絶対王者に俺はなる!

朝倉亜空

第1話

 抜群の運動神経と反射神経、抜群の筋肉パワーとスタミナ、更には抜群のリズム感に抜群の動体視力。それらのものがすべて備わっていないと、プロボクシング世界チャンピオンにはなれない。八尾公康はその条件を満たしていた。

 高校ボクシング界では敵なしとうたわれ、三年時にインターハイ優勝、大学進学後もその活躍は目覚ましく、インターカレッジでは二年で準優勝、三年、四年で二連覇達成を成し遂げた。

 当然のごとくプロライセンスを取得し、プロボクサーの道を歩き出す。目指すは世界チャンピオンなのも、当然のごとくだった。

 八尾は破竹の勢いで勝ち続けた。国内チャンピオンとなり、次いで、アジアタイトル奪取。さあ、いよいよ世界に手が掛かるというところまで来て、八尾の目の前にとんでもない奴が現れた。高津孝行。大学四年間無敗、オリンピック出場選手に選出され、見事金メダルを日本に持ち帰ってきた。

 この男こそ、反射神経やパワーなど、前述したボクサーが必要とするあらゆる能力を究極レベルで持ち合わせている、王者の中の王者となるべき人物だった。

 八尾は高津と世界タイトルマッチ次期挑戦者決定戦で対戦することとなった。思えば、八尾にとって、高津と同じウエイトクラスであることが唯一にして最大の悲劇であったということなのだろう。何せ、この時の試合を含めて、四戦するものの、すべて惨敗。世界チャンプ高津にしてみれば、この道の先輩だし、しつこいし、別に強くないし(いや、本来は相当強いのだ八尾は)というわけで、三度ものタイトルマッチを受けて立っただけなのだ。まさに絶対王者の貫禄。

 TH大学付属メディカル論理科学ラボラトリー。

 対高津四連続完全敗北という、完膚なきまでに自身の自信を根こそぎブッコ抜かれる非常な現実により、精神的にほぼ廃人にまで追い詰められた八尾はそこにいた。

 この長ったらしい名前の研究所は、いまだ治療法が確立されていない様々な疾病の治癒研究のみならず、人間生活における多種多様な問題点やニーズを解決することを研究テーマとし、ヒトの生命活動をより深く有意義なものへと変えていくことを旨として設立された研究機関である。

「先生、いったい僕は何をすればいいんでしょう。ぎりぎりまで自分を追い込み、猛練習を積み重ねました。もう、これ以上、何もやることはないというくらい、トレーニングを行った。でも、どうしても、ライバルの高津君には勝てない……。僕はどうしても世界チャンピオンになりたいんです。先生、僕を助けてください。何か、いい薬はありませんか? 僕は、僕は……、チャンピオンベルトを腰に巻くためなら……、この際、なんだって……」

 思いつめたような目つきで、ここの研究所長であるDr.中居を見つめながら、八尾は言った。ここはラボに設置されたカウンセリング室内である。

「アカンよ、八尾君。薬はアカン。分かっとるじゃろが。ドーピングじゃろ」

 Dr.中居は強い語気で言った。

「……」

 Dr.中居にたしなめられ、八尾は困惑した苦しげな表情で黙り込んでしまった。それを見かねたDr.中居は言葉を続けた。

「それじゃあどうだろう、ちょうど最近、ようやく実用化のめどが立った医療用テクノロジーがあるのだが、一丁、君が人体実験を兼ねて使用者第一号となってみる気はないかね?」

「……いったい、なんですか……」

「うむ、冷凍睡眠、つまりコールドスリープじゃ。君も聞いたことぐらいはあるじゃろ」

「は、はい。SF映画なんかでよく出てくるやつですね。人間を凍ったまま眠らせて、年齢を取らせないまま何十年後かに目覚めさせるという技術のことですね。まさかそんな夢のようなことが実現しているとは」

「ははは、人類の科学技術の発展というものは、実に目覚ましいもんじゃ。我々は日々新たに夢のような課題に挑戦し、次々とその結果を勝ち得ておるんじゃ。……でな、どんなもんじゃろ、プロボクサーの現役生活というものは二十年ほどがいいとこじゃないだろうか。だったら、八尾君のライバルが体力のピークを過ぎて衰えるまでの二十年間を、君はここでコールドスリーピングしていればよくはないか。そうすれば、ライバルに勝つことはできなくても、世界チャンピオンにはなれるというもんじゃろ」

「……あー、なるほど……」

 憎っき高津を叩きのめしての戴冠は叶わぬものの、ワールドチャンピオンになれるのなら、それでもう良しではないか! 八尾は大いに納得できた。

 今回は実験協力扱いにしておくから費用は丸々サービスにしてやろうとのDr.中居のありがたい言葉に背中を押されて、八尾は快諾した。「お願いします!」

 さて、二十年後、八尾は永きの眠りから目覚めた。

 身体の調子はすこぶる良かった。八尾の感覚的には、昨夜ぐっすり寝て、今朝すっきりと起きた、そんな気持ちだった。

 だが、世の中の風景は大分変わっていた。クルマは完全に自動運転化され、もはや運転席はなく、しかも、空の上を飛んでいた。かつては難病指定されていた疾病のいくつかには治療法や治療薬が開発されており、発達したAIテクノロジーがほとんどの産業構造の中にがっつり組み込まれていて、人間の労働力を不要なものとしていた。しかし、そのことが労働者の不満を掻き立てるということはなかった。超少子化による労働人口減少状態とちょうどいいバランスを保っていたからだ。

 八尾の知らない二十年間に、TH大学メディカルラボラトリーをはじめとする人類の叡智は目覚ましく科学を発展させてきた。なんでも機械、機械、どこでもAI、AIである。それゆえか、機械でもAIでもない、ヒトの生身と生身の肉体同士が激しくぶつかり合う格闘競技、ボクシングが、より注目を集めるようになっていた。まさにこの時代、八尾にとって好都合だった。よっしゃー!

「高津の野郎はもういない。ここからの十年、十五年はこの俺が無敵のチャンピオン、絶対王者として君臨してやるぞー!」

 復帰第一戦の日程も決まり、八尾の心は燃えに燃えた。日々のトレーニングにも一層、熱がこもった。

「おっ、TH大学ラボの記者会見だ」

 午前中のトレーニングを終え、減量メニューの昼食を採りながら、八尾はテレビをつけた。わざわざ「お昼のニュース」と、画面に向かって言わなければ起動しない安物の古いテレビだ。……TH大学ラボ、今度は何の成果を上げたんだろ?

「……つまり、我々の悲願であった、まったく新しいコールドスリープ技術、リファービッシュスリープが本日、たった今、実証され、完成したということです。えー、簡単に要約いたしますと、従来のごく普通のコールドスリープにクローン細胞テクノロジーの応用技術を融合させまして、冷凍睡眠中に全身のすべての体細胞に蓄積した疲労物質、まあ、つまり、細胞内の余計なゴミですね、それを排出させて、更に、細胞に残った傷を完全に修復させ、結果、元の状態以上に超回復させる、まあ、簡単に一言でいえば、夢の若返り技術が成功した、ということですよ!」

 テレビモニターの中で、TH大学付属メディカル論理科学ラボラトリーの現研究所長が言った。Dr.中居はすでにリタイヤしていた。

「若返るとは、いったい、何年ぐらい若返るのですか」

 記者が訊いた。

「十年ほどです。具体的なことをお話ししますと、リファービッシュスリープに五年費やします。スリープスタートポイントから十年の若返りなので、ウェイクアップポイントで換算しなおすと十五年若い、となります」

「へぇー。こりゃ、すごい……」

 記者団の中で大きなため息が漏れた。

「そして、我々のこの研究に五年前から文字通り身体を張って協力してくれたのが、皆さんもよくご存知の彼です。彼は今日、五年間の眠りを終えて、目覚めました。どうか、トータルで十五歳分若返った彼を拍手でお迎えください!」

 研究所員や記者たちからの盛大な拍手とともに、袖から壇上に上がってきたのは、ご存知、元プロボクシング絶対王者、高津孝行その人だった!

 肌のツヤといい、ハリといい、一目で確かな若返りが確認できることにどよめきが収まらない記者団に対して、高津は右手を力強く上げて、ガッツポーズを作った。

「高津孝行です。ただ今、帰ってまいりました! この若返った身体で、私はもう一度、十年、十五年とボクシング界に絶対王者として君臨しますッ!」

 高津の口から力強くこの言葉が吐き出された時、八尾の口から食べたばかりの昼食がげえとなって吐き出された……。

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