ビフロストのあの子

@mushii-fan64

第1話

天気予報は雨だった。

明るい曇空の下、春樹瞳はゐバン岬の診療所の玄関先に立ち、学生たちを笑顔で迎えた。

「ビャンさんと、李青さんですね。お待ちしていました。」

対照的な二人だと春樹は思った。ビャンは背が高いが猫背でいかにも自信なさげな青年、李青のほうは小柄だがきりりと背を伸ばしていて尋常でなく目力が強い。李青は春樹と2つしか違わないはずだが、どことなく年老いた教師を思わせる落ち着きがあった。春樹は二人を連れて診療所の中を説明していった。

「患虫さんが来たら処置を随時見学できます。昆虫医療についてのご質問などがあれば院長の霧祓先生に聞いてください。久シ螺のコオロギ研究所へは明後日に私がご案内します。それから…」

春樹は部屋を見回すと本棚のほうに向かって手招きをした。本棚の陰から茶色っぽい小さな猫の顔が覗いたが、続いてゆっくり這い出てきた体の部分は雀蛾に似た鱗翅類のもので、羽には気味の悪い死霊のような模様があった。ビャンは衝撃を受けたような顔をした。

「彼はニャンコが、です。シュ永デ琳宮国について聞きたいことがあれば、何でも教えてくれますよ」

「私には必要ないわ。シュ永デ琳宮には前に少し住んでいたことがあるの。」

李青はまったく表情を変えずに言った。

「僕は…僕はいろいろ教えてほしいかな…」

ビャンはニャンコがをじっと見つめ少し笑顔になって言った。

ニャンコがはビャンが借りた部屋になんとなく付いていくと、壁のすみっこにとまって小声で話しかけた。

「ビャンって、漢字で書くとどういう字なの?」

「ビャンビャン麺のビャンだけど、画数が多いから憶えなくていいよ。」

「そっか。わかった。」

ニャンコがはうなずくとふあぁと欠伸をした。ビャンはのろのろと荷物を片付け、しばらく考え込んだ後、真面目な顔になってニャンコがの方へ向きなおった。

「あのさ、もし嫌じゃなかったらだけど…君のこと、しゃまるんて呼んでもいい?」

「しゃまるん?なにそれ?」

「しゃまるんは、その…むかし僕の家にいたにゃんこで…友達だったんだ。もう死んじゃったんだけど、ちょっと君に似ていて…」

話しながらビャンはうつむいてしまった。ニャンコがはもう一度ふあぁと欠伸をした。

「わかった。じゃあ僕はしゃまるんⅡ世で、ビャンの新しい友達ってことだね。」

「あの、気を悪くしてないかな」

「ん?別になにも問題ないよ。」

「ありがとう、しゃまるん…」

ビャンは心底ほっとした様子だった。なんでそんなことを大げさに気にするんだろうと、ニャンコがは疑問に思いかけたが眠いのですぐに疑問を忘れた。

窓の外には静かに雨が降り始めていた。


患虫のマダガスカルゴキブリと付き添いのビオトープ施工管理士が帰ってゆき、学生たちも部屋から出ていったのを確認して、蟲医の霧祓治虫は同僚の隙間風新と顔を見合わせた。

「二人とも熱心にメモをとっていたな。あれだけ虫医療に興味があって、どちらかが虫殺しの関係者だとはとても思えないのだが、何かの間違いではないのか。」

隙間風が疑問を呈すると霧祓は白衣の袖をまくり上げながら首を横に振った。

「どちらか、あるいは両方とも虫殺しだということは可能性としては十分にあるだろうね。外見だけでは何もわからないよ。」

「しかし、男子のほうはニャンコがともずいぶん親しくなったようだぞ?」

「彼にとってニャンコがだけが例外なのかもしれない。にゃんこ部分もカワイイしな。」

「様子を見てもわからないとしたら、いったいどう判断すればいいんだ。」

「誰かの思想について何か判断する必要などないのさ。たとえ正しく判断したところで、次の瞬間には変わってしまうかもしれないようなものはね。つまり、具体的な行動を起こさない限りは、誰が虫殺しの思想を持っていようがかまわないとも言える。」

隙間風はゴム手袋を外して神経質そうに両手を擦りあわせた。

「そんなことを言っていたら、気づいた時には虫殺しが多数派になっているなんてことにならないのか?」

「そうだね。だが我々は人がなぜ虫殺しになるのかも理解してはいない。管見にとらわれて何かを決めつける前にするべきことがあるだろう。」

穏やかに言いながら霧祓は器材を片付けていった。


久シ螺のコオロギ研究所はかつてコオロギの疫病対策に関する研究で大きな成果を上げ、首都のコオロギ工場の設備設計に貢献した。昆虫研究所の拡張に伴って大部分が移転合併したが、久シ螺にもいくつかの研究部門が残っている。

「非公開エリアの見学許可証を貰うのに今日は少し時間がかかるようです。」

ビャンと李青を連れてきた春樹は、窓口で問合せたことを2人に説明した。

「私が手続きをしてきますからその間一般公開エリアや庭園を見てきたらいいですよ。」

春樹が書類を手に立ち去ると、李青は「私はカフェで待つわ」と一言告げてさっさと歩いていった。ビャンは後について行きたいと思ったが、なんだか拒否されているような気がして、ためらっているうちに李青の姿も見えなくなってしまった。

取り残されてぼんやりと立ち尽くしていたビャンはふと『蛩テイ園』と書かれた案内版を見つけ、矢印に沿って歩いていった。特に期待はしていなかったのだが、現れたのは思いのほか広い本格的な整形庭園だった。

ビャンは静かな庭園をゆっくり歩きながら南国風の植生を眺めていった。サラノキの大木の脇道へ廻ろうとして小さな人影とぶつかり、倒れそうになった相手を慌てて掴んで支えた。燃えるような真っ赤な髪、顔を上げた整った顔立ちは少年とも少女ともつかない。

オレンジの花の匂いがした。

「ごめん、大丈夫?」

声をかけると赤毛の子はビャンをじっと見上げた。切れ長の消炭色の目で見つめられた瞬間、突然ぎゅんと心臓を掴まれるような感覚にとらわれてビャンは狼狽した。赤毛の子は小首を傾げて笑顔をみせた。

「ありがとう、大丈夫だよ。君はここの、コオロギ研究所の人?」

「いや、違う。あの…今日は見学に…」

ビャンはしどろもどろに応えながら、まだ赤毛の子の腕を掴んでいることに気づいて慌てて手を放した。だが驚いたことに赤毛の子はビャンの手を取って、さらにじっとビャンの顔を見つめてきた。

「君、名前は?」

「ビャンだよ。ええと、ビャンビャン麺のビャン…」

「ビャン、ぼくはローゲ。覚えておいてよ。」

「ローゲ」

声に出してみて、美しい名だと思った。それからビャンは、ローゲに手を引かれたまま一緒に歩き出した。庭園内を散策した後は研究所の建物の方へ足を向け、ローゲがたわいもない話をするのをビャンはまるで音楽のように夢心地で聞いていた。

「ちょっと、君達!」

警備員に声をかけられてビャンは我に返った。

「ここは非公開エリアなんだけど、入館証は持ってるの?」

「すみません、気がつかなくて、あの、春樹さんが見学の許可を…」

ビャンが慌てて説明しようとすると警備員は「ああ」とすぐに納得した。

「霧祓先生のところに来てる学生さんたちね。いまさっき春樹さんが探してたよ。ちゃんとゲストカードを受け取って首に下げておいて下さい。」

警備員が立ち去るのと入れ替わりでゲストカードを3枚手にした春樹がやってきた。

「ビャンさん、ずいぶんお待たせしてしまってすみません。李さんはどちらに?」

ビャンはハッと気がついて辺りを見回した。ローゲはいつの間にか居なくなっていて、李青は…そういえばカフェに行ったんだったっけ。


「いったいどうしたんだい?久シ螺で何かあったのかい?」

帰ってきたビャンはすっかり魂が抜けたようなありさまだった。春樹に聞いてもビャンは見学中から上の空だったというので、ニャンコがは少し心配になってたずねた。ビャンはため息をついた。

「それがね…しゃまるん、あそこにはキレイな庭があって」

「ああ、蛩テイ園のことかい?」

「そこで、なんだかステキな人に会ったんだ…」

ぽつぽつと説明しているうちにビャンは泣きたくなってきた。なぜだろうと考えて、美しい庭園での夢のような時間がもう戻ってこないことを、自分は受け入れられていないのかもしれないとビャンはぼんやり思った。一方でニャンコがはといえば、いつも眠そうな目がビャンの話を聞くうちにだんだんと開いていき、ついにはクワッと目を見開いて羽をむやみにバタバタさせたので黒い鱗粉が部屋に飛び散った。

「ビャン!ぼけっとしてる場合じゃないよ。君は明日もう一度、久シ螺に行ってこないといけない。」

「無理だよ。明日は甲虫の羽化不全の治療の実習が…」

「そんなのは、君が熱を出したとかなんとか言って僕がごまかしておくよ!とにかくその赤毛の子を探して見つけて、ちゃんと連絡先を聞いてくるんだ!」

「でも、行っても見つからなかったら、僕は…」

「そんなのは見つからなかった後にまた考えるんだよ!とにかくいっぺんは探してみるんだ!」

ニャンコがの剣幕に押されてビャンはうなずいた。

「ありがとう、しゃまるん。どうしてそんなに、僕のことで一生懸命になってくれるんだい?」

「何を言ってるんだよ、あたりまえさ。僕ら友達だろ?」

ニャンコがは胸をはった。

そのころ別室では霧祓と隙間風がソファに向かいあって座り秘密の話し合いをしていた。

「どういうことだ?虫殺しとは別の不穏な動きとは?」

隙間風が怪訝そうにたずねた。

「捜査官からの情報によると、絶滅推進会の連中だ。」

「なんだそれは。聞いたことがないが…」

「旧称:生物多様性イラナイ団といえば思い出すかな。2年くらい前に深圳で学会発表を聞いただろう?」

霧祓の説明を聞いて隙間風は冒涜的な研究の内容を思い出し「あっ」と不愉快そうに声を上げた。

「あいつらまだ懲りずに活動してたの?」

「まだも何も、会員はあの時より倍増しているらしい。」

「例の学生達は関係してるのか?」

「いいや。潜在的な虫殺しがいるのは確かなようだが、絶滅推進会とは無関係らしい。そっちの対応は優先度を下げるけれど引き続き注意は必要だ。テロリストに重ねて別なテロリストとは、まったく厄介なことになったな。」

そう言って霧祓はため息をついた。

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