5話 琴線に触れる
私勝手
クッキーはあまりおいしいと思わなかった。だけど、鶴見の指の食感は滑らかで心地よかった。その気持ちが『好き』なのかと問われて肯定してしまえば私は人間の指を食べるのが好きな狂気的でマニアックな食人鬼になってしまう。だから好きとはまた違うのだろう。
私の指と鶴見の指は、どう違うのかな。まだ温かさが残るソファに寝っ転がって自分の指を眺める。白い。細い。それだけ。鶴見の指との違いは、長さくらいだろうか。
机の上にはクッキーの空き箱。この部屋に親以外の人間がいるという光景は記憶をたどっても見つからない。それでも、夜中に襲ってくる静寂はいつもと同じだ。この高さだと街の雑踏はおろか車の音もあまり聞こえない。
音がなさ過ぎて、耳鳴りがするほどだ。この場所は私にとって高すぎる。鶴見はどんな家に住んでいるのだろう。今度は彼女の家に行きたい。
最近はほとんどの時間を鶴見と過ごしていて、自分が一人でいることはあまりなくなった。私は結局一人になれない。今までは昼間の孤独に耐えれば夜の居場所があった。だけど今は、鶴見がいないと何も見えなくなる。窓を見ると、暗い夜空に立つ私の姿が見える。
そして、増えた不在着信を眺める。
約束を破るのはいけないこと。それは小さいころに何度も言われた言葉だ。私はずっとこの言葉に縛られていた。今もそうだ。
今更この正論に歯向かう気はない。だけど、心まで鎖で縛りつけられているわけではない。心はゆらゆらと揺れる。
夜遊びはもうしない。そうすれば、鶴見が近くに居てくれる。夜に頼らなくても自分の存在を知ることができる。
また電話が来る。やっぱりこの子との関係も切ればよかった。でも、無理だ。
折り返しをする気もなければ、連絡先を消す気もない。相手はきっと嫌な思いをしているに違いない。そんなことは私もわかる。こんなことをしている私が悪いやつであることもわかる。鶴見がこのことを知ったらどんな反応をするのだろう。
私のことを嫌いになるのだろうか。その時に、私はどんなことを思うのかな。
*
放課後に会う場所は決まっていないが、最近はこの場所に来ることが多くなった。本来の通学路から逸れた小道の先にある河川敷。初めて来たときよりも草の背が高くなり、色褪せている。
背の低い鶴見に合わせて、腰を屈める。
「ちょ、見ないで」
鶴見の小さな手でも私の視界を塞ぐには十分だし、鶴見の温度を知るのにも数秒間唇を重ねるだけで十分だった。唇の感触なんてあまり感じないけど、吐息と鼓動が私にしみ込む。その二つとも鶴見の目の前にいるほかでもない私が作り出したものだ。
外の気温に比べて温かい空気が目の前の空間を満たしている。
鶴見が私のことを嫌いだと言ったら、また私の周りには冷気が立ち込めるのだろうか。
両手をまわして経験したことのない温度を抱くと、立ち眩みがした。
グラっと脳が揺れて、私よりも体の小さい鶴見に支えられる。
「大丈夫?」と少し苦しそうな声が耳元で聞こえる。
「大丈夫」と返してつま先に力を入れて、体勢を整える。
「なんか、疲れてる?」
「そうかも。あんまり寝てない」
「えっ、じゃあもう今日はすぐ帰りなよ。駅前だもんね、家」
私を見上げる不安げな瞳に思わず吸い込まれそうになった。
鶴見はずいぶんと私のことを心配してくれる。大して睡眠不足というわけでもないし、そもそも高校生にもなると体調を心配されるというのはあまりないことだと思う。保健室に行ったときですら、体温計を渡されて事務的に早退させられるだけだったし。
確かに今日は帰った方がいいかもしれない。だけどそれが自分の家かどうかは私が決めることだ。
「そうだけど、鶴見さんの家、どこなの?遠い?」
恐らく予想していなかったであろう返事に戸惑いながらも、いつもより優しい口調で答える。
「え、宇都宮方面に六駅だよ。遠いわけでもないけど」
「じゃあ、今日は鶴見さんの家に行ってもいい?」
「は?なんでよ。家帰って寝なよ」
「鶴見さんの家で寝る」
「何言ってんの……。まあ、どうせ暇だしいいけどさ」
改札を通るのはかなり久しぶりだった。小学校も中学校もこの周辺の学校だし、高校も近所。遊ぶときだって駅前で事足りるし。それに電車に乗るのは面倒くさい。だってうちの最寄り駅は路線が多すぎるのだ。どこへでも行けるのだろうけど、それはどこへ行くべきかわからないという現象を引き起こすのだ。
「わかんないから、先歩いて」
「ええー、あんた、ここ最寄りじゃないの?なにわかんないって」
「だって、電車乗らないし」
「えー、なんでよ」
「わかんないし、面倒くさいから」
「なんじゃそれ……勉強できるんだから、余裕でしょ」
先を歩いてほしいと言っただけだけど、鶴見が私の手を握ってきた。
鶴見はぶつくさと悪態をつきながらも、手を引っ張ってくれる。
「じゃあ、久しぶりの鉄道旅じゃん。ちょっとウトウトしてたらすぐ着いちゃうけどね」
電車の中は意外と空いていた。私の記憶では、都市圏の電車というのは窓から人があふれ出るほど混んでいるものだったけど、それは日本の都市圏ではなかったのかも。
端っこに座り、腕を組んで座席の端の壁に寄りかかった鶴見のすぐ隣に座る。「近い」と文句を言いながら肘を当てられたけど、無視してくっついた。そのほうが温かいからだ。
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