8 小桃の過去

 けっきょく、ヒトカちゃんとは会えないまま、そして事態は何にも解決しないまま、わたしは家に帰ってきた。 

 その夜、わたしは家で夕飯の食器を洗いながら、昼間の出来事を思い返していた。

 首元に手をやるが、もちろん今は何もさわれない。

 でも、そこには今でも、あの白い憑鬼がいるはずだ。歯車のかけらをくわえたままで。

 ――はやく。

 ――はやく、思い出せ。

 狐代くんの声が、わたしの耳の中で何度もよみがえる。

 わたしは思わず目をぎゅっとつぶった。

 わたしがむかし、死んでいたかもしれない出来事。

 わたしには何の記憶もない。でも、心当たりはある。

 わたしは、自分の左手に目をやった。そこにあるのは、手首を一直線に走る、大きな傷跡。

 小学生になったばかりの年に、わたしは割れたガラスの破片で手首を切って大怪我をしたのだそうだ。

 そうだ、というのは、わたしは自分ではそのことをまったく覚えていないからだ。手首に大きなひきつれとなって残った傷だけが、その証拠。

 自分では記憶にないけれど、今でもこんな痕になっているくらいのその怪我が、はたしてどれほど深かったのか。そしてどれほどの痛みと出血だったのか、考えるだけでもぞっとする。

「でも、やっぱりなんにも覚えてないんだよな……憑鬼のことといい、わたしって、忘れてることが多すぎない?」

 その時、手を滑らせたわけでもないのに、ふいに洗っていた食器が床に落ちた。

 ガラスのコップが割れて、ぱりんと音を立ててあたりに飛び散る。床に散らばった破片を見たその瞬間、いくつもの映像の断片がいきなり脳裏によみがえった。

 床に散らばる、たくさんの割れた食器。

 光を照り返して、まるで刃物のように輝くガラス片。

 わたしを見て泣き叫ぶ、おねえちゃんの顔。

 床に広がる、真っ赤な血だまり。

 目の前に浮かぶそれらの映像はどこか白くぼんやりとしている。

(杉姫が見せてくれた過去視みたい)

 まるでまぼろしのようだ。でも、わたしはこれが、その時の出来事なのだと悟った。

 これが、わたしが死ぬはずだった時のできごとだ!

「小桃! 今の音はなに? だいじょうぶ?」

 キッチンの外からおねえちゃんの声が聞こえ、バタバタと走ってくる気配がした。

 きぃん、という澄んだ音と共に目の前で白色の光が弾け、映像がかき消える。そのとたん、体から力が抜けて、わたしは床にへたりこんだ。

「小桃!」

 おねえちゃんがかけよってくる。おねえちゃんは、床に散らばった割れたガラスを見ると、はっと息をのんだ。

 そして、しゃがんでわたしの体をささえると、左手をぎゅっとにぎってくれた。

 気がつくと、わたしの左手が、いつの間にかぶるぶると震えていた。

 なに、なんなのこれは。

「小桃、あんたの体は覚えてるんだよ、あの時の怪我のことを」

 焦って左手を押さえようとするわたしに、おねえちゃんはしずかに話しかける。

「こないだあんたが、自分には何かが取り憑いてるのかもしれないって話をしたのを聞いて、いつかは教えなくちゃと思ってたんだ」

 そしてわたしは、そのことについて知ったのだった。

 ――憑鬼が、わたしを助けてくれた時の出来事を。


 おねえちゃんはわたしよりも四つ年上だから、わたしがその怪我をしたときのことを、かなりはっきりと覚えているらしい。

「父さんも母さんも、小さい頃の記憶だから、いろいろ間違って覚えてるんだって取り合ってくれないけどさ」

 あたしは憶えてる。

 おねーちゃんはそう言うと、どこか遠くを見るような顔をして、そのときのことを話してくれた。


 あの日、あんたとあたしは、二人だけで家に残ってた。

 あんたはもちろんだけど、あたしだってまる一日、妹をまかせられるほどに大きかったわけじゃないから、普段は父さんも母さんも二人っきりで留守番なんてさせなかった。

 けど、その日は近所で急な葬式があったか何かで、あたしたち二人だけしか家にはいなかったんだ。

 あたしは戸棚からおやつか何かを出そうとしててさ、あんたはテーブルの周りをうろうろしていた。

 手伝ってくれようとしてたのかもしれないね。

 直接見てたわけじゃないからはっきりとはわかんないけど、多分あんた、転んだか何かした拍子に、テーブルクロスを引っぱっちゃったんだと思う。テーブルクロスと一緒に、上に乗ってたものがみんな、あんたの上に落ちてきてさ。


 その先を続ける前に、おねーちゃんはごくん、といっかい息をのんだ。

「それで、落ちたグラスが割れて、あんたはそれで手首を切ったんだ。音と悲鳴を聞いてあたしがふりむいた時にはもう、テーブルクロスが血で真っ赤に染まってた」

 そこまで話して、おねえちゃんはわたしを気遣うようにちらとこちらを見た。

「……あたしもパニックになっちゃってさ、あんたのとこへ行って、傷を押さえようとするのが精一杯だった。子供の力で、しかもパニックになってる状態で、止血なんかろくに出来てなかったと思うよ。でもね」


 血がね、いきなり止まったんだ。まるで――。


 おねえちゃんはそこで一度口をつぐんだ。言葉が喉に張り付いてしまったかのように。

 まるで?

 まるで、時間が止まったかのように?

 まるで、歯車が動くのを、無理矢理止めたかのように?

 おねーちゃんはふと我に返ったように頭を振ると、わたしの目を見て話を続けた。

「――あんたの首の周りに、一瞬何かの動物の影みたいなものが見えたような気がしたんだ。その瞬間、あんたの体が白く光って――そしたら、すごい勢いで吹き出してた血がいきなり止まって、その光が、みるみるうちに傷口をおおって、固まりだしたんだよ」

 おねえちゃんは呆然と、その様子を見ていたらしい。

 その後、われに返って助けを呼ぼうとして、玄関を走り出たところで母親が帰ってきたのだそうだ。

 わたしはそのまま病院に運ばれ、手術を受けて命が助かった。

 怪我の深さのわりには、出血がひどく少なかったのが幸いだったという話は、わたしもパパとママから聞いたことがある。

「あたしは迷信深いタチじゃないけど、あんたに何かが取り憑いてるっていうのは、そうかもしれないと思ってる。でもそれは、悪霊みたいな良くないものじゃなくて、あんたを守ってくれてる何かだよ」

 だって、あんたの命を助けてくれたんだからさ。

 おねえちゃんはそう言って、すごく優しい顔でわたしの方を見た。

 わたしは思わず手首の傷をなでた。

「前に、お祓いのことを反対したのはそのせいもあるんだ。だってもし、その相手が、あんたに憑いているものを祓っちゃったら、もう守ってもらえなくなるかもしれないんだし」

 おねえちゃんはちいさくつぶやいた。

「桃は自分のことを不運だ不運だって思ってるかもしれないけどさ、まあ確かに、あんたのツいてなさっぷりはただごとじゃないけどさ……。でも、あんたは、ただ今生きてくれてるだけで、それだけでものすごい幸運なんだよ。少なくともあたしたち家族にとっては」

「おねえちゃん……」

「不運の中にも、きっと何か良かったことはある。どんなにツいてなくても、きっと後で、良かったな、って思えるようなことが。今あんたが無事で生きているのがその証なんだよ。だからあんたに“良かった探し”なんかさせちゃったけど、ちょっと押しつけがましかったかな」

 おねえちゃんはそう言って照れくさそうに鼻を擦った。

 

 ――禍福かふくあざなえるなわごとし。


 おねえちゃんが言ったことは間違ってなかった。

 複雑に絡み合った禍福歯車の輪が脳裏に浮かぶ。

 おねえちゃんが、今までそんな風に思ってくれていたなんて。わたしの不運を面白がるばかりだと思ってたのに。

 おねえちゃんのそんな言葉に、わたしの体はじわりとあたたかくなった。

 もしかして、おねえちゃんが今まで、わたしのいろんな不運な出来事についてメモなんかをしてたのも、何かわたしのことを思いやってくれてのことだったんだろうか。

 わたしがそう言うと、おねえちゃんはきょとん、と目をまたたかせた。

「いや、そりゃただ単にあたしが面白いからやってるだけだけど?」


 だいなしだった。

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