12 新しい歯車

 わたしの前に浮かんでいた楽来が、ゆっくりとこちらを向いた。

 そのちいさな顔を見た瞬間、わたしは思わず息をのんだ。

 楽来の口にはまた、あの黒い破片がくわえられている。

 はっとして左手の傷口を見たが、傷はもう広がってはいない。

「これ、これはいったい、どういうことなの? 楽来はどうなったの?」

 狐代くんがぽつりと言った。

「……あいつな、自由になった後、自分でまたあの歯車をくわえたんだ」

「それって、いったい……」

「見ろ」

 わたしたちの目の前で、楽来がくわえている歯車の破片が、砂になってさらさらと崩れていく。

 わたしは気づいた。

 黒い破片が崩れていくのと同時に、楽来の体が同じように砂になっていく。その白い砂が、次第に歯車の形へと変わっていくのだ。

 楽来は、まっすぐにわたしの目を見た。

 ――よい名を、ありがとう。

 楽来の体が、完全に歯車の破片へと変わった瞬間、わたしは確かに、そんな声を聞いた。

 楽来が姿を変えた白い破片は、きらきらと輝きながら禍福歯車の輪の中へと吸い込まれていった。

 白い破片が、あの割れていた黒い歯車の破片にぴたりとくっつく。

 白と黒、二色の破片が合わさって完全な形へと戻った歯車が、そのままゆっくりと回転を始めた。

「あいつ、自分の体を禍福歯車に変じたんだ……」

 自らの体で、欠けた歯車を補ったんだ。

 これでもう、おまえが不運に見舞われることもないし、死ぬこともない。 

 狐代くんが言う言葉の意味が、だんだんとわかってくる。

「……なんで……?」

 自然と、そんな言葉が口からこぼれた。

「どうして? もう自由になったのに、今までだって、いっぱいわたしのことを助けてくれたのに、それなのにあの子、最後にまた、わたしを助けて、くれたの?」

 わたしは手首に残った大きな傷あとをなでた。

 わたしを生かしてくれた、小さな獣の事を思いながら。

 道に迷っても階段から落ちても物を失くしても、毎日どんな不運に見舞われても、でもそれらはみんな、笑い飛ばせるような不運で。

 どれだけツいてなかったとしても、それでもわたしは今ちゃんと生きている。わたしは確かに不運だったかもしれないけど、でもそれはけっして、けっして不幸なことではなかった。

 顔からぼたぼたと水滴が落ちるのを感じて、そうしてわたしはその時初めて、自分が泣いていることに気がついた。

「よく、やったな」

 狐代くんがわたしの頭をぐしぐしと掻き回す。

 やめてよ、とそう言いたかったのに、わたしの口からこぼれでたのは、情けない泣き声だけだった。

 それこそ、三歳の子供みたいな。

「ひっ、ひぐっ、うぅ、うっ、ふぅあっ」

 頭の上に置かれた狐代くんの手があたたかい。

 そのあたたかさがじわりと心に沁みてくるのと同時に、わたしはわあっと泣き出していた。

「楽来、だった。あのこの、なまえ」

 楽来。ラッキー。わたしの幸運。幼かったわたしが付けた、あの子の名前。

 その名前を繰り返すと、また新たな涙がどっとあふれてくる。

「ら、ラッキー、って、つけたかった、のかな。ははっ、わ、わたし、三歳から、ぜんぜん、名付けの、センスが、成長して、ないね。もっ、もっと、い、いいっ、なまえっ、つ、付けたげればよかった」

「おまえの名付けのセンスじゃ、他の名前だって大して差なんかねえよ」

 言葉はいつものようにぶっきらぼうで、愛想のかけらもなかったけど、狐代くんはそのままわたしの頭をゆっくりなでてくれた。

「“楽しいことが来たる”、なんていい名前じゃねえか」

 わたしはぐすぐすとしゃくりあげながら必死で言葉をしぼりだす。 

「わ、わたし、ほんとに、ほんとにたまたま、あの子に、水をあげただけなのに。それなのに、ずっと、ずっと、自分が死にそうになってまで、歯車を止めてくれてた。その上、自分の体を歯車にするなんて」

 言葉の合間にも、始終ふえっとかえぐっとかしゃくりあげていたから、すごく聞きにくかっただろうに、狐代くんはああ、とうなずいてくれた。

「おまえに使役されてやった訳じゃない――あれが、解放されたあいつが本当に望んだことだ。あいつは後悔していなかったぞ。当のお前が後悔してどうする」

「うん、しない。もうしないよ」

 でもどうしても涙を止めることができない。

 楽来にもう二度と会うことが出来ない、そのことがわたしをひどく打ちのめしていた。

 それならばいっそ、この先もずっとずっと、それこそ百年でも、不運なままでいたって良かったのに。

 その時、首に何かあたたかなものがふわりと巻き付く感触がした。指をすべらせると、柔らかな毛皮の手触りを感じる。

 目には見えないが、わたしの小さな楽来が、確かにそこにいた。

 え……?

 わたしは、憑鬼使いの少年にそっと声をかけた。

「……ねえ狐代くん、いま、いまね、ここにあの子がいる……」

 狐代くんは一瞬ぽかんとして、それから驚いたように目を見張った。

「そりゃ、いるだろ。何言ってんだ?」

 は?

「だって、さっき、楽来が歯車になって消えちゃって、だからわたし、てっきり楽来が死んじゃったのかと思ったのに?」

 いったい何を大泣きしてるのかと思ったら、と狐代くんは肩をすくめた。

「死んでなんかいねえよ。あいつは、おまえの禍福歯車に同化しただけだ。もう憑鬼じゃないから俺にも見えないが、あいつはおまえと一緒にずっと生きていくんだ。おまえが生きていて、おまえの歯車が動き続けるかぎりはな」

「わたしの、歯車に?」

 ああ、そうだ。

 そう言って、そしてくしゃりと、狐代くんが笑った。真っ白な歯がこぼれるようにのぞく。

 ――狐代くんがこんな風に笑ったとこなんて、見たの初めてかも。

 わたしは思わずぽかんと彼を見つめてしまう。

「生きて……るの?わたしと、一緒に?」

 狐代くんが大きくうなずく。

 新しい涙がどっと目から湧き出た。

 でもそれはもう、さっきまでの涙とは違う。見えない毛皮に、わたしは涙でぐしゃぐしゃの顔をこすりつけた。

「楽来ぃ。楽来」

 ふわふわの毛皮が何度も何度もわたしの顔を撫でる。そしてその感触は、しだいにかすかなものになってゆく。

 りりりり、と禍福歯車が澄んだ音を立てた。目を凝らすと輪の中に、あの黒い歯車の破片が見えた。そして、黒い歯車の割れ目に繋がっている、真っ白い破片が。

 回り続ける禍福歯車はだんだんと透き通ってゆき、空気の中に溶けるようにして消えていった。

 ふう、と狐代くんが大きく息をついた。

「とりあえず、終わったな」

 狐代くんが言う。

 ほんとは、まだ何も終わってない。輝夜が何をたくらんでいるのか、わからないままだし、もしかしたらまたなにか、仕掛けてくるかもしれない。狐代くんもそのことはわかってる。でも、わたしと楽来は、死なずに生きている。これから、どんなことだってできる。あきらめなければ。

 あんなめちゃくちゃな泣き顔を彼に見せたのが急に恥ずかしくなって、わたしは黙ってうなずきながら、両手でやたらと顔をこすった。

 ごまかすように、あえて明るく言う。

 「じゃあこれから、わたしももう不運じゃなくなるのかな?」

「だろうな。まあ、憑鬼とは関係ないおまえのドジは、そのままだろうけど」

 ちょっと、なんてことを言うんだ。

 そしてわたしは、すごくいいことを思いついた。

「よっし、じゃあまず、また日向山にピクニックに行こう!」

 わたしは笑って、空に腕を振り上げて宣言した。 

「そしたらわたしね、今度こそ、トンビに取られずに特製ハンバーグを全部一人で食べるんだーーーー!」

 お祓いをすると決めたときに感じたあの気持ちが、今また自分の中にあふれてくるのをわたしは感じていた。

 不安と興奮と、そして期待。新しい道へと踏み出していくような気分。

 そして楽来も、その道をずっとわたしと一緒に歩いていくんだ。

「ねえ、そしたらその時はさ、ラギも一緒に行こうよ」

 そう声をかけると、狐代くんがぽかんとした顔をみせた。はじめて見る表情だ。子どもっぽくて、なんだかかわいらしい。

 その顔にむかって、わたしはへへっ、と笑ってみせた。

 わたしたちの頬を撫でるように、柔らかな風が吹いてゆく。その風の中に一瞬、ふわふわの毛皮の感触を、確かにわたしは感じた。

 風が吹きぬける五月の空は、どこまでも高く青かった。




〈了〉

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ぼくらはみんなツいている 世理 @seri_727

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