You must believe in spring.
しがない
D'où venons-nous ?
1
「時間あるでしょ」
決めつけるような、不機嫌な物言いをした女はそう言って僕の進行方向の方へ立った。今にも五月雨が降りそうな気分の落ち込みやすい日にはうってつけに最悪な状況だった。
「少し話そう」
そう言って話をすることは既に決定事項であるとでもいう風に彼女は歩き始めた。
彼女の顔を、僕は知っている。けれど、どういう人間なのか、なんという名前なのか、学科はどこなのかというような基本的な情報ですらも分からない。ただ、僕と彼女の共通点はひとつであり、何の話をするのかという点に関しては容易に想像をすることが出来る。行くべきかと悩んだ末に、結局僕は彼女の後に付いて行くことにした。
僕は名も知らぬ彼女のことが好きではなかった。時折、敵意を孕んだような目を向けて来ることも理由のひとつではあるけれど、仮にそのようなものがなかったとしても僕は彼女のことを苦手なままで居たと思う。S極とN極が反発し合うように、どうしても反りが合わない人間というのは居て、そういうような人間というのは話をせずとも何となく雰囲気で察することが出来る。彼女は、僕にとってそういうような人間だった。
彼女は特に迷うような素振りも見せずにひと気のない喫煙所の方へと歩いて行った。恐らく、僕が喫煙者であるということは聞いていたのだろうけれど、それでもいきなり呼び立てる場所として喫煙所というのはどうなんだろう。それとも、落ち着いて話をするためにという彼女なりの気遣いなのだろうか。だとしたら最悪にセンスがない。
彼女はポケットから煙草を取り出して、火を点けた。銘柄はラッキーストライク。僕はあの独特の風味が苦手で、本当にこの人とはとことん反りが合わないものなんだなと感心すらするようになっていた。ここまでくると若干の可笑しさすら込み上げてくる。
僕はポケットからセブンスターを取り出して火を点けた。ゆっくりと紫煙を吸い込み、吐き出す。僕と彼女が吐き出した煙により、真っ新だった喫煙所が白んでいく。
「久我夏目。夜継雨の友人」
極めて端的な自己紹介をされたのは煙草を二度ほど口に運んだ後のことだった。
「顔くらいは見たことあるでしょ」
「まあ、何度かは。僕は――」
「芥生志貴。何度も夜継の口から聞いてるから知ってる」
知っていたとしても、遮ってそれを言う必要はないだろう。それほどに僕のことが嫌いなのか、それとも単なる久我夏目の癖なのか。どちらにしても、良い印象は持てないものだ。
「それで? あんたは夜継の何なの?」
「……さあ、なんて言えば良いんだろう。昔馴染みとでもいうんじゃないか」
「付き合ってるわけじゃないんだ」
「ああ」
友人よりは親しいのだろうけれど、僕たちは明確に自分たちの関係がどういうものなのかという線を引いたことがない。告白のような分かりやすい契機がないという意味では僕たちは付き合ってはいないのだろう。
夜継雨は僕と同じ土地で生まれ、育った。ある時から、僕たちは共に時間を過ごすようになり、一年先に上京した彼女を追いかけるようなかたちで僕もこの大学に入学をした。付き合っているというわけではないことは事実で、けれど特別な関係であることもまた確かなことだった。
「ならこっちとしても言いやすくて助かるんだけどさ、夜継に近寄らないでくれない?」
「近寄らないでくれない?」
想像だにしていなかった言葉に思わず鸚鵡返しにして問い返す。近寄らないで。それは何か柔らかい言葉で隠すようなこともなく、明確な攻撃性を持った拒絶の言葉だった。
「どういう意味なんだ、それ」
「どういう意味も、別にここで奇を衒ったような戯言並べたり複雑なレトリックを連ねようなんてわけじゃないよ。言葉の通り、そのまま。久我夏目は芥生志貴に夜継雨に近付いて欲しくないっていうだけの話」
「そういうことじゃなくて、どうして近寄るなって言っているのかという意味だよ。青――、雨が、彼女が、僕のことを疎んでいたということか?」
「ああ、それは違う。違うからこそ問題は拗れていて、あの子を説得するんじゃなくてあんたの方に来たんだから」
僕と彼女の間には一年の空白が存在している。そして、一年という時間はあらゆるものを途切れさせるには十分なものだ。ゆえに、その空白を通して彼女は僕を厭うようになったのかと思ったけれど、そういうわけではないらしい。
「なら、君がそれを強制するかのように言う権利はないだろ。僕が彼女を害するようなことをしているのであればともかく、君の好悪で口を出されるいわれはない」
「好悪ね。うん、その通り、確かに私の個人的な感情が一切入っていないかと問われればそれは違うかもしれない。でも、確かにあんたは彼女に対して負担をかけてる。今は大丈夫なのかもしれないけどさ、そういう負債って溜まり続けていつか決壊を起こすことになるよ」
「負担」
突き付けられた言葉は傍から見ても分かるような負担を、僕は彼女に対してかけてしまっているのだろうかという懊悩を作り上げる。どこまでいっても人間は自らの偏見が混じった視点で世界を俯瞰することしか出来ないのだ。無意識の暴力のグロテスクさを知っているからこそ、その恐れは身体の中で渦巻く。
「どういう負担を、僕は彼女にかけてるんだ?」
「分からないんだ」
「分からないから聞いてるんだよ。分からなければ直しようがないだろ」
これが恋愛感情と簡単に当て嵌めて良いものなのかは分からないけれど、僕は紛れもなく彼女のことが好きで、かけがえのない存在だと思っている。だからこそ、彼女に負担をかけるような振る舞いをしているのであればそれは本望ではないし、改善をすることが出来るのならばしたいと思うのは当然のことだった。
僕の言葉が意外だったのか、久我は少しだけ驚いたような顔をする。彼女のことをまるで気にしていないような人間だと思われていたのだろうか。他人に理解をされずとも、僕は僕たちの世界を守ることが出来るのであればそれで良いと思うのだけれども、どうしてか心外だった。
「直しようっていう言い方をするなら、そんなものはないようにあたしには見えるけど」
「存在が迷惑をかけているとでも?」
「まあ、そういうところに近いかな。あんたと一緒に居る時の夜継、いつも無理をしてるように見える」
それは僕が彼女に対して与えることが出来ていると思っているものとはむしろ真逆のものであり、少なからず動揺が心の中に走る。初めて話した人間の言葉よりも、彼女と積み上げてきた時間を信頼すれば良かったのかもしれないけれど、それでも揺らいでしまったのは今まで途切れることのなかった繋がりの中に一年という綻びが出来ていたせいだった。一年という空白の重さを、僕は知らなくて、だからこそ悲観的な気のある思考は悪い方向へと沈んでいく。
「ご忠告痛み入るよ」と言って、僕はまだ火を消すには長い煙草を灰皿に擦り付けて、喫煙所を出る。久我としては、それで十分自分のしたいことを果たしたのだろう。特に何か呼び止めるようなこともされなかった。
好きな相手に嫌われることが悲劇であるように、嫌いな相手に好かれることもまた悲劇と言える。関係の認識の齟齬はその関係をいつ壊してもおかしくない罅だ。多くの人は、それが不可逆的なところになるまで気付かないけれど。
僕が彼女に求めている関係はエゴイスティックな感情のなれ果てに過ぎないのだろうかという考えが頭の隅からこびりついて離れない。自分の不安定さが嫌になって、ため息を吐く。思索に意味がないとは言わないけれど、行動を起こさない思索はいたずらに精神を憂鬱の虚へと落とすだけのものだ。行動が死滅から救ってくれるのだから。
翌日、僕と彼女の講義の終わる時間が重なる。だから、今日は待つことしか出来ない。気を紛らわせるように、帰り道にベルモットを買って、部屋で少し飲んだ。こちらに引っ越してきた時、彼女に教えて貰った薬草めいた独特の風味のする酒は心地よくアルコールで喉を焦がし、意識を微睡へと引き摺り下ろしてくれる。
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