第2話 ルネ

 ――エリス。お前がどれだけ遠くへ逃げようとも、私から逃げることはできない。お前は私の……。


(ちがう、わたしは……)


 暗闇を真っ逆さまに落ちていくエリスはふと自分の手を誰かに掴まれる。力強く、優しい温もりが伝わってくる。光から遠ざかっていくエリスを掬い上げ、もう一度光りある場所へ連れて行こうとするように。


 だからエリスは不安を振り切り、その手を握り返した。もう一度、あの光あふれる世界へ戻りたいと願って。


「ん……」


 エリスがゆっくりと目を開くと、まず天井……ではなく、男の顔が映り込んだ。櫛で梳く必要がないと思われるほどさらさらとした金の髪に、水色の瞳はじっと自分を見つめている。そう。ただじっとエリスだけを……。


「ひゃあっ」

「うわぁっ」


 エリスが素っ頓狂な声を上げたことで、青年の方もまた驚いたように身を引く。

 しかしその声はどこか間延びしたものであり、寝台の上で後退るエリスに事情を説明しようとする様子も本当に焦っているようには見えなかった。


「すまない。驚かせるつもりはなかったんだ。ただきみが苦しそうに魘されていたから心配になってしまって、あぁ、大丈夫。そんなに怯えなくても、変なことはしていないと誓って言える。僕はこう見えてレディはもちろん、その他どんな老若男女に対しても紳士に接することで有名で――」

「あなた、誰?」


 いや、そもそもここはどこなのだと、エリスは部屋の中をぐるりと見渡す。エリスが寝かされていたのは天蓋付きの豪奢な寝台だ。


 暖炉の上や、上品な色合いのチェストに猫脚の小さいテーブルの上には動物などの置物、薔薇が活けられた花瓶、時計、小物を入れる箱、赤や青のリボン……など、細々とした雑貨が飾られている。赤く分厚いカーテンは閉め切られて、まだ太陽が出ている時刻だと思うが室内は薄暗かった。


「眩しいかな? やっぱり窓のない部屋の方がいい?」


 エリスはごくりと唾を飲み込んだ。


(この人、わざと日の当たらない環境を作っている。わたしが日の光を苦手だと知っている!)


 エリスの胸に様々な疑問が渦巻く。


 あなた、わたしの正体を知っているの? いつ? まさかあの夜? 吸血鬼だなんて本当に信じているの? わたしをここへ連れてきたのはなぜ? あなたは一体何者なの?


 だがそれらを相手にぶつけるよりも、一刻も早くこの場を去った方がいいと判断した。なぜなら相手はどこか変わっていて……普通ではないように見える。


 自分が言えることではないと重々承知しているが、自分の正体に勘付いている以上、目的が何であれ彼を危険に晒してしまう可能性がある。


「……いえ、その必要はありません。助けてくださって、ありがとうございます。いろいろご迷惑をおかけしてしまって、本当にごめんなさい。すぐにお暇します」

「待って! きみが僕を警戒するのは実によくわかる! だが今、外へ出るのは危険なはずだ。きみはあの晩、誰かに追われ、そして傷ついていた」


 寝台を下りようとするエリスを押し留め、青年は矢継ぎ早に話す。


「僕の名前はリュシアン・ルネ・ラルシェ。親しい者はルネ、と呼ぶことが多いかな。きみもぜひそう呼んでくれ。それで、えっと、そう! きみはしばらくこの家で療養するといい」

「え? いえ、その必要は……」

「きみのことだから僕に危険が及ぶと心配しているのだろう? そう思うならば、いっそう今しばらくここに滞在した方がいいと思う。僕の勘が告げているんだが、きみを追っている連中はどうも執念深く、諦めが悪いと見える。だから今もまだこの辺をうろついているんじゃないだろうか」

「それは……」


 あり得る話だった。

 彼らはまだエリスがここにいると思い、今も探していることだろう。


「だから彼らが諦めるまで、それまでは、どこかに身を隠しているのが賢明だと思う」

「それは……でも、だからといって、あなたのお家にお邪魔するわけにはいかないわ」

「大丈夫! 全然気にしなくていい! むしろ大歓迎だ! なにせ、僕はずっときみのことを……あ、いや、コホン。ええっと、この屋敷はずっと主不在だったんだ」


 エリスは首を傾げた。


「ここはあなたの屋敷ではないの?」

「いや、僕の屋敷さ。でも、僕は人気者でね。それにアウトドア派で、パーティーとかに毎日引っ張りだこで、あまりこの家に帰って来ることはなかったんだ。でもそれではこの家が可哀想だろう? そこできみの出番だ」


 リュシアン・ルネ・ラルシェの話しぶりはまるで舞台俳優のように淀みなく、どこか芝居がかっていた。


「きみがここで療養するためにしばらく住んでくれれば、この家だって喜ぶ。きみは追手から身を隠すことができる。な、一石二鳥だ。いや、僕も喜ぶ。もう、すごく!」

「あなたも? ……どうして?」

「どうして? 我が家ときみを喜ばすことができるだろう? それが理由さ」


 エリスはまだ腑に落ちなかった。どうにも上手く出来すぎている。


「ふむ……。その目はまだ疑っているな? よろしい。では本音を打ち明けよう。きみのせいで僕にまで危険が及ぶかもしれない。だから僕の方できみの面倒を見ようという魂胆さ」

「それならば、やはりわたしが出て行きますわ。彼らの目的はわたしですもの」

「いや、きみはどこかうっかりさんな一面がある。信用できない」


 きっぱりと告げられ、ついエリスもムッとする。


(初対面のくせに、ぽんぽん言ってくれるじゃない)


「ご心配どうも。確かにわたし、少々うっかりな所があるかもしれませんわ。危ない目にも何度も遭って、でもその度に――」

「何だって!? 何度も危険な目に遭った!? やはりきみを今外へ出すわけにはいかない!」


 エリスの境遇にルネはいたく憤慨する。それは初対面のエリスのことを本当に心配しているように見えた。


 エリスが呆気に取られていると、ルネはまた我に返った様子で咳払いし、少し恥じ入る態度で話を共に戻す。


「先ほどはつい失礼な言い方をしてしまったね。悪気はないんだ。どうか許してくれ」

「いえ、その……」

「きみが僕を信用できないのはもっともだ。だが誓って、僕はきみを傷つけることはしない。だからここに……しばらくの間でいい。そう、ひと月……いや、一週間。その間だけ、ここにいてもらえないだろうか」


 真摯な眼差しでそう頼まれ、いよいよエリスは混乱してくる。どうして彼はここまで自分に屋敷にいてほしいのか。


「あなた、わたしの正体がわかっているのでしょう?」

「吸血鬼だろう?」


 さらりと答えを述べられ、また困惑する。


「怖くないの?」

「いや、特に」


 彼は背もたれのない木の椅子を引き寄せると、腰を下ろし、しげしげとエリスを見つめてくる。


「目の色はあの時と違って紫なんだね。とても綺麗だ」

「きれい……」


 今までのどこか陽気なキャラを潜めて、とても真剣な表情をして言うものだから、エリスは頬が熱くなった。綺麗だなんて初めて言われたし、ルネもまたとても美しい容姿をしていたから、羞恥のような気持ちも混じった。


「でも、あの赤い目もとても惹きつけられた。ああなるのは、血を吸いたくなった時?」


 だがすぐにその質問で、スッと心が冷え、冷静さを取り戻す。


「……ええ、そうよ。あなたという餌が目の前に現れたから、興奮して、襲いたくなったの。実を言うと、今も、あなたの血が吸いたくてたまらないのよ」


 本当は吸血鬼の能力を使ったために赤くなったのだが……吸血衝動が起こった時もそうなるし、こんな話を聞けば、誰だって気色悪く思い、恐怖を抱くはずだ。


(わたしのこと、追い出したくなるはずよ)


 あの晩、彼はきっといろいろおかしくなっていたのだ。だって吸血鬼相手にまさか血を飲んでほしいなんて。もしかすると、エリスの聞き間違いかもしれない。本当は血を飲まないでほしいと頼むつもりが、エリスを前にして恐怖で心が支配され、それでつい――


「あぁ! 僕としたことがついうっかりしていた! きみが目覚めたら、真っ先に血を捧げようと思っていたのに! 本当に申し訳ないことをした! 待っていて、このナイフで今すぐ血を捧げるから」


 懐から流れるように果物ナイフを取り出したルネが自分の手首を掻っ切ろうとするので、エリスはぎょっとして、慌てて彼を止める。


「な、何をしているの! 馬鹿なことはやめて!」

「え? でも、血が欲しいんだろう?」

「欲しくない! そんなきょとんとした顔で、きみ何言っているの? って顔をするのはやめて!」


 エリスの必死の説得により、どこか不承不承といった様子でルネはナイフを引っ込める。エリスは何だかどっと疲れてしまい、肩で息をした。


(血を飲んでほしいだなんて、やっぱりこの人変だわ!)


「血は欲しくないのか……でも、昨日会った時も青白い顔をしていたし、そのまま力尽きたように気を失った。今も、とても疲れているように見えるけれど」


 それはあなたの行動のせいだ、と内心即答しつつ、エリスは昨夜自分が吸血衝動を抑えるために眠りについたことを知る。


「……あなたが、わたしをここへ運んでくれたの?」

「そうだよ。だってそのまま置き去りするのは危ないだろう? だから僕が――あっ、誓って変なことはしていないから!」

「そう……。あの、今さらだけど、助けてくれてありがとう」


 エリスが気まずそうにお礼を述べれば、ルネは目を丸くした後、ふわりと笑った。


「どういたしまして。ね、きみの名前を改めて聞かせて?」


 エリスは少し躊躇ったもの、ルネも教えてくれたからと心の中で思い、口を開いた。


「わたしはエリスティア……エリスって言われるわ」

「エリス。そうか、エリス。きみは、エリスなんだね。どうぞこれからよろしく」


 いつの間にかこの屋敷で暮らすことが決まったかのような流れに、エリスは戸惑う。もう一度彼に考え直すよう告げるつもりが、やはりルネの方が先に口を開いた。


「ね、エリス。僕が見たところ、きみは血を吸わせるのがあまり好きではないようだね。これからは気をつけるよ。他にも何か不便なことがあったら、遠慮なく言ってほしい。僕はきみに、ここで少しでも心地よく暮らしてほしいから」


 真面目な表情で伝える声には、優しさも込められているように聞こえ、エリスは何て答えればいいかわからなかった。迷っている間に、ルネが椅子から立ち上がる。


「では、いろいろ話して疲れただろうから、今日はもうお暇するよ。何かあったら、そこの呼び鈴で呼んでくれ。僕のメイドが……あぁ、この人にはきみが吸血鬼であることは伏せているから大丈夫。他にも使用人はいるが、みな、きみを害することはないから、安心してくれ。とにかく、何かあったら、遠慮なく彼らに申しつけてくれ。僕もまた、きみの様子を見に訪れるから。――では、お休み、エリス」


 彼はそう言うと、エリスの手を取り、触れたかもわからぬ口づけを落とした。そうして部屋を出て行こうとしたが、扉が閉まる前に振り返り、エリスに微笑んだ。


「エリス。きみと会えて、僕はとても嬉しい。神さまに感謝しているよ」


 まるで恋人のような台詞を贈ると同時にぱたんと扉は閉まった。


 エリスは手の甲への口づけから、ただただ呆然としていたのだが、ようやく魔法が解けたかのように忙しなく瞬きを繰り返す。


(吸血鬼と会えて神さまに感謝するなんて……)


 もしかして一番危ないのは彼なのでは……と思ったが、自分との出会いを神に感謝すると告げた時のルネの笑顔がなぜか頭から離れなかった。

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