11 よみがえった記憶

 真っ暗な闇の中に、以前に見た映像が次々と浮かぶ。

 割れて床に散らばった、食器の破片。

 泣き叫ぶ、おねえちゃんの姿。

 床に広がる血だまり。

 わたしが怪我をした時の記憶だ。その映像は今はどれも、ぼんやりと霞がかったように見えている。

 そして今度はそこに、わたしの記憶にない新たな映像が混じり始めた。

 真っ赤な血の中に座り込んでいる、幼いわたし。

 左の手首が赤く染まっている。

 そして、わたしの首のまわりに、あの歯車の輪が回っている。

 歯車が連なっている輪の中の一つに、真っ黒い歯車があるのが目に付いた。

 まだどこも欠けていない、完全な形をしたその黒い歯車が、今にもぐるりと回ろうとしている。

 ――おかしいな、これ、わたしの記憶のはずなのに、どうして自分で自分の姿が見えてるんだろう。

(憑鬼が中に入ってるときには、彼らの記憶とか性格とかも俺と同化してるから)

 その時狐代くんの声が耳に蘇って、わたしは唐突に悟った。

 そっか、これは、わたしの憑鬼の記憶だ。

 神社で、知らぬうちに契約を交わしてしまったあの子が、わたしを見ていたときの記憶なのだ。

 わたしはその映像の中で憑鬼と同化していた。

 わたしは自分の意識と、そして憑鬼の意識とを同時に持っていた。

 それは不思議な感触だった。自分の中にあるもう一つの意識が、はやく、はやく、とわたしを駆り立てている。

 ――はやくしないと小桃が死ぬ。

 その瞬間、目の前に白色の光が弾け、視界が途端にクリアになった。

 同時に、空中から一匹の獣が姿を現すのをわたしは見た。

 狐に似たその獣がなんという生き物なのか、今のわたしは知っている。

 真っ白な憑鬼が、口をかっと開いてわたしに向かって踊りかかった。わたしの体に恐怖が走ったその瞬間、その憑鬼はいきなり、わたしではなく、黒い歯車に噛みついた。

 何か固いものが砕ける音が、わたしの頭の中に響く。

 そしてわたしの意識は、ものすごい勢いで流れ込んできた、憑鬼の意識に押し流される。

 ――死ぬ、あのこが死ぬ、助ける、あの女の子を、水を飲ませてくれた、なまえをくれたあのこが、怪我をしている、助けなきゃ助けなきゃ助けなきゃ――。

 「思い出せ!あいつの名前を!」

 その時、遠くから狐代くんの声が聞こえた。

 そしてふいに、杉姫が見せてくれた過去視の映像が目の前に現れた。

 あの時の、どこかセピアがかったような色彩ではなく、その映像は今くっきりとわたしの前に浮かんでいる。

 わたしの意識はそのまま過去へと戻ってゆく。

 ふと気が付くと、わたしは三歳の時のわたしに戻っていた。

 神社で、七五三のお参りをしていた時のわたしだ。

 七五三のお参り。お父さんとお母さんと、そしておねえちゃん。

 おねえちゃんの着ている綺麗な着物。

 見上げるように大きい、真っ赤な鳥居。

 参道に並ぶ、たくさんの屋台。

 屋台の一つが、いろんなお面を売っているのが見える。

 その中に、狐の面が一つ並んでいる。

(狐?)

 誰かの名前がふいに思い浮かぶような気がした。

 秋の穏やかな日差しと、どこか冷たい空気をわたしは感じる。手のひらと膝に、あの時転んだ怪我の、じんじんとした痛みを。そして、腕に抱いている、あたたかな重みを。

 わたしの腕の中で、こちらをじっと見上げる獣。

 ざらりとした、その舌の感触。

 きゅおん、と弱々しく獣が鳴いた。

 ……そうだ、わたし、この子をたすけようとしていたんだ。どこかぼんやりとしたまま、わたしはそんなことを思った。

 もうだいじょうぶだよ、わたしがいるからね。

 腕の中の小さな獣にそうささやく。

 その時、後ろからぽん、と頭に手を置かれた。

 振り返ると、鋭い目をした一人の少年が、わたしの横に膝をついていた。日の光が当たっているせいだろうか、髪の毛が美しい銀色に輝いている。

 まるでこちらをにらんでいるかのような目つき。

 でも、このひとはこわくない。

 このおにいさん、わたしのことをしってる。

 それで、しんぱいしてくれてる。

 この子のことを。この子と、そしてわたしのことを。

 幼いわたしの口が、回らない舌で言葉を紡いだ。

「あの、ね。このこ、けがしてるの。いたいいたいなの。ここのおみじゅ、きれいよ。いたいの、ないないするの」

「そうだな。早く治るといいな」

 少年は、わたしの気持ちがぜんぶわかったかのようにそう言うと、ぐしぐしと乱暴にわたしの頭をなでた。

「なあ。そいつ、名前はなんて言うんだ?」

「なまえ?」

「ああ、そいつの事、なんて呼ぶんだ?」

 銀髪の少年がわたしのことをじっと見つめている。

 はじめて会うはずなのに、どこか懐かしいその目。

「このこの、なまえ……」

 ――なんていうのかな。もしまだなまえがないんだったら、わたしがつけてあげよう。

 いいなまえ、すてきななまえを。

 これから先、この子に良いことがたくさん起きるような。

 良いことが。ラッキーなことが。

 その瞬間、一つの言葉がわたしの脳裏に浮かんだ。

楽来らき

「ら、き……」

 その言葉をつぶやいた時、体の中を何か電流のようなものが走り抜けていくのがわかった。

 銀の髪の少年がいきなり、わたしの体をぎゅっと抱きしめる。

 強い力にわたしが驚くと、耳元で少年がささやいた。

「よし、よくやった。思い出したな。戻ってこい、小桃」

 小桃、という名を耳にした瞬間に、過去に戻っていたわたしの意識は一気に現在に引き戻された。

 神社の木々の緑が、目に飛び込んでくる。体にかけられた水の冷たさを感じる。そして、背から回された、狐代くんの力強い腕の感触を。

 自分のおかれている状態がわかった瞬間に、いきなりぼっと顔が火照った。狐代くんは右手でわたしの体を抱き、拳に握った左手を、何かを受け止めたかのように前に向かって突き出していた。

 ええええ、ちょっと、狐代くんなの?

 いきなり何してるの何で狐代くんがわたしのこと抱きしめてるの、っていうか顔が近い近い近い! 耳に息がかかってるんですけど!

 あわあわとしているわたしなど全くおかまいなしに、狐代くんが荒い息で言った。

「おまえに直接さわって、その憑鬼を手がかりに、おまえの、過去の記憶に、同化したんだ……上手くいって、よかった」

「ち、ちょっと、き、記憶に同化って、狐代くん、まさかわたしの過去とかも何から何まで全部知っちゃったの?」

「そんなよゆう、あるか馬鹿。こいつを止めて、お前の中の、あの神社の記憶に、たどりつくだけで、せいいっぱい、だったんだぞ」

 荒い息のままの口調は乱暴だったが、狐代くんが触れている箇所から、体温と一緒に彼の意識も流れ込んでくるのをわたしは感じた。

 狐代くんが、わたしを案じていることが。

 その時、わたしは目の前の狐代くんの左手から、血が流れているのに気がついた。

 固くにぎりしめられた彼の拳は、中に何かを押さえ込もうとしているかのように細かく震えていた。

「……こいつを止めるって。狐代くん、その手、まさか……」

 狐代くんが、死の歯車の破片をにぎって止めてくれている!

 しかしその時、わたしはまた左手に鈍い痛みを感じた。

 くっ、と狐代くんが苦しげな息をもらす。にぎった拳が大きく震えている。

 わたしの手首の傷が開いて、少しずつ血が流れ出していくのがわかった。死の歯車が、元の場所へと戻ろうとしている。

 思わず震えたわたしの体を、狐代くんが強く抱いた。

「大丈夫だ小桃、まだ俺が押さえていられる。いいか、今から俺が言う言葉を繰り返して、そして最後に、お前が思い出した憑鬼の名前を呼べ」

 狐代くんがさらに強くわたしの肩を抱く。回された腕にすがり、わたしは彼がうたいあげるかのように言うその言葉をかろうじて繰り返した。

「……わ、我がしゅの元に従いし我が憑鬼よ、血と水と名によるその呪を解き、なんじに力を与えん」

 わたしの体の中を、なにかの力がぐるぐるとめぐってゆく。

運気招来ヒャズラック

 どくどくと血が体の中を流れるのがわかる。

聖呪発動エンゲージ

 言葉と共に、ひとつの名前が、記憶の奥底から浮かび上がってくる。

 そしてわたしは、声を限りにその名を叫んだ。

楽来らきぃ!!」

 その瞬間、憑鬼の体から白い光が放たれ、りぃんという澄んだ音が、わたしの頭に響いた。

 光はそのままわたしの体を貫く。真っ白い光が体中に満ちていく。その光の中に、わたしの意識が溶けていく。

 気がつくと、りりりり、という鈴のような小さな音が周りで鳴っていた。

 わたしはゆっくりと目を開けた。気を失っていたのはほんの一瞬のことだったらしい。狐代くんが、しっかりとわたしの体を抱きとめてくれていた。

「狐代くん、楽来は、あの子はどうなったの?自由になれた?」

「見てみろ」

 狐代くんが指差す先、わたしの上空に、歯車が連なった輪が浮かんでいた。あれは、わたしの禍福歯車だ。

 そして、光を放ちながらぐるぐると回るその輪の上に、一匹の獣が居た。

 真っ白な、憑鬼。――楽来。

 おそるおそる、首を撫で回してみる。

 なにも、ない。

 さっきまで首もとに感じていた、あのふわふわの毛皮の感触は、もうどこにもなかった。

 楽来は、わたしの目の前に浮かび上がり、わたしを守るように、輝夜との間にたちふさがっていた。

「なんと。もう少しで、霊力の強い憑鬼が手に入るところだったのにのう」

 輝夜はつまらなさそうに言うと、冷たい目でこちらを見た。

 わたしの肩を抱いている狐代くんの腕が、かたかたと震えている。

「狐代くん……」

「小桃。あれは、人間じゃない。人型になった憑鬼だ。しかもここにいるのはただの影で、本体はどこか別な場所にいる。影だけでもすごい力だから、おれではとてもかなわない。おれが時間稼ぎをしているうちに、おまえは逃げろ。あいつはきっと、力の強い憑鬼を手にいれるために、おまえを狙っていたんだ」

「逃げないよ!」

「ばか、おまえはもう憑鬼を解放してしまったんだぞ。」

 そうかもしれないけど。

 あきらめない。

 わたしは、あきらめたりなんかしない!

 それにわたしは、不思議と輝夜のことをそれほどおそれてはいなかった。だって、輝夜がその気になっていたら、もっと早く楽来を手にいれていたはずだもの。

 輝夜がやろうとしていたのは、きっと、楽来を自由にすることだと思う。

 まあ、わたしのことはついでで、死んでもいいと思っていたかもしれないけどね!

「フウン」

 わたしと目を合わせた輝夜はなぜか、満足したような顔をしている。

「やっぱり人間というのは、追いこまれると何とかなるものじゃな」

 輝夜が、その時ふっと笑ったような気がした。

「そなたたちの力など知れておるが、今回はそのけなげな憑鬼に免じて、見逃してやるとしよう。やれやれ、人の味方をするなぞ、愚か者よな。まあ、気が向いたら、この輝夜のところへ来い。いつでも歓迎するぞ」

 そこで輝夜は楽来から視線をうつして、まっすぐにわたしを見た。それは、学校でいっしょにすごしていた、ヒトカちゃんの顔だった。

「じゃあね、小桃。学校生活、なかなか楽しかったよ」

 輝夜の姿が、ゆっくりとうすれていこうとする。

「ふざけるな!」

 狐代くんがとびかかったが、輝夜はその攻撃をなんなくかわした。

 そして、ふっと輝夜の姿が消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る