第5話 エリスの生い立ち
エリスの突然の告白にさすがのルネも驚いたようだ。エリスはさらに続けた。
「あなたの首筋やうなじ、肌を見ると、歯を立ててしまいそうになるの」
「……生肉やトマトジュースでは、やっぱり効果がなかった?」
「多少はましになるわ。でも本物の血の味には到底及ばない。……食事をすることとは、また違うの。代替品には、なり得ない」
だから、とエリスはルネの両手を取り、握りしめた。
「あなたの血が欲しい。あなたを襲いたくてたまらない。あなたの命が尽きるまで、あなたの血をわたしにちょうだい。いいえ、あなたが断っても、無理矢理奪うわ」
「え、それって、うわっ」
エリスは突然ルネを長椅子に押し倒し、馬乗りになった。そして上半身を彼の胸板に押しつけ、いつもより力を込めて、難なく彼の抵抗を塞ぐ。それはまるで、嫌がる女性を無理矢理犯す男のようだった。
「ま、待ってくれ、エリス!」
「命乞いしても遅いわ。こうなったのもすべて、あなたがあの時わたしを助けてしまったから――」
「違う! 血は飲んでもいい! でも、こんな不健全な格好できみに血を与えるのはよくない!」
その思わぬ反論にエリスは一体何を言っているのだと、一瞬気が削がれる。その隙を見逃さず、ルネは素早く起き上がり、逆にエリスを腕の中に閉じ込めてしまう。
「ルネ? ちょっと、苦しい……」
「エリス。血を吸うなら、このまま吸って」
後頭部を優しく押され、いつの間にか上の釦を外したシャツから首筋を差し出される。細見に見えて、男らしい太い首。エリスの心臓がどくんと鳴った。
肌の匂いがする。あぁ、美味しそうな血の香りも。早くこの肌に歯を立てて、皮膚を切り裂き、喉の渇きを癒したい。早く、早く……!
「エリス」
ただ血を飲みたいという吸血鬼の本能に従いかけていたエリスは、ルネの低い呼び声にはっとする。そして自分がしようとしていたことに気づき、真っ青になって、ルネの身体を突き飛ばして離れようとした。
しかし、ルネはエリスの身体を離さなかった。抱きしめて、大丈夫だと励ますように言う。
「血は飲まなくていいよ。きみは本当は……血を飲むことが怖いんだろう?」
自分からけし掛けたことなのに無様な姿を見せる羽目になってしまい、エリスは恥ずかしくてたまらず、消え入るような声で肯定した。
「わたし……本当は人間の血が怖くてたまらないの。飲まないと力が出なくて、気がおかしくなりそうな時があっても、飲みたくなくて、いつもぎりぎりまで我慢していた」
もうすでに身体はどうしようもなく吸血鬼という化け物なのに、心はまだ人間でいたいと叫ぶ自分がいた。
「きみはもともと、人間だったのかい?」
「そうよ……。どこにでもいるような、平凡な人間だったの。もう二百年も前のこと……あなたたちからすればうんと昔にあたる頃の話よ……」
そこでエリスはルネの顔が見たいと言うように抱擁を緩めさせ、彼がどんな表情をしているか確かめた。困惑や恐怖の色があると信じて。
しかし、ルネの顔にはそういった感情は浮かんでいないようで、代わりにどこか怒ったような、真剣な表情で問いかけた。
「二百年も、きみは生きてきたの? その間、誰もきみのことを助けてくれずに? 最初は人間だと言ったね? では、きみを吸血鬼にしたやつがいるというわけだ。そいつは何のために、きみにこんな残酷な運命を背負わせたんだ」
「ルネ……」
彼の言葉や、抱きしめる腕の強さから激しい怒りが伝わってくる。困惑したエリスの顔に怖がらせてしまったのかとルネがごめんと謝る。
「エリス。辛いかもしれないけれど……できれば、僕に教えてくれないか。きみがどうして吸血鬼になってしまったのか。僕はきみのことが知りたい」
自分のことを知りたい。そんなふうに言われたのは、もう何百年ぶりだろう。人との接触をできるだけ避け、ただ生きることだけを考えていた日々に、ルネのように問いかけてくれる人はいなかった。
「……わたしの父は、牧師さまだったの。母との三人暮らしで、普通の家より少し裕福な暮らしだったかもしれないけれど、それ以外は本当に普通の家族だったわ」
「そう。お父上はどんな人だった? 牧師さまなら、きっと敬虔な人だったんだろうね」
「ええ、誠実で優しい人だったわ。でもね、人に意地悪したり、嘘をつくと、何時間も神さまの教えを説かれて、大声で怒鳴るような人ではなかったけれど、ただ懇々と話し続けて相手の考えを改めようとしたわ」
「それはそれで大変そうだ」
優しいルネの相槌に、エリスはくすりと微笑む。
「ええ。怒るのは母の役目だったかしら。でも二人とも、優しかったわ。たまに三人で近くまで出かけて、帰りに川辺の夕日を眺めて、ずっとこんな毎日が続くと信じて疑わなかった。だから……父が教会で亡くなった時……後ろからまるで大きな鎌を振るわれたようにして殺された時、世界がひっくり返ったように驚いた」
まるで悪魔のような仕業だ、と誰かが言い始め、根も葉もない噂はあっという間に広がった。
「父の死に方に、街の人たちは気味悪がって、働こうとする母を雇おうとしなかった。それどころか家を出て行って、どこか遠くの方へ行ってくれるよう頼んできた。頼る親戚もいなかった母はまだ幼かったわたしを連れて、内心不安でたまらなかっただろうに、大丈夫よと優しく微笑んでくれたわ。それで宿の女将さんに一日だけ頼んでわたしの面倒を見てもらっている間、必死に自分にできる仕事を探して――夜遅く、もしかしてわたしを一人置いて出て行ってしまったのではないかと思われた時刻に、母は帰ってきてくれた。父が亡くなって初めて見る笑顔を浮かべて、とても親切な人に出会って、屋敷で雇ってくれることが決まったと教えてくれたの。わたしも一緒に連れてきなさいって、一緒に暮らしなさいって最高の条件で雇ってくれると言うの」
エリスはその時のことを思い出し、胸が苦しくなった。どうしてあの時自分は、母を止めなかったのだろう。
「母はさっそくわたしを連れて、その親切な方のお屋敷へ行くことにしたわ。そこはとても遠かった。わたしがまだ小さかったから余計にそう感じたのかもしれないけれど、一日中馬車に揺られて、深い森の中に入った。昼間だったけれど、森の中は暗くて、怖かったわ。わたしは母にしがみついて、もういっそ帰りたいと訴えたくなった。でも、できなかった。だってそのお屋敷へ行く以外、わたしたちが行く場所なんて他にないんですもの。わたしはその時まだ十歳にもなっていなかったけれど、それだけは察していたわ」
エリスはふと、ルネの瞳を見た。彼の水色の瞳。何かを連想させると思っていたが、そうだ。空の色に似ているのだ。
「恐怖に染まりかけていたわたしの心は、不意にふっと晴れたわ。森を抜けて、空が見えたの。太陽の下へ出たの。あんなにも陽の光が心を救ってくれることを、わたしは生まれて初めて知ったわ。そうして、まるでお城のようなお屋敷が見えた。尖塔がいくつもあってね、屋敷よりお城と言ったほうが正しいかもしれない」
その城の素晴らしさに、エリスは訳もなく、自分の未来がきっと良いものになるだろうと思った。
「お城の中に入ると、てっきり屋敷のご主人や奥様が現れて、わたしたちに何か言うと思ったわ。でも不思議なことに、一人の年老いた男性がわたしたちを出迎えただけだった。本当にこの城に人が住んでいるのかと思うほど、人の気配が感じられなかった」
その後エリスと母は、その老人から城で住むにあたっての注意事項を受ける。
曰く、極力旦那様たちとは関わらないようにすること。口答えはしない。逆らわない。許可なく外出しない。
それは使用人として働くにあたり、どこの家でも守るべきことのように思えた。
「ただ……旦那様たちは基本的に夕方から起き出してくるから、朝と昼に会うことはほとんどないでしょうと言われたわ。それが貴族の生活だと。わたしはそれなりに裕福な家庭だったけれど、本物の高貴な人の暮らしは日が落ちて始まるものなのねって思ったわ。母も、特に疑うことなく受け入れた……」
その日から、エリスと母の城での生活が始まった。
母の仕事内容は、部屋の掃除や洗濯、家事全般であった。
城はとても大きかったが、使用人の数は足りていないように思え、また目を患った者や、脚が不自由な者と、何か訳ありの者がほとんどだった。
今なら、そういった者を雇う意味を深く考えただろうが、当時のエリスや母親は、ただ旦那様たちは自分たちのような者にも慈悲深い心を持った、とても親切な人なのだと思った。
「母親が働いている間、きみは何をしていたの?」
「わたしは母の邪魔にならないよう、わたしにできる範囲で仕事を手伝った。あまり目が見えない人に代わって、本や新聞を読んであげることもあったわ。文字の読み方は父が生きている頃に習ったから」
単調な日々のようで、大きな城での生活は退屈しなかった。
「用事もなく外へ出てはいけないと言われたけれど、わたしはまだ子どもだったから、母が洗濯物を干している間、広い敷地内を駆け回っても特に咎められなかった。たぶん裏庭で、誰にも見られていないと母も思ったんでしょうね。お城はぐるりと森に囲まれていた。わたしはしばらく蝶を追いかけたり地面の蟻を眺めていたけれど、ふとここへ来るまであんなに怖いと思っていた森の中にまた入ってみたくなって、自然と足がそちらへ向いたわ。その時よ。誰かの視線を鋭く感じたのは」
エリスはその時、悪寒のようなものを感じた。
「勢いよく振り返って、シーツ類を干している母の姿があって、その上を見たわ。四階建ての部屋にはアーチ形の窓がどの階にもあって、分厚い深紅色のカーテンが引かれて、一切の光を遮断するように見えた。でもよく見ると、三階のカーテンだけ、僅かに隙間があったの。わたしはもしかしたら、旦那様か奥様……あるいは、お二人の子どもたちの誰かが、わたしの姿を見たかもしれないと考えたわ」
「その屋敷には、子どもたちも暮らしていたんだね」
恐らくいろんなことを推測しながら話を聴いていたルネが確認するように呟いた。
エリスはそうよとゆっくり頷く。
「わたしはそれまで、旦那様たちの姿を見たことがなかった。でも、曇りの日や雨の日には起きていらっしゃることがあって、生活音や話し声が扉越しに聞こえてきて、あぁ、本当にいらっしゃるのだなと思ったわ」
「曇りや雨の日……」
「たまに、本当に時々だけれど、晴れの日に起きていらっしゃることもあったわ」
それは普通の人間がたまに陥る、寝ようとしても何だか目が覚めてしまって、結局明け方近くまで起きていたようなものだったと思う。
「使用人たちの中には、旦那様たちはみな皮膚の病気か何かに罹っていて、そのせいで夕方から起きる生活をしていると言っていた。わたしはなるほどと思って、とても可哀想に思ったわ」
エリスはルネの腕の中から抜け出し、夜空を見上げた。
「あの頃のわたしは、もうこの時間には寝ていたわ。母と一緒の部屋だった。母はいつも夜遅くまで繕い物をしていたから、わたしが寝入った後に毛布の中に潜り込んできた。寒い部屋の中で作業していたからいつも入ってきた時、ひんやりとして目が覚めてしまうの」
それでエリスはまるで冷えた母の身体を温めるように、あるいは大きな存在に守られて眠ることを願うように身を寄せて、母に縋った。世界で一番、安心する瞬間だった。
「でもその夜は、わたしの頬に触れる者がいた。てっきり母だと思ったけれど、その手はとても冷たくて、まるで死人のようにも思えて、わたしははっと目を覚ましたの。男性かと思ったけれど、違ったわ」
「どうして男の人だと思ったの?」
「手が大きかったから。それに母の手は、水洗いの仕事でかさついて、でもいつも触れられると温かかったの。あの人の手とは違う……指先で触れていたのに、掌でわたしの顔の輪郭に添えて……きっと最初は、そうだったんだわ……」
次第に独り言のように呟いていたエリスは、一呼吸おいて、自分に触れていた者の正体を明かした。
「その子は、女の子だった。わたしよりまだ小さくて、でもとびっきり可愛い子で、銀色の髪をして、目は琥珀色で、肌が白かった。旦那様たちのご息女である、オルテンシア様の瞳がわたしを見つめていたの」
『あなたが新しく家に来た人ね、やっと会えたわ!』
オルテンシアはこましゃくれた態度でエリスのことを気に入り、遊び相手に命じた。
『エリスは今日からわたくしのお人形ね。一緒に遊びましょう』
「家事を担っていた母は、オルテンシア様のナースメイドに命じられた。わたしも一緒にオルテンシア様の遊び相手をするよう、旦那様と奥様に言われた。お二人の顔をその時に初めてきちんと見たのだけれど、とても綺麗な人たちで、でも、どこか冷たい人だと理由もなく思ってしまった」
そしてオルテンシアがそうであるように、両親である二人の肌も白く、いっそ青白いと言ってもよかった。使用人たちが噂していたように本当に病気なのかもしれない――そう、当時のエリスは思った。
「子どもはオルテンシアの他にもいたの?」
「ええ。ちょうどよい機会だからと、他の子どもたちも紹介されたわ。三男のシリル様、次男のヴァンサン様。そして……長男である、マクシム様」
「エリス?」
マクシムの名前を呟いたエリスの顔が歪み、己の腕を抱きしめたので、ルネが大丈夫かと心配する。
「大丈夫……。三人とも、整った容姿の方だったわ。そして、ご夫妻やオルテンシア様と比べると、健康的な肌の色をしていらした」
もう一度長椅子に二人で座り、母がオルテンシアのナースメイドになった後のことをエリスは話し始める。
「オルテンシア様は子どものようで、でもとても聡明な方だった。普段は無邪気で、我儘に振る舞うことがあっても、時々こちらがはっとするような指摘をなさって、わたしや母よりもうんと大人に見える時があったの」
オルテンシアはエリスを遊び相手として、時に妹のように我儘を言って困らせて、かと思えば姉のようにエリスの知らないことを教えてくれた。
今はもう使われていない言語の読み方や絵画等の芸術作品を鑑賞する時に注意すること。声の調子は幼くても、語る内容は専門的で、エリスはまるで亡き父や博識な大人と接している時のことを思い出した。
「とても聡明な方だったけれど、やっぱり子どものような一面がおありで、寂しい方なのだと思ったわ。夜、わたしがもう起きていられなくて寝そうになると、『まだ寝てはいけないわ!』ってお怒りになられたのも、そうした気持ちがあったから。旦那様も奥様も、オルテンシア様のことを本当に可愛がっていたけれど、それは人形を愛でて、犬猫を可愛がるようなものだとおっしゃったことがあったの」
貴族の親は子どもの世話は乳母やメイドに任せきりになると言うが、それだけではない冷たさが彼らの間にはあるようだった。
「わたしはなるべくオルテンシア様のおそばにいてあげたくて、昼寝をして、夜長く起きていられるようにした。それでも我慢しきれず眠ってしまう日々が続くと、彼女が寂しくないよう日記を残すことにしたの」
「日記?」
「ええ。自分が印象に残った今日の出来事を書いたり、相手の好きなものや本の内容を訊いたりするの」
「あぁ、交換日記みたいなものか」
オルテンシアはとても喜んでくれた。昼間に摘んだ花を挟んで渡したこともあった。
「わたしはオルテンシア様を喜ばせたくて、森の中の木の実や花を日記と一緒に渡そうと考えた。でも、オルテンシア様は次第に不機嫌になられて、とうとうある夜、わたしが敷地内から出たことに対して激しくお怒りになられた」
『エリス! おまえ、この城から、わたくしから逃げようとしているのでしょう!』
「癇癪を起こした後、大きな瞳からぽろりと涙を零して、どこにも行かないで、わたくしを置き去りにしないでと、大声で泣きながらわたしに縋ったの」
その姿を見て、エリスはオルテンシアがまだほんの子どもであることを知った。彼女の脆く弱い姿に庇護者としての感情が芽生えたような気がした。
と同時に、オルテンシアという存在に疑問を抱いた。彼女のこの不安定な一面、大人と子どもの両方の性質を兼ね備えていること、まるで心と身体が見合っていないような……上手く説明できない違和感が徐々に膨れつつあった。
「オルテンシア様のことを知るにつれて、母の様子もどこかおかしくなっていった。まるで何かに怯えるように、常に周りの視線を気にして、顔色を悪くすることがあったの」
夜眠る時も、エリスを抱きしめる身体は震えていた。そしてエリスだけは何があっても守るように強く抱きしめてくるのだ。
『エリスティア。大丈夫よ。あなたにはお母さまがいる。お父さまも、きっとそばで守ってくださるはずよ』
その時の母の言動を思い返す度、エリスは泣きそうになる。胸が苦しく、自分が何も知らずのうのうと生きていた罪深さに心が押しつぶされそうになった。
「エリス……」
ルネの掌が、震えるエリスの手を握りしめた。彼女は涙を拭い、一番辛い出来事を語る。
「母はオルテンシア様のナースメイドだったけれど、いつからか母はわたしに彼女の相手を任せて、他の仕事をするようになった。その時からだったのよ。母の顔色が悪く、まるで父が亡くなった時のように……いいえ、その時よりもっとずっとひどく、まるで地獄から帰ってきたように青ざめるようになったのは。実際、貧血を起こしたように寝台にぐったりと横になって魘されていたと思うと、突然飛び起きて、そばにいたわたしを胸にかき抱くの。わたしは、母に何が起きていたのかわからなかった。何が母をそんなに苦しめているのか不安でたまらなくて、一緒に泣いたわ」
それが十歳のエリスにできる精一杯のことであった。
『お母さま。どうかもう泣かないで。エリスがそばにいるわ。神さまとお父さまに毎晩祈って、お母さまの苦しみを取り除いでくださいってお願いしているの。だからきっと大丈夫よ。お母さま、泣かないで。わたしがいるわ。エリスがずっとそばにいいてあげる……』
「わたしが拙い言葉で一生懸命慰めると、母は涙を流しながら、ようやく安堵した表情でわたしをもう一度強く胸に抱きしめたの。しばらくお互いのすすり泣きが部屋に響いて、やがて母がわたしの濡れた頬を拭いながら、どこか吹っ切れたような表情で、お城から出て行くことを明かしたわ」
その時エリスは何も言わず、黙って頷いた。母にしがみつき、母と共に生きていく意思を伝えた。オルテンシアと別れることは辛かったが、母はエリスにとってたった一人の家族である。母と別れる選択肢などあり得なかった。
「もう一度夜を明かした後に、出て行くことを決めた。――でも、その日は来なかった」
今でも後悔している。「もしも」を想像する。出て行くと決めたその日に、すぐにでも城を出ていたら何か違っていただろうかと……。
「朝方、母の悲鳴が聞こえたわ。寝床にはいなくて、昼前の、曇った日だった。わたしはとても嫌な予感がして、寝間着姿のまま、部屋を飛び出して、玄関へ行ったの。階段の前に、母がうつ伏せで倒れていた。わたしは他の使用人たちの制止を振り切って、母に駆け寄った。肩を揺さぶって、名前を何度も呼んだ。……でも、母は生き返らなかった」
すでに事切れていた。
まるでその時の自分に戻ってしまったみたいに、手先に力が入らなくなる。ただぎゅっと握りしめるルネの温もりだけが、エリスの口を動かした。
「騒ぎを聞きつけて、旦那様たちも起きてきたわ。三男のシリル様が騒がれて、次男のヴァンサン様が宥めていたけれど、わたしの耳には全く入らなかった。でも、ふと長男のマクシム様と目が合ったの。黒色の瞳が一瞬赤色に見えて、ぞくりとした。とっさに母の亡骸に視線を落として、何だか気づかないうちに蜘蛛の糸に捕らわれてしまったような……そんな恐ろしい錯覚に陥ったの」
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