10話 東の地で

「ラン、少し早いけど上がっていいぞ」

「はーい」


 ランは店長の声にエプロンを外して、そそくさと帰り支度をする。


「……あの、ありがとうございます」

「ん? ああ、いいんだよ。大変だろ。早く帰ってあげな」

「ではお言葉に甘えて……お疲れ様です」


 ここはランの故郷よりももっと田舎の東の果て。温泉が名物のこの地のとあるレストランで、ランは従業員として働いていた。


「卵が切れてたからそれ買って……ミルクも……」


 ランは駆け足気味に買い物をして町を行く。そして借家のドアをあけた。


「ただいま!」

「ああ、お帰り。ラン」

「ビィ、ありがとう……いい子にしてた? ルゥ」


 よたよたと頼りない足取りでランの腕に飛び込んで来た塊。ランはこの世でもっとも愛しい存在を抱きしめる。


「ママ……」

「うん。ただいまルゥ」

「お昼寝もたっぷりしたよ」

「そっかー。いい子でしたねー」


 ランの息子のビィは二歳になる。ランによく似た黒髪に、緑の目をした愛らしい子だ。


「じゃあ俺、仕事に行ってくる」

「ああ、行ってらっしゃいビィ」


 ランが帰ってくると入れ替わりにビィが夜勤の仕事に出る。二人は交代にルゥの面倒を見ながら仕事をしていた。


「ごはんにしようね」

「まんまんま」


 食いしん坊なルゥがご機嫌に手をあげる。それを見てランは思わず微笑んだ。


「まあったく誰に似たのかなー。オレかー」


 そう言いながらランはキッチンに立ち、夕食を作る。野菜たっぷりのポトフをルゥの分は具を小さくしてやって、二人はささやかな晩餐を囲んだ。


「大きくなれよ」

「ぶぶぶー」


 まだ少ししかしゃべれないけれど、ルゥは表情豊かでランはできることなら一日中見ていたかった。


「ルゥ、君を産んでよかった」


 ランはお皿に夢中のルゥを見守りながら、そう呟いた。お腹にルゥがいることがわかったとき、ランは一度は迷った。自分一人ままならないのに子供なんて育てられるか不安だった。

 それを助けてくれたのは以前のスラムの仲間、ビィだった。


「一人で無理なら、二人で頑張ろう。産みたいんだろ?」


 ビィはそう言ってこの町まで来てくれた。以来、二人で協力して子育てをしている。ランは自分は幸せだ、と思う。

 そう思う一方で、ルゥの瞳を見ているとふと寂しくなる。

 若草色の明るい緑の瞳……それはレクスにそっくりだったからだ。


***


 あの日……ランのオメガ性が発現した日、そしてランがレクスに抱かれた後。ランは動揺しつつも、眠るレクスを起こさぬように身の回りのものをまとめて王城を出た。


「どうしよう……」


 ランはひどく混乱しながら、とりあえずスラムへと向かうことにした。


「ビィ」

「えっ、ラン!? この匂い……お前オメガだったのか……?」


 今だ発情ヒートの治まらない体でランはスラムのビィの元にたどり着いた。

 ビィは戸惑いながら自分の抑制剤を分けてくれ、とにかく横になるようにと言った。


「ランはベータだと思ってたんだけど」

「ビィ……実は」


 薬が効いて落ち着きを取り戻したランは、ビィに自分の性別のこととさっき起きた出来事のことを打ち明けた。


「そうか……じゃあランは今頃オメガになったってこと?」

「うん、そうだと思う」

「なにかきっかけがあったんだろうか」

「きっかけ……」


 ランは考え込んだ。ランの体がオメガに花開いたのなら、それは……レクスに対する密かな恋情のせいかもしれないと思った。


「好きな人が、できた……からかな」

「それって、ランを連れて行ったあいつか」


 ビィの問いかけに、ランはこくりと頷いた。


「でも……一緒に居られない。レクスは王族のアルファなんだ。ベータでもオメガでもないオレならあいつの側に友人として居られると思ってた。でも……」

「ラン、もしかして」

「うん……。いきなり発情ヒートがきて、そのまま……」


 ランの瞳から涙が溢れた。押し倒され、押さえつけられた腕には痕がつき、まだ痛む。

 その胸には、レクスへの恋心と友情と、そして獣のように犯された恐怖がグチャグチャになって渦巻いていた。


「……ラン、しっかり」

「う、うん」


 むせび泣くランをビィはそっと抱いて、その背中を撫でながら言った。


発情ヒートを起こしてやったんだよね」

「そうだよ」

「それじゃ、ラン……落ち着いて聞いて。ランは多分妊娠してる」

「え……あ!」


 ランはハッとしてビィの顔を見た。


「どうしよう……!」


 通常、発情ヒートを起こして性交するとほぼ間違いなくオメガは妊娠する。


「レクスの……レクスの子供!?」


 さらなる混乱が、ランを襲う。


「ラン、ランはどうしたい? 誰か頼れる人は?」

「え、えっと……」


 ランはビィの言葉に頭を巡らせた。実家は今なら受け入れてくれるかもしれない。でも、あの場所はレクスも知っている。ランが居なくなったのを知ればきっと見つけ出されてしまう。

 もう『友人』なんて言葉で誤魔化してレクスの側に居続けることなんて出来ない、とランは思った。


「……あ」


 その時、ランの脳裏にある人物が浮かんだ。それは……アレクだった。

 

***


 ランはそのままビィの協力で入り組んだスラムの奥に身を隠し、アレクに手紙を書いた。


「私を頼ってくれるとは、光栄だね子猫ちゃん」

「あなたが自ら来るとは意外です」

「せっかくのご指名だから張り切ってしまった」


 アレクはそう言いながら、汽車のチケットと金を工面してくれた。


「それからこれ」

「これは?」

「私の紹介状だ。子猫ちゃんとお友達の分。家と仕事を探す時に使ってくれ」

「ありがとうございます。こんなことまで……」


 ランはアレクに感謝した。そしてどこか胡散臭いと彼のことを思っていたことを反省した。


「いいのいいの」


 アレクは軽い調子でそう言うと、落ち着いたらまた手紙を寄越すように言って去って言った。

 こうしてランとビィは東の辺境に身を隠した。そして家と仕事を見つけて、密かにルゥを産んだのだ。


「ママ、うまうま」

「はいはい」


 こんな自分がちゃんと親になれるのか不安でいっぱいの妊娠中も、バタバタの産後もビィが側に居てくれたから乗り越えられた。


「オレは恵まれてるよ、ほんと」


 ランはルゥのほっぺについた食べ物のかけらをとってやりながら、愛しい我が子に微笑みかけた。

 一日を終えて、ランとルゥはベッドで眠る。お腹を丸出しにして眠るルゥに何度も上掛けを掛けてやりながら死んだように眠り込んで、また朝がくる。


「おはよう」

「おはよー」


 目を覚ますと、ビィは勤めから帰って来ていた。


「はーっ、やっと休みだ」

「デートにいけるね」

「うふふふ」


 ここに来て、ルゥが一歳になった頃、ビィには恋人が出来た。ビィの勤める酒場の常連客でルゥも一緒に何度も遊んで貰ったことがある。


「そろそろ一緒に暮らしたら?」

「んー、でも昼間ルゥを見る人居なくなるだろ」

「それはなんとかなるよ。誰か預かってくれる人を探してもいいし」

「やだよぉ、他人がルゥの面倒見るなんて……ランこそいい人いないわけ?」

「えっ」


 ビィから思わぬ反撃を受けたランは目をしばたたかせた。


「ほら……ランはフリーな訳だしさ」


 ビィはランの首元をトントンと叩いた。

 そう、不幸中の幸いというかランはレクスに項を噛まれて居なかった。もし項を噛まれていたら、ランはレクスと番になっていた。


「まあそのうちね」


 もし番になっていたら、ランはレクスと離れられずに彼にふさわしい伴侶を娶るのを見届けなくてはならなかったろう。そう思うと、ランはこれで良かったのだと思う。


「今はちょっと考えられないし……子持ちだしなぁ」

「ああ、まだ若いのに老け込んじゃって」


 ビィは呆れたようにやれやれと首をふった。


「ルゥにパパを作ってやるのもいいと思うんだぁ」

「ぱぱ?」

「そうパパ!」

「うー?」


 きょとんとした顔を見てビィはゲラゲラ笑っていたが、ルゥはパパという言葉がよく分からないようだった。

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