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 特に何かを言うこともなく、彼女は僕の部屋へと上がる。こういうことが定期的にあるので僕の部屋は最低限見られても恥ずかしくない程度の体裁は整えられるようになっていた。

「これ、セットしておいて貰ってもいい?」と言って彼女はテーブルにビニール袋を置く。彼女が持ってきたのは暴力的な表現の含まれる映画のDVDだった。彼女が気に入っている小説に何度か引用されていたということで、以前から何度か観ようと約束をしていたものだ。サブスクリプションのサービスが様々ある中でもこうしてDVDで観ているのは、ひとえに彼女が絶滅危惧種となりかけているレンタルショップを歩くことが好きだという理由からだった。

 僕が中古で安く買ったビデオデッキにDVDを入れていると、彼女はキッチンの方へと向かって簡単に食べるものの用意をしてくれる。メニューの選択画面が表示されても当然準備が終わることはなくて、僕は何か手伝うことがないかとキッチンの方を覗く。

「飲み物ってなんかある?」

「水と炭酸水、それからベルモットくらいかな」

「あ、ベルモットあるんだ。じゃあ私の分と志貴の分、二つ作っておいて貰っていいかな」

「オーケー」

 グラスにベルモットを注ぎ、炭酸水と氷を継ぎ足してマドラーで混ぜる。からからという音が心地よく部屋の中に響いた。

 テーブルに二人分のベルモットを置くとあり合わせの食材で簡単なつまみのような料理を作り終えた彼女が一つの皿と二膳の箸を持ってやってくる。昼食代わりとしてはあまりにも心許ない量なのかもしれないけれど、普段から一食分を抜くことも多い僕からすればその量は適切なものだった。

 いつも通りの日常。けれど、久我の言葉が頭を過る度に本当は重大な何かを見落としているのではないかというような不安が襲う。ただ、最もしてはいけないことはその不安を露悪的に表出させることだろう。気負うべきではない。日常のままに、僕はいつも通りの態度を装いながらベルモットに口をつける。

 アルコールが喉を温めると設定の欄から日本語字幕を選択する。吹き替えか字幕かという点に関して僕はさしたる拘りを持っていないけれど、彼女はいつも字幕を好んでいておのずと僕もそちらを選ぶようになっていた。

 彼女がベルモットに口をつけたことを確認してからプレイを押す。真っ暗な画面の後に配給会社のロゴがゆっくりと映し出されて、荘厳な音楽が鳴り始める。

「なあ」と作られたつまみをひと口だけ食べてから僕は口を開いた。「何か、僕は君に負担をかけていないかな」

 回りくどい言い方をすることも出来たのだろうけれど、そのような言い回しが誤解を生むだけということは分かっている。それに、僕たちの会話はいつもこうだった。あけすけに、回り道をせずに直接話したいことを話す。その調和のような暗黙の了解を崩す方が、何よりもの愚策だった。

「負担?」と彼女はもうひと口ベルモットを飲んでから口を開く。

「別にかけられてないけど、どうして急にそんな話になったの?」

「久我夏目に言われたんだ。あんたは夜継に負担をかけているって」

 彼女と久我が話す場面は少なからず何度か見ていた。だから、友人の評判を貶めかねない言葉を言うべきかどうかは悩んだけれど、妙な誤魔化しをして話が拗れることの方を僕は恐れた。

「久我がそんなことを言ったの」という言葉のトーンは雨の予報がなかったにも関わらず雨が降り始めたことを目前とした人のそれに似ていた。どうやら彼女にとっても久我の言葉は意外なものだったらしい。

「いや、そもそも久我と話したんだ」

「向こうから話しかけられたんだよ。それから少し。先に言った言葉を言われただけだ」

 彼女は考えるように黙りながらつまみを口に含んでゆっくりと咀嚼する。映画は既にプロローグに入っていて、主人公の口に銃が突っ込まれているところだった。暴力的な映画とは聞いていたけれど、思っていたよりも過激な映画らしい。

 彼女はひとつひとつ、自分の中にある考えを噛み締めるように思案しつつ、そうして口を開く。

「まず前提として、私は負担なんてかけられてない」

「さっきも聞いたよ」

「そうだね、さっきも同じことを言った。でも、君のことだからどうせ気にするでしょう。私が何か言い繕って誤魔化していたんじゃないかってさ。そういうのはなくて、本当に私は君から負担なんてかけられたことはないし、むしろ君と一緒に居る時間が一番気を楽にしていられる。そのことは、君がよく分かってるはずでしょ」

「……そうだな」

 驕っているわけでも、甘い幻想に溺れているわけでもなく、本当の彼女を知っているのは、僕だけだった。だからこそ、彼女を支えようとしている自分が彼女の負担になっている可能性が恐ろしかったのだけれども、彼女はあっさりと、そして強調するように否定をした。

 不眠症の主人公の懊悩を背景に、彼女はパズルを組み立てるように言葉を紡ぐ。

「こっちに来た時、最初昔の癖が抜けなかったの。夜継雨として過ごすことが長かったから、そういう風に暮らすことが当たり前なんだっていう風に思っちゃったんだ。久我からしたら私は夜継雨で、そういうロールプレイを未だに続けてるの。だから、志貴と一緒に居る時の私は彼女からしたら妙な風に映るんだと思う」

 ああ、と得心するところがあった。確かにそれなら納得がいく。無理をしているように見えてしまうかもしれないと思う。

「あそこから離れても、夜継雨からは逃れられないんだな」

「しょうがないよ。戸籍上の名前が夜継雨なんだから、一生付き合っていくしかない。それに、染み付いた演技は癖になってどうしても拭えない」

 でも、と彼女は映画からは目を離さないままで言う。

「大切なことって大切な人にだけ分かって貰えれば、それで十分でしょう。世界が私のことを認めなくても、志貴が私のことを見つけてくれているから、私はそれで十分過ぎるよ」

 そう彼女は――夜継青は言った。

 夜継雨ではなく、夜継青。社会的には十年以上前に事故で亡くなっているとされている少女。しかし、彼女は確かに生きている。今もこうして僕の隣で映画を見ながら息をしている。心臓は動いている。

 大男の胸で泣いている主人公の姿を見ながら、僕は昔のことを思い出す。歪んだ今が始まることになったきっかけを。世界から身を隠す、二人分だけしかスペースのない、孤独なシェルターが出来上がった始まりを。

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