第10話 助けに行く

 ルネの屋敷を遠目から眺めていたエリスは、心苦しそうに顔を歪ませた。


 警護に当たっていたと思われる人間が忙しそうに出入りしている。あの夜、ルネは一人だった。恐らく何も言わずにエリスを探しに出たのだろう。


 王子であり、大事な屋敷の主がいなくなって、とても心配しているはずだ。このまま戻って来なければ、もっと騒ぎになるに違いない。


(ごめんなさい。でも、必ずルネは助け出します)


 シリルの言う通り、ヴァンサンがルネを傷つける可能性は低い。


 だが備えはあった方がいい。


 エリスは誓うように胸元にかけてあるペンダントを握りしめた。


 このペンダントは亡くなった父の形見である。悪しき者を寄せ付けぬ力があるそうで、実際マクシムの放つ影も退けることができた。


 エリスにとって、お守りのような存在であった。


(お父さま、お母さま。どうかわたしの大切な人を守るために力を貸してください)


     ◇


 夜になり、エリスは指定された屋敷へとやってきた。鬱蒼とした森は人間にとっては恐怖を与えるものだが、吸血鬼にとっては慣れ親しんだ世界だ。


 それでもエリスには、昔の辛い記憶が蘇り、胸がざわつく。


(そう言えば、誘拐された子と出会った時も、こんな森の中だった……)


 あれはまだそう昔のことではない。


 エリスが同じくマクシムの放ったしもべたちから逃げている最中のこと。運よく撒くことができて、ほっとしている時に、誰も住んでいなさそうな廃屋から男たちが出てくるのが見えたのだ。何だか気になってしまい、こっそり中へ入ると、綺麗な顔をした子どもが手足を縛られ、床に転がされていた。


 エリスが慌てて拘束を解いてやると、子どもは特に怯えた様子もなく、笑顔でお礼を言ってきたので、困惑したのを覚えている。聞けば、誘拐されるのはよくあることらしい。


 着ていた服装や言葉遣いからして、相当高貴な出自なのだろう。名前を聞くと、少し口ごもって、「ルキウス」という、この国では馴染みのない、古い言語の名前を告げられた。


 言い方からして、恐らく本当の名前ではないことが察せられたが、エリスは何も言わなかった。


 幼いながらすでに偽名を使うことを知っている少年を――顔立ちが綺麗だったので、もしかすると男装した少女だったかもしれないが、エリスは安全な場所まで送り届けようとして、彼を攫った誘拐犯たちを吸血鬼の能力を使って、地下牢に閉じ込めてやった。


 そこまではよかったのだが、運悪く、撒いたと思っていたマクシムの追手が居場所を嗅ぎつけて廃屋の周りをうろついているのが、窓から覗いてわかった。


 エリスは迷ったものの、子どもが巻き込まれることを恐れ、自分の居場所を教えるように彼らの前に飛び出した。そして、そのまま逃げた。


 あの後、子どもが無事に救出されたかはわからない。隙を見て、警察に匿名で子どもの誘拐された場所を知らせたが、信じてもらえたかどうか……遠くの国まで逃げる羽目になったエリスには確かめることもできなかった。


(ルネ……)


 二階建ての古びた屋敷は床が軋み、今にも抜け落ちそうだった。エリスは特に足音を消すこともなく、二階へ上がり、彼らの前に正体を現した。


「――よぉ。ちゃんと来たな」


 屋敷のシンボルとも言えた大きな窓に背中を預けて、ヴァンサンが出迎える。


 椅子に座らされ、手足を縛られたルネが床に転がされていた。


 シリルの姿は見当たらないが、どこかに潜んで、エリスの一挙一動を監視しているのだろう。


「約束通り、来たわ。ルネを解放して」

「開放するさ。お前が俺たちと一緒に来るならな」


 エリスはヴァンサンの近くまで行く。足元にいるルネの視線を感じ、悲しげな目で彼に謝った。


「巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」


 口も話せないよう猿轡をはめられているので、ルネは何も言えないが、その目はじっとエリスを見つめていた。


「さぁ、さっさと帰るぞ」


 ヴァンサンがエリスの肩を抱き寄せ、窓から出ようとする。


「じゃあな。――シリル、後は頼んだぞ」

「うん。わかったよ、ヴァンサン」


 エリスは動きを止めてヴァンサンの顔を見る。


「どういうことですか。シリル様も一緒に帰るのでは?」

「ぼくは後から帰るよ。彼の後処理をしてからね」


 エリスは怒りで肩を震わせた。


「約束が違います。わたしが一緒に行けば、ルネは無事に帰してくれると言った」

「だってそんなのつまらないじゃないか。ね、ヴァンサン。こいつ、この国の王子様だって。吸血鬼の存在を面白おかしくばらされたら、困るでしょ」

「王子を殺した方が問題だろう」


 ヴァンサンが呆れた様子で返す。


「そう? それもそうか。でもさ、マクシム兄さんは怒るよ。エリスにあんなに熱烈な告白して、エリスも満更じゃない様子だった。それってすごくすごく、兄さんを怒らせることになると思わない? ヴァンサンも絶対八つ当たりされて、苦労するよ。またお酒や煙草の量増えちゃうよ。そうしたらさ、一緒にいる僕も耐え難いわけ。あのニンニクに負けないくらいの臭いが移っちゃう」

「てめぇ、誰のせいでそうなったと……はぁ。まぁ、いい。そうだな。お前の言う通りさ。そこの王子様には今夜のうちに死んでもらうか」


 考えを変えたとばかりにヴァンサンがさらりと述べる。


「エリス。そういうわけだ。悪いがこいつはここで、っと――」


 エリスの紫色の瞳が赤く染まり、ヴァンサンを冷たく見据える。


「あなたたちはまたわたしから大事な人を奪う」


 ルネは殺させない。月が雲に隠れ、部屋に闇が落ちた時、窓ガラスが派手な音を立てて割れる。エリスの使役する使い魔――全身黒い靄を覆った狼たちが一斉にヴァンサンに襲いかかる。


「あはは! やっとエリスが怒った! そう来なくっちゃ!」


 蝙蝠のように天井にぶら下がっていたシリルがエリスの背中に飛びかかろうとして、彼女は振り向きざまに脚蹴りを食らわす。


 鳩尾にめり込ませた彼女の脚を掴んだままシリルは床へ激突し、エリスと一緒に勢いよく転げ回る。


 力で押し負けるかと思ったがエリスが歯を食いしばり、シリルの上に乗った。そのまま短剣で止めを刺そうとしたが、シリルの赤い目が金色に――オオルテンシアと同じ色に戻り、躊躇いが生じた。


「だめだよエリス。ぼく以外のこと考えちゃ」


 エリスが我に返ると同時に、肩に激痛が走った。見れば一つの胴体に頭が三つある犬が――そのうちの一つが蛇のように首を長くしてエリスの肩に噛みつき、するすると首を戻して、行儀よくヴァンサンの隣に鎮座する。


 エリスの狼たちはほとんどやられ、残る狼たちは威嚇はしているが、こちらが不利であることを的確に理解しており、後退りしている。


「うわ~出た。ヴァンサンの番犬。魔界のケルベロスにインスピレーションを受けて、作った安直な生き物! 悪魔的な見た目で全然可愛くない!」

「あぁ? 可愛いだろうが」


 ヴァンサンは本気でそう思っている様子でケルベロスたちの頭を撫でてやる。ヴァンサンの血を糧に作り出された獣たちは犬のようにヴァンサンに頭を擦りつけていたが、やがて床に転がっているルネで遊ぶことを決めたように鋭い視線を注ぐ。


 エリスはすぐさまそちらへ向かおうとするが、組み敷いていたシリルに下から抱きしめられ、細い見た目からは想像もできぬ怪力で身動きを封じられる。


「エリス。ぼく、悲しかったんだよ? いっつもオルテンシアばっかり気にかけてさ。ぼくだってエリスに構ってほしかったのに。マクシム兄さんだってきっとそうさ。だから、わわっ」


 マクシムの名前を告げられたことでエリスの血が沸騰する。シリルの身体を床に押さえつけ、そのまま床板をぶち破り、抜け出せない格好にしてやる。


「ちょっと、ジャストフィットしてるんですけど!?」


 エリスはシリルの抗議を無視して、その場で大きく飛躍し、襲ってくるケルベロスの頭を華麗に避けて、着地するなり床で転がされていたルネの縄と猿轡を素早く解いてやる。


 そうして椅子を武器の代わりにして、口を大きく開いたケルベロス(三つあるうちの一つ)の口の中に放り込んでやる。もちろん鋭い牙でばきばきと噛み砕かれてしまうのだが、木片が小骨のように刺さってケルベロスは小さく唸り声を上げた。


「あっ、変なもの食わせるなよ。治療するの苦労するんだぞ」


 ヴァンサンがぶつぶつ文句を言いながら戻ってきたケルベロスの口の中をよしよしと宥めながら点検する。


「ヴァンサン。そんな怪物よりも、ぼくの方を先に助けてよ」

「お前は埋まっとけ」


 部屋の中はすでに半壊している。だがこんなの序の口だ。子どもの癇癪程度にしかならない。実際二人は次にエリスがどう出るかを愉しむような余裕のある態度を保っている。


 じわじわと確実に追いつめられている焦燥感と戦いながら、エリスは立たせたルネを守るように前へ出て、後ろ手でやんわりと押しやりながら小さな声で伝える。


「……ルネ。わたしが二人を引き付けている間に、窓から飛び降りて。狼を一匹やるから、受け止めてくれるはず。そのまま安全な場所まで逃げて」


 それが今一番、可能性のある道だ。


 しかしルネはエリスの提案を聞かなかったようにして、エリスの手を握った。形を確かめさせるように触れさせて、エリスはちらりとルネを振り返る。彼はヴァンサンとシリルの方を真っ直ぐに見ていた。


「エリス。僕は逃げるつもりはないよ。きみと、最後まで戦うつもりだから」

「ルネ――……わかった」

「相談は終わったか?」

「くっついてイチャイチャするの、やめてくれない? 不愉快なんだけど」

「すまない。再会できた喜びで、つい外野の視線を忘れてしまった」


 わざと煽るような――あるいは素で言っているのか、ルネはヴァンサンたちに微笑みかける。


 二人は一瞬真顔になり、ルネを見て言った。


「お前、絶対兄貴に嫌われる性格してるな」

「ついでにぼくも嫌い」

「そうか。それは残念だ。でも、僕はエリスに嫌われていなければ何も問題はないから、全く気にしないさ。――それより、酷いことをする」


 ルネはそう言うと、倒れている狼たちのもとまで行き、しゃがみ込んだ。普通は触るのを躊躇するだろうに、ルネは労わるように狼を撫で始める。


「きみたちはエリスのために戦ったんだね。とても勇敢だ。主従関係だけではない強い絆が感じられる。だが、まだ彼女は危険に晒されている。彼女を傷つけようとする者がいる。きみたちの大切な存在を奪おうとする者がいる」


 荒い呼気をする口の中に、ルネは自身の手を入れる。


「噛め。きみたちは血を餌にするんだろう。なら僕の血を飲め。飲んで、エリスのためにもう一度戦ってくれ」


 エリスは止めなければならなかったのに、ルネがあまりにもごく自然にそう言ったので、呆気にとられる。ヴァンサンたちもそれは同じだった。


 狼は命じられるままルネの手を噛んだ。牙を立て、血を流させる。ルネは一瞬顔を歪ませたものの、笑みすら浮かべて、頭を撫でてやる。


「そうだ。もう一度、立ち上がれ」


 エリスの使役する狼たちは、ヴァンサンのケルベロスと違って身体は別々であるが、魂は繋がっている。一匹の狼に取り込まれたルネの血は、他の狼たちにも共有され、次々と身体を起こしていく。


 そして先程よりも目を爛々と赤く輝かせ、再びケルベロスへと襲いかかった。一匹の個体に無数の狼が群がり、黒い塊を作り出す。


 やがてきゃうんと哀れな声を上げ、いささか身体を小さくしたケルベロスが割れた窓から逃げ出した。狼たちも後を追いかけていく。


「ちっ。人間の血を飲ませやがって」


 ケルベロスを助けようとしたヴァンサンも顔や腕を噛まれ、負傷していた。人間の血を飲んだ獣は強さを増す。


 ヴァンサンはルネを憎々しげに見る。赤い目が煌めき、襲う素振りを見せたので、エリスが距離を詰め、隠し持っていた短剣で心臓を突き刺そうとする。いつもならかすりもしないのだが、怪我しているせいか、動きがいつもより鈍い。


「シリル! いつまで挟まってるんだ!」

「だから助けてって言ってるじゃん!」


 ヴァンサンは舌打ちし、エリスの剣先を誘導する形で浮き上がっていた床板を思い切り踏む。大きな音を立て、シーソーの要領でシリルの身体と板が浮き、彼は天井のシャンデリアを引きちぎるように掴んだ。そうして身体を揺すって挟まっていた板を床へ落とすと、無防備なルネのもとへ一直線に向かう。


 そのまま異様に長く伸びた爪で喉元を掻っ切るつもりなのだ。


「ルネ!」


 暗闇の中。宝石のように赤く輝くその光だけが指標であった。ルネはただそれを狙えばよかった。


「シリル!」


 発砲音に、ヴァンサンの声が重なる。シリルは身体を逸らし、勢いを殺しきれぬまま壁へ激突する。土埃が舞う中、シリルの呻き声が聞こえた。


「くっ、目が、焼けそうだ。なんだよ、これ……っ」


 血を流す右目を押さえながら、シリルは憎々しげにルネの方を振り返った。

 ルネの手には、拳銃が握られていた。


「これはとある紳士に譲ってもらったんだ。何でも普通の弾とは違った、特別製らしい」

「吸血鬼狩りの拳銃を持っていたのか。そいつはまた……エリスを殺すつもりだったのか」


 ヴァンサンの問いかけに、ルネはまさかと静かな口調で否定した。


「こんな日が来ると信じて、ただ持っていただけだよ。エリスを追い詰める者から、エリスを守るためにね」

「……変態が」


 ヴァンサンの悪態にも、ルネは微笑んだ。


「彼女を守るためなら、喜んで変態になるさ」

「ああ、そうかよ。……はぁ。シリル、帰るぞ」

「冗談でしょ? ここからがいいところなのに」


 シリルはまだ戦うつもりらしい。警戒するエリスたちだったが、ヴァンサンは気怠い様子で肩を竦めた。


「お前、一刻も早く弾取り出さないと、本気で片目が見えなくなるぞ。俺も腕ボロボロ出し、もう戦う気力が失せた。あいつらも迎えに行かないとやばい。てなわけで、帰る」

「ぼく、疲れたから立てないや。お兄さま、おぶって?」

「こういう時だけ、気色悪い呼び方しやがって」


 駄々を捏ねるシリルにヴァンサンはため息をつきつつ、近寄って負傷していない腕で肩に担いでやる。


「エリス。お前はどうする」


 エリスが沈黙で答えれば、ヴァンサンが冷めた目で見やる。


「そうか。……じゃあ、ここで死んどけ」


 ヴァンサンが床に落とした赤い血が炎に変わり、みるみるうちに壁を燃やしていく。


「吸血鬼は簡単に死にはしないが、ここに籠って丸焼きにされれば、さすがに息絶えるかもな。あるいは建物が焼けて、日の光で灰に変えてもらうか……。好きな方を選べよ」

「あ、ヴァンサン、少し待って。ばいばい、エリス。――ルネも」


 肩に担がれていたシリルが顔を上げ、ルネの目を見つめた。ルネが怪訝そうに赤い目を見つめ返す。エリスがはっとして、ルネの視界を遮ろうとした時にはすでに遅く、びくんとルネの身体が大きく震えた。


「う、ぐっ……がはっ」


 心臓を鷲掴みにされたように――実際そうなのだが、シャツを握りしめ、大量の血を吐き出した。


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