれほど惨いことであるのかを、幼いながらに直感していた。
だから、例えこのバスに訪れることが出来なくても、どうか小説を読むだけの時間があるようにと祈った。僕の見えない、手の届かない場所に居るとしても、彼女が少しでも楽に生きることが出来るようにと。
そうして毎日バスへと通っていたある日。夜継家の人々が外を歩いているのを見かけた。話しかけることは出来ずとも、青を見ることが出来ると僕はせめて近寄ろうとしたけれど、異常を知るのには遠くから見た背姿だけで十分だった。
彼らは三人で歩いていた。両親と、それから一人の娘。そこには今まで居たはずの誰かが一人、欠けていた。
ぞわりと、冷たい、気持ち悪い感触が背を這う。人に説明することの出来ないような、嫌な直感が頭の中をがんがんと揺らす。
夜継家の人々は、出掛ける時は常に四人だった。あるいは僕が見落としていただけで、両親だけという時もあったのかもしれないけれど、少なくとも子供を連れる時にどちらかだけというようなことはなかった。いかに普段は姉の方を優遇していたとしても、名のある家なのだ、世間体というものがある。家の中ならまだしも外でさえも分かりやすく片方を優遇するというようなことはしないようにしていたのだろう。だからこそ、一人だけを連れているというその状況は明らかに異質で異常なものだった。
じっとりとした悪寒から逃げるように、都合の悪い現実から目を逸らすように、僕は彼らに背を向けてバスへと走り出した。走り続けて身体は火照っているはずなのに、季節は既に初夏を迎えているのに、このバスは温かみ不思議な温かみを帯びていたはずなのに、いやに寒いような気がして僕は身体を抱きながら震えた。今までのあらゆることが夢であり、何事もないかのようにふらっと彼女が訪れることを祈りながら。
それでも彼女は訪れなかった。元から夜継青なんていう人間は存在しないとでもいうように。
彼女がどうしてこの場所を訪れないのか。訪れることが出来ないのか。僕の中には黒々とした可能性がずっと頭の中にあった。けれど認めたくなくて目を逸らして、それでも現実が僕の気持ちに関わらず存在していることは分かっていて。夏休みの初日。僕は職員室を訪ねた。この辺りの小学校はひとつしかなくて、彼女が通っているとすればまずこの学校だろうと思ったからだった。
今から考えれば僕たちは学校でも話をするようにしていれば良かったのだ。あの場所こそが僕たちの居場所だというような、妙な思い込みに襲われていた僕たちは学年やクラスを確認し合うようなことはしなかった。どこに所属している誰ではなく、芥生志貴と夜継青という一人の人間として互いと向き合っていた。けれど、そんな拘りに意味はなくて、知ろうとするべきだったのだ。そうすれば、少しでも早く、彼女を支えることが出来たのに。
普段は教師に対して口を利くことが殆どない生徒だったからだろう、新任の女教師はようやく何かの役に立てるとでもいうように意気込みながら「どうしたの?」と用件を尋ねた。
「夜継青はどこのクラスの子ですか」
夜継青、という音を発した途端にその教師の顔は一気に揺れる。それが、答えだった。続く言葉を待たずとも、僕には彼女が何を言うのかを理解することが出来た。
逡巡の後に教師の口から漏らされたのは夜継青は既に事故により他界しているという事実だった。それがどのような言葉で、どのような順序を踏んで僕に知らされたのかは覚えていない。ただ、記憶しているのは情報だけを咀嚼した僕は教師の心配を丁寧に躱して家へと帰ったことだけだった。
それから僕はバスへ行くことを辞めた。彼女が訪れるよりも前から僕はあのバスを使っていて、機能が損なわれたというわけではない。けれど、彼女が訪れることのないあのバスは僕にとって大切な何かが失われてしまっていた。行く意味がなくなってしまったのだ。
僕はバスへと向かうことを辞めて、殆どの時間を図書室で過ごすようになった。バスよりは人が居るけれど、それでもひと気のない空間は存在している。息を継ぐために、僕はひたすらに小説を読み続けた。
夏休みが終わり、葉は落ちて秋が訪れ、そうして冬になる。状況は何も変わらず、ただ本を読み続けるだけの日々が流れていく。命が身体の中から零れ落ちていくような感覚がしたけれど、それを自覚したところで空いた心の穴を塞ぐだけの術も力も僕にはなかった。
十二月の初め。ふと、僕はあのバスのことを思い出した。どうしても拭い去ることの出来なかった青の幻影を追いかけてのことではあるけれど、しかしただ感傷に浸るだけではなくて何かがあそこにはあったような気がしたのだ。
少し立ち止まって考えて、その何かの正体を掴む。僕はあのバスに彼女から借りた本を置いたままだったのだ。忘れたというわけではない。ただ、どうせ家に本を持ってきたとしても読むことは出来ないだろうし、何よりそのようなものを持ち込んで母に何を言われるのかも分からなかったので彼女に借りて読んでいた本はいつもバスに置いて来ていたのだ。
僕がバスに行かなくなった時には既にその本はとっくに読み終えていて、だからこそ完全に意識の外にあった。
再びバスへと向かうことは傷口を掻きむしることと同じだった。既に手に入らない過去を望むことが徒労であることは分かっていて、逃れようのない現実をそうであると受け入れるように過去は過去のままで触れずにおくことが正解なのだと思っていた。しかし、気付いてしまった以上、向かう以外の選択肢がないことも確かだった。あの本は、僕と彼女を繋ぐ最後の証明なのだ。僕の記憶以外にこの世界に何も残していない僕たちの唯一の痕跡。そう思った時には既に家を飛び出していた後だった。
どれほど久しぶりの道でも順路は身体に染みついていて夢遊病者が彷徨うように半ば自動的に僕はバスの方へと足を向ける。恐らく、あれから十年ほどが経った今でもあのバスへは迷うことなく行くことが出来るのだと思う。
真綿で心臓を絞めつけられているような苦しさがあった。本当にこんなことをするべきなのかという懊悩があった。けれど、その答えに行き着くよりも先に身体は既にあのバスの下へと辿り着いていて、深く息を吸う。呼吸を整える。これが現実であるということを再確認して、汗ばんだ手を握る。
おかしくなりそうなくらい頭はずきずきと痛んで手は若干震えていた。息を吐く。吐き気を伴いながら僕は、バスのドアを開けた。
一人きりで向かい合う冬のバスの冷たさは想像していたよりもずっと残酷なもので、気分の悪さは増す。しかし、足を止めるわけにはいかないのだと自分を奮い立たせて僕はいつも僕が座っていた席へと足を向ける。
動機が激しい。視界がちかちかとする。一刻も早くこの場を立ち去るべきであるような気もするし、少しでも長くこの場に居たいような気もする。アンビバレンスな心は不安定なままで僕はその座席へと辿り着いた。
そこには、一人の少女が座っていて、僕の置いて行った本を読んでいた。読書に集中していたのか、僕がバスへと這入って来たことに気付いていなかった彼女は面を上げて、そして僕の顔を見る。
「青」
それはもうこの世界に存在しないはずの少女の名前だった。それは自分で声をあげたということに気付かないほどの無意識的な呟きだった。走ってきたのか、上気したような顔色をしていて白い息を吐いている。
「なんで、青が――」
幻覚なのではないかと疑い、駆け寄るように彼女の手に触れる。冷たい、けれど確かに温度を持ったその手は幽霊のように透けることもなく僕の指と触れ合う。そこに居たのは間違いなく夜継青だった。
嗚咽が聞こえる。生温かいものが頬を伝う。涙を流したのは、いつ以来のことだっただろうか。少なくとも意識的に涙を流したのは初めてのことだったような気がした。
そっと、彼女の手が僕の身体に触れる。互いの存在を確かめ合うように優しく、抱き合う。「青」という名前を僕が漏らす度に、彼女の手には少しだけ力が入る。
どうして、という疑問に対して彼女は逡巡するように沈黙を噛み締めた後でゆっくりと、世界の秘密を漏らすような口ぶりでどす黒い現実について語った。
事故によって死んだのは青ではなく姉の雨だった。けれど、普段から雨を、あるいは雨の才能を溺愛していた両親がそれを認めようとするはずもなく、彼らは夜継雨の死を受け入れようとしなかった。
そうして、事実は歪曲する。夜継雨と全く同じ姿をしていた夜継青は夜継雨として扱われるようになり、夜継青は死んだように扱われる。いや、ように、ではないだろう。実際、死亡届が出されたのは夜継青のものであり、社会的に見て夜継青は既に死人として扱われていた。
彼女がその事実を知った時には既に全てが決定されている状態であり、何をすることも出来なかった。両親にとって既に彼女は夜継雨であり、そこに異論を挟むような余地は存在しなかったのだ。
そうして、夜継青は夜継雨として生きるようになった。生きるしかなくなった、と言った方が正しいのかもしれない。
青の両親に対する憎しみのような感情を覚えたことは確かだった。ただ、それよりも僕にとっては安堵の方が大きくてただ静かに彼女の身体を抱きしめる。
「僕は、知っているから。君が青だっていうことを。そして、傍に居るから」
「……ありがとう」
彼女はそう言って僕のコートの背中の部分をぎゅっと掴んだ。何かに縋るようにあるいは祈るように。
これが、もう十年以上も昔の、冬の話だ。始まり、そして終わり、甦ったひどく歪んだ過去の話だ。
*
画面の中のビルが爆発によって崩れていく。破滅に一種の芸術性を見出してしまうのは、この映画の素晴らしさがゆえなのか、僕に退廃主義的な傾向があるのかは分からない。ヒロインと共に崩壊を眺める主人公の背姿を最後に、画面は暗転しエンドロールが流れる。懐古とともに、映画は過ぎ去っていった。
ベルモットもつまみも、とうの昔になくなっていて乾いた口を潤すためにエンドロールを聞きながら二人分のグラスを持って立ち上がる。映画が終わった後に飲み物を注ぐのはいつも僕の役割だった。
「何が飲みたい?」
「水かな」
僕はそれぞれのグラスに水を注ぎ、仄かにベルモットの香りのするグラスをテーブルに持って行く。そうしてまた僕は青の隣に座り、エンドロールを眺める。それは、傍から見ればビルの崩壊を眺める今の映画の主人公の姿に似ているのかもしれない。
水を飲み干しながら、考える。破壊の末に、今まで積み上げてきたものを全てなかったことにして、主人公は何を得ることが出来たのだろうか。物理的な崩壊に一種の気持ちよさがあることは否まないけれど、それは所詮物理的な崩壊に過ぎないのだ。主人公自身を何も変えることはない。
「自己破壊に何の意味があるんだろうな」
そう呟くと青は水の入ったグラスを揺らして、そこに映った歪む世界を眺めながら口を開く。
「完全な破壊なんて、世の中にはないんだよ。どれだけ壊そうとしても、ほんの少しだけ何かが残る。破壊というよりも、その残った物から新しいものを作っていくことに意味があるんじゃないかな」
「なら最初から破壊なんてしなければいいだろう」
「そうだね。痛いほどに正しい理屈だ。でも、何もかもを一回壊さなければどうにもならない人もいるんだよ。哀しいけれど」
彼女はそれが砂漠を彷徨している最中に見つけた水であるかのようにゆっくりと水を飲んだ。その表情は憧憬を諦めた末の憂いのような寂しい色をしていて、僕は静かに彼女の手に触れる。
彼女はそうであるべきだというように指を絡め、目を瞑った。触れ合ったところで、何も変わらない。傷は癒えず、現実はただ確かにそこに在り続ける。それでも、これが僕たちに出来る最大限の世界への復讐だった。
「少しだけ、眠ってもいいかな」
「こんなところで良ければ」
「十分過ぎる場所だよ」
両親に愛されている夜継雨は僕なんかが暮らす場所よりもずっと立派な部屋に住んでいる。こんな部屋のソファーが十分過ぎる場所なはずはないのだけれども、いつも彼女は満足そうな顔をして目を瞑り、無意識に身体を委ねる。
僕は暫く彼女の手に触れ続け、メトロノームのように周期的な寝息が聞こえるようになったところで手を離し読みかけていた文庫本を読み始める。
僕たちの世界に突如として現れた第三者。彼女の介入により、今のこの関係が壊れてしまうのではないかと思ったけれど、こうして再び日常に回帰することが出来た。はずだ。
それでも拭えない不安というのは、何なのだろうか。解き終えたはずの問題なのに、途中式の猥雑さに本当にこれが答えなのだろうかと疑う時のような、漠然とした焦燥。違う。大丈夫だ。彼女はハッキリと、僕の不安を否定した。ならば、それを疑って何の意味があるのだろうか。自分とそれ以外こそが世界である以上、疑う心を持たなければ生きてはいけないけれど、度を越した懐疑主義は呼吸をしづらくするだけで意味がない。
自ら作り上げた思考の迷宮に嵌ってゆきそうになることを自覚して、意識を虚構の世界へと移す。彼女が眠った世界の中で、息をするために意識を沈める。
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