第7話 別れ
「――それが、わたしが吸血鬼になった理由」
目を閉じていたエリスは、ゆっくりと目を開けた。
「わたしはマクシムのもとから逃げ出し、何度か連れ戻され、また逃げ出した。死のうと思った日もあったけれど、吸血鬼の身体はちょっとやそっとでは死ねない。不老不死と言ってもよかった。そんな身体でわたしは人間の血を飲み、生き続けている」
エリスはルネの方に目をやり、微笑んだ。
「ねぇ、ルネ。わたしは血を飲むのがたまらなく嫌なのに、結局飲んでしまうの。嫌がる人間や今にも死にそうな人間の血を飲んだ。吸血鬼を嫌悪していながら、わたしもその化け物に過ぎない」
ルネは何も言わない。言葉が出てこないのだろう。
エリスは当然だと思いながら、寂しいような、落胆したような、やるせない気持ちになった。――でも、これでいいのだ。
ルネは人間で、自分とは生きる世界が違う。血を飲んでほしいなど、もう二度と言えないはずだ。
「どこへ行くの」
黙って去ろうとしたエリスの手首をルネが掴んだ。エリスは振り返らぬまま笑いを零した。
「さぁ、わからないわ。でも、遠いどこかへ……あの男に捕まらないような所……あなたが知らない場所よ」
「ここにいればいい」
馬鹿なことを。エリスはそう言おうとしたが、後ろからルネに抱きしめられて、腕の中に閉じ込められてしまう。
「ルネ」
「……エリス。きみの話を聞いて、僕は……なんて言えばいいかわからない。ただきみがとても辛い目に遭って、生きているのだと知って……とても苦しい」
まるで自分の痛みだと言うようにルネは腕に力を込める。
「でもね、エリス。きみが何を言おうと、僕はきみを解放するつもりはないよ」
「ルネ……あなた、正気?」
エリスが身体を捩ってルネの顔を見れば、彼は微笑んだ。
「ああ、正気さ。うん。今の話を聞いて、なおのこと、僕はきみに惹かれた」
「そんなの……おかしいわ」
「おかしいものか。エリス。きみは言いたくなかった自分の過去を、血を飲んだことを打ち明けて、僕を怖がらせようとした。僕ときみを引き離そうとした。でも、そんなことしても無駄だよ」
ルネはにっこりと笑う。
「僕はどんなきみでも好きなんだ。むしろ今の話を聞いて……強くて優しいきみの生き方を知って、ますます惹かれた。愛おしく思った」
「ルネ。わたしは決してあなたが思うような人では――」
エリスの唇に、ルネがそっと人差し指を当てる。
「きみの言う通り、血を飲んだのは確かなのだろう。でも、きみはそのことをとても悔いている。話を聞いていて、僕はそう思ったよ。他にもまだ、僕の知らないきみがいるんだろうね。きみはいろんな経験をして、今、ここにいる。あの夜、僕と出会った。……僕は、きみに会えて嬉しかったよ。それが、僕の気持ちだ」
「ルネ……」
正直で、真っ直ぐな気持ちをぶつけられ、エリスは何て言えばわからなかった。
でも、心の奥が落ち着かず、おかしいような、泣いてしまいそうな、変な心地になって、笑みを浮かべてしまう。
「……あなたって、本当に変な人ね」
「はは。不思議な人から、変な人になったね」
「だって、本当に変わっているもの……」
正体を知っても、ルネの気持ちは変わらなかった。むしろますます強くなった。普通だったら、もう自分などと関わるまいと思うはずなのに。
(本当に変わった人。でも……)
「エリス?」
エリスは零れそうな涙が触れないよう閉じ込めた。目を瞑ったまま、彼の身体にそっと身を寄せる。
「ありがとう、ルネ……」
エリスは救われたような気持ちで、ルネにお礼を言った。
◇
「おはよう、エリス」
夕方に起きて食堂に顔を出したエリスに、ルネが挨拶してくれる。水色の瞳を優しく細めて自分に微笑む表情を見ると、温かい気持ちになった。
「おはよう、ルネ」
「昨日はよく眠れた?」
「ええ。あなたが出てくる夢も見たの」
「本当? それは嬉しい! ちなみにどんな夢だったんだい?」
「ふふ。サーカスでくまと一緒に玉乗りして、お客さんの大喝采を得る夢よ」
「へぇ。それはすごい! もしかすると本当に才能があるかもしれない。今度やってみようかな」
「まぁ」
冗談とも言えないルネの言葉にエリスは目を丸くした後、声を立てて笑った。そんな彼女を見て、ルネも嬉しそうな表情をする。
「エリス。朝食が済んだら、また庭を散歩しないかい?」
「ええ、喜んで」
エリスがそう言うと、ルネは楽しみだと言い、朝食を――夕食にあたる料理を食べ始めた。
「ね、ルネ」
「ん?」
「毎回、食事に気を遣ってくれてありがとう。作ってくれた方にも、そう伝えて。それでね、今度は赤色とかにこだわらなくて、あなたが普段食べるような食事にしてほしいの」
「それは構わないけれど……僕は別に無理して食べていないし、この食事も好きだよ」
エリスが自分のことを気にして……生肉や赤い料理ばかりで、申し訳ないと思ったのだろう。先回りして大丈夫だと告げるルネの気遣いに、エリスは「違うの」と微笑んだ。
「わたしも、あなたと同じものを食べたいの。あなたの好きなものや美味しいと思うものを……知りたい」
「エリス」
ルネはとても驚いたようで、でもすぐに顔を輝かせた。
「わかった。僕が美味しいと思うもの、すべて用意させるよ!」
「あ、いえ。そんなに全部は食べきれないから、少しずつでいいわ」
エリスが慌ててそう言えば、ルネはわかったと浮き浮きした様子で頷く。……大丈夫だろうか。彼のことだから、結局すべての料理を用意するか、あるいはもっと他の方法で自分を驚かせようとするかもしれない。
(でも、そんなところも、楽しみかも)
ルネに自分の過去を打ち明けても、彼の態度は一切変わらなかった。屋敷を出て行けとも言わない。いつも明るく笑って、優しい表情で、自分に接してくれる。
そんなルネに、エリスは張りつめていた緊張の糸がゆっくり解けていくような、安心を得ていた。そして、ルネのことをもっと知りたいと思い始めた。彼が自分のことを知り、受け止めてくれたように、自分も彼のことを……。
(なんだかわたし、変だわ)
自分の胸に手を当てて、エリスは小さく息を吐く。
ルネのことを考えると、妙に落ち着かない気持ちになるのだ。
「エリス? どうしたの?」
「ううん。何でもないわ」
きっと気のせいだろう。本当に久しぶりに人の優しさと温もりに触れて、心がびっくりしているのだ。
それからもエリスはルネと共に毎日を過ごした。彼と一緒に食事をし、庭を散策し、温室で星空を鑑賞した。彼にピアノを弾いてもらい、エリスが歌を乗せることもあった。夜遅くのティータイムでは、ルネの好きな紅茶と菓子を振る舞われ、エリスは見た目が可愛い菓子を気に入った。
何でもない日々の繰り返しが、エリスには幸せだった。それはきっとルネがいてくれるからだ。
「エリス」
彼が夜通し起きて、自分の生きる世界に付き合ってくれるから。孤独を慰めてくれるから。独りではないと伝えてくれるから。だからこんなにも、満たされるのだ。
この幸せな日々が永遠に続くことはないと、エリスはもう十分よく知っていた。
でも、いざその時が来ると、苦しくてたまらなかった。
「――リュシアン殿下。たまには王宮へ顔を出すよう、ヴィクトール殿下も気にしていらっしゃいます」
その会話を聞いたのは、偶然だった。
まだ昼間であったが、雨音に目が覚めてしまい、まだルネも寝ているだろうと思いながら、部屋を出てみた。すると居間の方で話し声が聞こえ、ルネが使用人と話しているのだろうかと扉の近くまで様子を見に行った。
長年の癖で、足音を立てずに歩いてしまい、ルネたちには気づかれぬまま、会話を盗み聞きする結果となってしまった。
だが、それでよかったのかもしれない。
目が覚めた……目を覚ます時がきたのだ。
エリスは静かに部屋へ戻ると、眠ることはせず、物書きの机に座って、ペンをとった。
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