第9話 人質

 ルネの瞳に射貫くように見つめられ、断らなくてはいけないのに、あり得ないと今までの自分だったら撥ね除けたはずなのに、エリスの心に迷いが生じる。


 彼とだったら、彼と未来を生きることができたら、それはどれほどの希望となるだろうか。


(――いいえ、だめよ)


「ごめんなさい、ルネ。あなたに血を飲ませることはできないわ」


 失望したであろうルネの表情を見ることができず、エリスは俯きながら答えを絞り出した。


「……わかった。すぐに受け入れられるとは思っていない。でも僕は決して諦めないから」


 エリスが顔を上げれば、月明かりに照らされたルネの表情が輝く。


「さっ、今日の交渉はここまでだ。せっかくだからさ、踊って帰らない?」

「踊るって……いえ、ルネ。わたしはもうあなたとは、きゃっ」


 エリスの腰を引き寄せ、やや強引にルネは踊り始めた。


「ルネ!」

「まぁまぁ、固いこと言わずに。ほら、せっかくこんな開放的な広間があるんだ。踊らなくては損というものさ」


 歌うようにそう言うと、ルネは身体を密着させて、まるで静かな曲調に合わせるようにゆったりと踊り始める。


「貴族の屋敷が近くにあれば、耳を澄まして、踊れたのにね」

「……ルネ。あなた、何の躊躇もなくここへ入って行ったけれど、大丈夫なの?」

「ああ、何も問題ない……かどうかはちょっと微妙だけど、この建物の名義は僕の名前なんだ」

「えっ……つまり、オーナーってこと?」

「うん、一応そうだね。でもちょっと火事が起きてしまって、ご覧の通り焼け野原になってしまったわけ。幸い怪我人は誰もいなかったから、よかったよ」


 確かにそれはよかったけれど……エリスは改めてルネの立場を実感する。


「今、本当に王子様なのね、って思った?」

「……ええ、思ったわ」

「騙すつもりはなかったんだ。もう少ししたら、打ち明けるつもりだった……ていうのは、結局言い訳になるね。ごめん」


 エリスは小さく首を振った。


「手紙にも書いたけれど、怒っていないわ。……あなたがこの国の王子だと知っていたら、もっと早く出て行っていたと思う」

「その時は、しつこく説得して屋敷に留めたと思うな」


 二人は顔を見合わせると、どちらともなく微笑んだ。そうしてルネが、やや速いステップでエリスの身体を蝶のように舞わせながら尋ねる。


「エリス。他に何か、僕に聞きたいことはない?」

「……ルネっていくつなの?」

「二十八歳だよ」

「まぁ、そうだったの」

「もっと下にみえる? もっと若い方がよかった?」


 気にしているのか口早に訊くルネに、エリスは少し笑った。


「あなたって時々少年のように無邪気に見える時もあるけれど、しっかりしているのね、って思う時もあるから、二十八とわかって、そうなのねって思っただけよ。年齢のことを気にするなら、わたしはうんとあなたより年上だわ」

「それこそ僕は気にしないよ。それにさ、見た目だけで考えれば、大人の僕がまだ若いきみを誑かしているような絵にならない?」

「そうなるのかしら?」


 エリスの肉体は十八歳の時でほぼ止まっている。吸血鬼も歳をとり、肉体にも変化をもたらすのだが、それは人間からすれば途方もない年月を要する。


「青年の見た目をした人が何百年も生きているような世界だから、わたしはあまり気にならないわ」

「そっか。エリスが気にならないなら、僕もどっちでもいいや」


 不安は解消されたと、ルネがふわりとエリスを持ち上げ、ジャンプさせた。吸血鬼であるエリスは、運動神経も人より優れており、ルネのステップにも難なくついていくことができる。


「他に知りたいことは? 好きな食べ物や、よく読む本のジャンルとか、何でも答えるよ!」


 ルネの笑顔に、エリスは目を奪われる。本当に彼の笑顔は眩しい。どうしたって心が惹かれてしまう。


「ルネは、わたしのどこが好き?」


 エリスの呟くような疑問に、ルネが真ん丸と目を見開いた。同時にエリスも我に返る。


「あっ、その、ごめんなさい。変なこと訊いてしまって、わたし……」

「なんてことだ、エリス」


 エリスを抱き上げてくるくる回っていたルネは、彼女を丁重に地面に下ろすと、驚愕した表情で自身の口を覆った。


「僕はまだ自分の気持ちをきみに伝えていなかった! この僕が! まずきみを屋敷に滞在させる上で、真っ先に伝えなくてはいけなかった言葉なのに!!」


 がくりと膝でもついてしまいそうなほどショックを受けるルネに、エリスもそう言えばと気がつく。


 ルネに直接言葉で好きだと伝えられてはいなかった。なんだか彼の性格からして、すでに何回も聞かされていたような気になっていた。


 ……なんだか自分がすごく恥ずかしい。


(でも言葉ではなく、表情や行動で伝えてくれていたから、そう思ってしまったんだわ)


 それに「好き」や「愛している」という言葉よりも、もっと意味のある台詞をルネはすでに言ってくれた。


「エリス」


 エリスがこれまでのことを思い返していると、ルネがいつの間にか地面に膝をつき、こちらを見上げていた。まるで騎士が主に忠誠を誓うような格好だ。


「ルネ。膝が汚れてしまうわ」

「うん。きみのそういった細やかな気遣いと優しさが好きだ。弱くて、強いところも。他にも、これから一緒にいれば、全部好きになっていく」


 騎士が姫君に愛を乞うように、ルネもエリスを一心に見つめる。


「エリス。きみが好きだ。大好きだよ」

「ルネ……」


 エリスの手の甲にルネの唇が触れ、口づけを落とされる。

 ルネは顔を上げると、少し照れ臭そうに微笑み、エリスの手を握りしめた。


「エリス。帰ろう。僕たちの屋敷に」

「わたし――」

「ひゅー。すげぇロマンチックじゃないか」


 からかうような口笛と軽薄な口調に、二人は揃って空を見上げた。


 柱の頂上に、二人の男が立っていた。

 一人は燃えるような赤い髪をした大柄の男性で、白いシャツに黒色のジレを着て、ジャケットは肩で無造作に羽織っていた。


「ヴァンサン。邪魔しちゃだめじゃないか。まだお取込み中なんだから」


 もう一人はようやく少年の域を脱したばかりのような、どこか幼さを残す銀髪の青年だ。規則正しく着こなしたシャツとタイに黒のジャケットとチェック模様のトラウザーズの組み合わせは、金持ちが通う学校の制服のように見える。


 二人とも赤い瞳を爛々と輝かせていた。


「っ……」


 エリスがルネを立たせ、守るように前へ進み出た時には、二人ともすでに目の前にいた。


「よぉ。久しぶりだな、エリス。今回の家出期間は十年か?」

「ヴァンサン。それじゃあさすがに短すぎるよ。二十年くらいは保ったはずだよ」

「ヴァンサン様、シリル様……」


 エリスは苦虫を噛み潰したような顔で二人の名前を呟く。


(こんなところで二人と再会するなんて……最悪だ)


「そう嫌がるなよ。お前がさっさと屋敷へ帰ってくれば、俺もこいつも、手荒な真似はするつもりはない」

「ぼくは反抗してもらっていいよ。だってその方が面白い、あだっ」


 シリルの頭を小突き、ヴァンサンがどうするんだと訊いてくる。


「お前だって、俺たちに勝てるとは思っていないだろ。そんなお荷物を抱えていちゃあ、なおさらだ」


 ヴァンサンの言葉にエリスは痛いところを突かれる。彼の言う通りだ。一人ならばまだ逃げ切ることはできるかもしれないが、人間のルネを連れているとなると、どうしても不利だ。


(せめてルネだけでも無事に帰さなくては――)


「わたしは――」

「すまない。彼女は私とこれから屋敷へ帰る予定なんだ。申し訳ないがお引き取りいただけるだろうか」


 諦めてヴァンサンに従いかけたエリスを止めたのは、それまでずっと口を挟めなかったルネだ。彼はエリスを守るように前へ進み出ると、堂々と吸血鬼たちに言い放った。


 ヴァンサンとシリルは互いに顔を見合わせ、ふっと笑う。そしてヴァンサンが片眉を上げながらルネに訊いた。


「断る、と言ったら?」

「聞く道理はない」

「ルネ!」

「交渉決裂か。では仕方ない。手荒な真似をすることになるな」


 恐怖を掻きたてるためか、人間相手にわざわざ本気を出す必要がないからか、わざとゆっくりとした足取りでヴァンサンが歩いてくる。エリスは自分の前にいるルネの腕を強く引っ張る。


「ルネ! 逃げて!」


 せめて自分が囮になって……そもそも自分が大人しく連行されれば済む話だ。一瞬でも迷ってはいけなかったのだ。


「待って。あなたたちと一緒に行きます。だから彼のことはもう放っておいて」

「エリス。僕は承諾したつもりはないよ」

「だってさ、エリス。残念だったね」


 ふわりと後ろから肩を掴まれ、ルネと引き離そうとするのはシリルだった。気配なく後方へ移動し、ルネの相手はヴァンサンに任せようとしている。


 エリスは覚悟を決めてシリルと戦おうとするが、またしても妨害が入る。ルネだ。彼は懐から何かを――液体の入った小瓶を取り出し、プシューと音を立てて、シリルに吹きかけた。


「うぷっ」

「おい、小細工はやめ、くっ――」


 ルネは小瓶を取り上げようとしたヴァンサンの顔にも同様に吹きかけた。ヴァンサンはシリルと同様、沁みるように目を瞑って顔を顰める。


「うわーん。鼻がひん曲がりそうなほどの臭いだよぉ」

「くそっ、俺の目が、目がああ」


 その隙にとルネがエリスの手を引いて走り出す。


「な、何をしたの!?」

「特製唐辛子&にんにくスプレーだよ。吸血鬼が苦手だと聞いて作っておいたんだ。効いただろう?」

「え、ええ……」


(にんにくはともかく、唐辛子は誰でも辛いと思うけれど……)


 しかし結果的に逃げ出す機会を作り出せたので助かったと言うべきだろう。屋上から建物の中へ入り、二人は急いで階段を駆け下りる。


「この野郎!」


(あぁ、やっぱりダメだわ)


 先ほどの攻撃で怒りの感情に火をつけてしまったのか、激昂した様子でシリルが追いかけてきた。普段はヴァンサンの方が沸点が低いように見えるが、実はシリルの方が感情的になりやすい。


「引き裂いてやる!」


 目を赤く光らせ、シリルは階段の手すりを掴み、めりめりと引き剥がしていく。そして鉄の棒と化したそれを槍投げのように投げた。エリスが間一髪でルネを抱き寄せ、鉄の棒は二人を通り過ぎて壁へと勢いよく突き刺さる。


「こわっ」

「まだよ!」


 刺さった鉄棒はぶるぶると震え始め、独りでに抜かれた。そして本当の槍のように鋭く尖った先端を再びエリスたちに向けて飛んでくる。


 踊り場を曲がっても、追跡をやめない。


「ははははは! そのまま串刺しにしてしまえ!」

「……シリルってああいうキャラなの?」

「勝負事になると、少し……箍が外れてしまうみたい」


 少しではない、とルネは指摘したかったと思うが、二人は槍の追跡から逃げるのでそれどころではない。

 攻撃は槍だけではない。シリル自身もこちらへ向かって来る。


「……ルネ。恥ずかしいかもしれないけれど、我慢して」

「え? うわっ」


 エリスはルネを横抱きに抱き上げると、十段以上もの段差を一気に飛び越え、華麗に着地するなりまた次の段差に向かって身体を浮かせた。


 吸血鬼であるからこそできる驚異的な身体能力にルネは目を見開いて、話すと舌を噛む危険もあるからだろうが、ただ何も言えず驚いている。


(もうすぐ夜が明ける。ぎりぎり粘って、明るいところへ彼らをおびき寄せれば――)


 エリスが頭の中でどうにか逃げ切る算段をつけようとしているうちに、一階へ到着した。外へ繋がる扉はもうすぐその目の前だ。


「ルネ。もう少しだけ我慢して。そうすれば――」

「逃げられるから、ってか? そいつは少し考えが甘いんじゃないか、エリス」


 エリスはとっさにルネの身体を後方へ投げ飛ばしていた。そうして声の主――ヴァンサンと対峙しようとしたが、彼の狙いは自分ではなかった。


「ルネ!」


 凄まじい衝撃音でエリスの叫び声はかき消される。四階から一階まで、一気に床を突き破って、シリルが現れたのだ。


 エリスの顔に絶望の色が浮かぶ。ヴァンサンがルネの背後に立ち、首に長く伸びた爪を立てて、今にも掻き切ろうとしていた。


「物騒なことをする」


 ルネが口を挟もうとすると、ヴァンサンの爪の先が皮膚に刺さる。エリスは悲鳴を上げそうになって、「やめて」と掠れた声で言った。


「お前は少し黙っとけ。――エリス。交換条件だ。こいつを無事に帰してほしけりゃ、郊外の森にある屋敷へ来い。もしお前が来なければ、こいつは殺す」

「そんなまどろっこしいことしないでさぁ、もうここで殺しちゃおうよ」


 シリルを冷めた眼差しでヴァンサンは見やると、もうすぐ夜が明けることを告げた。


「俺は面倒事は起こしたくない。いつも誰が尻拭いしてやってると思ってるんだ。それにお前、また血に呑まれやがったな。馬鹿が。ちったぁ頭冷やせ」


 乱暴な口調でヴァンサンはそう言うと、樽を抱えるようにルネを担ぎ上げ、堂々と建物から出て行く。


「ルネ!」


 エリスが慌てて追いかければ、すでにヴァンサンとルネの姿はなかった。


「大丈夫だよ、エリス。ヴァンサンがああ見えて律儀なこと、知ってるでしょ。屋敷で待ってるから、きちんと来てね」


 耳元で囁くようなシリルの声が聞こえ、振り返ると同時に、残像のような彼の姿が一瞬目に映る。だが瞬きすると同時に、跡形もなく消え去っていた。


「ルネ……」


 エリスの呟きもまた、かき消されるようだった。

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