第9話 水面下の水掻き
ここは琵琶湖バードセンター。
来館者が気軽に野鳥観察できるよう
琵琶湖を望む窓辺のカウンター席には、
貸出用の双眼鏡がいくつも設置されている。
そこで双眼鏡を覗く見学者を前に
職員の恩田瑠美が
琵琶湖の野鳥について解説している。
「今、湖面に群れで浮かんでいるのはマガモです。琵琶湖にはカモがぎょうさんおります。ここ最近はカルガモやホシハジロ、コガモなども見かけます」
皆、恩田の話に耳を傾けながら
野鳥を見て頷いたり、
時々質問をして観察を楽しんでいる。
恩田はその反応に
得意げになって話し続けた。
「優雅に浮かんでいるように見えて、実は水面下では懸命に
双眼鏡を覗いている見学者の中に
一組の夫婦がいる。
穂乃果の両親である省吾と亜希子だ。
「恋の季節やな〜」
「ほんまや、ええ感じや〜」
「はい?……」
省吾と亜希子だけ
明らかに琵琶湖ではない方角に
双眼鏡を向けている。
恩田は冷静にツッコミを入れた。
「あの〜、今ほとんどの鳥は繁殖期終わってますんで、恋の季節ではないですね」
「いや、鳥のことちゃいます」
「は?……」
「うちら鳥見に来たんとちゃいますさかい。おかまいなく〜」
もう一度言う。
ここは琵琶湖バードセンターである。
来館者は皆、琵琶湖やその周辺にやってくる鳥類を見学しにやってくる。そのための施設である。明らかにその趣旨からズレたこの二人に恩田は眉を顰めた。
「すんませんけど、さっきからどこ見てはりますの?そっちは湖ちゃいます。隣の道の駅の庭ですよ?まぁ、そっちに鳥類がおることもありますけど……」
「わかってます。うちら道の駅見に来ましたんで」
「はい!?」
「それよりおたく、あっこにおる人、誰か知ってる?」
恩田がそちらを確認すると、同僚の蒼介と、つい最近、道の駅に入った穂乃果だとわかった。
「あ〜、あれはうちの職員の村岡蒼介くんと、お隣に最近入った新人さんかな」
3人が見つめる先には、蒼介と穂乃果が並んで空を見上げている姿があった。
亜希子は恩田から聞いた蒼介の名を忘れまいと
鞄から手帳を取り出してメモしている。
「ムラオカさんやね?ムラオカソウスケくん。ええ名前や!字は?」
「おぉ、聞いとこ!ちょっとあんた、すまんけどここに書いてくれる?」
「ええですけど……おたくら、何しに来はったん?」
そこで夫婦は自分達が穂乃果の両親と打ち明けた。恩田はやや驚きつつ冷静になり
「あ〜、山本さんのご両親でしたか。これはこれは大変失礼をいたしました。彼女、ご丁寧に私らにもご挨拶しに来はりましたわ」
「いえいえ、こちらこそすんませんなあ。お仕事の邪魔してしもて」
「えっと、お嬢さんが心配で、ここから様子を見てはるってことでよろしいですか?」
「はい、そうです!うちらは娘の観察しに来とるだけやさかい、ご心配に及びません!」
「ほうや、愛娘の観察や!」
一点の曇りもない笑顔で来館理由を述べる2人に、恩田は単調な口調で解説した。
「ここ、人間観察するとこちゃいますよ」
恩田は蒼介より早く入った先輩職員で、
今やセンター長に次ぐポジションであり、
調査観察だけでなく解説から報告書作成まで
多岐にわたる業務をこなし、
後進の育成にもあたっている。
容姿はすらっとした長身で、
平安時代を思わせる顔立ちである。
「センター長、ちょっと困ったお客さんが来てはるんやけど」
解説を終えた恩田は
センター長の長山の元へ行き、
穂乃果の両親が来ていることを報告すると、
長山は「どれどれ」と自前の双眼鏡を取り出し、道の駅の庭を覗いた。
「ほんまや!恋の季節や!」
「センター長まで何やってますの?双眼鏡は野鳥観察に使うもんです。人間を観察してええのは探偵だけ。他はのぞき行為いうて立派な犯罪ですよ?捕まっても知りまへんで?」
「そらあかん、やめとこ!こんなんはそっと見守らんとな。鳥も人間も一緒や。求愛行動を邪魔したらあかん!」
面白がって鼻歌を歌いながら
手洗いにたった長山を、
恩田は冷めた目で流し見て、
彼が置きっぱなしにした双眼鏡で
蒼介と穂乃果を観察・分析した。
「どう見てもちゃうやろ。あれは求愛行動やない。縄張り争いや」
穂乃果と蒼介は
時々、顔を合わせては
言いたいことを言い合っている。
それは両者の職場でも
知らない人がいないほど日常になっていった。
駅長の坂本と吉野も
はじめは心配していたが、
今ではこうである。
「駅長!大変!またあの2人、外でなんや言い合うてるよ!」
「あ〜、あれは挨拶みたいなもんや。心配ない」
「アハハ!それはそうかもしれんけど」
「あの蒼介くんがちょっと負かされとるみたいやし。逆やったら俺も止めに入ろう思うんやけどな」
そこへ午前中の売り上げを持ってきた直哉も加わる。
「蒼介もあんくらいの天敵がおった方がええかもしれん」
「天敵?山本さんが?」
「ほやほや。アイツ普段、ほぼ誰とも口きかんでおるやろ?そやさかい俺、アイツがタバコ休憩しとる時とか帰る時間を見計らうて、たまに話しかけるんやけど、前は鳥の話しかせんかったのに、最近は穂乃果ちゃんの話もするんやで。まぁ、悪口やけど(笑)」
「へぇ〜」
「天敵がおるくらいが、ちょうどええんかもしれません。アイツ、ずっと1人やさかい」
直哉はそれから蒼介について
「ああ見えて、かなり苦労してきた奴なんや」と付け足した。
その言葉に吉野も坂本も
黙って聞いていた滝沢も感慨深く頷いた。
「山本さんも、ああ見えて、
「それ、私も思うてました。前の仕事の話、聞いても話したがらないんや。そやさかい、うちらもあんまり聞かんとこて、話しとったんです」
「そらそうやろ。上手くいっとったら戻ってこんでしょ。こんな田舎に」
「まっ、皆んなそれぞれ事情はあるさかい、詮索はせんように!」
坂本の言葉に全員「ほやほや」と賛同した。
だが吉野が溜め息まじりに呟く。
「これがドラマやったらなぁ、素敵な展開になるんやろうけど……」
「吉野さん、韓流ドラマ見過ぎやで」
「ほんまや。あれはないで?あの2人はどう転んでも
「そやけど、ゼロとも言い切れんでしょ」
ふいに放った滝沢の言葉に
全員が「ないないないない」と言いつつ、
また外で何か言い合っている2人を見ていた。
「村岡さんは、鴨鍋も食べはりますの?」
「食うたら悪いんか」
「へぇ〜……」
「聞いといてドン引きすな!」
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