第2話 冷えた絆、恋の決意



「ふー…」


 健一は忙しかった日勤を終え、アパートの自室にいた。

 部屋着に着替えた健一はソファーにもたれかかりながら煙草を吸っている。鈴木からの連絡先交換をふと思い出した。


 仲のいい後輩だからこそ、関係性は大切にしなければ。健一は男性看護師でもあるため病棟内の人間関係には厳格だった。連絡先交換を拒否したらどうなるだろう、陰口、とにかく怖い。鈴木のことはいち女性スタッフとして尊重している。ただあの好意には純粋に嬉しかった。付き合っていたのが美咲じゃなくて鈴木さんだったら、と考えてしまうのも無理はないだろう。


 健一と美咲の関係は恋人同士だが、美咲に対する健一の想いは冷え切ったものであった。スマホを手に取りネットニュースでも見るかと開くと、たくさんの通知で埋め尽くされていた。


 鈴木桃子1件、野球速報4件、スポットニュース5件、母1件、佐藤美咲19件


「……ッ」


 健一は息を呑む。通知がかなり溜まっていたが、どれも退勤して間も無くだった、気が付かなかった。鈴木さんは申し訳ないけど、母はまあ良いしようあいつは無視でいい。

 ただ美咲は、美咲だけは拙かった。言い訳、考えないといけない。どうしようか考えていた時、パイン電話がかかってきた。


「…もしもし」


健一はゆっくりと深呼吸をする。



「…美咲、ごめん返信遅れて。」



急に重くなったスマホから暗く冷たい声が聞こえてくる。



『遅いんだけど、なんで既読つかなかったの。今どこにいるの。』








………



……






 鈴木桃子、水の滴る24歳。


 彼女は更衣室で着替えた後、急いで寮に戻り、シャワーを浴びた。今日の日勤は著変はなかったが少し忙しかった。だが桃子にとってはとてもいい1日であった。何せ桃子にとって大好きな先輩、高橋健一と同じ勤務であったのだ。



 桃子が健一に惹かれているのは学生時代にのぼる。

 桃子は看護学生の時、本当に不出来な学生であった。レポートは遅い、赤点ギリギリの点数と叩き出しており、何より実技試験では緊張のあまり失点を繰り返していた。


「ポルトガル語なんて出来ないよ…無理無理、語学なんて絶対無理」 

 当時の桃子の口癖であった。まことによく卒業できたものであると思えよう。

 話が飛んでしまった。

 

 桃子が健一と出会ったのは三年後期の老年看護学の実習の際だった。当時桃子は消化器内科に勤務していた健一について歩いていた。


 病棟内で先輩看護師達がせわしなく動いており、学生の世話よりも自身の業務で手一杯でおり、学生一同は孤立していた。


 挨拶をしても返してくれない。話しかけても「忙しいからまた後で」、「なんで行動計画を見てもらわなかったの」、「実習に来ている意味ないよね」、「看護師になんてなれないから帰ったら」等々、そんな辛辣な環境で学生達は潰れていた。



 「あ、あの。本日の行動計画を見ていただきたいのですが」


 夜勤者から申し送りを聞いていた健一に声をかける。完全にタイミングがミスっていた。病棟が一瞬だけ静かになるような、そんな気がした。


「あのさ、学生さん、いま何しているかわからない?」


「あ、えっと…」


 桃子は、戸惑ってしまう。話しかけるべきではなかった。やってしまった。もう取り返しがつかない。終わった。


「彼に申し送りしてるの、話すんなら貴女が申し送りしな。」


 夜勤看護師は疲れているところに申し送りの邪魔をされて完全に切れていた。膨大な威圧とストレスで桃子は頭が真っ白になり泣きそうになっていた。



「あ…あっ……

  「学生さん後少しだけ待っててね、申し送り聞いたら点滴詰めるから、一緒に手伝ってもらってもいいかな」

         ………へ?」



 白いナース服を着た男性看護師が微笑みながら話しかけてくれる。切れてる夜勤看護師が男性看護師に鋭い目を向ける。


「ちょっと健一くん」


「あと2〜3人だけですし、他は変わりないですか坪井さん」


「まあ変わりないけど」


「何か医師に確認することとか残ってる業務あれば俺やるんで大丈夫ですよ。それに坪井さん、あの松井先生嫌いでしょ、代わりに報告しときます。」


「……はあ、ありがと助かる。………学生さん何見てんの、あたし忙しんだから突っ立ってないで他のことしてな」


「すぐだから待っててね、よかったら俺の横に座っていいよ」


 桃子は行動目標の挟まった板を抱え、縮こまるように健一の横の椅子に座りなるべく体を小さくする。


「ほんと健一くんは優しすぎるよねー。あたしの時なんてさー。」


「行動目標の紙、床に叩き付けられたんでしたっけ」


「そうそう、まあその人、もういないけど。」


 桃子は床の一点を見続ける、耳に届く声と音がとても冷たく震えそうになる。でも隣の大きく、そして頼もしい背中から感じる暖かさに心を溶かされていくのを自覚してしまった。









「お待たせ、行動目標聞いちゃうね。軽くでいいよ。」


 夜勤者の坪井看護師から申し送りを聞いた後、椅子を回転して桃子の方へ体をむけてくれる。

 桃子はしどろもどろになりながらも話した、健一は最後までうなづきながら聞いてくれた。


「そしたら清拭と、褥瘡の処置に関わりたいんだね。俺は点滴詰めないといけないんだけど、急いでしないといけない点滴だけ詰めてしてくるから、そうだな、エルネオパだけの人いるから、その人は10時切り替えだし、そのとき一緒に手伝ってほしいな、先生に話しておくよ。」


「ふ、ふぁい」


「それまでは清拭したほうがいいのかな、うーん。そうだ、−−さん皮膚トラブルあるし、清拭後に処置するから一緒にしようね。それまでは俺についてきて、何か見たいやつとかある?」


 優しい…桃子の頭の中はそれで一杯だった。














「桃子、うらやましすぎるんだけど」


 ここはカンファレンス室、ただいま学生達は記録の真っ最中だった。一緒のグループの秋山が足を組みながら桃子にそう話す。


「幸せ、まじ助かったよ……」


 桃子は両手を顔で覆いながら天井を見上げる。パイプ椅子が軋む。


「あの男の人優しかったよね、まじで彼氏にしたいわ」


 そう話す秋山は顔と言動がキツめの女子生徒だ。正直、桃子にとっては関わりたくないが秋山のグループに所属しないと自分がハブられてしまう。辛い。


「ほんとそれ、秋山の今日の指導者さんどんな感じ」


 秋山に話しけるのは桃子からみて斜め前にいる本間さん、秋山といつもいる人。秋山よりは関わりやすいが少し苦手である。噂だと学校に内緒でバイトしてたり後輩の男子生徒と関係をもっているとか何とか……。


「2年先の先輩、優しい感じするけどとんでもない、陰口する感じの人。ほら血液内科に行った加藤先輩の彼女さん」


「えぇ…!あの加藤先輩?!まじで女見る目ないわ、萎えるんだけど。」


 ほんとなんでこんなグループに回されたんだろう、桃子はそう思う。教師陣に絶対この2人の潤滑油にされたと思い余計腹が立つ、何より笑顔で2人に取り付くしかない自分に腹が立つし、なぜリーダーも自分がしているのか…悲しくなってきた。


「早く実習終われっての」


「ほんそれ」


「そうだね、早く終わってほしいよね」


 桃子は2人に相槌を打ちつつ、内心では今日という1日が、健一と過ごせる実習が長く続いてほしいと、心の中でそっと思っていた。









………



……








 懐かしい、健一との出会いを桃子は思い出していた。

 あの後、桃子は必死に勉強し国家試験も無事に合格。健一の勤務していた実習先は幸運なことに、桃子の通っている看護学校が付属している大学病院だったため無事に就職も内定となる。第一希望は消化器内科を選んでいた、自分が配属されるときに健一がいるかもわからない、希望が通るかもわからないと思っており、当時は必死に神様にお祈りしていた。

 

 消化器内科の配属が決まり、初日に健一の姿を見たときは胸がときめいてしまった。あの時の喜びは国家試験合格とは比べ物にならなかった。ああ、どうか独身でいてください。でも独身でいる理由が、どうか許容できるものであってほしいと相反する気持ちに苛まれる毎日だった。


 だがそんな恋する乙女、ついに連絡先交換をしてしまう、嬉しい、舞い上がるのも束の間。不幸にも彼女がいた、自分の初恋の瞬間にも女がいた、辛い。


 いや待て、待つんだ鈴木桃子。どれほど恋焦がれた、全ての努力の理由には彼がいた。頑張ってきたじゃないか、こんなことで諦めてはいけない、女が廃る。

 それに健一は最後に言っていたじゃないか『…あまり好きじゃないんだ、むしろ…』って。


 私が健一さんを幸せにしてあげなきゃ。そう心に誓い、勇気を振り絞りメッセージを入力、鬼の速さで送信した。





》》 お疲れ様です(うさぎの絵文字)

   今日はありがとうございました!

   よかったら来週の火曜日空いてませんか??

   ごちそうさまです食べに行きたいです!





 鬼の速さで送信したあと、内容を見て桃子は驚いた。


「あ、あああッ!ごちそうさまになってるッ!」



 鈴木桃子、恋する24歳、まこと前途遼遠である。






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