第2話 現在

 目が覚めて、自室のベッドの上で起きる。

 まだ眠いが不思議と今すぐには眠れそうになく、少し気分が優れない。どうやら嫌な夢を見たようだ。

 十村はじめは深くため息をつき、のそりとベッドから降りた。


「ハァ……」

「どうした? はじめ」


 気付けば家の中に黒猫が居た。

 名前は特にないらしい。呼びたい名前で呼べと言われて、はじめは子供の頃から友人のように接している。


「おはようクロ」

「おはよう。怖い夢でも見たのかい?」

「ああ、多分……流石に夢だと思う。子供の頃の俺が変な人に声かけられて、頭が風船みたいに破裂してた」

「それはそれは。うなされるのも当然の怖い夢だね」


 はじめはクロと呼んでいる。

 クロは淡々とした声で語っていた。昔から冷静沈着で取り乱すことがなく、博識で行動的でもあり、かつお節が好きな猫だ。はじめが5歳の頃に出会って以降、親が居ない彼を見守るため、いつしか勝手に家の中に入ってくるのが日課になっていた。


 はじめが暮らしているのは縁側のある古びた一階建ての日本家屋だった。周囲に危険がないと決めてかかっているのもあって開放的ですらある。

 仲の良い動物が家の中に入り込むなど日常茶飯事だ。


「今日は学校だろう? 時間は平気なのか?」

「あー……まだ大丈夫。余裕あるよ」


 はじめは現在高校2年生。17歳になる年である。

 祖父の死後、近所の住人に面倒を看てもらいながら一人暮らしを続けており、クロもその例に漏れない。


 起きてまず台所へ移動したはじめは、丸い皿にキャットフードを入れて、さらにその上からかつお節をかけて床に置く。

 待っていただろうクロはすかさず食べ始めた。

 その間にはじめは学校へ行く支度を始める。


 歯を磨いて顔を洗い、服を着替えて朝食の準備。

 寝ぼけながらもいつもこなしている動作を済ませていった。


「今日は夏彦は来ないのかい?」

「うん。なんか用事があるんだって。多分学校も休む」

「あの子も忙しいからね」

「みたいだなー。最近はちょっと落ち着いてたみたいなのに」

「近頃、町が騒がしくなりつつある」


 クロの発言にはじめは確かにと頷いた。


「はじめ」

「んー?」

「今日は嫌な予感がする。知らない人について行っちゃいけないよ」


 何気なく聞いていたのだが、不意にクロが声色を変えずに気になることを言った。振り返ったはじめが見るとクロはちょこんと座って彼を見上げている。

 そして言い終えると振り向いて歩き出し、縁側へ移動すると毛繕いをした後、ごろんと横になって休み始める。


「懐かしいけど、ただの夢だよな……?」


 はじめは苦笑し、そう言われたせいか、確かに嫌な予感がしていた。





 準備を済ませたはじめは制服を着て家を出た。

 学校へ向かっていると、近所の住人や顔見知りである人々が声をかけてきて、挨拶を返しながら歩く。

 いつも通りの時間とルート。少なくともすぐには普段との変化は感じなかった。


 変化を感じたのはあと五分もあれば学校に辿り着くという地点。

 ふと視線を向けたことで、気付かないはずがないだろう異変を発見した。


 ビルの角で女性が数人の男性に囲まれているのを目撃する。

 道を行く通行人も気付いているはずなのだが誰も気にかけようとしていない。通る道であったためにはじめも何気なくそこへ近付いていった。


「なぁお嬢ちゃん、いいじゃねぇか。そんなにつれない顔すんなよぉ」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ」

「悪いようにはしねぇからよー。俺たちと一緒に遊ぼうぜ」


 屈強で強面の男たちが三人、一人の女性を囲んでいる。全員が揃いのモヒカンにしていて、形はよく似ているが色はそれぞれ赤、青、黄と分けられていた。

 タンクトップを着て大きく隆起した筋肉が露わになっており、腕っぷしに自信があるのだろうと思える素振りで、強引に迫ってにやにや笑っている。


 おそらく強引なナンパをしているのだろうが、一人の発言が気になる。

 無視できなかったはじめはなんとなく彼らの下へ近付いてみた。


「なぁお嬢ちゃん、可愛い君に話しかけてんだよぉ」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ」

「悪いようにはしねぇからよー。俺たちと一緒に来ればいいぜ」


 囲まれている女性はビルの壁を背にしてもたれ掛かるように立っていた。

 胸にまで届く黒髪が目につく。どこぞの学校の指定制服なのだろう黒いセーラー服を着ており、腕を組んで目を閉じている。切れ長の目元にはどことなく鋭さを感じずにはいられないとはいえ、美しい少女であることは間違いなかった。


 学生であることは間違いないと思え、見た目からしても同年代であり、そこでようやくはじめは「あぁ」と気付いた。

 はじめが通う高校とは別の、女子高の制服だと思い出した。


 助けた方がいい状況なのか。それともそんなことはないのか。

 わかりかねるはじめはある程度近付いてから足を止め、数メートル距離を置いた位置から彼らの様子を眺める。

 見た瞬間は「なぜ誰も助けないんだろう」と思ったものだが、少し近付いて改めて見ると「なるほど」と思ってしまう。


「ちょっとくらいいいじゃねぇか。楽しいことしたくねぇかぁ?」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ」

「悪いようにはしねぇからよー。ちょっと付き合ってくれよー」


 少女はガン無視して黙り込んでいるらしい。

 それでもお構いなしににやにや笑う三人の男が言い寄っている。

 先程から発言が気になって仕方ない。果たして何が目的なのだろう。わかりかねるはじめはじっと注視して動かなかった。


「うだうだ言ってねぇでいいじゃねぇか!」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ!」

「来たって悪いようにはしねぇからよー!」


 見た目はどうあっても不良が少女に絡んでいるようにしか見えない。しかしじっと眺めていると、少女はうだうだ言っていないし、迷惑そうに腕組みをして目を閉じてはいるが助けを求める様子もない。

 何より気になるのは、三人の不良がちらちらとはじめを見ていたことだ。


 何か理由があるのではないだろうか。

 本当に困っているのなら割って入ることも考えるとはいえ、どうやらそんな様子ではなさそうだなと思って動けずにいる。


「へっへっへ! どうやら誰も助けてくれねぇようだなー!」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ!」

「誰も助けに来ねぇならこのままお姉さんを連れてっちゃおうかなー!」


 何かを主張し始めたような気がする。まるで助けに来いと言わんばかりだ。

 彼らは振り返ってはじめの姿をちらちら確認しており、心なしか彼に訴えかけているように見える。


「何をやっているんだ君たち! やめないか!」


 はじめが困惑して突っ立っていると、正義感が強そうなサラリーマンが彼らの下へまっすぐ向かっていった。

 揉め事になるのかと眺めていれば、途端に三人が集まってきて、サラリーマンとこそこそ話し始める。その間、少女は放置されているのだが逃げ出しもせず、気まずそうにそっぽを向いて動かなかった。


「なるほど! これは申し訳ない! 大変失礼しました!」

「いえいえ、こっちも大声出してましたんで」

「では頑張ってください! お邪魔しました!」

「どうも~」


 サラリーマンは晴れ晴れとした顔で走って去っていく。

 その際、はじめに振り返ってバチーンとウインクをしたのが印象的で、しっかりと目撃したはじめは困った顔をしている。


「誰かが助けてくれないんならさー! エッチなイタズラしちゃおっかなー!」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ!」

「言っとくが俺たちは強いぜ! パンチ一発で吹っ飛んだりはしねぇからよー!」


 再び主張が始まる。

 これは声をかけなければ終わらなさそうだと察し、はじめは仕方なく進み出た。


「あのー……」

「おっ! なんだてめぇは!」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ!」

「俺たちの邪魔をしようってのか! アァッ⁉」

「どことなくほっとしてる感じなのはどうなんだろう」


 恐る恐る声をかけてみるとすかさず三人の男たちが振り返った。待ち望んでいたとでも言いたげな、見るからに嬉しそうな態度に思わず困惑してしまう。

 声をかけたからにはもう逃げるわけにはいかない。はじめは仕方なく彼らと向き合う羽目になった。


「あの、無理やりどうにかしようみたいなのはよくないんじゃないですかね」

「なんだとこの野郎! 俺たちに文句あるってのか!」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ!」

「やるって言うならやってやるぞオラァ! なんなら先に殴ってこいオラァ!」

「いや、もう、何屋なんですか? あなた方は」


 対峙してみて改めて彼らの異質さを知る。怖いなどとは微塵も思わない。むしろ早く殴ってこいとでも言いたげに無防備な姿勢で寄ってこようとするのだからはじめは呆れた顔を隠そうともしなかった。

 はじめの前にずらりと並ぶ三人は敢えて無防備に体を差し出しる。素人目に見ても隙だらけであり、早く殴られないかと心待ちにしている様子だ。


「言っとくがお前のパンチ一発で吹っ飛んだりはしねぇぞコラァ!」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぞ!」

「試しに殴ってみろよオラァ!」

「すごく誘導されてる気が……もっと穏便に済ませられませんか」

「済ませられるわけねぇだろうがオラァ!」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ!」

「お前この女を守りたくねぇのかコラァ!」

「ハァ……」


 早くしろと言わんばかりに詰め寄ってくる男たちに辟易して、仕方なくはじめは正面に立った赤いモヒカンの男を見上げる。

 試すつもりで右腕を伸ばし、軽く男の体に触れてみた。

 ぽんっと軽く押しただけ。元々喧嘩など得意ではないのだ。殴れと言われて殴れるはずもなく、優しく押したつもりだった。


 直後、赤いモヒカンの男が後方にぶっ飛んだ。

 まるで銃から発射された銃弾の如く、異常な速度で直進した。その勢いで壁に激突するとコンクリートに大きなヒビが入って体が止まる。


 はじめは呆然として突っ立ち、伸ばした腕を下ろすこともできずに硬直する。

 一泊遅れて彼の仲間だろう二人が「あぁっ⁉」と叫んで駆け寄った。


「ぐはぁ……⁉ や、やられたぜぇ……!」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ⁉」

「うおおおおっ⁉ どうしたブラザー! どうしてだぁ!」


 倒れた赤いモヒカンの男に青と黄のモヒカンが担いでその場を去ろうとしていた。


「ち、ちくしょう……! お前ェ、覚えてろよ!」

「俺たちは撃退される用のナンパ師だぜ!」

「でも本音を言うと別に覚えてなくていいんだぜ!」


 ばたばたと慌ただしく、男たちは感心してしまうほど素早く逃げていった。

 残されたはじめは姿が見えなくなるまで彼らを見送り、何と言っていいかわからない気持ちのままで立ち尽くす。


 あれが計画されていた動きだったと思いたい。でなければ何の力もない自分にあんなことができるはずがないし、突然何かが目覚めた自覚もない。

 そうすると赤のモヒカンの彼は自分の意思で思いっきりぶっ飛んでいったわけで、それはそれで怖いと思いながら、そうとしか考えられないと首を捻っていた。


 途方に暮れるはじめはちらりと視線を動かした。

 壁に背を預けて立つ少女が動く気配はない。

 彼女もまた何をしていたのだろう。強めに言い寄られて嫌がりもせず、かといって喜んでいるわけでもなく、何もせずに目を閉じて立ち尽くしていた。状況や態度からして誰かとの待ち合わせかもしれないと想像できるものの、それにしては目立つ場所でもないため違和感が付き纏う。


 なんにせよ、関わったからには無視して行くわけにはいかない。

 はじめは意を決して少女へ声をかけてみることにした。


「大丈夫? ないと思うけど、怪我とかない?」

「よっ、よよよよ……!」

「よ?」

「余計なことしないでよ! あれくらい私一人でもなんとかできたから!」


 目を開いた彼女はキッとはじめの顔を見つめ返して、睨んでいるとしか見えない眼差しときつい物言いで端的に告げた。

 まさか、などと思ったのだが、一応助けたつもりになっていたものの判断を間違えたのかもしれないと今になって思う。

 わずかに肩が震え、はじめは形だけの笑みを浮かべると硬直して動かなくなる。


「ご、ごめんなさい……」

「あっ、やっ、ちがっ……⁉ い、今のは、そのぉ……」


 両者がほぼ同時に、失敗した、と思っていた。

 全く予想しなかったほどの気まずい空気になり、目は合っているのだが、どちらもそれ以上話せなくなる。


「じゃあ……これで」

「あっ⁉ う、うぅ……」


 はじめはぺこりと頭を下げ、静かにその場を後にした。

 見知らぬ少女は何かを言いたげにしていたものの、何も言い出せず、おろおろしながらはじめの背を見送ることしかできなかった。

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