第2話

 朝、私は、目覚まし時計のベルの音で目が覚めた。睡魔が体の動きを封じて、しばらく私はじっと目を閉じていた。

「んー、お姉ちゃん、目覚まし!」

 美佐子がうるさい電子音を嫌がり、イライラしたように叫んだ。

 私は目覚まし時計を消して、二段ベッドから降りた。小学生の二人が起きるにはまだ早いから、カーテンは閉めたまま。閉じたカーテンの隙間から眩しい外の朝日が白い線となって漏れていた。


 台所へ行くと父が朝食を食べていた。ご飯とわかめの味噌汁。味噌汁だけは私たち子供のために父が朝に鍋一杯作ってくれる。私も父の隣でご飯を食べた。

「お前も早いな。朝練か」父は茶碗にへばりついたご飯粒を箸でとっては口に入れ、味噌汁をすする。

「うん」

 私は父と話すと、いつも緊張して冷や汗が流れる。このときも、手のひらにじんわり水気が出て、箸を握る指がぬるぬるした。

「お父さんも早いね。今日も早出?」

「そうなんだよ。毎日疲れるな」

 父は最近こけた頬を爪でひっかいた。無精ひげが伸びていた。父の早出が続いてから髭を剃れていないのだ。疲れて剃る暇もないのか、もう身だしなみなんてどうでもいいみたい。

「会社忙しいんだね。あんまり無理しないで。体こわしてお母さんが二人になったら」

 私はたまに余計なことをべらべら喋ってしまう。喋ることがないから思い付いたことを考えもせずにそのまま口にしてしまうのだ。私は、はっとして、怖々うつむいた。自分がまた下品なことを言っていると、恥ずかしくなった。

「お父さんがお母さんみたいにか……。それはないから安心しろ。仕事はきついがお父さんだけじゃなくて仕事場のみんなも同じ気持ちだから。まあ、ほどほどに頑張るよ」

 父は食器を片づけて、出て行った。ご飯を食べ終わった私はお弁当に大きなおにぎりを作ってアルミホイルで包み、鞄に入れた。そして、私は歯を磨き、制服に着替えて、家を出た。

 学校へは電車で通っている。私は、満員電車で押しつぶされながら、足を踏ん張っていた。吊革争奪戦に負けて、揺れる電車で私を支えるのは足だけなのだ。私の体は太ったサラリーマンに挟まれていた。電車が大きくカーブすると、私は斜めに倒れる。それを太ったサラリーマンが踏ん張って背中で受け止める。私はこうして倒れないすべを知っていた。


 中学校のある駅について、私は満員電車から押し出されるように抜け出た。電車から出ると私の体は狭い空間から広い空間へ出たことによる開放感に包まれていた。改札を抜け、私は桜並木の道をまっすぐ歩いていく。ゆっくり歩くと、桜の木から散った薄い花びらがひらひらと私の頭の上や目の前に落ちてくる。私は手のひらを目の前に掲げてみる。小さな白い花びらが私の手の上にひとつ落ちた。私はそれを摘んでしげしげと眺め、鞄にしまい込んだ。母へおみやげにしようと思ったのだ。出歩かない母は季節をこれで知ることができる。どんなに喜ぶだろう。母の喜ぶ顔を想像して、私は嬉しさに胸がドキドキした。


 学校について、部室に入り、仲間に挨拶しながら、私は運動着に着替え、朝練に向かった。柔軟運動から始まり、校庭二十週。腕立て伏せ百回背筋百回、壁に向かってボールを投げる練習、バッドの素振り、私は部活仲間とともに汗を流した。天気が良く温かい日だった。

 部活の朝練が終わって、今日はこれから授業だと思ったら、授業の前に朝礼があるとのことで、私たちの学年は体育館に向かった。体育館のステージに上って、校長先生が、マイクで言った。

「君たちの学年の友達が、先日煙草を吸って、警察に補導されました。警察から電話がかかってきて、校長先生はびっくりしました。なぜこんなことをするのか。煙草は体に悪い。特にまだ未成年の子供たちである君たちには、悪いも悪い。煙草を吸うと肺ガンリスクが高まることは君たちも知っているとおりであり、君たちを病気から守るため、ルールができて、煙草は大人になってから。二十歳になってからというのができたわけであり、はあ、まあ、先生はルールを守らず破ってしまう生徒がいることに心から悲しくなりました」

 校長先生の話は長かった。

「先生の若い頃はシンナーがはやり、それを格好いいからと悪っぽく見えて格好いいというのですかね。そんなきもちから吸い出して、バカみたいになって、骨がすかすかになって死んでいくなんてのがありましたね。煙草もまた格好いいからすう。とりあえず悪ぶれるアイテムなんでしょうね。そのアイテムを使うことがかっこよくてナウイと思っているのでしょう。ですが、まったくかっこよくないのですよ。ルールを破るというのは物のわからないバカがやることです。自分はバカだと言っているようなものだと先生は思います」

 私たちは校長先生の話を直立の姿勢のまま聞いていた。私は校長先生の話を聞いているとにわかに背中に氷のように冷たい汗が流れ、体がそわそわしてきた。聞こえてくる音が遠くなりだし、地面が揺れるような目眩がした。あ、倒れる。私は思った。目の前が真っ白になって、校長先生の声がごうという音となって耳の中を流れた。気づくと私は床の上に頭をぶつけていた。なんで目の前にワックスの塗ったてらてたとした茶色い床板があるのか一瞬わからなかった。

「塩野目」

 担任の女教師である小坂先生が走りより、私は抱き起こされ、半分目を閉じながら、あやふやな視界で歩き、体育館の外に連れ出された。私は保健室に連れて行かれた。


「貧血ね」


 保険医は、私の倒れたときの症状から、そう判断した。私は念のため体温計で体温を測りながら保健室のベッドに横になった。

「閉めとくわね。少し休みなさい」

 保険医は黄色いカーテンを閉めてくれた。四方を黄色いカーテンで覆われ、私は白い天井を見上げながら枕に頭を埋めた。貧血なんかで倒れるなんて。私は、内心恥ずかしかった。こんな軽い体調の変化で保健室まで運ばれるなんて。私はどこも悪くなく、元気なのだ。もっと重い病気なら恥ずかしくないのに。体温計がぴぴっと鳴った。私は少しでも熱があればいいがと思いながらわきの下から体温計を取りだし、体温計の数字を読んだ。三十六度五分。平熱だ。シャッとカーテンが開いて、保険医が顔を出した。

「熱計れた?」

 私は体温計を渡した。保険医はそれを見て、しばらく無言の後、

「熱はないね」と物足りなさそうにいった。

「落ち着いたら教室に戻りなさいね」

 そういって、保険医はカーテンを閉めた。

 私は何でもないなら、もう教室に戻ろうと思い、起きあがってみた。すると、また目眩の兆しがみえて、空気の音がこもり、視界が白みだしたので、まだだめだと思い、ベッドに横になった。

 しばらくすると、保健室に新たに生徒が運び込まれた。私は、完全に閉じきっていないカーテンの隙間から、外の様子を窺いみた。髪の長い少女の後ろ姿があった。

「貧血っぽいです」

 その少女は言った。

「大丈夫横になる?」保険医が呼びかけると、少女は、はいと言って体を横に向けた。

 その少女は目の大きなあばた面の美少女だった。頬に気の毒なほど赤いニキビが密集している。可愛いのにもったいない、私は思った。少女は私の隣のベッドに横になった。

「ご飯食べてきた?」

「はい」

「ちょっと脇にこれ刺させてね」

 保険医と少女のやりとりを聞きながら、私は自分の気配を感ずかれるのがだめな気がして、息をひそめていた。そして、身じろぎもしないようにしていた。私は少しほっとした。私以外にも貧血で倒れて保健室に運ばれた人がいたからだ。病気でもないのに大事風に扱われたのが私だけじゃなくて安心した。恥ずかしい思いをしたのが一人じゃないのだと思うと、勇気づけられるような気がした。

 保健室はしんとしていた。静かなところでうるさくする気がしなくて、私はなるだけ体をこわばらせて、音をたてないように気を使った。ただ、目だけ動かし、天井のシミを見ていた。どれだけ時間が流れたろう。もう朝礼は終わったはずだ。

「失礼します」

 と男の声がした。カーテンの隙間の前を男子生徒が通り抜けていった。一瞬だけみたその男の子は、みたことのない儚げな美少年だった。私は、彼の美しさに息をのんだ。

「先生、山本和美は」

「なに、お見舞い? そこで寝てるわ。他の生徒さんも寝てるから静かにしてね」

「はい」

 男子生徒はとなりのあばた面の美少女のベッドの方へ向かった。

「どうした、大丈夫か、和美」

「大丈夫。貧血だから」

「レバー食えよ」

 和美と呼ばれた少女の小さく笑う声が聞こえた。

「本当にもう大丈夫だから、大和くんは教室に戻ってて。私もあとでいくから」

 大和と呼ばれた男子生徒は、なかなか出て行こうとせず、隣のベッドは長く沈黙していた。

「先に戻ってるぞ」とうとう大和は言って、保健室を出ていった。


 私はこの二人が恋人同士であることに気づいた。閉じたカーテンの向こう側で二人がどうなっていたのかはわからないが、きっと、熱い眼差しを交わしあい、手など握り合っていたのかもしれない。私は興奮した。恋人同士を見つけたことが、大人の世界を見たような気にさせたのだ。私は背が高くなった気になった。中でも大和の美少年ぶりが私に気分の高揚を与えた。あんな生徒いたんだ。


 一時間目が始まる前に私は教室に戻った。

「生理二日目?」笑香が笑いながら、私に言った。

「違うよ。なんとなく今日は体調が悪かったの」

 私は顔を赤くして言った。生理というのが妙に女っぽくて私は苦手なのだ。そういう目で見られることに耐えられなかった。

「そういえば、保健室でめちゃくちゃ格好いい人みたよ」

 私は素晴らしく美しい少年をみたことを友と分かち合いたくて言った。そのとき、私の顔は興奮でバラ色に輝いていた。

「なにー誰」

「大和って名前の」

「ああ西下大和」

 笑香はもう知っているぞといいたげに、訳あり顔でほくそ笑んだ。何だ、知ってるのか。そうなると、私はもっと大和のことが知りたくなって、思わず身を乗り出した。

「え、知ってるの?」

「うそでしょおう。静香知らないの? 有名だよ。今年転校してきたんだよ」

 何で知らないのか、信じられない物を見るように笑香は私を見て馬鹿にしたように言った。私は人非人みたいなこの言い方に少しむっとしたが、聞き流した。

「そっか転校生なんだ」

「そうだよ。王子だよ王子。王子って呼ばれてるから」

 笑香は楽しそうに語った。彼女が大和のことを語る目は幸せそうに輝いていた。彼女はもしかして西下大和を好きなのかもしれない。私は夢中になっている笑香をこっち側に引き戻すように言った。

「でも、その人彼女持ちみたいだよ、今日女の子といちゃついてたよ」

「うそ、彼女いるの? 誰」

「山本和美って子」

 笑香の顔がゆがんだ。

「ぶす」

 私は呆れたようにふにゃりと笑った。笑香が山本和美に嫉妬しているのはあからさまだった。

「ブスじゃないだろ。目大きいし可愛いほうなんじゃね?」

 私が言うと、笑香は怒ったように目をつり上げて叫んだ。

「やだ、ニキビじゃん。ブスだろ。ニキビすごすぎちゃん」

 そして、彼女は毒々しく笑った。私は時々笑香の口の悪さが怖くなる。だが、私は否定しなかった。ニキビがあることは事実だったし、否定したところで、笑香と嫌な空気になるのが耐え難かったからだ。

 ふと、見ると、鈴木翼がこちらを険のある眼差しで睨みつけていた。私は、どきりとした。山本和美をバカにして盛り上がっているために冷たく錐で刺すような罪悪感が胸を襲ったのだ。私は今、下品だ。私は否定したかった。

「あんまそういうこと言うなよ」

 何とか絞り出した自信のない小さな声。そう言って私は謝罪したつもりだった。誰に。鈴木翼に。

「え? 静香思わないんだ? あの子ニキビすごかっただろ」

「そりゃ、ふつうより酷い感じだったけど」

「ほらあ、おーもーうーでーしょー?」

 笑香は山本和美を悪く言うことで血がたぎるのか、目をぎらぎらさせて笑った。嫉妬相手を攻撃することで、彼女はすっきりしているのかもしれない。

 笑香の勝利したような爆笑で会話が終わることに、私は恐ろしくなって、不安げに鈴木翼をちらりとみた。彼はこっちを見て、怒った顔で、「サイテー」と口を動かした。私は胸が敗れる気がして、激しい動悸がした。心の汚さを人から避難されると、私は腹が立って、ショックで、それ以上に悲しくて辛かった。


 この日は夕方から雨で、部活は中止だった。私は家にすぐ帰り、帰ったのは私が一番乗りだった。家の中には母と私しかいない。

「ただいま」

 返事がないことはいつもだ。私は朝に拾った桜の花びらを鞄からとりだした。少ししおれている。これを母に渡そう。私は胸がドキドキした。母に対峙するのは緊張する。私は勇気を振り絞って母の寝ている部屋に入った。

 部屋の中はカーテンが締め切り、暗かった。母は布団の中に入ってパジャマのままで寝ていた。

「お母さん」

 私は母の前に座って大きな声で呼びかけた。

 母は布団の中につっこんでいた頭を少し上に出した。これが母の返事だ。

 何か話さないと。私はとっさに思い付いたことを話した。

「今日さ、私朝礼の時、貧血で倒れた……」

「お母さんなんか、ずっと寝てる」

 娘の心配をするどころか、母は自分のことばかり。自分が一番可哀想だと思っているから、誰かが可哀想なことになると自分の方がもっとだと喋りたくなるのだろう。

「それは病気だから」

 私は少し嫌な顔をしながら言った。慰めてもらおうと思ったのに、自分が慰める羽目になったから。私は弱みを見せちゃいけないのだ。強くいなくちゃいけないと思うと妙に疲れた。

「どうしてもつらいのよ。ねえ、起きあがれないの。どうしてこうなんだろうね。お母さん何の役にも立てない邪魔者だよ。いらないよね。お母さんみたいなデブで恥ずかしいおばさん」

「そんなことないよ」

「なにがそんなことないの。お母さんもういや……」

 私は何て言ったらいいのかわからなかった。

「死にたい……」

 母が言うと、私は体が鈍く重くなるのを感じた。

「お母さん、外で桜咲いてたよ」

 私は母を元気づけようと思っていった。母は瞳を潤ませ、唇をかすかに震わせた。母は屋根を打つ雨音にじっと耳を澄ませて、

「雨で全部散っちゃうね。桜を見るとお母さんいつも悲しくなる。もう一年たったのかって。月日の流れはこんなに速いのに、お母さんだけ立ち止まって、あんたたちはお母さんが何もしなくても大きくなって。お母さんは忘れ去られるの……」

 そう言って、母はすすり泣き始めた。私は渡そうと思っていた桜の花びらが、母を無駄に悲しませると思って渡せないまま、部屋を出て、桜の花びらはゴミ箱に捨てた。

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