9 ヒトカの謎

 翌朝。

 顔に当たるやけに明るい日差しと、そして何だかやけに静かな家の中。

 不吉な気配を感じて飛び起きたわたしの目の前には、目覚まし時計が三個、きれいに並んでいる。

 その時計は、真夜中でみんな止まったままだ。

「うう、またか……」

 時計が勝手に止まることなど日常茶飯事なので、目覚まし時計は常に複数用意している。それでも、三個の目覚まし時計がいっぺんに同時刻に止まるなど、笑っちゃうくらいにありえない不運だ。

 でも今のわたしは、その正体を知っている。

 それは、わたしの命を救うための、小さな小さな不運。

「あの子、なんだよね……これ……」

 起き上がったわたしはそっと、自分の首元に向かって話しかけた。

「……ねえ、この時計もあなたの仕業なんでしょ。そうやってあんまり力を使いすぎちゃうと、あなたが死んじゃうよ? わたしのことなら心配しなくても大丈夫だよ、梓さんも、狐代くんもいるし、わたしも頑張ってあなたの名前、思い出すようにするからさ、だから――」

 わたしは、そこから先を続けられなかった。

 昨日、おねえちゃんが話してくれたことで、わたしの過去のできごとはわかった。

「でも、この子の名前はちっとも思い出せないんだよね……」

 この子の命がいつまで保つか、誰にもわからないのだ。

 それに、あの黒い歯車をいったいどうすればいいのか。

 いくら考えても、なにも思いつかない。

 本当に大丈夫なのだろうか? わたしも、そしてこの子も?

 きゅっと唇を噛み締め、わたしは立ち上がった。

 ――いろいろ考えんでいてもしかたがない。まずはわたしが、早くこの子の名前を思い出さなきゃ。

 勢いこんで顔を上げたその時、壁の時計が目に飛び込んできた。

「ぎゃーーーーーー!! 遅刻だーーーーーー!!」

 光速で着替えを済ませ、階段を一気に駆け下りる。

 出勤の早いパパとママの姿も、もちろんおねえちゃんの姿もリビングにはない。

 おねえちゃん、せめて声かけてってくれればいいのに!

 鏡の前でてきとうに身づくろいをして、テーブルの上のパンやバナナをとりあえずひっつかむ。スリッパを振り捨ててローファーに足を突っこみ、転がるようにして玄関から出た。

 そしたら、家を出たわたしの目の前に立っていたのは、なんと狐代くんだった。

「――ずいぶん待ったんだぞ。お前、こんな時間に出てきて大丈夫なのか?」

 腕を組んでこちらを見下ろす狐代くんの髪が、一瞬銀色に光った。

 あいかわらずの仏頂面で、朝の光に喧嘩でも売っているかのような顔つきだ。

「……や、あの、め、目覚ましがぜんぶ止まってて……」

 っていうか、今ここにいたら、遅刻なのは狐代くんだっておなじなのでは? あれ、そういえば、狐代くんって学校に通ってるのかな?

「なるほど、まだ不運が続いてるってわけか」

「そんなことよりも、ど、どうして狐代くんがここにいるの? もしかしてわたしを待ってたの?」

 思わずつっかえながらわたしが聞くと、狐代くんはしかめっ面のままうなずき、そしておもむろに尋ねてきた。

「なあ、お前は、おかしいよな?」

「はぁっ?」

 朝っぱらから人の家に押しかけて来た上に、いったい何を言い出すのだ。

 狐代くんはあわてて、弁解するようにぱたぱたと手を振った。

「いや、そういう意味じゃない。……今まで、憑鬼や、――俺のことを知って、それでも普通に接してくるような奴は、そういなかったから……珍しかったんだ」

「ああ、そういうこと。別にそんな、大したことじゃないと思うよ?」

 あはは、と笑ってわたしは頭をかいた。

「わたしね、ちっちゃいころから、まわりでいつどんなおかしな不運が起きるかわかんなかったから。だから何が起きてもとりあえず受け入れるっていうかさ。起きたことはそのまま受け止めるっていうか、ああそういうものなんだなー、って思うっていうか。なんか、そういう癖がついちゃってるんだよね。順応って言えば聞こえがいいけど、もしかしたらただ単にあきらめが早いってだけなのかもしれないし」

 てへへ、とわたしは笑った。

「…………お前は、おかしなやつだな」

 珍しく不機嫌そうではない顔で、狐代くんはなんだかしみじみと言った。

「もう。そんなこと言うために家まで来たの?」

「いや、違う。俺はしばらくここを離れるから、その前にお前に知らせておこうと思って」

 本家に戻って、何か手がないか調べてみる。

 狐代くんは制服姿だったが、そういえばその足元には何やら大きな荷物があった。

 本家というのはもしかしたらかなり遠い場所にあるのかもしれない。

「あ、あの、ありがとう。わざわざそのために行ってくれるの? わたしみたいなケースって、そんなに珍しい?」

「あまり例がないことは確かだ。本家に戻ればもっと情報が得られるかもしれないからな」

 今の状態でも打てる手がないことはないんだが――おれは出来ればそれは試したくない。 

 狐代くんはぼそりと呟くと、何か小さなものをわたしに寄こした。

 ぽとりとわたしの手の中に落とされたそれは、ビー玉ほどの大きさの紫色の玉だった。

 どこかいびつな形をしたそれは、木の実のようにも見えた。

「万が一、俺が戻る前に何かが起こったら、それで俺が呼べる。常に身につけていろ」

「こ、これは何? 万が一って、どうすればいいの」

 慌ててたずねたわたしをさえぎるようにして、狐代くんはくるっと背をむけて、言葉を続けた。

「すまなかった」

「――え?」

「初めてお前に会った時だ。あれは、俺が間違っていた。あらためて詫びる」

「ま、待って狐代くん!」

 わたしが声を上げた時にはもうその姿はどこにもなく、目の前の道にただ朝の日差しが降り注いでいるばかりだった。

 さっきまで確かにいたはずの少年は、幻だったかのように消えていた。

 わたしの手の上に、小さな紫色の玉を残して。

「もうっ、何なの! わけわかんない、いきなり来て自分の言いたいことだけ言って、さっさと消えちゃって!」

 ぼやきながらも、わたしはどこか不思議な気持ちだった。

 狐代くんも、あんな風な顔をすることがあるんだ。手の上でころりと転がった玉を、そっと握りしめる。 

「あ」

 わたしはその時、やっとあることに気がついた。

「……これ、かんっっぜんに、遅刻だ……」


 学校に着いて、遅刻を先生にさんざんしぼられた後、ようやくわたしは自分の教室にむかった。ちょうど休み時間になったので、あちこちで生徒たちが行きかっている。

 (それにしても朝からどっと疲れたよ。でも、ヒトカちゃんには、昨日何があったかをみんな伝えないと)

 教室の中には、彼女の姿は見えなかった。

 わたしは里依紗りいさを見つけると、ヒトカちゃんがどこにいるか聞いた。

 でも、里依紗からかえってきたのは、予想もしない返事だった。

「ヒトカちゃん、って、誰のこと?」

「えっ? 里依紗、何を言ってるの? クラスメートの、若志名わかしなヒトカちゃんだよ?」

「いやごめん、ワカシナヒトカなんて名前、初めて聞いたよ」 

 どういうことなの。

 ちょっと頭がついていかない。

 だって、こないだの校外学習のときだって、一緒にいたじゃない?

 わたしと、ヒトカちゃんと、里依紗と莢音と亜実の五人だったでしょ?

 わたしがそう聞くと、里依紗は教室の中にいた、莢音と亜実に声をかけてこっちへ呼んだ。

「莢音、亜実。ちょっと、小桃がなんかおかしなこと言ってんの。二人とも、ワカシナヒトカ、っていうクラスメート、知ってる?」

 莢音と亜実は、ふたりともそろってかぶりをふる。

「うそ……。だってあの時、わたしがトンビにハンバーグを取られてさ。そしたらヒトカちゃんが、わたしに何かが憑いているのかも、って言ったの、みんな聞いてたでしょう?」

「ううん、あの時は、ハンバーグを取られてしゃがみこんでたあんたが、いきなり、わたし、何かに取り憑かれてるの!? って叫んで立ち上がったんだよ。で、それを聞いたあたしたちも、確かにそうだよな、って思ったの」

 里依紗の顔は真剣で、とても嘘や冗談を言っているようには見えなかった。

 足元がなんだかふわふわする。

 だれもヒトカちゃんのことを知らないの?

 あんなに毎日一緒にいたのに?

 ……一緒に、いたんだよね?

 何かに取り憑かれてるのかも、って言われたときよりも現実感がない。

 わたしは必死に、ヒトカちゃんと一緒にいたときのことを思い出そうとする。

 そういえば、わたしに話しかけてくれたのはヒトカちゃんだったけど、ヒトカちゃんはずっとわたしとばかりしゃべっていて、里依紗たちとは言葉を交わしていなかったかもしれない。

「ちょっと小桃、だいじょうぶ?」

 里依紗がわたしの肩をゆさぶる。

「顔色悪いよ?」

 現実のことだとは思えない。

 わたし、もしかしたら、憑鬼を助けるために、ヒトカちゃんがなにか名案を思いついてくれるかも、って思ってたんだ。

 でも、そのヒトカちゃんがいない?

「小桃」

 背後から名前を呼ばれて、わたしははっと振り向いた。

 教室の入り口に、ヒトカちゃんが立っている。いつものように、ふわふわとかわいらしい笑顔を浮かべている。

「おはよう、小桃。ちょっと話があるの。着いてきてくれない?」

「ヒトカちゃん!」

 ヒトカちゃんはぱっと体をひるがえすと、走って校舎の入口へと走っていく。

「待って!」

「ちょ、ちょっと小桃! あんた、いったい誰と話をしてるの!? どこへ行くの!?」

 里依紗の声が聞こえたが、わたしはふりむかず、ヒトカちゃんの後を追った。

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