おにぎり

宝飯霞

第1話

 アルミホイルに包まれたおにぎりを持って、私は中学校に通っていた。土方みたいなバカみたいに大きなおにぎりだった。のりにも巻いていないおにぎりで、具は無かった。塩と白飯だけのおにぎり。私はソフトボール部だったので、きつい朝練をして、授業を受けてとなると、昼頃にはお腹がぺこぺこで、それぐらい食べなければ、午後の授業も放課後の部活もやってられなかったのだ。そして、私の家は貧しかったので、おかずなんて無かった。祖母の家が米農家で、米だけはたらふく食べられた。私は、女なのに、髪の毛は短く狩り上げられていて、思春期の少女らしく、ふっくらとした体で、とても柳のような美人にはなれない感じで、男っぽくするのが格好いいと思っていたので、がに股で歩いていた。声も低く、がさつで、男勝りな女だった。女らしくするのはみっともないと思っていた。私の友達もみんな男勝りで、女らしいクラスメイトのことを影でぶりっこと呼んでバカにしていたくらいだ。


 私の名前は塩野目静香。右の握力が四十もあるのが自慢だ。都会の町で貧しいながら元気に明るく暮らす中学二年生。来年は受験がある。勉強はからきしだめで、部活動の推薦で高校受験を考えている。私は決して目立つ生徒ではなかった。かといって、地味な生徒でもなかった。女を捨てた汚らしい生徒の群にいる、きらきら輝いた連中からゴミみたいに見下されている存在だった。私はいばって自分の方からきらきらした連中を見下してやっているつもりだった。だが、あいつらを羨ましいと思う気持ちは捨てきれなかった。きらきらした青春にあこがれていた。女なのに猿みたいな男を演じていると、きらきらした奴らは眉をしかめて不快といいたげな顔をする。それに気づいていた。自分は女であって、男ではない。本物の男にはなれない。本物になれない偽物ほど痛々しい物はない。私は女として大変みすぼらしかった。でも、それでいいと思っていたのだ。


 私は本は読まなかった。もっぱらマンガばかり読んだ。ある日、友達の笑華が少女マンガのえろいやつを持ってきた。友達みんなで回し読みして感想をいいあった。少女が裸で男と寝ているシーンをみて、

「まじ勃起したよ、えろい。超えろいから」

「これ濡れるーもうヤバーイ」

「勃起状態」と背を屈めて拳を股間にもっていき、上に突き上げるまねをする。

 がはは、と大口開けて笑っていた。それを聞いている周りのきらきらした連中や、しとやかな連中は、むすっとして、いらだたしげに顔を伏せていた。私たちは、何も言われないので、許されていると思い、しゃべりをやめないで、バカみたいに騒いで笑っていた。周りから見てもおもしろいと思っていたのだ。

 ところが、クラスのなよなよした女みたいな男の鈴木翼が私たちの方へずんずん歩いてきて、いきなり、

「下品すぎる。耳が腐り落ちそう」と嫌な顔をして言った。

 彼はその言葉も女みたいにしゃべった。私たちはぽかんとして喋るのを止めた。鈴木翼について私たちは嫌な奴という印象を持った。自分たちの楽しみに水を差してきたからだ。

 鈴木翼は痩せていて、色が白い、後ろと前の髪の毛が長めの長身の男で、金持ちという噂だった。

「育ちがいいんだよ。あいつは」と誰かが言った。

「草食系男子」とも言った。

 そのせいか、彼は女みたいにくねくねして、しゃべり方も女みたいだった。最初はバカにするつもりで彼に近づいた。

「ねえ、鈴木、あんたお姉なの?」

 私の質問に鈴木はうつむいていたが、顔を上げると彼は不愉快そうに顔をしかめていた。女と見られることが彼は嫌らしい。

「僕は、貴方みたいな曲がった価値観で見られる人間じゃないから。それに僕は女の子が好き。もちろんね、貴方のような女じゃないもっと可愛い女の子がね」

 私は私のような女じゃないと言われたために、いまさら自分が女としてみられていないことに傷ついた。

「え? 何? あんた好きな子いるのかよ。誰が好きなんだよ」

 そう聞くと、鈴木は急にあせりだして、視線をさまよわせた。

「どうして、貴方になんかに言わなきゃならないの。僕が誰が好きだなんてどうだっていいでしょ」

「気になるんだよ。教えろよ。佐伯さん?」

 佐伯さんはクラスで一番の美少女である。

「違う」

 違うと言われて、私はほっとした。みんなが一番可愛い子が好きという答えはおもしろくないからだ。それに、私はモテる佐伯さんに嫉妬していた。男にあこがれていても、私の正体は女だった。

「じゃあ、誰」

「教えたくない」

 鈴木は机の上で腕を組んで、その中に顔を埋めた。もう私とは話したくないといった様子である。

 私は諦めて友達の元へ戻った。

「静香、鈴木と何話してたんだよ」笑香が期待してうきうきしたように、私の肩に腕を回して引き寄せた。

「お姉なのかどうか聞いたんだよ。あいついつもくねくねして気持ち悪いからさ」

「ひょー。聞いたのかよ。やべえ。何て言ってた?」

「女が好きなんだって」

 友達は下品に大声で笑い出した。

「静香つきあってあげろよ」

「でも、男みたいな女は嫌なんだってさ。可愛い子がいいんだって」

「強欲だなあ」

 私は友達と笑いながら鈴木翼を盗みみた。彼は、静かにじっとこちらをにらみつけていた。私たちが鈴木翼の話題で盛り上がっているのがおもしろくないらしい。彼は自分の話をしている私を怨んでいる。彼を傷つけてしまったかと思い、私は後悔の痛みが胸につきりと差した。

 鈴木翼に下品と言われたことが私の心を鈍い色で染めていた。私は程度の低い人間だったろうか。


 授業を終え、放課後の部活で、さんざん汗をしぼり、私は外が真っ暗になってから帰路に就いた。自宅は安い賃貸マンションで、三階立ての三階にすんでいた。エレベーターはなくて階段だった。静かなマンションの廊下に階段をのぼる足音が響くと、私はなぜか怖い気がしてくる。後ろから刺されやしないか、そんな気がするのだ。私は急いで自分の家の玄関の扉の前に走っていく。そして、扉を開く。脱ぎっぱなしの靴が散らばった玄関、洗濯物や、ごみで散らかった部屋。奥で精神病の母が眠っていた。十一歳の妹の美佐子がご飯を炊いて油炒めを作って待っていた。

「お姉ちゃん、お帰りなさい」

 下の弟の隆矢はすでにご飯を食べていた。

「ただいま」

 私は何だかムシャクシャして、隆矢の頭を叩いて、鞄をおろした。

「痛って。このくそ婆」

 急に頭を叩かれて、怒った隆矢は、わたしの尻に蹴りを入れた。私は腹が立って、隆矢の腕を力任せに殴った。隆矢は顔をしわくちゃにして、口をつぐみ、ひいひいと泣き出した。私は勝利の楽しみに酔いしれた。こんなことで私は鬱憤をはらしていた。今日学校で感じたもやもやを弟と戦うことではらしていた。いや、戦いではない。一方的ないじめだ。

「なんで、お姉ちゃん、もう…無駄な争い」

 美佐子は、そんな私の凶暴性を見て、呆れたように言った。

「お姉ちゃんは、どうしようもないいじめっ子だ」

「いじめじゃないよ。かまってやってんの。男なら喧嘩が強くなきゃ。私が訓練してやってんの」

「喧嘩する男なんて嫌い」

「でも弱い男より強い男が好きなんだろ、おまえだって」

「弱くても心が優しければいいと思うから」

「じゃあ、隆矢は違うね。心が優しくないよ。私のことくそ婆って言ったもん」

 私は自分が悪かったと言いたくなくて、拓也を悪者にして笑った。妹は軽蔑したように私を見て、

「それは、お姉ちゃんが隆矢を叩いて怒らせたからでしょ」

「怒ってもくそ婆は無いわ。教育が悪い」

「お姉ちゃんだって、くそつまんねーだの、くそがだの言ってるでしょ」

「私のことはいいの。隆矢の話をしてんの」

「お母さんがね、さっき一人でお風呂に入ったの。今は寝てるけど」

 美佐子は態と話題を変えて、わたしと言い争うことから逃れた。

「よかったじゃん。ずっとお風呂に入ってなくて、加齢臭やばかったから。頭もべたべたで汚かったし。お母さんもさすがにやばいと思ったんじゃない」私は苛立ちにまかせて、母が聞いたら傷つくことをいって、言葉のナイフをやたらに振り回して強がった。誰かを傷つけないと私の苛立ちが収まらなかったのだ。

「うん。今日はいつもよりも調子がいいみたい。でもすぐ寝ちゃった。ごはん食べるから起こそうか」

 美佐子は、母を起こしに、母が寝ている部屋に入っていった。開いたふすまから母と美佐子のやりとりが見えた。美佐子は布団を少しめくって、頭から布団をかぶっていた母の顔をリビングから差す照明の細い光の中にだしてやり、小さい声で「お母さん」と呼びかけた。母はどんよりとした黒い目を開いた。

「ご飯食べよ」美佐子の呼びかけに、母は震えた声で「ごめんね。お風呂はいったら疲れちゃった。食べる元気まで使っちゃって、もう何もしたくないわ」

「何も食べないとよけいに元気が出ないよ。少し食べたら?」

 母は団子虫のように丸まってしまった。それは、彼女の拒絶を表していた。美佐子は難しそうに顔をしかめ、母の背を撫でてやりながら、何度か、お母さん、お母さん、と呼びかけた。

「疲れているの。動くともっと疲れるから。疲れると胸がドキドキして、しんどくて、嫌なこと思い出して、また心が苦しくなるから。じっとしていたいの。ほっといて」

 母は尻すぼみに弱々しい声を出した。こう言えば、美佐子が話しかけるのを諦めると思って、態と心が苦しくなるとか弱気なことをいったのだ。

「いいよ。今できないなら、あとにしよう。お父さん帰ってきてから食べなね」

「うん」

 私は弱り切った母を見るのが辛いために、母の相手は全部妹にまかせていた。わたしじゃ、母の弱々しさにイライラして、どう話して良いかわからなくなる。へたしたら母を傷つけてしまい、母の病気を悪化させてしまうんじゃないか、そんな気持ちが、私と母の親子の交渉を疎遠にしていた。

「美佐子、疲れない?」

 わたしが問うと、美佐子は、人差し指を唇の前に持ってきて、しっと息を強く吐いて、怒った口調で、

「お母さんの前でそういうこと言わないで、お母さんが聞いたら傷つくでしょ。お母さんは病気なんだから。私たちが面倒見ないでどうするの。家族が弱って倒れているのなら家族が助け起こしてあげなきゃ」

 美佐子の作ったごはんを食べて、食べ終わった食器を美佐子と並んでシンクで洗っていた。食器の油汚れを洗剤の白い泡で落としていると、わたしは無心になれた。汚れが落ちていくごとに、私の心のもやもやも晴れていくような気がした。

「大丈夫? お姉ちゃん。今日のお姉ちゃん機嫌悪いみたい。少し怖かった。何かあったの?」

 美佐子は唐突にわたしを見上げるように見て、口をとがらせながらほんの少し笑うように、私にこの話を振ったせいで、あまり空気が重くならないように冗談ぽく言った。

「え?」

 わたしは、心臓に冷水を浴びせられたみたいにどきりとした。ふいに鈴木翼とのやりとりを思い出した。下品だと言われたこと。嫌いだと言われたこと。

「お姉ちゃんて、下品かな」

「たまにね」

 美佐子は言った。

「人に迷惑かけていると思うなら下品なことを止めればいい。でも、環境がそうさせるのなら、しかたないから、その環境から離れるべきね」

「どういうこと」

「お姉ちゃんの友達も下品だから」

 いつだったか、友達を家に上げたとき、居間で宿題をやっていた美佐子は子供部屋から聞こえてくる私と友達の下品な会話に閉口して、わたしに苦情をのべたことがあった。

「私に友達を捨てろって? 無理だよ。友達がいなくなったら生きていけない」

「そんな友達でもお姉ちゃんにとっては大切だもんね」

 そう。大切なんだ。大切な友達が好きな物は、私も好きだ。嫌いだと言ったら、友達の縁を切られる。私は友達の右腕になることで友達を得ているのだ。だけど、わたしは、どこかで、だれかがわたしのせいで不愉快になっているのなら、放っておけないと思った。わたしがやめれば彼が嫌な思いをしないですむのなら止めたらいいんじゃないかと思うのだ。下品と言われて初めて、私は罪の意識を感じた。それまでは、おもしろいことだと思っていたのだ。男らしいと思っていたのだ。楽しくて明るい会話だと思っていたのだ。下品。私の言葉は、汚れているのだろうか。聞く人が不快になる言葉を吐くなんて、わたしは無教養であさましい低俗な女だ。汚い口を開けて喋っているのだ。そう思うと、わたしは寒気がした。自分は下品だ。性格が不細工だ。可愛くない。きらきらしていない。


 八時に父が帰ってきた。父は工場の派遣で働いていて、連日のように早出に残業だった。彼は疲れ切っていた。

「ただいま」

 私たちが居間のテレビを見ている横で、父は台所の大きいテーブルのところに座って夜ご飯を食べていた。母は食べないと言って起きなかった。きっといつものように夜中におなかが空いて一人で冷え切ったご飯をレンジで温めもせずに食べるのだ。

 父は寡黙でほとんど喋らない。疲れが彼をさらに無口にしていた。そして、母の病気が、彼から喋る楽しさを奪っていた。家族の空気は重かった。彼は滅入っていた。母が彼の力では元気にならないと知ると、早々に自分は手を引いてしまった。母のことは彼女が自分の力で治すしかないと思っている。父は無力だった。電気が切れかけの電灯の明かりのように、恐る恐るそこに存在していた。私も、無口な父と何を話して良いかわからず、自分から語りかけることはしなかった。しゃべりかけようとすると、いつも、父の暗い影が差した目を見て、彼の疲れを知って、これ以上彼を疲れさせたくないばかりに気を使って何も喋らないでしまう。父は時々寂しそうにご飯を食べる。私はずっと父と喋っていなかったものだから、もう父との会話の仕方を忘れてしまい。言葉など出てこない。焦ったようにむずむずしている。父はやがてお風呂に入って母の横で眠る。自分の妻は病気なのだ。父は何を思いながら母と同じ部屋で眠るのだろう。

 私は子供部屋の二段ベッドの上に潜り込んだ。二段ベッドの下で美佐子が寝ている。床に直に布団を敷いて、隆矢が寝ている。隆矢の高いいびきを聞きながら、美佐子の静かな鼻息を聞きながら、私は眠りについた。

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