メイントラック

夢ひとつ:ワンルーム・エスケープ

  ・あなたの部屋(ワンルーム)


  〇チャイム。

  〇鍵を回し、扉を開く。


「や、こんばんは。上がっても、いいかな?」


「うん、ありがと。お邪魔します。

 はぁ、涼しい……」


  〇足音。

  〇荷物をおろす。


「ちゃんと起きててくれたんだね。

 約束、守ってくれたんだ」


「ん? 寝るにはまだ早い?

 それは、お姉さん的に、ちょっと心配になる発言だなぁ」


「そりゃ、夜勤があれば朝方に寝るんだろうけど……うん、わかってる。そういうことじゃないよね。

 嬉しいよ、約束、守ってくれて」


「じゃあ、その……さっそくでごめんだけど。

 シャワー、借りるね」


  〇足音が遠のいていき、浴室の扉が開閉される。

  〇布擦れの音がささやかに聞こえ、シャワーの音に変わる。


 水音の途切れる間に、咲仲の機嫌のよさそうな鼻歌が聞こえる。


  〇シャワーの音が消えた四回目、鼻歌も終わる。

  〇扉の開閉音。

  〇しっとりとした足音が近づく。


「ドライヤーってある? ん、たすかる~。

 ねぇ……じゃあさ、乾かして、わたしの髪」


 咲仲、距離を詰める。


「ん? どうして顔そらすの? 汗は、流せてるはずだし。

 ……ん、んん! そっかぁ、へぇ、もしかして、そういうことですか」


「照れてるんだ。お風呂あがりのお姉さんにどきどきしちゃった?

 かわいいなぁ……ほんと、もう……」


 咲仲、眼前まで顔を近づける。


「で、乾かしてくれないの?」


「ん、いつもお願い聞いてくれるよね。

 ありがと。いつも、嬉しいよ」


 咲仲、背中を向けて座る。


  〇ドライヤーから温風が出る。


「ん、ん~、ひとにやってもらうなんて、いつぶりなんだろぉ。 

 きみはどう? ひとにドライヤーをしたのはいつぶり?」


「そう。私は、ずっと昔に、お母さんにしてもらったのが最後だよぉ。

 (かすかな笑い声)こんな心地よく、楽なものだったんだねぇ」


「表面にだけ風を当てても乾ききらないよ。ほら、ちゃんと根元まで掻きあげて」


「ん? 当然、きみの手でやってくれないと。

 ちゃんと洗ったから綺麗だよ」


「緊張してるの? ……汚しちゃうかもしれない?

 言い訳にしても、もっといい理由があるでしょ」


「ほらいくじなし、勇気出して。

 ……そうそう、いいねぇ。はぁ、疲れが溶けてく~」


「ん~? このくすぐったさが心地いいんだよ。だいじょうぶ、じょうずだよ」


「こういうのって心遣いが出るよね、昔からそう、きみはやさしくて……」


 咲仲、わずかに体重を後ろに預ける。


「きみの手のひらから、きみの心が伝わってくるようだよ」


「先輩、なんて呼び方じゃなくていいよ。もうとっくに、同じ場所にいないんだから」


「お姉さんもおかしいって? きみより年上なのは変わらないから、お姉さんで間違いはないでしょ」


「暴論じゃないよ。ロジカルだよ。昔も今も、頭脳派だからね」


「ば、馬鹿っぽい!? ……ずいぶんな口をきいてくれるじゃん。

 会わない間に擦れてしまったようで、お姉さん悲しいよ」


「文面じゃわからない変化があるんだね。

 長い時間だもんね。一度だって会わなかったのに……どうして今、こんなことになってるんだか」


「まあ、そうだよ。こんな暑い夏に、エアコンが壊れたからね。困ったよ。

 近所に引っ越してきたきみがいなかったら、わたしは干からびてたね」


「そんなわけで、しばらく……この夏は、よろしくね」


「そろそろ乾いたかな。ありがとうね」


  〇ドライヤーを止める。


「ん? ご飯は外で食べてきたよ。時間も時間だしさ。

 お互い、明日もあるじゃん?」


「あまり夜更かしもよくないかなって。手ぶらでごめんね」


「けど、うん……きみが用意してくれたお茶はいただこうかな」


「テーブルの上、用意してくれたんでしょ?」


「見なくたってわかるよ。きみは、そういうひとだ」


「汗もまだ引かないし」


 咲仲、四つ足でぺたぺたとテーブルに身を寄せて、コップを手にする。


「このコップのお茶がなくなるまでは、お喋りしようか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る