辺獄

 「高瀬は、キスが好きなの?」

「……さあ」

「じゃあ変態なの?」

「……たぶん、違う」



窓の外が暗くなって、街の建物の照明が星みたいに輝き始めると高瀬は部屋の電気をつけた。学校とかウチにあるようなヤツではなくて、修学旅行で泊ったちょっといいホテルみたいなムーディな照明だ。一々世界観が違うし、ほんのりと暗いせいで余計に高瀬が不思議に見えた。


うすい霧が立ち込めているようにぼんやりとしたこの部屋には、まだ私の知らない高瀬がいるはずだ。この部屋でするキスには、新しいなにかが含まれているはずだ。



私にとってのキスといえば、親しい間柄の人間同士がするものだ。特に、恋人とか。だけど現実で私がしているキスというのはよくわからない物だ。高瀬と親しいのかと聞かれれば、私は返事に迷う。






「じゃあ、どうして私とキスしたいの?」

「……キスすると、私のことがわかりそうになるから」

「じゃあ、私じゃなくても別にいいの?」

思わず唇を触る。キスには重さがあった。でもその重さが仮に空虚で、意味を持たないものだとすると、私はただ圧力をかけられて負担を与えられただけだ。視線に抗議を込めると、高瀬は目を逸らした。


「……それは、もっとわかんない」

「はあ?」


高瀬のことを知ろうにも、高瀬自身が自分をわかっていないなら無理だ。

高瀬には高瀬のことをもっと理解してもらわないといけない。


「じゃあ、もう一回しようよ。それで、わかったことを教えてよ」


立ちあがって背伸びする。手を伸ばして高瀬の肩を掴み、引き寄せる。


高瀬の髪の匂いは甘くて、でも全くくどくない。


私から彼女にキスをするのは初めてだ。何も悪いこともやましいこともない。だってキスをするような関係なのは高瀬が始めたわけで、エロいことではないはずだ。


唇が触れる。バランスを崩しそうになって、高瀬の首に手を回す。ぐっと距離が近づいて、ぐっと唇を押し当てる。息が苦しくなって少し口が開く。


高瀬の唇を、自分の唇で挟む。これは単にキスの延長線上にある不可避な事故でしかなくて、つまりキスの範疇を抜け出してはいない。


高瀬は抵抗しない。だけど、私を受け入れてもいないようだ。


キスをやめて、体の力を抜いてソファに座った。


「ほんとに、あんたがわかんない」

「私だってわかんない」


私はもっと高瀬がわからなくなる。でもそれと同時にもっと高瀬を知りたくなってしまう。


少し冷めてしまった紅茶に口をつける。芳醇だけどどこか果物のような爽やかさのあある香りに比べて、味は薄い。甘ったるい市販のペットボトル紅茶とは全然違う。結構好みの味だ。


「これ、なんていうお茶?」

「これは、アールグレイ」

「へえ、私、結構好きだな。高瀬は紅茶が好きなの?」

「別に。でも鶴見が好きならよかった」


すると高瀬はキッチンの方に向かっていく。姿が見えなくなって、がさごそとした後に、綺麗な絵が描かれた缶を持って現れた。


「これ、茶葉が入ってるから。あげる。家で飲んで」

「いや、悪いよ。それに、多分お母さんとかお父さんが好きなんじゃない?勝手にもらうわけにはいかないよ」

「……そう」

高瀬のことを知りたくて高瀬の家に来て、自分の好みを発見してしまうだけというのはなんだか悔しい。もっと色々知りたいのに。


「高瀬」

「何?」

「となり、座って」

ソファの隣を叩く。

私があと五人くらい座れそうなほどに長い。だけど、私のすぐ隣に座らせる。


高瀬はいつも素直だ。こんなときにさえも。私の心臓の音はよく聞こえる。だけど高瀬の音はわからない。


「座ったよ」



座ると頭の位置はあんまり変わらない。目が合って、ちょっと暑くなる。


高瀬の顔をじっと見つめる。私と目が合っているはずなのにどこか遠くを見ているような目、高くて小さな鼻、綺麗なカーブを描く輪郭。


彼女の顔立ちの美しさを意識すると、心臓がうるさくなってくる。

動悸に耐えながら、唇を押し付け合う。


お互いに意味も目的も理解していないキスなのに、なぜか胸が痛くなる。


「……ぁ、高瀬」

「どうしたの?」

「高瀬はさ、私のことエロい目で見てるわけ?」

「……ううん。安心して。あくまでキスフレだから」

「いや、別に警戒しているわけでもないんだけど。そういう目で見てるなら見てるでいいんだけど」

「見てないよ。これ以上のことはしないから」


余計に意味が解らない。確かにそういう目で見られていたとしても困るけど、それならただ高瀬を拒否すればいいだけで、今みたいに混乱することもなかったわけだ。あーでもないこーでもない関係性の辺獄に囚われて、わけわからなくなる。


目の前のテーブルに置かれた高瀬の携帯がぶるぶると震える。


「あ、電話鳴ってるよ」

「えっ?」


ぼんやりとしていた高瀬の顔に色が戻って、焦ったように携帯を取る。

しばらく画面を睨みつけながら操作して、今度は机の上じゃなくて胸ポケットにしまった。


「えと、誰?」

「お、お母さん」


焦り方的に相当厳しいのだろうか。優秀で厳格な親の子がグレて夜遊びに耽る。よくある話だ。


「あっ」


お母さんと聞いて、存在を忘れかけていた手土産を思い出した。

リュックのスペースを圧迫するだけの無用の長物になりかけた箱を取り出す。


「これ、おうちの人と食べて。お邪魔したわけだし」

「今食べてもいい?お腹空いた」

「え?うん。いいけど家族の分残しなよ?」

「いや、お母さんもお父さんもこういうの食べないし。一緒に食べよ」


なるべく当たり障りのないものを選んだつもりだが、タワマンに住むような上流階級は安物の糖分など取らないのだろうか。ヴィーガン?で、ぐるてんふりー?なのだろうか。


「そうなの?じゃあ、私が来たことは内緒にしといてね。食べちゃおっか」

「うん?わかった」



好みはないけど食欲はある。欲望はあるのだろう。なら、私とキスをするというのも欲望を満たすための最低限の行為だとか思っているのだろうか。それは困る。愛でもない恋でもないキスだとしても、誰彼構わずされたらいやだ。高瀬がどんな人間でも構わないなんて思っていたけど、本当にビッチだったら嫌だ。


「口開けて」

「?」


高瀬の小さな口にクッキーを突っ込んだ。


「この前のお返し」


こんなことをしても彼女の心に風穴をあけることすらできないことはわかっているけど。







































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