【5月】 老犬と海 第2話
(木々のさわやかなざわめき)
「歩くには良い季節だね……」
タマキは半歩後ろを歩くあなたを振り返りながら言う。高台にある学校からふもとの駅までの道筋。葉桜をはじめとする木々の木漏れ日が道に光の玉を点々と落としている。タマキはその光をたどるように、あなたとの距離を図りながらステップする。外を歩くと眠気がましなのか、足取りは軽やかだ。
「ああ、リードのことを気にしてる?」
前から散歩をしている近所の人が歩いてきた。下校中によくすれ違うお爺さんだ。あなたはとっさに手持ちのリードをどうしようか迷う。自分はともかく、生徒会長のペットプレイがご近所の噂になるのはよろしくない。
「これは、私とあなたにしか見えてないから大丈夫」
耳元でささやいて、唇に指を当てて軽くウィンクするタマキ。見えていなくても、今の距離はまずいのではないだろうか? 案の定、おじいさんは咳ばらいをひとつして、目を合わせないようにすれ違っていった。
タマキに合わせながら、好きに歩く。
木漏れ日の落ちる通学路の坂道。
「いつもの通学路でも散歩だと思うと新鮮に見えるね」
タマキは尻尾を振りながら言う。
散歩する犬たちが、タマキに吠えるべきか悩んで首をかしげてすれ違っていった。
(呼び込みの声)
時間がもう少し遅ければ部活帰りの生徒がたむろする駅前の商店街。
「買い食いしようか? だめ?」
タマキのイヌ耳は辺りの音にせわしない。
(車の走行音)
交通量の多い国道の辺りまでくると、学生とすれ違うことはほとんどなくなった。
「んくっ……んくっ……ふはっ……結構歩いたね……ブレザー置いてきたのは正解かな?」
顎を伝う清涼飲料水を手の甲で拭いながらタマキが言う。タマキのブラウスから肌着がうっすらと透けていてあなたは眼をそらした。
国道を渡り、細い道をぶらぶらと進む。
ふと、タマキがスンと鼻を鳴らした。
「海に近づいているね……」
入り組んだ住宅の塀を抜けると夕焼けで橙に染まった海が視界いっぱいに広がった。
「潮風……気持ちいいね……ぁ……」
タマキが海沿いの柵に近づく。そこには砂浜へと降りる階段と簡素な看板があった。
「海水浴場だね……流石に今の時期には人はいないけど……」
砂浜に降りる。近所の人がこまめに手入れしているのか、流れ着いた流木の他は目立ったゴミもない。今すぐにでも海開きができそうだった。
(ウミネコの声)
タマキはそうだ。とつぶやいて、リードの紐を外して靴と靴下を脱ぐ。
「ふふ……砂の感触が変な感じ……」
「はい……これ……」
タマキは波打ち際の手ごろな流木を拾ってくるとあなたに手渡した。
「そう……投げてみて……」
投げるジェスチャー。タマキの尻尾は期待に大きく振られている。辺りに人影はなく広さも十分だ。あなたは意を決して棒を投げた。
(ザッ……)
が、あなたの手をすっぽ抜けた枝はまっすぐ下の砂浜に突き刺さった……。
きまずい……。
苦笑して棒を拾うタマキ。あなたに棒を手渡すと、後ろに回ってあなたの手を取った。
「こう言うのは手首のスナップで投げるから、腕はそんなに力を入れなくても大丈夫だよ……」
肘と肩を掴んでフォームを教えてくれるようだ。必然、タマキの身体があなたに密着し、ふわりと石鹸と桃の香りが立ち上がる。
「そのまま力を入れずに振ってみて……そう……そう……」
「で、そこで、手首のスナップを利かせながら手を離す……」
(ヒュッっと枝が空気を切る音)
「じゃ、やってみて……」
より緊張してしまった気もするが、再びあなたが投げた棒は今度はきれいな横回転で橙に染まった砂浜を飛んだ。同時にタマキが砂浜を蹴る。
(砂浜をかけていく足音)
(砂浜を戻ってくる足音)
「はぁっ……はぁっ……いっぱい……飛んだ……ね……」
全力疾走で棒を取ってきたのか、タマキの息はだいぶ上がっている。
「ふふ……この子も、楽しいみたい……」
そういうタマキも嬉しそうだ。あなたとタマキはしばらく「持ってこい」をして遊んだ。
沖から舟の汽笛の音が聞こえる。タマキは犬耳をそばだてた。
「……? ……なにか、思い出した?」
タマキの中の霊に聞く。
「あ! ……ちょっと……。……待って……。止まって……!?」
タマキは海に向かって急に駆け出していた。尋常ではない雰囲気にあなたはそれを追う。
(ザブザブ)
「……待って……!? 落ち着いて……!? いい子だから……!?」
自身の静止の声に構わず海に入っていくタマキ。いつの間にか日は沈み海の色は鈍色だ。
(ザブザブ)
タマキが胸まで海水に使ったところであなたは追いつきその手をつかんで抱き寄せた。
「あ、ありがと……」
「ちょっと、何かを思い出しかけたみたい……」
あなたの中で震えながらタマキが言う。うつむいた表情はあなたは伺うことができない。
(ザブザブ)
あなたとタマキは海から上がった。タマキのイヌ耳はぺしゃりと垂れている。
「くしゅん……まだ、海水浴には早いね……」
自らの震えに気づいたタマキが照れたように言う。
「学校に帰ろうか……」
◆
(引き戸の開く音)
生徒会室にあなたとタマキは帰ってきた。
学校までの道中、タマキはほとんど喋らなかった。コンビニで下着を買うときにあなたの分も買おうかと尋ねられたぐらいである。
「それじゃ、ちょっと着替えてくるね」
そういうとタマキは給湯室の前に衝立を置いた。
シュル……ストン
タマキが濡れた制服を脱ぐ衣擦れの音が断続的に聞こえる。
「あのね……」
シュル……
「……海に走り出した時、とても悲しい気持ちになったの……」
シュルル……
「置いてかないで、そっちに行かせて……って……」
スッ……パチ……パチ……
「もしかして、この子の飼い主はもう……」
(タマキがほほを二回たたく音)
「……ふふ……弱気になったらダメだね……」
(衝立が退けられる音)
「ところで……」
「私のジャージ姿は初めてだったかな?」
顔を上げると、イヌ耳犬尻尾にジャージの美少女があなたの顔をのぞき込んでいる。
その顔には精一杯の強がりが浮かんでいた。
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