第十三話 超えてはいけないライン

 金曜の晩は優那も有紗も綾小路邸で過ごすことが多い。

 というのも、土日はほぼ確実に俺の家に泊まっていくからだ。

 とくに有紗は俺や優那と違ってちゃんと両親も健在なので、週末くらいは家族と過ごす時間がないといけない。


 久々に一人で帰宅した俺は、玄関に見慣れぬ靴が並んでいることに気づいた。

 小さな女物のパンプスだ。

 姉貴の友達でも来ているのだろうか。

 珍しいこともあるもんだな——そう思いながらリビングの扉に手をかけたところで、聞こえて来た声に動きがとまった。


「恥ずかしい話だけど、ちょっと本気になっちゃったみたいでさ……」


 おいおい、なんでだ?

 この妙に色っぽい大人に女性の声——いや、そんなまさかな……。


 俺は扉を開けることができず、その場でリビングから聞こえてくる声に耳を澄ますことしかできなかった。


「先輩にもいよいよ春がきたってことですか?」

「春……なのかしらねぇ? 最初は冗談半分で、あわよくばって感じだったんだけど……」


 先輩——だと?

 つまり、姉貴の先輩だったってことか……!?

 確かに姉貴は二回生で、新任の教師ということを考えれば、少なくとも一年は被っている時期があるということにはなる。

 とはいえ、そんな偶然があるってのか……?


 穂村先生と、俺の姉貴が先輩後輩の関係だったなんて——。


「でも、いいじゃないですか。教師と生徒ってことでしょ? 禁断の関係って感じで、燃えますよねぇ」

「そうなのよ。ここまでいろんなことに耐えてきたけど、ついに報われるかもしれないと思うと心躍る……はずなんだけどねぇ」


 言いながら、穂村先生が何かを呷っている音がする。

 なるほど、二人で酒を呑みながら恋バナに華を咲かせてるわけか。

 ——ん? 恋バナ? いや、たぶん恋バナだよな?

 ……ということは、コレ、俺にとって実はけっこうまずい状況なんじゃないか?


「実はこの前、勢いでキスされちゃってね……それから、おかしいのよ。今までみたいにからかい半分で見れないって言うか、もう本気で男として意識しちゃったっていうか……」

「先輩、可愛いッスねぇ」


 姉貴がゲラゲラと笑っている。


「そこまで本気なら、今度こそガチで襲っちゃったらどうです? その子、もう童貞じゃないんでしょう?」

「本人はそう言ってたけど……」

「男の子なんて、けっきょくおちんちんの命令には逆らえないんですから、先輩が本気で誘惑すればいけますって」


 やめろ、姉貴! 余計なことを吹き込むんじゃない!


「でも、いっつも良いところで逃げられちゃうのよ。変なところで真面目っていうか……」

「あー、いますよね、そういう子。学校でやるからダメなんじゃないですか? 人目とかもありますし」

「確かにそうね。見つかったときとかのリスクとか考えてるのかも……」


 いや、そういうことじゃねえだろ。生徒と教師やぞ。

 というか、マズいな。

 このままじゃいつまで立っても中に入れないし、トイレなどでどちらかがリビングから出てきた時点で見つかることは避けられない。

 ここはいったん、綾小路邸にでも避難するか……?


 ——と、そんなことを考えていた矢先、何故か玄関の扉が開いた。


「……セイさま? そんなところでどうされました?」


 有紗だった。

 いや、おまえこそ、今日は綾小路邸に帰るんじゃなかったのか?


「はい。ですが、作り置きをご用意していなかったので、本日の夕食をご用意してセイさまとエッチをしてから綾小路邸の戻ろうかと」


 そう言いながら、有紗がエコバッグを差し出して見せた。

 なるほど、買い物に行っていたのか。

 いやしかし、ありがたい話ではあるが、これはタイミングが悪いぞ……。


「セーちゃん? 帰ってたの?」


 リビングから姉貴の声がする。

 あー、バレましたね。これはゲームオーバーです。


 カチャリとドアノブが動き、向こう側からリビングの扉が開かれた。

 目の前には姉貴がいて、リビングのテーブル席にはやっぱり穂村先生がいた。


「えっ……?」

「どうも」


 めちゃくちゃ気まずいが、とりあえず俺は挨拶をした。

 こちらを見る先生の顔がみるみるうちに赤く染まって行く。

 あんまりこれまでに見ないパターンの反応だな。

 なんか俺のほうもドキドキしてきちゃうぜ。


「……え? 知り合い?」


 姉貴がキョトンとした顔で俺と穂村先生を交互に見ている。


「これは穂村先生、珍しいところでお会いしますね。どうぞゆっくりしていってください」


 後ろから有紗がやってきて、穂村先生に一度お辞儀をすると、そのままエコバッグを持ってキッチンに消えていった。

 穂村先生は目を見開いたまま硬直している。


「神楽坂……さん? え、どういう……?」


 まったく状況を飲み込めていないようだ。

 まあ、それはそうだよな……さて、何から説明したものか——。


 とりあえず、俺は穂村先生と姉貴にそれぞれ状況を説明することにした。

 実はかくかくシカジカこしたんたんで……。


「つまり、セトくんは綾小路さんと結婚を前提につきあっていて、それを良いことに神楽坂さんや塚本さんを侍らせているってコト……?」


 ちゃんと人の話聞いてたか?


「それで、ナツキ先輩はセーちゃんたちの担任で、セーちゃんにガチ恋しちゃってるってことですか?」


 姉貴がビールの缶を呷りながら半眼で訊く。

 ガチ恋とか言われるとちょっと恥ずかしいからやめてくれ……。


「どうせでしたら、穂村先生も一緒に夕食を食べていかれますか?」


 有紗が唐突にキッチンから顔を出してきて、そんな提案をしてくる。


「そのまま一緒に食後のセイさまをいただきましょう」

「え? ……え? それは、どういう……?」


 穂村先生がまるで理解が及ばないという顔をしている。

 まあ、そうだよな。思ったより普通の反応をしてくれて、逆に安心しますよ。

 というか、人を食後のデザートみたいに言うな。


「いいわね、ソレ。そうしましょうよ、先輩。ついに夢が叶いますよ」


 姉貴は乗り気である。

 まあ、いくら穂村先生が少しくらいまともな反応をしてくれたとしても、頭のおかしな女が二人もいる時点で形勢は圧倒的に不利か。

 まあ、俺はもうほとんど諦めていますよ。あとは穂村先生がどうするかだ。


 先生に良識が残っていることを祈る!


     ※


 すべてが終わり、疲れはてて眠りに落ちそうになるころ、彼女は耳許でこう言った。


「これからは、学校の外では夏樹って呼んで……」


 そして、俺の唇に優しく口づけをして、そのまま腕の中で寝息を立てはじめた。


 分かっちゃいたけどさぁ……。

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