10 覚悟
わたしは学校を走り出ると、ヒトカちゃんの後を追った。ヒトカちゃんは、通学路からはずれた、林のなかへ行く道を走っていく。
林の中をしばらく追っていったところで、わたしはヒトカちゃんを見失ってしまった。そこは学校の裏手から少し離れたところにある林で、その奥には小さな神社がある。
そこは、わたしが七五三のお参りをして、憑鬼を見つけたあの神社だった。
ヒトカちゃんの姿はどこにも見当たらない。平日の午後だからなのか、参拝客も誰もいなくて、敷地の中はしんとしていた。
砂利の敷かれた参道をとぼとぼと歩いて、どことなく見覚えのある手水舎のところで、わたしは足を止めた。
――ここだ。ここにあの
しゃがみこんで、そっと地面をなでる。
手につたわってくる、ひんやりとした地面の感触。この場所でぐったり横たわっていた憑鬼の、瀕死の姿を思い出して、わたしの背中がぞくりと粟立った。
このままわたしが名前を思い出せなければ、あの子は衰弱して死ぬ。あの子が死んだら、咥えている歯車が元に戻る。
そうしたら――。
わたしは左手の傷を見る。
この傷が、また開いてしまうんだろうか。あの時無理やり止めた血が流れ出して、そして――。
わたしも、死ぬの?
わたしはぶるっと身を震わせた。嫌な想像を振り切るように立ち上がる。
と、目の前にヒトカちゃんが立っていた。いつものように、優し気に笑ったまま。
「ヒトカちゃ……。ううん、あなたはいったい誰?」
わたしの問いには答えず、ヒトカちゃんは手水舎へ歩いていく。手水舎で柄杓をひとつ手に取った。
「小桃、憑鬼のことを知ったんでしょ? わたしが言ったとおり、小桃は憑かれてたでしょ?」
「う、うん」
「小桃は、これからどうしたい?」
はじめは、自分の不運体質をなんとかしたかった。
それから、憑鬼のことを知って、名前を思い出したかった。
それから、今は?
こくんと小首を傾げて、ねえ小桃、とヒトカちゃんがわたしに呼びかける。
「小桃が名前さえ思い出せれば、その憑鬼は精気が得られるじゃない? そしたら小桃が死ぬ心配もなくなるんでしょ? だったらもうそれだけでもいいんじゃないの?」
「でもそれだと、わたしはこれからもずーっと一生、不運体質のまんまなんだよ?」
「あっ」
忘れてた。可愛らしい笑顔のまま、ヒトカちゃんはさらっと薄情なことを言った。
そもそもその不運でハンバーグを取られたことが、すべての発端だったというのに!
「じゃあねえ小桃、こういうのはどう?」
ヒトカちゃんは明るい口調で言った。
「誰か憑鬼使いに、別の憑鬼を見つけてもらうの。そしたらまた契約をして、その憑鬼に小桃の不運を防いでもらう、とかは? なんだったらそのまま、小桃もほんとに憑鬼使いになっちゃえばいい。偶然でも憑鬼と契約出来たんだから、小桃、素質あるんだと思うよ」
「そ、そんなことってできるの?」
「できることはできるよ。修行を積んで力が強くなればなるほど、憑鬼使いはたくさんの憑鬼と契約することができるから。小桃がそうなれるかどうかは、やってみないとわかんないけど」
そうか、そんな可能性もあるのか。
しかしわたしは、心に決めていたことがあった。
「わたしが憑鬼使いになれるかどうかはともかくとして、」
そっと首もとに手を添える。今もそこにいるはずの、小さな獣。
「その方法だと、今わたしといるこの子が、これからもずっと、わたしの禍福歯車の破片をくわえたままでいなきゃならないでしょ。この子、わたしが死ぬはずだったのをずっと助けてくれてたんだもの、だから、だからわたしね、なるべく早く、この子を自由にしてあげたいんだ」
わたしの言葉を聞いたヒトカちゃんが、ふいに顔から笑みを消した。
「……ねえ、小桃は何か恩でも感じてるのかもしれないけどね、その憑鬼が小桃を助けたのだって、そもそも自分の為かもしれないのよ?」
ヒトカちゃんは言った。
「小桃が死んじゃったら、この憑鬼だって死んじゃってたんだから」
「うん、そうかも知れない。でも、そうだったとしても」
わたしの胸の中に、今もわきあがる思い。
それは、倒れていた小さな生き物へ何の迷いもなくかけよった、幼い自分の気持ちとまったく同じだった。
「……わたし、この子を助けたいの。この子を、自由にしてあげたい」
強く言いきったわたしを、ヒトカちゃんがまじまじと見つめた。
「そっか。すごいね、小桃。決心したんだね」
ヒトカちゃんはそう言って、手にした柄杓をざぶりと手水に突っ込んだ。
「――それならそなたも、覚悟を決めんとな」
いきなり口調の変わったヒトカちゃんの声。
それと同時に、ぱしゃりと音を立てて冷たい感触が全身に走った。
一瞬何が起こったかわからずに、わたしは目をみはった。
水の滴る柄杓をかかげて、ヒトカちゃんがじっとこちらを見据えている。ヒトカちゃんが、柄杓の水をいきおいよくわたしにぶちまけたのだ。
「い、いきなり何するの?」
神社でそんなことしちゃいけないんだぞ!
ヒトカちゃんは柄杓を手にし、いつもと同じようににこにこと微笑んでいる。しかし、どこかその雰囲気がおかしかった。皮膚がぴりぴりとしびれるような気がする。
いきなりどうしたんだろう、まるで、まるで――
“別人みたい”
そんな言葉が頭に浮かぶ。
そしてわたしは、ふいにあることに思い至って、体が強張るのを感じた。
こんな風に、一瞬でまるで別人のように変わることを、わたしは知っているじゃないか。これって、ヒトカちゃんの中に、憑鬼が入ったの?
「……ヒトカちゃん、まさか、ヒトカちゃんも憑鬼使いなの?」
わたしのかすれた声に、ヒトカちゃんはにっと笑って見せた。
「わしのことは、
「輝夜? それって憑鬼の名前ってこと? ず、じゃあ、やっぱり、ヒトカちゃんも憑鬼使いだったの?」
「そ、そういえば、ヒトカちゃんはどうして、憑鬼のことにそんなに詳しいの?」
なんとなく話題をそらそうとして、わたしはそんなことを言った。
ヒトカちゃんが、すごみのあるものに変わった。
「おかしなことを聞くのう。そなたは、人間に、あなたはどうして人間のことにそんなに詳しいの? と聞くことがあるのか?」
凄みのあるその笑みで凍りついたわたしの体を、ヒトカちゃんがとん、と指先で突いた。
すると、わたしの体が強張り、そのまま動かせなくなった。輝夜の笑みが深くなる。口元はにこやかなのに瞳は笑っていないその顔を、わたしは以前にもどこかで見たことがある。
「誰が憑鬼使いじゃ、無礼なことを言うでないぞ」
輝夜はそのまま手をわたしの首筋に伸ばし、何かの印を描いた。
途端にふわりとした毛の感触を感じて、わたしは気付いた。
輝夜が、憑鬼を具現化させたんだ。いったい、何のために。
「思いついたことがあると言ったであろう。強硬手段じゃ」
輝夜が、わたしの首に向かって手を伸ばす。
何なの、輝夜はいったい何をするつもりなの。
身動き一つ出来ないまま、わたしが輝夜の手を見つめたその時、いつの間にか胸ポケットからふわりと浮いた紫の玉が鋭い音とともに弾けとんだ。
跳ね返されたように手を引いた輝夜は、つまらなさそうに舌打ちをした。
「フン、移し身玉か、こざかしいの。いつの間にこのようなものを」
「やめろ、何をするつもりだ!」
狐代くんの声だ!
輝夜の前には、輪郭がぼうっと霞んだ、影のような姿の狐代くんが現れていた。狐代くんの声が、どこか反響するように頭の中に響いてくる。
狐代くんの声に、輝夜はふっと不適な笑みを浮かべた。
「おや、青二才の憑鬼使いじゃな。なあ、おぬしもわかっておるじゃろう? この娘が憑鬼の名前を思い出しても、あの歯車が残ったままであったら状況は変わらぬのじゃぞ」
言い放った輝夜が手を鋭く振ると、狐代くんの姿が煙のようにゆらいで消えた。
「……つまらぬ時間稼ぎをしおって。憑鬼使いめ、おぬしも、わしと同じことを考えなかったとは言わせんぞ?」
独り言のように呟くと、輝夜はくるりとこちらに向き直った。
同じこと?
それが輝夜が、ヒトカちゃんだったときに言っていた、何か思いついたということなのだろうか。
それは、狐代くんが使いたくないと言っていた手段と同じものなのか。
必死にもがこうとしているわたしのところへ、輝夜はすたすたと近寄ってきた。
「移し身玉のせいで、そなたの場所があの憑鬼使いに伝わっておる。早ようせんと、本人が来てしまうな。ま、その前になんとかなるじゃろう」
輝夜はすっと手を伸ばすと――わたしの憑鬼の口から歯車の破片を抜き取った。
とたんに、わたしは左手に鋭い痛みを感じた。
思わず身じろぎすると、さっきまでまったく動かせなかった体が元に戻っている。
左手に目をやると、手首の古い傷跡にじわじわと血が滲んできていた。
――死の歯車が、戻る。
「これで、清めの水と、そなたの血は揃った。残るのはあと、憑鬼の名前だけじゃ」
黒い破片を持つ手を顔の前に掲げ、輝夜が言った。
「なあ小桃や。わしはな、あの、学校とかいう場所にいて、ずうっとそなたのことを見ておった。毎日毎日、自分ではどうしようもない不運に巻き込まれておるのをな。そなた、自分はツいてないからしかたがないと思って、今までいろんなことをあきらめて生きてきたであろう? このままじゃと、そなたはそれこそ死ぬまでずっと、自分の人生をあきらめたままだろうよ」
それが嫌であったら、死ぬ気になれ。
静かな声が、わたしの体に響いた。
輝夜がにこりと笑う。それは、今までヒトカちゃんだったときと変わらない、やわらかな笑みだった。
「小桃や。人間とはな、極限状態に追い込まれると、普段からは想像もつかぬような事が出来たりするらしいのじゃぞ? 馬鹿力が出たりとか、感覚が研ぎ澄まされたりとか、」
柔らかい笑みをたたえた目が、一瞬すっと細められる。
ただそれだけで、顔つきがかわった。ヒトカちゃんの顔から、背筋がこおるほど凄みのある、輝夜のものへと。
「――忘れてたことを、思い出したりとかな」
見たこともない笑いを浮かべた輝夜が、歯車の破片を握っていた手を開いた。
その瞬間、黒い破片が鈴のような音を立てて激しく振動した。
同時に、手首が裂けるかと思うような痛みが左手に走る。
悲鳴もあげられずに、わたしは左手を押さえてしゃがみこんだ。
荒い息をつきながら顔を上げると、あの黒い歯車の破片が、鈴のように鳴りながら宙に浮いているのが見えた。
その破片が、礫のようにこちらに向かって飛んでくる。
「小桃!」
その時、狐代くんの叫び声がすぐそばで聞こえた。背の高い人影をわたしは目の端に捉えた。
大きな手が、わたしに迫る黒い破片を掴もうとする。それを見たのを最後に、わたしの視界はぷつりと閉ざされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます