第八話 デートをしましょう

 ぬるりとした生暖かいものが口腔を侵略してくる。

 体は重く、まるで金縛りにでもあっているかのように動かない。

 鼻先に生温かい空気が流れ、甘いような酸っぱいような不思議な香りが鼻腔を突く。


 それが夢であることは分かっていた。

 最近、ちょっとエッチなハプニングが多すぎたせいで、いよいよ夢にまで見るようになってしまったのだろう。

 だが、こういう夢は往々にして一番良いところで目が覚めるものである。

 ほら、少しずつ感覚が鈍くなり、意識が覚醒してくる——。


「あれ……?」


 そう呟いたのは、俺ではない。

 重たい瞼を開くと、ぼんやりとした視界の中に何故か姉貴の顔があった。

 ほとんど息がかかるくらいの距離だ。

 俺の上に覆い被さるようにのしかかっている。

 というか、コレ、布団の中にまで入ってきてないか?


「んー? いつもならこの程度じゃ起きないのに、おかしいわね……」


 何故か姉貴は不思議そうな顔をして、俺の反応など気にした様子もなく布団の中から抜け出すと、そのままベッドを降りて部屋の外に出ていった。

 え? なに? 俺、なんかされてなかった?

 なんの気なしに口許に触れてみると、唾液のようなものでベトベトになっている。

 えええ……?

 ――俺はそれ以上、何も考えないことにした。

 とりあえず、ズボンやパンツを脱がされた形跡はなさそうだし……。


「おはようございます。本日はお早いお目覚めですね」


 開けっ放しになったドアの向こうに有紗が立っていた。

 今、何時だ? というか、おまえこそなんでもう俺の家にいるんだ。


「本日は土曜日ですから、早めにこちらの片づけをしておこうと思いまして」


 それはどうも……。

 有紗は優那つきの侍女ではあるが、休日は我が家の食事以外の面倒も見てくれている。

 本来ならば俺か姉貴がやらねばならないことなのだが、姉貴は典型的な汚部屋女子だし、俺も整理整頓はそれほど得意なわけではない。

 たぶん、そういう血筋なのだろう。有紗には感謝しかなかった。


「そう仰るわりには、いつになってもエッチなご褒美をいただけていない気がしますが」


 なんで『エッチな』ご褒美なんですかね。

 とりあえず、今は気持ちだけで我慢してください。


「今は、と仰いましたね? 言質を取ったと認識させていただきます」


 しまった。迂闊うかつなことを言うんじゃなかった。

 コイツ、表情が変わらないから何処まで本気で言ってるのか分からんな。


「わたしは常に本気です。必要とあらばこの場で脱ぎますが」


 脱ぐな、脱ぐな。なんの必要性があるのか俺の理解が追いつかないから。


「確かに、寝起きは頭の回転が遅くなりがちです。まずは朝食にいたしましょう」


 そう言って、有紗が廊下の奥に姿を消していく。

 仮に頭の回転がまともだったとしても、彼女の言動を理解することは難しいだろう。

 俺はようやく落ち着きを取り戻した下半身を見下ろしながら、身震いをする。


 俺、まだ清らかな身だよな……?


     ※


「セイさま、本日はわたしとデートをいたしましょう」


 朝食中、唐突に有紗からそんな提案をされた。


「あら、アーちゃんからなんて珍しいじゃない。抜け駆けしちゃっていいの?」


 朝っぱらからチューハイの缶を空けながら姉貴が言う。

 休日はだいたい日の高いうちから呑んでいるが、酒には強い体質らしくあまりベロベロに酔っているところはみたことがない。

 とはいえ、Tシャツにパンツ一丁というスタイルはなんとかしてほしい。

 我が姉はスタイルがいいので、俺の意思に反して御珍棒さまがご起立されてしまう。


「本日、優那さまは旦那さまにご同道の上、綾小路グループの懇親会に出席なさっておられます」


 そういえば、毎年GW明けはそういう行事があるんだったな。

 高校生ということで、そろそろグループの要職に就く者たちと顔合わせくらいはさせておこうという旦那さまのご意向だろうか。

 どうせなら有紗も連れて行けば良かったろうに。


「よって、本日のわたしは非番となりますので、どのように過ごそうが文句を言われる筋合いはございません」

「あら、意外としたたかなのね」

「わたしも今や高校生。恋に恋する乙女にございますゆえ」


 そう言って有紗がじっと俺を見つめる。

 え? 俺、今、ナチュラルに愛を告白されましたか?

 というか、それが狙いで優那への同行を拒否したとかじゃあるまいな……。


「まあ、セーちゃんとの出会いはアーちゃんのほうが先だもんね」

「はい、俗にいうWSSというやつです」


 なんだそれは。いきなり難しい言葉を使うのはやめろ。


「健闘を祈るわ。わたしは誰がセーちゃんの童貞を奪おうと気にしないから」


 言いながら、姉貴がぐびりとチューハイの缶をあおる。

 なんだか大変なことになってきた。

 優那よ、すまない……おまえへの純真を貫くには、ちょっと障害が多すぎる。

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