19話 権利と義務
レクスを信じると決めてから、ランの心は嘘みたいに軽くなった。
「意地ばかりはってオレはバカだな」
振り返ると、レクスがランの為に起こした行動を曲解して一人で思い悩んでいただけだったように思う。今なら嫉妬からくる強引なそぶりも不思議と許せてしまう。
そんなレクスが自分に向けてくれる愛情のある限り、ランは何があっても誰になんと言われようと彼の側に居ようと思った。
思えばスラムでレクスに再会した時から、レクスはいつもランに手を差し伸べてくれていた。
それはランがオメガになろうと変わらないものだ。
「ふう……」
ランはお昼寝をしているルゥのふわふわの髪をそっと撫でた。
ルゥに対しても、レクスはいい父親であろうと努力してくれている。
(こんなにしてもらって……なにをどうやってお返ししよう)
ランは切ない思いが胸に広がって、顔を覆った。しかしそれは幸せな甘い痛みだった。
ルゥがぐっすりと眠っているのを確かめて、ランは中庭に出た。
ランがやってきた頃は春の花盛りだった庭は、夏の気配を漂わせている。
「よし、ちょっと掃除でもするか」
ランは思わずにやけそうになる頬をパチンと叩くと、枯れた花や落ちた葉を集め始めた。
「精が出ますね」
せっせと手を動かしていると、庭のフェンスの向こうから声をかけてくる者がいた。
「やあ」
「ウォルさん」
そこには温厚な笑みを浮かべたウォルがいた。
「どうしたんですか」
「や、あの後どうなったのか気になって時々この辺に来てたんだ。やっと会えた」
「あ……」
「どうやら私はレクス様を怒らせてしまったようだったから」
そんなの何日も前の話だ。あれからウォルはずっと気に病んで、いつ会えるかもわからないのにここに通っていたらしい。
「そうだね……あのあとアレン様がきてレクスがぶん殴ってた」
「ああ、頬を赤く腫らしてました。まったくうちのご主人様は……」
「喧嘩売ったのはアレン様かもしれないけど、殴ったら駄目だよ。アレン様にごめんなさいって言って置いて」
「ええ、わかりました」
ウォルはそう頷いてからランをじっと見つめる。
「……なんです?」
「いえ。思ったよりお元気そうだと」
「うん?」
ウォルの少し含みのある言い方に、思い当たる節のないランは首を傾げた。
「いえ……なんでもありません」
「嘘。何かあるなら言ってよ」
慌てて誤魔化すように顔の前で手を振るウォルにランは食ってかかった。すると、ウォルはハーッとため息を吐いて、観念したかのように口を開いた。
「私の所には、結構口さがない噂話が飛んでくるもので」
「噂話……。オメガの妃なんて要らないとかそういうのか」
ランはパーティで立ち聞きしてしまった言葉を思い出した。
「はい、そういうのもありますが。先日のパーティ以外、レクス様があんまりランさんを隠すので、ランさんは王家の……その義務を果たさないと批判が高まっているんです。確かに本来お妃が同席すべき場も、すべてレクス様ひとりでこなしていらっしゃいます」
「そんなことが……全然知らなかった」
「すみません。こんなこと聞かせてしまって」
ウォルは大きな体を縮めて申し訳無さそうにランに頭をさげた。
「ううん。レクスは何も言ってくれないから。ありがとうウォルさん」
「そう言って戴けると助かります。それではそろそろ私は戻らないと」
「うん、じゃあまたね」
ウォルはそう言うと、庭の向こうに姿を消した。
「義務……か」
周りがそう思うのも当然のことだ。ランは自分のことで精一杯で、妻として何ができるかなんてなにも考えていなかった。
「うん、少しは恩返しができるかな」
レクスが帰ったら話を聞いてみよう。ランはそう考えて部屋の中に戻った。
***
「ねぇ、レクス。オレ、レクスの奥さんとしてやるべきことがあると思うんだ」
ランは夕食の際に思い切ってレクスに切り出してみた。
「どうしたいきなり」
「いや、その……」
真っ正面からそう切り替えされてランは思わず口ごもる。こんなんじゃだめだ、とランは心の中で思った。こうやって素直になれないからいままでこじれてきたのだ。変な意地を張っている場合ではない。
「その、オレもレクスを手伝いたい……役に立ちたいって思ったんだ」
言っている途中から恥ずかしくなって頬がかっかとしてくるのを感じる。
「駄目かな……」
そう上目遣いにレクスを見ると、レクスは複雑そうな顔をしていた。
「無理をして表に出なくたっていい」
「でも……お、お妃としてやるべきことがあるんじゃないの」
「ラン……?」
「オレ、聞いたんだ。そういう批判が高まってるって」
ランがそう言うと、レクスは少し驚いたような顔をした後、不機嫌そうに眉を寄せた。
「どこからそんなことを聞いた。……アレンか?」
「う、うん……まあ」
「余計な声は聞かなくていい」
「でも!」
ランはテーブルを思わず叩いた。
「でも、オレは良くてもレクスがその声を受け止める事になるじゃないか。オレはそこまで厚かましくなれないよ」
「心配なんだ。俺が完全に守れないって思うと」
「オレはそれより、レクスの側を一緒に歩きたい。……だって家族じゃないか」
ランはじっとレクスを見つめた。その真っ直ぐな視線を受けて、レクスはぐっと唇を噛んだ。
その時、レクスの横に控えて居たロランドが口を開いた。
「レクス様、ランさんもこうおっしゃってますし、よろしいのでは?」
「……勝手にしろ」
レクスはロランドをじろりと睨むと、席を立って自室に引っ込んでしまった。
「レクス!」
言い方が悪かったのだろうか、とランはため息をついた。
「はぁ……まったくもう」
そんなランに、ロランドは苦笑しながら声をかけた。
「ランさん、ああ言ってくださって助かりました」
「ロランドさん……」
「正直、毎回毎回言い訳を駆使するのも限界がありますしね。まあ後は私におまかせください」
あのお披露目のパーティに出席したから、レクスがああいった態度をとるのも分からないでもない。
自分ではどうしようもないオメガであることを口さがなく批判してくる連中からレクスはきっとランを守りたいのだ。
しかし守ろうとすればするほどランをここに閉じ込めることになる。
「そんなこと、ずっと続けられるはずもないし」
ランは半分も進まなかった皿の端にフォークとナイフを置いて、席を立った。
***
それからロランドはレクスの部屋に行ってなにやら長いこと話し込んでいた。
時折、声は聞こえるが内容までは聞こえない。
「ねー、パパはぁ?」
「パパは今ロランドさんとお話してるからね」
「えー! パパとあそぶぅ」
最近は食後の一時をレクスとおもちゃで遊んだり、絵本を読んだりしていたルゥがぐずりはじめた。
「うーん、もうちょっと待ってねぇ」
ランはルゥを抱っこしてゆらゆらと揺すぶりながらレクスの部屋の様子を窺っていると、ガチャリとドアが開いてレクスが出て来た。
「ラン」
レクスはランと視線が合うと、真っ直ぐに側に来てランの肩に手を回した。
「苦労かける。ごめん」
「苦労なんて……そんな風に思ったりしないよ。ただオレも奥さんらしいことしたいだけ」
「ん……ありがとう」
レクスはぎゅっと後ろからランを抱きしめた。
「駄目だな、俺は……。ランのことになるとどうも視野が狭くて」
背中越しにレクスの戸惑いが伝わってきて、ランは愛おしくて堪らなくなる。
「ふふふ、それだけ大事にしてくれてるんだって思ってる」
「ああ」
溢れてくる静かな喜びをじっと噛みしめながら二人で抱き合っていると、腕の中のルゥが身をよじった。
「ルゥもぉ」
「ああ。おいでルゥ」
レクスはルゥを抱き上げると、めいいっぱい高く持ちあげる。
「たかーい」
「よかったねぇ、ルゥ」
ランは楽しげなルゥの顔を見つめながら、レクスの腰に手を回して顔を埋めた。
「ラン……」
「ルゥが眠ったら……レクスのところ行っていい?」
ランがそう聞くと、レクスの動きが一瞬止まる。
「あ、ああ」
レクスはそう答えると、わざとらしい咳払いをした。
「とりあえず、王族が出席する大きな催しからはじめましょう、ということになりました。徐々に公務から慣れていっていただければ」
「はい、わかりました」
「もうすぐ建国記念の祝賀パレードがあります。それにご一家揃って参加していただきます」
「一家……ってルゥもですか」
「そうです。この間のパーティが王族・貴族に対してのお披露目なら、今回は国民に対してのお披露目になりますね」
「……緊張する」
ランがそう呟くと、ロランドはくすりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。横にレクス様がおりますし、私も側に控えて居ます。馬車に乗って街を回るだけですので」
それだけ聞くと、うわべだけの会話を繰り返さなければならないパーティよりも気楽に思える。
「分かりました」
「では、諸々の手配をすすめますね。ランさ……ラン様」
「……いきなりどうしたんです?」
「いや、妃殿下として振る舞おうとしている方に『ランさん』はないだろうと思いまして」
「あ、ああ」
「申し訳ありません」
ランはロランドにランさんと呼ばれるのは好きだったのにな、と思いながらも彼の意見を尊重しようと思った。
「あー! ……妃殿下かぁ」
責務は全うしようと覚悟を決めた今でも、その呼び方はくすぐったい。
「レクスがただの一般人ならよかったのに」
それならルゥと三人、親子水入らずで暮らしていけるのになと思わなくも無い。
それでも、レクスが王族だからと言って側を離れる気はランにはさらさら無かった。
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