第3話 ストーカーではありません


公爵家の若き当主ルキウスの朝は、最愛の婚約者の動向調査報告書を読むことから始まる。


あらかじめいっておくが、これは断じて陰湿な監視や付きまとい行為ではない。まず陰湿ではない。なんといっても婚約者本人が承知している。初めてそれを知ったときの彼女の第一声は「きみは暇なのか?」だった。その美しい深緑色の瞳は呆れ返っていた。ルキウスは冷ややかに反論した。


「暇なわけがないでしょう。我がエズモンド公爵家の広大な領地を治め、大規模な事業の頂点に立つ身である私がどうして暇であると?」


「暇人以外はこんな調査をしないから。……あぁそうか、きみ、余暇の過ごし方がわからないのか? 趣味を作ったほうがいいぞ」


「人を無趣味で退屈でつまらない男のようにいわないでいただきたい」


「そこまではいってないが」


「殿下の眼がそう語っておりました」


「難癖をつけるな、難癖を」


「いいですか、殿下。私は貴女の婚約者としてふさわしく多趣味であり、愉快な男なのです。この調査はただ……、少しばかり手の空く時間があるからしているだけです!」


「やっぱり暇なんじゃないか」


ルキウスは憤然としつつも押し黙った。退屈な男と思われるよりは、暇があるのだと思われる方がマシな気がしたからだ。


婚約者である第五王女アレクサンドラからは「もっとまともな趣味を見つけなさいね」といわれてこの話題は終了した。別段やめろとはいわれなかった。


まあいわれたところで続けただろう。なぜって彼女は自分に「しばらく王都を留守にする」の一言すら与えてくれないからだ。


婚約者へ対する報告・連絡・相談機能が死んでいる人である。たぶん最初から存在していない。




ルキウスは本日の調査報告書に目を通し、昨夜のうちにアレクサンドラが密かに王宮を出た様子も、何かしらのトラブルに巻き込まれた様子も、負傷して死にかけている様子もないことを認めた。短く安堵の息を吐く。


アレクサンドラの動向調査といっても、何も彼女の詳細を報告させているわけではない。彼女が王宮にいて、危険がないことが確認できればいい。




アレクサンドラは王の八番目の末の子だ。


三人の兄と四人の姉を持つ彼女は、権力からは遠く、身に纏う権威すら弱く、しかし無力ではない。


その微妙な立ち位置に加えて、十二歳のときに単身で騎士団へ入って副団長まで登りつめたが、今ではその地位を捨ててお遊びのような小規模な騎士団の団長をしているという異例の経歴がある。


そして、これが最大の要因だが、本人の性格だ。意志を貫く鋼のような頑固さがあるのだ。


これらがすべて融合した結果、アレクサンドラは非常に厄介事に巻き込まれやすい人間となった。気づいたらルキウスの知らない所で死にかけていることもある。最悪の婚約者である。


無論、ルキウスとて、かつては真っ当に抗議した。


「王都を出るときはせめて連絡をください」だとか。「なにか問題が起こったときは教えてください」だとか。「貴女の力になりたいんです」だとかだ。


アレクサンドラはそのたびにルキウスの黒髪をわしゃわしゃと、それはもう犬の仔にするかのように盛大にわしゃわしゃと撫でまわして「すまない、寂しくさせてしまったか」だとか「心配はいらないよ」だとか「きみも大きくなったなあ。ちょっとしゃがんでくれないか、撫でにくい」だとかを平然というのだ。


最後の台詞のときはルキウスは怒り狂いながらもしゃがんでやった。

よっぽど「大人の男になったことを証明して差し上げましょうか」といって寝台に押し倒してやろうかと思ったが、結局のところそれは脳内で展開する妄想でしかなく、現実の自分といえば彼女の温かい手をはねのけるすべを持たなかった。




アレクサンドラが十五歳、自分が十三歳のときに婚約してから七年が経っている。


大人になったルキウスは悟っていた。アレクサンドラにとって自分はいつまでたっても庇護するべき子供のような存在なのだと。


かつて十三歳のルキウスは、屑な父親を殺す覚悟を決めていた。そして自分自身も終わりにする予定だった。しかし、まさに短剣を抜こうとしたその瞬間に、偶然その場に居合わせただけの十五歳のアレクサンドラ王女が飛び込んできた。


ルキウスは彼女に手を掴まれて、そのまま王宮へ連れて行かれた。牢獄行きかと嘲笑したがそんなことはなく、アレクサンドラは父親である王に懇願して自分と婚約を結んだ。婚約者のためにと王宮に部屋を用意させた。そして、それだけだった。


この婚約は一時避難のようなものだよ、と、深緑色の瞳の彼女はいった。


表向きは善良な公爵家当主が家の中でどれほど暴力的な人間であっても、ルキウスと亡き母親がどんな思いをしていても、結局のところそれは『家庭内の話』で終わってしまう。王家はその程度の理由で公爵家と対立はしない。アレクサンドラにもそれはわかっていた。わかっていたからルキウスを家の外へ連れ出した。自分の婚約者にするといって。


その始まりを思えば、アレクサンドラが自分を守るべき子ども扱いするのも仕方のないことだろう。


そうわかっていたから、かつてのルキウスは頑張った。努力した。憎悪を活力に変え、愛想笑いに磨きをかけた。権力の図面を掌握し、醜聞を明らかにし、持てる力のすべてを使って父親を当主の座から引きずり落した。無力な子供のままではアレクサンドラは自分を頼ってはくれない。


ルキウスは、爽やかな風の吹く初夏、十六歳のときに公爵家の若き当主となった。地位と権力を得た。これで少しは彼女も自分を頼りにしてくれるだろう、男として見てくれるかもしれない。そう期待に胸を膨らませた。


しかし公爵家の自領で引継ぎを終えて王都へ戻ったルキウスが見たのは、身体中のいたるところに包帯を巻いてベッドに横たわっているアレクサンドラだった。



今でも思い出しただけで吐き気がこみ上げてくる記憶だ。



ルキウスが王都を留守にしている間に、アレクサンドラは侯爵家の兄弟間の争いに巻き込まれて大怪我を負っていた。


ルキウスはあれ以来、自領に戻る期間を最大限に短縮している。というかほぼ帰っていない。


領地を任せている腹心の部下からは最初こそ怒られたが、今では、

「ご当主は『ご当主夫妻』となった暁には領地に戻ろうとお考えなのかもしれませんが、その場合は一生帰還できない可能性もあることをお気づきでしょうか?」

という嫌味なのか何なのかよくわからない手紙が届くようになった。お気づきなわけがないだろう。絶対に結婚してみせるから安心しろと返事をしてやった。さらなる返信はなかった。


十六歳のルキウスは、当主の椅子に座っただけでアレクサンドラに頼りにされるだろうなどと慢心していた己を恥じた。この程度では全然ダメだった。彼女は大怪我を負ったのに自分に連絡一つくれなかった。


「すまない。だが、きみにとって大事な時期だ。心配をかけたくなかった」


そう優しい顔でいう彼女に、ルキウスは苛立ちと怒りと熱情でぐちゃぐちゃになりそうだった。あれから三年も経ったのにまだ保護者面をして! 


自分はもうエズモンド公爵家の当主だ。第五王女でしかない彼女よりも権力も権限もある。貴女が連絡をくれたら、何を置いても駆けつけたのに!





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