第3話
初夏。体育の授業で私は校舎の周りをひたすらにぐるぐる走っていた。私はだらだら走るのが嫌で、ペースをあげて走っていた。日差しが暑かった。汗が服の下をどろどろと流れていく。息が弾み、心臓がどくどくいっている。ふと、私は、走らないでゆっくり歩いている人を見つけた。長めの髪に長身の男。鈴木翼だった。彼は校舎の方を見ながら歩いていた。私は走らないでさぼっている彼に苛立ったが、ふと鈴木翼が見ている物が何なのか気になってその方を見てみた。校舎には大きな窓が連なっていた。そこはどこかの教室で、彫刻の白い像が窓辺に置いてある。教室の中には生徒たちがいて、キャンパスに絵を描いていた。美術室だった。そして、鈴木翼の視線の先には山本和美と王子が睦まじくお互いの顔をキャンバスに写生している姿があった。私はあっと思った。鈴木翼は彼らを燃えるような目で見つめている。どこか眉根だけ険しく、瞳は眼光で何かが熱せられて溶けてしまいそうなほど力強く開かれていた。
とたん、私は、彼が山本和美を愛しいていて、王子に嫉妬しているのだと覚った。すると、からかいがいができたと私はおもしろくなった。
「おい、お前好きなの?」
私がにやにやしながら意地悪く問いかけると、鈴木翼は振り返り、私を見止めて、見る見る打ちに顔が赤くなった。
「え、なに」鈴木翼はしどろもどろになっている。明らかに動揺している。彼は気の毒なほど赤くなってうろたえていた。山本和美を見ていることを私に見られたことが、鈴木翼には許せなかった。私は彼の赤くなった顔を見たとき、可愛いと思ってしまった。だが、彼は私を怒ったように睨みつけた。
「違う」彼は言った。でもそれは嘘だと私にはわかった。だって、こんなに顔を真っ赤にするのはおかしい。私は、今現在、友好的な私に対し敵意を向けて刺すように睨んでくる鈴木翼に態度に苛ついて、嫌がらせをしたくなった。なぜなら、私はそれほど鈴木翼を嫌っていないのに、彼が明らかに私を嫌いな風をしているのが我慢ならなかったからだ。
「あの二人つきあっているよ。残念でした」
私は舌でも出しそうな勢いで言った。何か憎たらしいことを言ってやりたかったのだ。
すると鈴木翼はまじめな顔になって、一寸悲しそうに視線を地面の土の上に落とした。そのさまが余りにも寂しげで気の毒に見えたので、私はいけないことを言って鈴木翼を傷つけたのではないかとぎくりとした。人を傷つけたことが、私の胸に締め付けるような痛みを植え付けた。
私は申し訳なくなった。俯いている鈴木翼の顔から何かきらりとしたものが落ちた。涙だった。私は肺が敗れたみたいに息苦しくなった。そこまで落ち込むのかと驚愕したし、自分が彼を傷つけた張本人であると認めたくない気もした。でも、確かに私は残念でしたといって彼の惨めさを嘲笑した。それは私のいじわるなせいだ。彼をいじめている格好が正に無様であった。これを人が見たらなんていおう。私は自分の罪が恥ずかしくもあった。
鈴木翼は目を手の甲でぐいっと擦って、ため息をはいた。
「そんなに好きなんだ」私は彼の涙を見て、慰めるように気の毒そうに言ってやった。
鈴木翼は首を横に振った。
「ばればれだよ。好きだって」
泣くほど切ない恋をしているのかと私は気の毒になって関心もした。
「好きじゃない」
「好きな人山本和美なんだね」
「違う!」
鈴木翼は噛みつくように叫んだ。彼は私を射抜くように見て、だが直ぐに怯えたように瞳を見開いて、眉を下げ、唇をぽかんと開けた。
彼は感情を強く表したことに気が咎めたのだろう。
「僕にかまわないで!」
彼はそう言うと、駆けだした。体育の授業の運動にやっと集中する気になったのだ。私は彼にかまいたくてしょうがなかった。彼に謝罪したいという気持ちが、彼にしつこくくっつくという事でどうにか解消されたがっている感じだった。私は鈴木翼を急いで追いかけて、追いつくと、
「おまえの好きな人は山本和美だよ」
と、わざと彼の気持ちをあおるように言った。私はどういうわけか、謝るよりも、取り返しのつかないことをしたなら、とことん追いつめようという気になっていたのだ。私は彼を慰める宛が思い浮かばなくて、自暴自棄的に、逆の追いつめることばかり考えたのだ。
鈴木翼は苦渋の顔をして、耐えていた。
「何で隠すんだよ。恥ずかしくないじゃん。おまえと山本和美がくっつくように協力してやろうか?」
鈴木翼は走るのを止めて、ゆっくり歩き出した。私も彼に会わせて歩いた。
彼は声を低くして諭すように言った。
「貴方さ、余計なお世話。他人の問題に首突っ込むなんてしつけが悪いんじゃないの。僕はさっきから言ってる。僕にかまわないで。どうして僕の気持ちを無視してかかわってくるの。他人の気持ちを汲めないのは、貴方の育ちが悪いからだ。僕は君みたいな人と関わりたくない」
育ちが悪いと言われて私はかちんときた。怒りをこらえ、にやにや笑いながら私は彼に言い負かされまいと切り札を提示した。
「でも好きなんでしょ」
私はまだわかっていなかった。人は誰でも触れてほしくないことがある。でも、私は、会話術がなかった。自分の興味の話題で相手を打ち負かすことだけ考えていた。
「いい加減にして!」
彼はきっと私を睨むと、舌打ちした。私は舌打ちされたことが気に障った。お前も育ちが悪いだろうと、そう言いたかった。だが、その言葉は飲み込んだ。喧嘩になりたくなかったからだ。
「何で怒るの」私は彼をなだめるように優しく言った。
彼は怒りで興奮したように、
「当たり前でしょ。貴方が僕のプライバシーに首を突っ込むから」
彼は恥ずかしさと怒りで首から上が赤く染まっていた。それが彼の潤った瞳とあわさって、儚げにすらみえた。
「好きなんでしょ」
彼は何も言わなかった。私はいくらか怒りから冷静になった。そうしたら、彼に優しくしたくなった。
「でもさ、こう考えろよ。私があんたの恋の手助けをしてやったら、嬉しくない?」
「嬉しくない」
変な感じだが、私は鈴木翼に否定されれば否定されるほど、肯定されたくなった。嫌われる事への恐れ、媚びなのかもしれない。
「山本和美があんたを好きになって王子と別れたら嬉しくない?」
すっと鈴木翼の顔色が変わった。私はそれを良い変化とみて話を続けた。
「山本和美がお前を好きになるようにしてあげようか」
鈴木翼は、ゆっくり私を振り返り、私の首を絞めるかのごとく恨めしそうに言った。
「余計なお世話。必要ないから」
鈴木翼に提案をむげにされて、私は友好的な包容を手で邪険に振り払われたように気落ちしていたが、山本和美と王子をみる彼の眼差しや、二人がつきあっていると言ったときの涙を思い出すと、彼の純粋な恋をどうにか実らせたいような気もした。彼に嫌われていると思うと、ますます、彼にしつこく食い下がりたくなった。嫌われていることを認めたくない気持ちが、鈴木翼にしつこく絡むことで彼の私への負の感情があわよくば消えるのではないかと思うのだ。
放課後、私は笑香に鈴木翼の恋のことを相談した。私は彼の恋を誰かに話して、少し彼の心の問題から距離を置きたかった。彼の心と向き合ったときの、あの時の、一方的に攻められたばつの悪さが、私の心を乱していた。私はこの嫌な気持ち悪さをどうにか解放したかった。
「鈴木が山本和美のこと好きらしいんだよ」
「うそお」
笑香はおもしろそうに気色ばんだ。
「でもさ、山本和美は王子とつきあってんじゃん」
そう言うと、笑香は少し嫌な顔をした。彼女は王子が誰かの彼氏であるのが気に入らないのだ。
「私なんか可哀想になってさ。ね、鈴木可哀想じゃね? 彼氏持ちを好きになって。たまたま好きになった人が彼氏いたんだ。山本和美が王子と付き合ってなかったらよかったのにな」
「そうだな。なんであの女なんだろう」
そう言った彼女は、心底惜しそうだった。同時に、山本和美の存在について苛立ったように顔をしかめて、何か悪いことを言いたげに唇をとがらせた。私はそんな笑香をなま暖かく見ていた。
「お前、王子奪えよ。和美から」
私が言うと、笑香は嬉しそうに広角をあげ、ほんのりほっぺたを赤くして、心の純粋さを表すように、きらきらと瞳を輝かせた。
「え? 馬鹿言え!」笑香はうわずった声で叫んだ。「そんなことできる訳ないじゃん。王子はあたしなんか見てくれないよ。王子だから」
「わからないよ。王子の好みは。もう和美に飽きてるかもしれないし。そろそろ彼女のとっかえ時だよ」
私がクスクス笑うと、笑香もつられて笑い出した。彼女は王子の彼女になれるかもしれない夢に心を踊らされていた。
「お前のお色気で王子、和美から奪えよ」
私が調子づいていうと、笑香は私の肩を叩き、
「何言ってんだよ。できる訳ないし」
でも、その顔は笑っている。
「できるって」
「どうやって」
「さあ」
笑香はもったいぶったように言った。
「そうだな。もしできるとして、まず和美と別れてもらわなきゃ。王子が和美を好きじゃなくなれば、あたしにもチャンスがあるかも」
「あの二人どうやったら別れるのかな」
「きっかけさえあれば、愛想なんてすぐつきるよ。だって、あの山本和美だよ?」
笑香は山本和美にはそれほど魅力がないと言いたげだった。彼女は山本和美を見くびっている。内心、私は笑香じゃ山本和美には勝てないと思っていた。山本和美の方があばた面とはいえ、顔立ちは可愛かったからだ。それに華奢で守りたくなるような容姿をしていた。それに比べて、笑香は女らしくないベリーショートヘアだし、顔だって月並みだ。体格も女らしくなく、がっしりしている。だが、リップクリームを塗って、唇を潤して、魅力的に見えるように努力はしているようだったが。私には、笑香が王子から見初められるとはどうしても思えなかった。だが、私一人の手では、鈴木翼と山本和美をくっつけられないから、笑香の提案に耳を傾けて、どうにかできる方法を探るより他無かった。
「よし、あたしに作戦がある」
私は笑香の話にこくりと頷いた。
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