17話 逃げない
「水でも浴びてくる。このままだとルゥに嫌われそうだ」
「うん」
「その……ありがとうラン」
「いーえ」
レクスは少し気恥ずかしそうな顔をして浴室へと向かった。すると部屋の隅からふいに声がする。
「はぁ、夫婦ってのはこういうものなのですかね」
「ロ、ロランドさん……いつからそこに」
「ほぼ初めからいましたけど」
ということは……とランは自分の言動を振り返って顔を赤くした。
「私がいくら言っても聞かないのに、ランさんの言うことは聞くんですねぇ」
「そ、それはロランドさんがレクスを甘やかしてるんじゃないのかなっ」
「そんなつもりはないのですが」
ロランドはそう言うと、じっとランを見つめた。
「そんなランさんにお願いなんですが」
「いやだよ」
「まだ何も言ってないじゃないですか」
「なんか嫌な予感がしたんだよ」
「ふーむ」
ランがまだ内容も告げぬうちに断ったのを見て、ロランドの顔から表情が消える。
「……逃げたりなんかしないんじゃなかったんですっけ」
「う……なんですか」
よりにも寄ってやっかいな人物に聞かれてしまったとランは後悔したがもう遅い。
「近々、レクス様のお披露目のパーティがあります。レクス様は一人で出席されるおつもりですが……ランさんにも出席して貰いたいのです」
「パーティー……」
「ええ。さすがにそういった場で私がついて回ることは出来ないですから。レクス様に寄り添っていて戴きたいのです」
ランはロランドが真剣な目をしているのを見た。
「わ……わかりました」
「ありがとうございます。では仕立て屋を呼びますので」
「え?」
「パーティですから! おめかししませんと」
「は、はあ……」
ランはロランドにたじたじになりながら頷いた。それから、午後になってやってきた仕立て屋に採寸をされて、デザインの好みなんかを聞かれたりなどした。
「えーとあんまり派手なのは」
「ランさん、ランさんは順主役なのですから華やかになさいませんと」
「ええ……わかりました。ロランドさんに任せます……」
ランはもうどうでもよくなってロランドに放り投げた。ロランドはあっさりとそれを受け入れると、仕立て屋とあれこれ打ち合わせをしている。
「じゃあロランドさん、ちょっとルゥの様子を見て……」
「あ、待って下さい。これはどうしますか」
「これって……」
ランがのぞき込むといくつかのデザイン画が並んでいる。
「……
「ええ。お酒の席ですし、人も多いので」
「……そうだね」
ランは自分の首元をさすった。ここはまだまっさらなままだ。ルゥの父母として生きると互いに約束したのだから噛ませてもいいはずなのだが、ランはまだ決心がつかずにいた。
「うちの仕立て屋なら表は魔法で強化した布、裏は絹で肌あたりも良く薄出に作る事ができます」
仕立て屋は自信たっぷりにそう言っている。
「では……服と同系色であまり目立たないようにしてください」
「畏まりました」
「……」
仕立て屋がデザイン画に注文を書き加えていく。ランはそれを複雑な気持ちで見つめていた。
***
「ラン、本当に大丈夫か?」
「……うん」
とうとうレクスの王太子としてのお披露目のパーティの日がやってきた。華やかな夜会服に身を包み、緊張した面持ちのランに、レクスは心配そうな顔で問いかけた。
「レクスの方こそ緊張してるんじゃ?」
「ま、多少はな。それくらい憎まれ口を叩くのなら大丈夫か」
「ああ」
ランはそう答えると、念の為抑制剤を飲んだ。予定日が近くなっているのと、人目のあるところに出るなんてランはオメガになってから初めてだったからだ。それに王族とそれに連なる人々にはアルファが多い。
「それでは手を。奥様」
「よろしく旦那様」
場をなごませようとおどけて手を差し伸べるレクスの手をランはとった。
キラキラと明るいシャンデリア、そしてあちこちに飾られた花の甘い香り……パーティ会場は豪華で華やかな空間だった。部屋では派手すぎると感じたランの夜会服もこの場にはぴったりだ。
「レクス王太子殿下、ラン妃殿下のおなりです」
その声にわっと視線がレクスとランに集まる。
「うっ……」
「笑顔だ。ラン」
「うん」
ランは必死に口角をあげて笑顔を作った。無遠慮な視線がまるで絡みつくような中をレクスの腕をとって進む。
「やあ、お二人とも」
「あ、アレン様……」
遠巻きに人々が二人に注目をする中で、先陣を切って声をかけてきたのはアレンだ。
「お前……」
「おいおい、私が挨拶しないと他の人が声をかけづらいだろう」
「……」
レクスが唸るようにしてアレンを睨み付けたが、アレンは笑ってそれをかわした。
「ここは一癖も二癖もある人達ばかりだからね。気を付けて、良い夜を」
アレンはそう告げると、するりと人混みの中に姿を消して行く。
「……」
ランが無言でその後ろ姿を見送っていると、どっと人々がレクスとランの周りに集まった。
「お会い出来て光栄です、王太子殿下、妃殿下」
「そちらが殿下の見初めたお方ですか……」
「ど、どうも……こんばんは……」
ランはそんな人々の勢いに気圧されそうになる。ふと横のレクスを見ると、見た事のないような穏やかな笑顔でレクスは人々に応対していた。
「なんだ……心配いらないじゃないか」
「どうしたラン」
「ロランドさんがレクスが心配だからついていってくれって言われたから来たのに」
「はは……これくらいの処世術はあるよ」
レクスはくすりと笑うと、ランの顎をついと持ちあげて顔をあげさせた。
「でも、隣に美しい妻がいると心強いのは間違いない」
「ばっ……ばっかじゃねーの……」
ランはぼっと顔に血が上るような気がしてレクスの手を払った。
***
どこで覚えて来たのか知らないけれど、良くもまあ小っ恥ずかしい台詞を言えたもんだな、とランが思っていると、遠慮がちに呼びかける声が聞こえた。
「ごきげんよう、レクス様……あ、もうレクス殿下ですね」
「ああ、久し振りだ」
「覚えていて下さいましたか」
見ると、大人しそうな青年が微笑み抱えている。その顔をどこかで見たような気がして、ランは彼をじっと見つめた。
「覚えて居るとも。マールス」
「うれしい……」
その名にランは思わずアッと声を漏らしそうになった。確か……以前にレクスのお見合いを盗み見た時にお見合い相手として来ていた子だ。
「今日は奥様をお連れって聞きました」
「ああ。ラン、こっちにおいで」
動揺するランには気付かず、レクスはランを手招いた。
「初めまして、マールスと申します」
「あっ、ランです……」
マールスは腰まで伸びたアッシュブロンドの髪に濃いブルーの夜会服を纏い、その全身から育ちの良い上品な雰囲気を醸し出している。
「へぇ……レクス様はこういう方がお好みだったんですね」
マールスの少し含みのある言い方に、ランは顔を上げた。にこにこと笑顔のマールスだったが、その目の奥は笑っていなかった。
「レクス……オレ、飲み物を取ってくるよ」
「あ、ああ」
ランは居たたまれない気持ちになって、なんとか言い訳をしてその場を離れた。
「ふう……」
冷たいレモネードを手にすると、ランは夜風に当たろうとバルコニーに出た。白く明るい月があたりを照らしている。
「ああ、涼しい……」
人気がないのを確認して、ランはベンチに腰掛けて空を見あげた。
「あの人、オレのこと睨んでたよな」
ランはマールスの完璧な笑みの下からちらりと見せた顔を思い出した。ただ、マールスからしたらレクスの結婚相手候補だったのに、脇からよく分からない人間がしゃしゃり出てきたようなものなのだろう。王族との縁談が出るくらいに彼も血統が良いだろうし、やはり面白くはないだろうな、とランは思った。
「やっぱ、こういうところ……苦手だ」
ランはそう呟いて、手元のレモネードの入ったグラスを弄ぶ。その時、突然後ろから話し声がした。
「いやぁ、見ましたか?」
(えっ、誰か来た……!)
ランはどうしようかと一瞬考えて、慌てて植木の影に姿を隠した。
「殿下の伴侶でしょう? オメガというのは本当ですか」
「ああ、首元に
「おや……ということはまだ番っていないのですか」
「所詮、卑しいオメガの伴侶だ。下手に王家に入れるつもりはないのだろう」
どこの誰がは知らないが、そこにランがいることを知らない不躾な言葉に、ランは拳をぎゅっと握りしめた。
「そうですねぇ、殿下にはいずれちゃんとしたアルファの妃を娶って戴かなくては」
「ははは、そのとおりだ」
(なにも知らない癖に……!!)
ランはその言葉に頭が沸騰するかと思った。怒りの余りに涙がこぼれそうになる。
(レクス……!)
いつのまにかランはレクスの名を口の中で繰り返し呟いていた。
***
「おや? そこに誰かいるのか」
そう呼びかける声に、ランはハッと顔を上げた。
(まずい……内容がどうあれ立ち聞きとか良くないよな)
ランは顔を見られないようにじりじりと後ずさりして、その場を離れようとした。
「何か匂いが……」
「おい!」
しかしその噂話の主はランの姿を見つけて追いかけてきた。がっと手首を掴まれて、ランは転びそうになった。
「……何している……おや」
「どうしたんだ」
「こんなところに妃殿下だ」
その声は笑いを含んでいて、ランに対する敬意など微塵も感じられない。
「ごきげんよう、オメガの姫君」
「くっ」
ギリギリと強く掴まれたままの手を、ランは振り払おうとしたが相手の力は強くびくともしない。
するともう一方の男が、ランの首元に顔を寄せる。
「これがオメガか……」
「ああ、お前は初めてか? いい匂いだろう。娼館ではこの匂いをぷんぷんさせて客を誘うんだぜ」
「なるほど。アルファを堕落させるというのは頷ける」
匂い、と言われてランは体を強ばらせた。まだ
「放せ……!」
ランは男達を睨み付けたが、それは彼らを楽しませるだけだった。ニヤリと笑った男に羽交い締めにされ、ランは壁に押しつけられた。
「はぁ、くらくらする……たまらんな」
「どれ、王太子殿下が夢中の果実を少々味わうとするか?」
背後から恐ろしい言葉をぶつけられて、ランは背筋がぞっとするのを感じた。
「やめろっ……」
もがくランをあざ笑うかのように、男の手が太ももを撫でさすった。
「怪我をしたくなければ大人しくしろ」
「ははは、
下卑た笑いとともに、酒臭い荒い息をはきかけられる。ランはなんとか男達を振り払おうと無茶苦茶に暴れた。
「大人しくしろと言ったろう」
そんなランに向かって、男は拳を振り上げた。殴られる――とランがぎゅっと目をつぶった時である。
「何をしている!」
怒りに満ちた大声がその場を揺らした。そこには憤怒に顔を真っ赤にしたレクスが立っている。
「王太子殿下……」
男達に動揺が走り、ランを抑え付けていた力が揺るんだ。その隙にランは男達の元から脱げだし、レクスにしがみついた。
「何をしていると聞いている」
「いや……その……少し話を」
「消えろ!」
「はい!」
男達はレクスに怒鳴りつけられると、慌ててばつが悪そうに立ち去っていった。
「……レクス」
ランはまだぞわぞわと気持ちの悪さを感じて、レクスに抱きついた。
「大丈夫か」
「うん、レクスが来てくれたから……」
そう答えると、レクスはランを抱きしめた。小柄なランはレクスの腕の中にすっぽりと収まってしまう。
「あの……ちょっと
「他の男の匂いがする」
レクスはランを強く抱きしめながら、まるで上書きをするようにランの首元に顔を埋めた。
「心配した」
「ごめん……」
レクスがランを上に向かせ、そして唇にキスを落とした。
「ごめんね……」
ランはレクスのキスを受け入れながら、その逞しい胸に身を預けた。
***
「もう大丈夫だから……」
長い長い口づけの後、ランはレクスを軽く押し返す。
「駄目だよ。パーティの主役が席をあけちゃ」
「しかし……」
「みんなレクスを見に来たんだ。オレは先に帰るから」
ランがそう言うと、レクスはその両手をぎゅっと掴みながら首を振った。
「駄目だ。危ない」
「ロランドさんに付き添って貰うから」
「ロランドもアルファだ。ランを……誰にも触れさせたくない」
最も信頼する腹心の部下さえもレクスは拒否した。それはアルファの本能がなす独占欲からなのだろうか。
「分かった……じゃあ控え室で待ってる」
レクスの思い詰めた表情に、ランはそっと彼の手を握り返しながら答えた。
「そうか」
「わっ」
レクスはランの答えを聞くや否や、ランを抱き上げてバルコニーから部屋に入った。何事かと、周囲の人々が二人を見ている。
「ちょっと……みんな見てるよっ」
「放って置け」
レクスはそのまま控え室までランを抱いたまま向かい、ソファに下ろした。
「中から鍵をかけて待っていて」
そう言ってレクスはランにキスをし、名残惜しい顔をして部屋を出ていった。
ランは言われた通りに鍵をしっかり閉めると、ソファに腰掛けた。
「あんな顔見せられると、勘違いしそうになる」
ランを必死に守ろうとするレクスの姿は、まるで自分がこの世で一番大切な宝物になったような気になってしまう。
「いずれちゃんとしたアルファの妃を……か」
ランはあの男達の言葉をまた思い出した。わざわざ口にこそしないものの、会場の出席者の面々もそう思っているのだろう。
その視線はレクスにもきっと向いている。
「はは……」
それはランはちゃんとわかっていたはずだ。わかっていたのに、改めて目の前でそう言われると悲しくて悔しくて、ランはどうしていいかわからなくなる。
「こんなんじゃ、オレどうなっちゃうんだろう」
いずれレクスがきちんとした伴侶を迎えた時、ランは耐えられるだろうか。もしかしたらルゥを手元に置くことすら許されない鵜かもしれない。
「そんなことになったらオレ……」
ランはそのことを思うと、ひどく重たい気持ちになって顔を覆った。
「……なんでオレはオメガなんだろう」
あのまま性別のわからないままでいたら、レクスの友人として隣に居られた。もしもなんて考えても仕方がないけれど、ランはどうしてもそう考えてしまう。
自分がいきなりオメガになったから、レクスは
「でも、そうしたらルゥに会えなかった」
自分の命よりも大切なルゥ。ランのかけがえのない愛おしい子を抱くこともなかったのだ。
そう思うと、ランの胸の内にまた葛藤が生まれる。
「苦しい……」
少し
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