第3話 屋敷での生活

 次の日から、エリスの屋敷での生活が始まった。


 ルネの言った通り、メイドは必要以上のことは決して話さず、淡々と手際よくエリスの着替えを手伝ったり、ベッドメイキングを行った。仕事をこなしている間でも極力物音を出さず、用事が済むと速やかに部屋を退出するので、何だかただ者ではないような気がしている。


(でも、いろいろ詮索されないのは助かるかも……)


 他にも使用人はいるようだが、ルネの命令に従っているのか、顔を見合わせることはない。だからもっぱら自分に話しかける者は一人だけで――


「エリス。おはよう! 今日も実にいい夜だね!」

「おはよう……実にいい、夜……」


 エリスが窓の外へちらりと目を向ければ、外は夕日が沈み、夜の時刻となっていた。最初はエリスが体調を崩しているために十分休ませて、目覚めた時間帯がたまたま夕方以降だったためにそう言っているだけだと思ったが……ほぼ毎晩となれば、エリスもまさかと思う。


「ねぇ、ルネ。もしかしてあなたは、わたしが吸血鬼だから……夕方日が落ちても、おはようと言ったの?」

「うん? そうだけど……何かまずかった?」


 エリスは何と言っていいかわからなかった。普通夜におはようと……出会ってまだ数日も経っていない相手に、しかもごく自然な態度で言えるものだろうか。


 エリスが驚いたのはそれだけではない。


「エリス! 生肉は食べられる? 表面をあぶったんだけど、お腹壊すかな? 他にも酸味のあるスープに、トマトソースのパスタでしょ、赤ワインとトマトジュース、デザートには苺のソースがかかったケーキとアイスを用意したから、食欲がそそるものを口にしてくれ!」


 白い皿に盛られた料理はすべて赤かかった。まるで何かを連想させるような色だ。


(お料理も、吸血鬼が飲む血をイメージしているんだわ……)


 ルネはごく自然にエリスの吸血鬼としての生活を受け入れ、血を連想させる食事さえ当然のように用意した。


 好意であれ何であれ、エリスは戸惑い、ルネという青年に対して警戒を抱かせた。


「――ルネ。あなたはどうしてここまでしてくれるの?」


 とうとう我慢できず、食事の最中に、エリスは尋ねてしまう。


 深紅色のスープに落としていた視線を、目の前に座る青年へと注ぐ。そして今初めて、リュシアン・ルネ・ラルシェという青年がどういう顔をしているのか確かめた。


 形の良い眉や、やや垂れ目の水色の瞳は優しそうに見える。高すぎず、低すぎることもない鼻の下には、常に微笑を描いている唇があって、優しくも端正な顔立ちには隠しきれない気品があった。


 世俗に疎いエリスもルネが高貴な人間であることは十分察せられた。


 そんな彼がなぜ、という疑問が消えない。


「あなたはわたしが吸血鬼であることを知っている」

「ああ」

「わたしが怖くないの?」


 どうしてそんな質問するんだい、と言うようにルネは微笑んだ。


「怖くないよ」

「……本当のことを教えて。わたしをどうするつもり?」


 自分を何かに利用するつもりではないか。エリスがそう問えば、ルネは水色の瞳を悲しそうに曇らせた。


「きみは、僕が何かするのではないかと疑っているんだね」


 どこか傷ついたように微笑むルネに、エリスの心もずきんと痛む。


「あの、わたし決してあなたを疑いたいわけではないの。でも……」

「いや、きみが疑うのは当然だ。まだ得体の知れない相手にあれこれ世話を焼かれるのは気持ちが悪いよね」

「いえ、そこまで思っているわけでは……ただ、不思議で。わたし、今までこんなふうにもてなしてもらったことがないから。だから、何か裏があるのではないかと思って……」


 言いながら、何だか落ち込んだ。ルネが善意でやっていたとしても、自分は素直に受け取ることができない。


「エリス。信じられないかもしれないけれど、本当に僕にきみを傷つけたいなどという気持ちはないよ。あるとしたら……」

「あるとしたら?」

「きみのことがもっと知りたい。吸血鬼っていう存在よりも、エリスという女の子と仲良くなりたいんだ。不純と言えば不純かな? でも、それが僕の気持ちだよ」


 ルネの言葉を聞いて、エリスは直感的に、この人は嘘がつけない人だと思った。


(なんていうのかしら……純真で、真っ直ぐな人……そんな気がする)


「……あなたって、不思議な人だわ」


 何だか全身の力が抜けてしまい、エリスはふふっと笑った。


「よく言われる。僕としてはどこまでも真面目なつもりなんだけどね。だったらもう少し真面目な顔をしろ、って従兄に言われたよ」

「従兄がいるのね」

「うん。一つ上で、本当の兄弟のように育ってきたんだ。顔立ちも似ているけど、雰囲気がまるで違うんだ」

「そうなの」

「きみは? 兄妹とか、いる?」

「いえ、わたしは……」


『エリス。今日からあなたはわたくしのお友達よ。そして姉であり妹。家族なの』

『エリス。お前、俺たちの妹なんだって? なら俺はお前の兄だな。何でも言うことを聞けよ』

『エリス。ぼくのこと、お兄さまって呼んでみてよ』

『エリス。お前は私の――』


「エリス? 大丈夫?」


 気づけばルネが立ち上がって自分を心配しており、エリスは慌てて頷く。


「ごめんなさい。少し、ぼうっとしてしまって」


 昔のことを思い出し、エリスは腹の底が冷える気がした。


(あそこへは戻りたくない……)


 不安や恐怖、強い拒絶が膝の上に置かれた手を震わせる。体温も幾分下がったように感じ、顔も青ざめているだろう。


 そんなエリスを見てルネは何があったのか気になったはずだが、口にはせず、食事をしようと優しい声で勧めた。


「料理長にね、とにかく赤い料理を作ってくれるよう頼んだんだ。理由もそれとなく訊かれたから、元気が出るように、って答えた。ほら、赤って情熱的な色だろう? 真っ赤に燃える太陽、って台詞フレーズもあるし、寒くて凍えそうな心もきっとぽかぽかになるはずさ」


 そう言うと、ルネは深紅色のスープを一口掬い、美味しそうに味わった。彼の食べる姿を見ていると、不思議とエリスも食欲が湧いてくる。


「ね? エリスも食べよう」

「……ええ、いただくわ」


 エリスが食事を再開すると、ルネは間に話を聞かせてくれる。それはやはり明るく、笑いを誘うもので、エリスは自然と笑みを浮かべていたことに気づかなかった。


 もう長いこと忘れていた「楽しい」という感情を胸に抱いたことも。

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