テイク2
虹空天音
テイク2
死のう、と思った。
よくわからないけど、死ななきゃいけないと思った。そうすれば、きっと救われると、何の根拠もなしに思った。成績はいいはずなのに、なぜか頭の中に霧がかかっている。ぼんやりとしている。何も考えられない。
部屋の奥に置いてきたスマートフォンが、いつまでたっても振動している。うるさいな。もう嫌になったな。「友達」と称された連絡先を、全て消してから飛んでも、別にいいかなと思った。
ベランダから出て、部屋に入り、スマホを操作する。赤く光る削除ボタンを押す手が、だんだんと疲れてきて、最後の一人を消したころには本当に疲れていた。死ぬとき最後にやることが、まさかこんなくだらないことだなんて。笑っちゃうな。
ふぅ、と息を吐く。きれいさっぱり消えた連絡先は、私の気分をすがすがしくした。もう、気にかけるようなことはないな。
部屋のドアを開けた。
「それでいいの?」
バッと後ろを振り返った。びっくりした。この部屋、いや家には私一人以外に誰もいないはず。後ろには、小さな子供がいた。黒い角を生やし、羽をパタパタさせながら「ニシシ」と笑った。
「もったいないなぁ。お姉さんは本当にそれでいいの? 憎い人たち、いるんじゃないの?」
子供の言っていることが、訳が分からなかった。何を、全てを知ったような口ぶりをして……。 誰も、私のことなんてわかってないくせに。
「ほっといてよ」
気づいたら口から言葉が出ていた。意図したわけではなかった。全力の、本能からの拒絶だった。
「へ~? でも、僕がほっといたら、お姉さんはこのまま飛び降りるだろうなぁ」
ニシシ、とまた笑い声をあげる。もう理解が追いつかなかった。思考を読んでいるのだろうか。はたまた、こいつは私をストーカーしていたり……? いやいや、こんな小さな子供が……。
「小さな子供じゃないよ」
ピシャリと、思考を分断された。やっぱりだ、こいつ、私の心を読んで……! そいつはにやりと口角を上げる。
「僕は悪魔。お姉さんに契約をしてもらいたくて、はるばるやってきたんだ。どう? 僕と契約してみない?」
私は首を振った。怪しい。怪し過ぎる。そもそもそんなのは必要ない。私はこれから飛ぶのだから。
「だーかーら。お姉さんは、恨みがある人間を残したまま、あいつらが幸せにのうのうと生きている中、死ななきゃいけない。それが、どんなに悲しいことか」
表情を変えずに悪魔は言う。ピクリとも感情が動かないので、その下の本音を読み取ることなどはできそうになかった。 悪魔は続ける。
「だからね。お姉さんは、ここで死んじゃってもいいんだよ。でも、そこからやり直さない? 一緒にさ!」
無邪気な笑顔を浮かべながら言う。その狂気に、私は少し悪寒がした。どうやら、悪魔というのは本当なのかもしれない。私はその場に座り込んだ。
「で……それはどんな契約なの?」
「お! 食いついてきたね~」
ニシシ、とまた気味の悪い笑顔を浮かべる。少し不快感を感じたが、別にどうってことはない。この嫌悪感は、感じ過ぎて慣れている。
「僕がお姉さんに与えるのは、『リセット』する力。お姉さんは、死んだとき、『リセットしたい』と願ったときに、この力を使うことができる。人生のどんな場面からでもやり直せるよ。死んでも、何度でも何度でも……」
あれ、と思った。私はずっと興味がなかった。でも、聞いたらこの力が、すごく、すごく魅力的に感じてしまったのだ。
悪魔からの話だ、絶対に怪しいし、何かの罠をかけられるんじゃないか、という不信感もある。しかしそれを上回って、死への恐怖と迷い、悪魔の説明へ引き込まれるような感覚を感じている。
いつの間にか、私は「そうだ」とつぶやいていた。
「そうだよ、私が……」
今まで感じたことのない気持ち、今までされたことへの怒りが、体中を支配して、頬を紅潮させる。すでに口は、言うことを聞かなかった。
「私がこんなにつらく感じてるのも、全部、全部周りの責任なんだ……」
「そうそう」
悪魔もそれに同調する。面白がっているようにも聞こえたが、この際別にそれはどうでもいい。
「私がやり直して、周りを正しくすれば。あいつらを、見返してやれば……」
「うん。お姉さんは何も悪くないよ。悪いのはあいつらの方なんだよ。だからさ、この力を使って、復讐しようよ」
笑い声が頭の中に反響し始めた。痛い。心臓が痛い。苦しくて苦しくて、叫んでしまいそうになる。早く、この感情を沈めなければ。
私は急いで立ち上がって、全速力で走った。とにかく、走って、走って、走れば、その先に、きっと安寧があるはずなんだ、と、根拠のないことを心の中でつぶやきながら。
気が付いた時にはベランダの柵から、体を投げ出していた。
「……え」
重圧がのしかかり、意識が飛ぶ。迫りくる地面、死へ近づく感覚。そして恐怖。怖い、怖い怖い怖――。
グシャッ。
その音の後、私はかすかに声を聞いた。
「ねえお姉さん、やり直そうよ」
その声しか、なかった。私は、そうすればいいんだ、と直感的に思った。やり直せば、全てなかったことになる。 あいつらに、あいつらに、あいつらに。
「……うん」
その声に、私はかすれた声で、肯定の返答をした。
気が付いたら、真っ白な空間にいた。地面にぶつかったときの衝撃も、痛みも、流れ出た血も。
そのすべてが跡形もなく消し去られていて、不思議な感覚を覚える。そうだ、あの声は……。
「やっほー。お姉さん」
小さい背丈、角、羽。まぎれもなく、その声の主は悪魔だった。悪魔は、手を振りながらにこにこと変わらない不気味な笑顔を浮かべていた。
「ありがとう、契約してくれて。お姉さんの名前を教えてくれる? それで契約完了ってことで」
「……サラ」
かすれた声でつぶやく。死んだ、と思ったときから、ずっとこのかすれ声だ。
頭の中にも、前よりさらに濃い霧がかかっていて、ぼんやりした。うまく考えることができない。
目の前の人物が、悪魔ということだけが、薄れる意識の中で分かっている。 悪魔が口を開いて質問するたび、あまり深く考えずに、口を動かしていた。何を喋っているのかすら、分からない。
「……オッケー。ありがとうお姉さん。改めて、契約完了だよ」
紙か何かに文章を書いている。虫みたいに小さい字だ、読めない……読もうとも思わない。そして、サラサラと文を書き足しながら、また「ニシシ」と笑った。
「で、お姉さんはどこからやり直すの? どこでもいいよ、言ってくれれば」
「……学校」
回らない頭が勝手に、「学校」と結果を出す。
「学校に、入る前、から。入学前の、前日……」
「うんうん、わかった。そこから一緒にやり直そう」
悪魔がうなずき、パチンと指を鳴らす。その音を聞いた瞬間、回らなかった頭は更に機能しなくなり、そのまま倒れた。奇妙な感覚だった。
「――で、キーホルダーは何にするの?」
ハッと気づいた時には、お母さんが私に話しかけていた。下を見ると、自分は寝間着姿、目の前にはランドセル。小学校入学前、だと分かった。
しかし、この思考が奪われていないことを見ると、どうやら「やり直し」は、私自身の記憶は一ミリも消すことなくやり直させてくれるらしい。おかげで小学校の勉強は何とかなるだろう。というか簡単だろう。
そうだ、このキーホルダー。私は悩んだ末に、ハート形のかわいい、お気に入りのキーホルダーとお守りをつけた。お母さんもお父さんも、「可愛い」「いいじゃないか」とほめてくれたのを思い出す。
だけど……駄目だったんだ。
「私、お星さまとお月さまにする」
わざと話し方を子供口調に変える。こうしないと怪しまれるかもしれないから。
キーホルダー。ハートとお守りは、駄目だ。なぜなら、ハート形、というのがかぶって、一人の子にキーホルダーを取られてしまうから……。
そのあとは色々なことをやって、慣れない体力のない体を頑張って使いながら、眠りについた。明日から、学校だ。
結果、としては。誰にも、キーホルダーはとられなかった。
キーホルダーを前はとってきた意地悪な奴は、「可愛くない」と言ってきたが、他の子は「くーるでかっこいい!」とほめてくれた。なかなか悪くない気分だ。
意地悪な奴もそれ以上何も言えなくて、すごすごと引き下がってくれた。良い滑り出し。これこそ、やり直してきたことの価値があるっていうものだと、私は思った。
それから。やり直す前の記憶と、年齢ゆえの体の動かし方の理解もあって、スポーツも勉強も、トップクラスのところに入り、いわゆるカースト上位で学校生活を送った。
やり直す前は中学一年生だったので、小学校は苦労しない。やり方も、勉強も、テストの範囲も、あるいは答えも、全て分かる。逆に、周りが馬鹿な発言をしているのが馬鹿らしくなってくる。
「これはここでしょ? 教科書読めば書いてあるよ。みんな、何でわかんないの?」
言ってやった。私に嫌なことをしてきた奴らも、全員押し黙る。テストの点数でも、知名度でも負けていては、手出しできないに違いない。
スッキリした。やってやった、とも思った。
そんな時、ひそひそ声が聞こえてきた。
「ねえ、サラって生意気じゃない?」
「ぺらぺら話してさ……えらそーだし上から目線だし……」
「どうせ家でがり勉でもやってるんじゃね?」
静かで、私が勉強を教えていて、あいつらは教えられる立場で、ひたすら計算式を並べていた、昼休みが。
あっという間に猛抗議と、文句、悪口の言い合いに変わってしまった。私も必死に語彙力と知識で対抗するが、やはり数の力にはかなわない。私はカッとなった。頭に血が上った。
「もういいよ! みんなバカのくせに! 私にたてつくなんて、どうなっても知らないんだからっ!」
吐き捨てて、教室から飛び出て、バタンと扉を力任せに閉める。喧騒と怒鳴り声が廊下に響き渡っているが、今はそんなの関係ない。駄目だ、と思った。
あいつらは馬鹿だ。私がどんなに頭がいいか、天才か、わかってない。理解できてない。駄目だ。
今度からは、知識を披露しすぎず、適度に人との距離感、関係を保つ。完璧にしてやる。私の人生を、完璧に。一切の失敗がないようにしてやらないといけない。絶対にそうじゃないといけない。
力任せに、げた箱の靴を地面へ投げつけた。むしゃくしゃする。こんなのもうやってられるか。
「悪魔! お願い、リセットさせて!」
叫ぶと、またどこからか、「ニシシ」という笑い声がした。嫌悪感が走る。でも、教室に詰め込まれた馬鹿どもの叫び声や、私を寄ってたかって非難する声、追いかけてくる奴らよりは、全然ましだった。
「分かった。また学校から再スタートでいい? お姉さん」
コクリと、その言葉にうなずく。何人かが私に怒鳴りながら掴みかかってきたが、そんな言葉はもう聞こえなかった。お前らは何も知らない。なんにも知らずに、人を傷つけるんだ。
今度こそ。そう思いながら、霧のかかる無意識状態に身を任せ、再び目をつぶった。二度目の、リセットだった。
疲れた。そう、疲れた、な。
やっぱりやり直しても、私は変われないのかな。
「そんなことないでしょ、お姉さん」
ぼんやりとどこかで声が聞こえた。暗く、重い声。昔は幼いけど悪賢いような声に聞こえていた……気がしなくもない。
……もうそろそろ、死んでもいいのかもしれないな。
「お姉さんは何のためにやり直したの?」
ニコニコとした顔のまま言われる。冷たい声音だった。責め立てられているようにも感じる。何回も座った椅子。何回も見たプリント。先生の発言。 そのすべてが、ゲシュタルト崩壊していく。
「サラちゃん」
隣の奴が話しかけてくる。はっきり言って不愉快だった。私を苦しめてきた奴に、話しかけてほしくない。でも痛くて、今はそれどころじゃない。
そうだ、もう死んでもいいのかもしれない。死にたい。
そう、私は最初から死にたかったんだ。救いなんて来なかったし、誰も覚えてないまま私だけが何とかしようと虚しくやり直してる。やり直すたびに悪かったところが浮き彫りになって、余計につらさに蝕まれた。
悪魔は、結局。人を助けなんかしない。うわべだけの救いなんて、あいつらと同じだ。何も変わらない。
席から立って、窓を開ける。幸い、ここは三階だった。このまま飛び降りればコンクリート。先生の怒鳴り声と止めようとする声が反響している。でも、窓枠に足を乗せたところでそれもなくなった。それどころか、不思議と心が落ち着いた。
両足をのせた。もう、恐怖は無かった。教室側を向く。後ろに倒れる。するり、と窓枠から体ごと滑り落ちる。
やった、私は。これで、いいんだ。
「ニシシ」
あの笑い声が聞こえた。私を包んでいた白い光が消えた。三階の窓には、あいつら。大声で、私を笑っている。
「マジで飛び降りたw」
「えー、あの高さだと死ぬんじゃない?」
クスクスと、嘲笑の声が、何故か私の耳にはっきりととどく。
「やり直せるわけないじゃん」
全部、私の都合のいい妄想。夢から覚めたなら、しっかりと、この人生を終えなきゃいけない。走馬灯は見なかった。思い出す価値のあるものが浮かんでこなかった。目を閉じる。苦しかった息を吐き出す。やっと、終わったんだ。
ぐしゃり。
テイク2 虹空天音 @shioringo-yakiringo
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