第十五話 ブレない女

 ぬるりとうごめく柔らかなものが、遠慮がちに口腔を侵略してくる。

 体は重いが、まるで真綿で包まれているかのような不思議な安心感がある。

 鼻先には甘やかな空気が漂い、胸の奥が花のような香りで満たされる。


 それが夢であることは分かっていた。

 というか、先日、似たような夢を見たばかりである。

 そして、その夢から覚めたとき、何故か俺の目の前には姉貴の顔があったのだ。


 ひょっとしたら、これは夢ではないのかもしれない。

 なにか俺の知らないところで不埒な行いがなされているのかもしれない。

 このまま好きなようにされてはいけない――。

 まだ頭の奥のほうがぼんやりとしていたが、俺は甘美な幻想を振り切り、自らの意志で微睡まどろみの中から抜け出していった。


「あら……?」


 そう呟いたのは、もちろん俺ではない。

 重たい瞼を開くと、ぼんやりとした視界の中に何故か姉貴の顔が――なかった。

 あったのは、優那の顔である。

 やはり、ほとんど息がかかるくらいの距離にあった。

 ガッツリと布団の中に潜り込んで、俺の体の上にのしかかっている。


「本当に目覚めてしまいましたわ。やっぱり、眠りが浅くなってるのかしら……」


 そう言いながら不思議そうな顔をして、優那もまた俺の反応など気にした様子もなく布団の中から抜け出すと、そのままベッドを降りて部屋の外に出ていった。


「あ、ユーちゃん、どうだった?」

「お姉さまの言うとおり、すぐに目覚められてしまいましたわ」

「ああ、やっぱり? ストレスで眠りが浅くなってるのかしらねぇ」

「心配ですわね……」


 部屋の外からそんな優那と姉貴の会話が聞こえてくる。

 おいおい、なんの情報共有がされているんだ……?

 今回も口許に触れてみると、やっぱり唾液のようなものでベトベトになっていた。

 ――俺はそれ以上、何も考えないことにした。

 仮に俺にストレスがかかってるとしたら、原因は間違いなくおまえらだからな……。


     ※


 昨晩、急遽決まったことがある。

 我が家の四人に深雪を交え、五人でバーベキューをしようという話である。

 深雪の予定が空いているかどうかだけが不安要素だったが、スマホでメッセージを送ってみたら秒で『行く!』と返事が来た。


 というわけで、日曜日である。

 俺たちは綾小路家にワンボックスカーを用意してもらい、姉貴に運転してもらって『蒸気ランド』というオートキャンプ場にやってきていた。

 別にバーベキューくらい綾小路家の庭で好きなだけできるのだが、やはりここは『普通のバーベキュー』を優那と一緒にしてやりたかった。


 ちなみに『蒸気ランド』という名前はキャンプ場の近くに実際の蒸気機関車が展示されていることから来ているらしい。

 そういえば、駐車場の近くにそれっぽいものがあったような気がする。


「せっかくだからデイキャンプっぽくタープも張りましょうか。綾小路の家から色々と借りてきてるのよ」


 姉貴の指示で、俺たちは手分けしてバーベキューの準備を進めていく。

 今回用意されたタープはカーサイドタイプのものだ。

 ワンボックスの側面にタープの一辺を固定した状態で引っ張っていき、ピンと張った状態にしたら反対の辺の両端にポールを立て、そのポールが動かないようにロープとペグで固定していく。

 タープが張れたらその下に折り畳み式のテーブルと椅子を並べて、女の子たちには食材の準備を任せ、俺は姉と一緒にバーベキューコンロの組み立てに取り掛かった。


「これ、新品? めちゃくちゃ綺麗だけど……」


 コンロを箱の中から引っ張り出しながら、姉貴が目を丸くしている。

 今日の姉はノースリーブのニットにデニムのショートパンツという恰好で、そのスタイルの良さを如何なく発揮していた。まったく、我が姉ながら呆れるほど美人だぜ。

 確かにコンロは見たところまだピカピカだったが、まったくの未使用というわけでもなさそうだった。


「たぶん、お父さまが買ってはみたもののろくに使っていなかったんだと思いますわ」


 テーブルで切られた野菜を串に刺しながら、優那が教えてくれる。

 優那はデニムのショートサロペットに薄手のブラウスという格好で、初夏らしく麦わら帽子をかぶっている姿がなかなかにチャーミングだ。

 東欧系の血筋が入ってる顔だちもあってか、実に麦畑が似合いそうな風貌になっている。


「あー、綾小路のおじさま、確かにこういうの好きそうだものね」


 あの多忙な旦那さまがバーベキューをしている姿など想像もつかないが、さすがに年がら年中働きづめということもないだろうし、密かに一人で興じていたりしたのだろうか。


「セッちゃんって、なんか嫌いな野菜あったっけ?」


 こちらは野菜を切りながら、深雪が訊いてくる。

 丈の短いパーカーにミニスカートにしか見えないショートキュロットというスタイルはすっかりギャル感が板についていて、綺麗なおへそと健康的な太腿が目に眩しい。

 昨晩はめちゃくちゃ怒られてしまったが、今のところはとくにそれを引きずっている様子もなさそうで一安心である。

 

「セイさまはトウモロコシが苦手ですね」


 横で同じように野菜を切っている有紗が、俺の代わりに答えてくれた。

 はい、トウモロコシが苦手です……。

 有紗は髪こそいつものようにポニーテールに結えているが、いつぞやのデートのときとは打って変わって今日は地味めなショートワンピースを着ている。

 色こそ落ち着いたベージュではあるが、なんとなくいつも着ている侍女服を想起させるシルエットで、実は密かにメイド感を意識しているのかもしれない。


「え、そうなの? 美味しいのに」

「なんでも、虫の卵に見えるから気持ち悪いのだそうです」

「虫の卵も美味しそうだよね?」

「そうでしょうか……?」


 よく分からない会話をしている。

 とりあえず、俺は美味しそうには見えないと思う。


「セーちゃん、炭の準備してくれる?」

「分かった」


 姉貴に言われて、俺はワンボックスの中から道中で買ってきた着火剤と炭、それからスチールバケツを取り出した。

 バケツに着火剤を入れて火をつけ、その上に炭をのせて団扇であおぎまくる。

 着火剤はすぐに火がついてよく燃えてくれるが、その火が炭にうつるまではそれなりに時間がかかるらしい。ネットの先生に聞いたのでたぶん間違いない。


「なんか、こういうのって楽しいね!」


 テーブルの上に並べられていく串を眺めながら、ウキウキとした様子で深雪が言った。


「わたくしも初めての経験にときめきがとまりませんわ! やはり何事も外でするというだけで趣きが異なるものですわね!」


 優那も厚切りのロース肉を串に刺していきながら目を輝かせている。

 まあ、こういうものはやはり体験にこそ価値があるのだ。

 そして、ともにする仲間がその価値をより崇高なものへと高めてくれる。

 どれだけお金と時間があろうとも、これだけはそう簡単に手に入れられるものではない。

 もちろん、こういったことを一人ですることに価値を求める人もいるだろうから、一概に言い切れるようなものではないのだろうが――。


「そうですね。エッチなことも外でいたせばやはり趣きが異なるでしょうからね」


 ぽつりと有紗が言った。こいつだけはマジでブレねえな。

 とりあえず、フランクフルトを意味ありげに眺めながらそういうことを言うのはやめろ。

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