5.Berlin 18:00.

 「一体、何の御用ですか」

青年の不遜な態度を気にする様子もなく、女主人は腕組みして椅子にもたれた。

「走りたいそうね、ハル」

揶揄する調子のレベッカに、ハルと呼ばれた青年は双子のナースをちらと見た。

「揃って告げ口か?」

双子は申し合わせたようにぴったりの動作でぷいと顎を反らせて知らん顔をした。

「二人は報告に来ただけよ。――ハル、私の野暮用に付き合ってくれたら、走るのを許可する。それでどう?」

「はあ……まあ、いいですけど」

「頼みたいのは、データ検証なの」

「は?……データ検証? 俺は医学はさっぱりですよ?」

外科の名医と名高い女は、背に緩く纏めたプラチナブロンドの髪を振って苦笑した。

「医療知識は求めないから安心して。ある男について聞きたいの。アマデウスの秘蔵っ子の優れた洞察力も気になるわ」

「秘蔵っ子でもないですし、優れてもいませんが……?」

聞く前から面倒臭そうな男を、すぐ傍に控えた双子のナースがじろりと見た。

「黙ってレベッカの言うことを聞くのです」

白い花の髪留めをした方が言う。

「四の五の言わずにやるのです、この居候」

青い花の髪留めをした方が言う。

「俺はお前らのボスと話してるんだが?」

青年がうるさそうに言い返す。再び睨み合う三者に、レベッカは手を叩いた。

「はいはい、いいからハルはこっちに座りなさい――エマとラナは仕事に戻って」

『はい、レベッカ』

女主人には二つ返事のナースたちが退室していくと、レベッカはタブレット端末を差し出した。示された椅子に座りながら無言で受け取った青年が、スクロールしながら目を通す中、女は彼の為にサイドテーブル代わりの棚――多くの書類だのが乗っかり放題のそこにカップを置きながら切り出した。

「ハル、ブレンド社のニム・ハーバーと面識はある?」

「ニム・ハーバー?」

カップの着地先に何か言いたげな顔をしていたハルトは虚空を見上げて眉を寄せた。

「どっかで聞いた気が……あ、そうか、あいつの――」

浮かんだのは、闇から出でたような不吉な黒目と黒髪、更に黒を纏った妖しい美貌と薄笑いだ。”あいつ”――ブレンド社のブラック・ロスが持っていた本の作者か。

「どうなの?」

「あー……会ったことはないと思います。人づてで、そういう人物が居るのは聞きましたが」

「……そう」

スターゲイジーは両者を会わせなかったわけか。敢えてか、それとも意味を見出さなかったか、タイミングが無かったか……邪魔が入ったか……?

「このデータは、その人のものですか?」

ハーブティーのカップ片手に尋ねる青年にレベッカは頷いた。

「ええ。どう思う?」

画面を見下ろしながらカップを傾けた青年は、何故か中身を見て変な顔をした。

「あの……レベッカ、これ何ですか?」

軽く掲げたカップに、女は白けた顔で答えた。

「ゾネントア社のブレンドハーブティーだけど?」

「……あ、あー……そーですか……、で、何でしたっけ?」

「その人物のデータをどう思うかと聞いてるの」

出来の悪い生徒に言うように繰り返し、女はついと顎で端末を示した。

「データから想像し得る彼について、率直な感想を聞かせて頂戴」

「率直なって言われてもな……」

無理難題とはいえ、無視するわけにもいかずにデータに目を落とした。

よく見ると、箇条書きにされては心外だろう程度には波瀾万丈な男だ。あのブレンド社に拾われたのに、未だに出自が不明とは恐れ入る。世界屈指の調査会社は、今日産声うぶごえを上げた子供のプロフィールから、サハラ砂漠の砂粒まで数えていそうな徹底ぶりだというのに。

「……宇宙からでも来たんですかね」

「は?」

「……すみません、何でもないです」

つい謝ってしまったが、ジョークの一つも飛ばしたくなる。望遠鏡並に優れた視力の人間など、知り合いの悪党たちが得意なSFではないか。

しかし、身体機能向上薬・スプリングとの関連を疑おうにも、社内のあだ名が白アスパラガスでは有り得ない。油断を誘う為に弱そうなあだ名を付けることはあるかもしれないが、基本が陰で活動するBGMでは無意味な作意だ。

……それにしても、気付いたら最低最悪の民間軍事会社に居たブラックもそうだが、幼少期に自らブレンド社の門を叩いたと噂のペトラといい、ブレンド社は出生に謎が有る者が際立つ。代表のスターゲイジーは生粋のロンドンっ子だと聞いているが定かでは無いし、ラッセルも若い頃の話はしない。

「宇宙……」

呟いた女に、タブレットから焦った顔が持ち上がった。

「う、あの……レベッカ、戯言です。勘弁して下さい」

「……そうね。でも、興味深い意見よ」

思案顔に、もろに嫌な顔をした。……気軽にジョークなど言うものではない。

「他には」

「さあ……なんだってこの男、ブレンド社に在籍したままなんです? 本当に作家が向いているにしろ、カモフラージュだとしても、在籍の意味はあまり感じませんが」

「わからない。データの通り……彼は非常勤扱い後も、ブレンド社の調査依頼に度々付き合っているわ。麻薬組織の調査や、カルト教団への潜入、閉鎖国家への派遣……そこそこ危険な任務にも就いているわね」

「じゃあ、本当は優れたエージェントということでは? スターゲイジーやラッセルに育てられたのなら、それなりの人物になると思いますが」

「ハルはデータをフェイクと見るの?」

「いえ、このデータだけでその判断はできませんが――仮に此処に書かれた通りなら、彼は相当な強運か、神に愛されているとしか思えない」

「運に関してなら、有り得る話よ」

医学のプロフェッショナルとは思えないセリフに、ハルトは胡乱げに肩をすくめた。

「……運って、有り得ます……? 不確定だから”運”なんじゃありませんか?」

「運は私たちが思うほど、オカルトではないわ。既にグレイト・スミスの血筋が存在し、バカみたいな幸運を体現している以上、存在は否定できない」

「幸運ねえ……」

最近、聞いたばかりの名に眉を寄せる。

グレイト・スミス。世界大戦中に活躍した伝説級のスパイ。ルーツはアメリカ、米軍として日本にも来ているが、ドイツ人の血が混じるらしく、退役後はドイツに渡っている為、一体どこのスパイだったのかは定かではない。

とんでもない『幸運』の持主であり、BGMの生みの親。彼が何故、BGMを作ったかは知らないが、北米支部のミスター・アマデウスとイギリス支部のスターゲイジーは彼の弟子にして、師の方針に背き、彼を裏切り、BGMを掠め取って今に至る。

その当時で五十代ほどだったグレイト・スミスは、三十年近く経つ現在も行方不明――先日、日本に潜伏していたハーミットがもたらした情報では、どこかの温暖な国に居るらしく、そこから『世界を滞らせる』為に行動を開始している。

……捕捉、極めて寒がりであり、伝説のナマケモノと称されるらしい。

「幸運が存在するなら……レベッカは、血筋なんていう曖昧なものも信じられると?」

女がふっと笑みを浮かべた。自嘲的にも見えたそれをすぐに吹き消し、首を振る。

「貴方は、私よりも目の当たりにしている筈だけれど?」

「それはまあ……そうですが」

同胞にして、グレイト・スミスを父方の祖父に持つ、フレディ・ダンヒルの幸運は見ているが、彼の場合は全知による操作が可能だ。計算し尽くされた計略が、幸運と見えることは、上司たちにも同じことが言える。ついでに言うと、グレイト・スミスを父に持つジョン・スミスが幸運かどうかと問われると、首を傾げざるを得ない。彼はどちらかというと……仕えているアマデウスを含め、周囲に翻弄され、不運に見舞われている気がする。

――そして、もう一人。

窺うような茶の瞳が女を上目に見つめ、慎重に言った。

「レベッカは、『幸運』を感じたことは?」

「私、ギャンブルはしない性質なの」

まともに取り合う気のない返答に肩を上下させ、再びデータに目を落とす。

「この男が、グレイト・スミスと関連する可能性は無いんですか?」

「さてね……どうかしら。年齢的に息子はともかく、孫の可能性はゼロではないけれど――」

女が背もたれに身を預け、自分のカップを傾けるのを平凡な焦げ茶の目がじっと見つめた。

「このデータの出所は、ブレンド社ですよね?」

鋭い視線同士が見交わし、女はトン、と机にカップを置いた。

「……先に、その質問の意図を聞きましょうか」

「これがブレンド社のデータなら、検証は無意味です」

至極、冷静な回答に、女は眉ひとつ動かさずにゆっくり瞬いた。

「続けて」

「――貴女がスターゲイジーを嫌いなのは知っていますが、その実力は認めている筈です。ブレンド社が”情報”として提供した場合、信憑性の高さは疑い様がない。この人物の出自に関して、ブレンド社が不明と言っているなら、そうとしか納得できない。……でも、貴女は、彼らが提示していない可能性に言及した。それは、彼の出自にある程度の目星――又は心当たりが有るのでは?」

「面白いわね、ハル」

「……面白いもんですか?」

「面白いわ。貴方の論理の組み立て方は若い頃のアマデウスそっくり。人を口説く時さえ、そういう話し方だった」

おかげさまで今日一番のしかめっ面になったが、本当に面白そうな女に通じたかはわ

からない。……とりあえず、元上司は今度会ったらからかおう――そう心に決めていると、レベッカは悩まし気に腕を組み、首を捻った。

「そうね……私の心当たりについてはノーコメントだけれど、面白い貴方に免じて一つだけ。ニムがペトラやブラックほどの力が有る可能性は極めて低いわ」

「……何故です?」

「彼の調査には必ず、その両名、又は彼らに肩を並べるエージェントが同行・または途中合流しているからよ」

「はあ……なるほど」

ニム・ハーバーが同格なら、他のフォローは不要ということか。

「じゃあ、清掃員クリーナーとは違うんですか? スターゲイジーの所は、あまり差別化していない様ですが」

BGMの清掃員は、主に遺体やそれに関する証拠を片付けるのが仕事である為にそう呼ばれるが、その仕事内容は多岐に渡る。北米支部代表のアマデウスが抱える演技専門の清掃員『ブロードウェイ』は、達人の域では本物同然に成りすまし、日本の清掃員を束ねる男はスーパーマンと呼ばれる程、あらゆる技術を有する。

スターゲイジーが率いるイギリス支部は、調査会社BLENDを中心とし、表と裏双方の仕事を同じ会社で受諾している為、殺し屋とエージェントの線引きは曖昧だ。その分、彼らの多くは持たせる物に応じて機敏に動く。デスクワークは無論のこと、各地を調査で飛び回れる高い適応性を持ち、銃を握らせればそれ相応に奮戦する。

「彼が清掃員である場合は、貴方の推測が顔を出してくるわね。作家をさせながら、ブレンド社に在籍する意味はない」

「確かに、作家に絞った方が自然ですね……」

何せ、作品にはこだわりを感じた。

滞在中のブラックに本を貸した際、代わりに読めとうるさいので、例のアップルサイダーを作りがてら目を通したが……イギリス文学に見られる冒険譚やゴシック要素、『不思議の国のアリス』のようなファンタジーとも違っていた。厳しい現実を描きながら、暗さよりも明るさにシフトしていくテイストは、ちょっと珍しい。大概、絶望は絶望に終着し、”仄かな希望のようなもの”が一筋見えたところで終わるが、彼の場合は登場人物に猶予と時間を与え、支え合い、再生していく道筋を指し示す。

「そうね。ありがとう、ハル。参考になったわ。どうぞ、走りに行って」

軽く肩を上下させた男は、タブレットを返し、カップの中身を顔をしかめつつ飲み干した。

「何処まで行っていいんですか」

「院内の庭はご自由に。散歩をする患者にぶつからないようにね」

眉間に皺を寄せて天を仰ぐ青年に、女は目を細めた。

「ハル、私が貴方を迎え入れたのは、慈悲や気まぐれではないのよ。与えた”リハビリ”以外は控えてほしいの」

「……わかっています。だから大人しく引きこもってるじゃないですか。こっちだって療養に来てるんじゃない……そこは正当な”取引”だと思っています。その点じゃ、俺はオーダーに忠実だと思いますが?」

根っから小生意気と見える青年は、溜息混じりに首を振った。

「レベッカ……本当は、ベルリンで何が起きてるんです?」

「何とは?」

「とぼけないで下さい。貴女の部下は直接戦闘には不向きな者が多いが、それにしたってポンコツじゃない。エマとラナ、ロッテにイルゼ、ラファエラだって……テリトリーにさえ呼べば、確実な仕事ができる――それでは対処できない相手が居るんでしょう? 貴女が院内から出ないのも含めて」

「私が院内を出ないのはいつものことよ、フライクーゲル」

冷たい口調で答えた女に、青年は眉をひそめた。

「その呼び方、やめてください」

「アマデウスのセンスが恥ずかしいのはよくわかるわ。その点では、私と貴方は同志ね。同じ場に居る以上、互いに友好的な関係を保つべきだと思わない? 此処が、貴方が言う”テリトリー”であることも”含めて”」

意趣返しのような言い方に、生意気な殺し屋は舌打ちの代わりに目を逸らした。

「……わかりました。院内は出ません――その代わりとは言いませんが、俺もひとつ頼みがあるんですが」

「聞くだけは聞きましょうか」

幾らか態度を軟化させた女に、青年は溜息ひとつこぼして言った。

「……レストラン・トンビリのケバブが食べたいです」

フッと女が鼻で笑い、珍しく身を屈めて笑い出す。

「笑わないで下さいよ、レベッカ。死活問題なんです。それが無理なら食材調達を頼みたい。俺はもうハムと焼いただけのヴルストにはうんざりして――」

「わかったわ、いいでしょう。買いに行かせるわけにはいきませんが、使いを出してあげます。勝手に配達業者に頼まないように」

「そいつはどーも……宜しくお願いします」

お辞儀だけは日本人らしくきちんと返すと、静かに退出していった。

残されたレベッカは、空のカップを流しに置きに行き、クスクスと笑った。

「まだまだ、ガキね」




 Restaurantレストラン Tombiliトンビリは、大衆向けと思しき人気店だった。

小さな通りに面した看板にはふっくらした猫の顔が描かれ、照明で明るい店先には肉の焼ける香りと湯気が仄かに漂う。

「わあ、これはたまらないや」

良い意味で呟いたのはニムだ。呑気とポジティブが服を着て歩いているような男は、ドイツ支部関係者かどうかもわからない相手に聞いた店に、既に何の警戒心も抱いていない。確かに、中は普通の店のようだった。

人相の悪い連中が詰めていることもなく、大きなガラス窓の向こうで、人種に関わらず、皆楽しそうに食事をしていた。

紹介してくれたトルコ系ドイツ人のトゥナイは移民問題のトラブルを話していたが、実際、トルコ系のドイツ人は数多く、ケバブやトルコ料理を扱う店もポピュラーだという。サッカー選手など、人気分野で活躍する人物も居る為、風当たりの程はそこまで酷くはなく、アグネスが言った通り、極端な連中が居るだけで、基本的に彼らと白人系の付き合いは概ね良好の様だ。

店頭のスタッフにトゥナイの名を告げると、奥から呼ばれて来た男が、愛想笑いと共に「どうぞ奥に」と手招いた。

その顔を見て一瞬、未春もニムもポカンとした。

「ひょっとして……トゥナイさんとは双子ですか?」

思わず言ったニムに、男はトゥナイよりもやや濃い髭面で頷いた。自信が有りそうな雰囲気こそ異なるが、顔や背格好はNóttノートのバーテンと瓜二つだ。

「トゥナイは双子の弟だ。俺は店主のイルハン。話は聞いてるよ……あいつを助けてくれてありがとう」

差し出された職人っぽい厚みのある手と握手し、二人は長いカウンターを回り込んだ席に通された。入口から死角になった席は、寒風が吹き込まず、温かい。

そのテーブルを見るなり、ニムが声にならない悲鳴を上げた。

ど真ん中に、大きな猫が座っていた。たっぷりした白い毛並みに、両の耳と太い尾だけが茶縞の猫は、黄色い目を見慣れぬ二人に向けてから、じっくりと閉じた。

「おお、トンビリ……お客様が見えたからどいてくれ」

イルハンが声を掛けるが、席を確保するように、或いは占領するように、猫は丸々とした体を膨らませ、四肢を体の内に差し込み、香箱座りをして動かない。

「Oh……so cute……!(かわいいぃぃ……!)」

もう猫のことしか見えないらしいニムは、そろそろと近付こうとして――唐突に何もないところで蹴躓いた。コメディ映画のように前のめりにすっころんだ男に店内はざわめき、イルハンも仰天して手を貸したが、猫は微動だにせず見下ろし、尾をゆったり振った。どっしりした様子がスズに似ていると思いながら、未春が床で呻く作家に手を貸す間も、猫は下界の愚か者でも眺めるようにじっと見ていた。

「先生、大丈夫ですか」

この旅で何回言うか知れない声を掛けると、彼は顔を擦りながら頷いた。尤も、持ち上がった森のような両目は、やっぱり猫しか見えていない。

「うう……可愛いね……生きててよかった……」

痴態を晒したのを秒で忘れた作家は、ベージュの髪の向こうから猫を見上げてうっとり呟く。その様子に、店主も苦笑混じりだ。

「あ……あんた、そんなに猫が好きなのか。ウチの看板猫のトンビリだ。ご覧の通りの愛想なしのお嬢だが、悪さはしないから仲良くしてやってくれ」

「もちろんですとも、ぜひ仲良くしたい……! 何なら此処に居てもらって――」

鼻息も荒く、ニムが席に座ろうとした瞬間、猫はすっくと立ちあがり、大きく伸びをしてからぱっとカウンターに飛び上がった。そのままスタスタとカウンターを渡り、レジの近くの定位置と思しき敷物の上に丸くなった。

「可愛いなあ……」

袖にされたことなど全くこたえていない男は、想い人の背でも眺めるようにしてから大人しく着席した。彼の興味が猫からケバブに移ったところで、店のドアが開いた。

「ああ、もう来たのか。お客人、すまんがちょっと待っててくれ」

断わったイルハンが入り口の方へ戻っていくと、入って来たお客と挨拶した。

「こんばんは、エマ、ラナ」

『こんばんは、イルハン』

一ミリのズレも無い合唱に振り返ると、一目で双子とわかる二人が立っていた。

少女と呼ぶには微妙な年ごろの女性たちだ。揃いのふっくらしたラベンダー色のダウンを着込み、たっぷりと密度の高いファー付きのフードをかぶった姿は、幼い子供のようにも見える。実際、微かに頬を赤くした様は、お人形のように愛らしい。

双子は看板猫のトンビリに挨拶し、大人しい猫を交互に撫でた。

『頼んだものを取りに来ました』

「了解だ。こんな時間にお使いなんて珍しいな?」

イルハンの問い掛けに、肩口から金髪と白い花の髪留めを垂らした方が、ぷうと頬をふくらませた。可愛い外見とは裏腹に、出て来た言葉は歯に衣着せぬ悪口だった。

「仕方ないのです。居候が文句を垂れたので」

青い花の髪留めを垂らした方も、その通りだと言うように頷いた。

「寒い中、お外に出る身になってほしいです」

ブツブツと不平を言う二人に、イルハンは苦笑混じりに小ぶりのボックスにケバブを詰めたのを幾つも準備した。

「かわいそうに。その居候に買いに来させりゃいいじゃないか」

双子はぴったりの動作でチッチッチと指先を振った。

『それが出来ないから、お使いに来ているのです』

その仕草をちょっと身を乗り出して見ていたニムが、楽しそうにフフッと笑った。

「やあ、そっくりだ。かわいい子たちだね」

未春はこくりと頷いた。

「ドイツは……双子が多いのでしょうか?」

「そんなイメージないけどなあ。出生率が増加傾向のニュースは見たけれど、それは最近の事だし……この旅ではよく会うね」

作家が首を捻る頃、イルハンは双子たちが差し出す「テューテ」と呼ばれるコットン材のエコバッグにご丁寧にアルミバッグに入れた望みの品を収めた。

「お前さんたちも食べられるのか?」

「もちろんです。買いに来るだけなんてお断りなのです」

「居候がトンビリほど可愛ければ喜んで来るのですけど」

愚痴をこぼしながら、お使い風景を眺めていた看板猫を再び交互に撫でると、双子は猫とイルハンに手を振りながら寒風の夜へと出て行った。

「かわいい常連さんですね」

声を掛けたニムに、戻って来た店主はにこやかに頷いた。

「あれでも、成人女性なんだよ。どっちもバリバリ働く凄腕ナースだ」

「おや、看護婦さんでしたか。尊いお仕事に従事してるんですねえ」

陽気に答えながら、ニムはちらりと未春と視線を交えた。

「ひょっとして、ヒルデガルト・クリニクムにお勤めで?」

「ああ、そうだよ。此処らじゃ一番でかい病院だ。何かあったら、あそこに行けば間違いない」

「それは心強い。頼れる医療機関が有るのは有難いことです」

「そうとも。あそこはどんな人間が行こうと丁寧に診てくれるしね。……さて、お客さん、何にする?」

「うーむ、これは迷う……チキンも、ビーフもいい……幸せな文字しか並んでいない。ココナツミルクで煮たビーフにラム肉の肉団子……ああ、何で挟むのかでも迷う! 定番のピタパンは美味しそうだし、ガレットまで有るなんて――ここ、ソースも凄い凝ってますね?」

食べる前から美味しいものを口に含んでいるようなニムに、イルハンは笑った。

「ドイツのケバブは移民料理がこの地に合わせて進化していった文化の結晶なんだ。本場のケバブにも負けないぜ」

「なんて素晴らしい。異文化交流はこうでなくっちゃ……美味しいものと美味しいものを合わせて更なる美味しいものが生まれるなんて最高じゃないか!」

本来ピタパンだったものが、こちらのパンと合わせたサンドイッチタイプが現れ、野菜やチーズ、ピクルスなども様々使われるようになっていったのがドイツのケバブ・サンドだという。美味しいものと美味しいものの融合――未春がカツカレーだのオムライスを想像していると、メニューとにらめっこするニムにイルハンが笑った。

「弟の恩人に言うのもなんだが、面白い人だなあ。そっちのハンサムさんは?」

未春はニムと同じく、メニューを覗き込んでいたが、無表情を持ち上げた。

「さっきの子たちが買ったものを下さい」

「お、名案だね、未春。僕もそうしようかな」

「ハハ……あんた達は実に賢い。あの組み合わせは俺のイチオシだ」

ニムは未春と顔を見合わせて、にっこり笑った。

「じゃあ、それにぴったりなビールもおすすめしてくれるかい?」

「了解だ。すぐに出そう」

店主はウインクをして、颯爽と踵を返した。




 ある場所に良い具合に焼かれた肉と上等なビールが揃っているのなら、静寂に満たされている場所もある。

その部屋は、温かく、空調の音さえしない静けさだった。

世界的にも省エネ・エコロジーの意識が高いドイツは、暖房といえば「ハイツング」というセントラルヒーティングが主流である。この温水暖房器具は各部屋は勿論、バスルームやトイレにも設置されていることが多く、厳寒の割に快適な温度を保つ家は多い。集合住宅では稼働時期に故障すると全部屋が極地になる恐ろしさはあるが、今後は新設する建物に灯油やガスによる暖房器具の設置を禁止する方針を立てているドイツではまだまだ需要が高い設備だろう。

部屋は、程よい広さのリビングだ。

やや斜向かいに置かれた一人掛けソファーの片方に、女は座っていた。

健全な勤め先ではとっくに終業している時分、未だに灰色のスーツに身を包み、クールな目鼻立ちを床のカーペットに置いていた。ひし形のボブカットに整えたブロンドは愛らしくもあり、シャープな印象をカバーする為にも見えた。

「やあ、待たせてごめんね、ラファエラ」

現れた待ち人を、女は外の空気よりも冷たい目で見た。

「全てを知るというのは、嘘?……それとも、貴方がルーズというだけ?」

ゆったり歩いてきて、棚の上のレコードプレーヤーに流れるようにレコードをセットすると、針を下ろした。レコードならではの幅広く豊かな音が室内に響き渡った。

ヨハネス・ブラームスの『ピアノのための6つの小品しょうひん』だ。穏やかで柔らかなクラシック音楽の中、椅子に腰かけたのは三十代かそこらの若い青年だ。蜂蜜色の髪に湖水のように青い目。絵に描いたような整った容貌の白人は、女に合わせるように同じ系統の灰色のハイネックを着ていた。黒いズボンの長い脚を優雅に組んでソファーに腰掛けると、ラフなスタイルにも関わらず、要人が座った感が有る。

「怒らないで。ちゃんとわかっているよ……君が僕と会う為に、ヴァルシュタイナーを買ってきてくれたこともね」

女は木製棚に扮した冷蔵庫をちらっと見て、苛立たし気にそっぽを向いた。

「それで遅れるなら、貴方は只の無神経ね」

「綺麗な女性と会う準備に時間が掛かるのは、普通の事じゃないのかな?」

にこりと微笑んだ男は、確かにデートには相応しいだろう程度に身綺麗にしている。女でも羨ましい艶の髪はきちんと櫛が通り、肌理きめの細かい白肌は、寒さが苦手な割に少しも赤くなっていない。だが、その言い分はこれがデートならば通用する話だ。

「見え透いた世辞はやめて。グレイト・スミスの血統に愛が無いことぐらい、私は知っている」

「愛が無い、ね……」

男は妖しい笑みを刻むと、蜂蜜のようにとろりとした艶の髪を弄った。

「君が言う通り、僕は愛を語るには至らないと思うが、そもそも……愛とは何だろう? 医学的な根拠があれば尋ねてみたいな」

「……生憎だけれど、私はどちらも不得手なの。議論の相手は他を頼って」

「フフ……君もつれない女性だ、ラファエラ。君は上司にも愛が無いと非難する気かい?」

「レベッカは、愛なんて浮ついたものになびかない尊貴な人間なの……貴方みたいな男にはわからないでしょう」

「その辺りだけは、袖にされ続けているアマデウスに同情するよ」

――同情? 情けなんて抱いたこともない殺人鬼の癖に。

胸中に毒づくが、話を進める為に矛を収めることにしたラファエラは、静かに切り出した。

「市内が、だいぶ荒れているわ。ネオナチの連中は、移民や関与のない観光客にも怒りをぶつけ始めている。本当にこのまま進めて大丈夫なの?」

「不安と言うから来たけれど……話はそれかい? まだ、先に示した通りの事態しか起きていないよ」

「そうだけど……」

言いながら、この相手に常識を求めてはいけないことを自らに言い聞かせる。

殺人鬼の尺度では、誰が怖い目に遭おうと、痛い目に遭おうと関係ないのだろう。そう思っていると、男はハッとした様子で身を乗り出した。

「あ、それとも、本当は僕に会いたかったの?」

「……あのね、フレディ……私は不得手だと言った筈。そんな私でもわかるわ……貴方は”誰かさん”に夢中で、それ以外はどうなっても構わない顔をしているのよ」

青年は双肩を軽く上げて微笑んだ。

「ラファエラ、心配は要らない――それより、言った通りに準備を怠らない方がいい。既にアマデウスも来ているし、ブレンド社は油断ならないだろう?」

「わかっている。貴方こそ、約束を忘れないで」

「忘れたりしないさ。これでも誠実な方だよ。君たちが男を信じられないとはいっても、協力関係には最低限の信頼が必要だ」

「……愚問だわ。私は、レベッカにBGMから手を引いて貰う為なら……自分の信念を曲げるくらい、安いものよ」

強い決意を孕んだ目を、穏やかな青い目がじっと見つめた。

「どうしても、父親の血の呪縛から逃れさせたいんだね」

「そうよ。彼女は充分、役目を果たした。人を……命を救う意志と葛藤しながら……私が知るよりずっと前から、手を赤く染めて、この国の善良なる市民を守ってきた。その上、父親と戦うなんて……酷いわ」

「わからないね。何故、他人の君がそうまでしてレベッカの身を案じるのか」

「わからなくて結構。身内も殺すことに躊躇いのない貴方に理解できるとは思えない。ただ、私に協力するか否か……それだけよ」

「心配しないで、ラファエラ。最初に言った通り、僕は君の提案を歓迎する。喜んで君に手を貸そう」

しかと頷く優しげな容貌を、ラファエラは厳しい目で仰いだ。

和やかなピアノが響く。聴き取り難い小さな音と、弾き手の指先が見えるような緩やかで滑らかな音が続く。

「……簡単に言うのね。貴方もそんなに”彼”が重要?」

「フフ……重要なのは間違いないが、それだけで引き受けたと思われたくないな。利害の一致というのは生産的だが、血の通わない交渉で良ければ、会って話す意味はない」

「……何を言っているの?」

「僕は“君だから”提案を受け入れると言っているんだ」

眉を寄せた女の目を、澄み切った青が射貫く。

「主人の為に、死の危険をも犯そうとする君を、僕は高く評価している。如何に愛に疎くても、勇敢な女性が美しいのは理解できる。それにね……これでも僕は祖国には愛着が有るんだよ。レベッカだって親戚なんだから、当然といえば当然だ」

「……」

「祖国にはびこった害虫を根絶やしにして、外から狙う悪党を退しりぞける……善悪に関わらず、当然の行為だ。君はさしずめ、女武神ワルキューレってところかな」

「……妙な世辞はやめて」

青い瞳を振り払うように立ち上がると、冷蔵庫に収められていた瓶ビールを一本手に取った。手早く栓を抜き、座ったままの男に突き出す。

「二本有る筈だけど、君は飲まないの?」

「細かいことは知っているのね。貴方の顔に惑わされる女でも誘ったら?」

言い捨てて、すたすたと出て行こうとする女の背に対し、瓶を眺めながら、青年はのんびりと笑った。

「君がワルキューレなのは、的確な表現だと思うよ、ラファエラ」

女が立ち止まる。ドアノブに掛けんとした手に、すっと男の手が添えられた。

「……何のつもり?」

素早く背後に立っていた男を肩越しに睨むと、彼はにこりと笑った。

「ラファエラ、愛が無いというのは半分正解で、半分間違いなんだよ」

「どういうこと……?」

「僕は君を美しいと思うが、愛さない。それは同時に、欲情することもない。君にとって、非常に安心感の有る相手だと思わないか?」

「……都合の良い話にしか聞こえない」

「そうかい? レベッカは愛が無くても、君や、君の姉妹たちに愛にも等しき慈悲を与えた。君たちが彼女を実母のように一途に誠実に愛する気持ちも理解している筈さ。一方で、アマデウスの求愛は頑なに断り続けている。僕も唯一と思う人には近付いた。この気持ちが愛ではないと言い切ることはできない」

「だから何だって言うの?」

「寂しい者同士、乾杯ぐらいしようよ。どうせ、僕は酔いに任せて君を抱いたりしないし、大事な協力者に危害を加えるつもりもない。”ここ最近の君”が、一番心許せる存在だと自負している者の気遣いだよ」

「……勘違いもはなはだしいわ……何より、貴方は殺人鬼でしょう?」

「君こそ、勘違いしないで。僕は死を何とも思わないだけ。誰彼構わず殺したいとか、無差別テロをやる連中とも違う。社会に溶け込み、馬鹿どもと付き合える理性が有るんだ。此処で君を傷つけるより、一緒に飲む方が楽しいとも思っている。音楽の趣味が合うのは知っているしね」

室内には未だ、『ピアノのための6つの小品しょうひん』が流れていたが、それまでの緩やかな旋律から、不意に緊張感のある激しい旋律に変わった。ブラームスが、ピアニストだったクララ・シューマンに献呈けんていしたと云われる曲。クララには夫が居たが、その死後、それまでにも親しかったブラームスと恋愛関係になったという逸話がある。裏付ける証拠は見つかっていないが、彼がどんな気持ちで彼女に曲を贈ったのかということもわかっていない。

「……そんな寂しがり屋だとは知らなかった」

ドアに向かったまま、差し俯いた女の肩口にそっと屈んで、男は囁いた。

「じゃあ、覚えて。僕だって、寒い夜は寂しいんだ。君と同じ。君が用意してくれたこの部屋は暖かいけれど、それ以上のことは何もない」

女は溜息を吐き、ドアと男とのすき間からするりと抜け出ると、冷蔵庫を開け放ち、掴んだ瓶の栓を抜きながら椅子に戻った。男も嬉しそうに腰掛け直した。

「さっき、私がワルキューレだと言ったのはどういう意味?」

「ワルキューレは、古ノルド語ではヴァルキュリア――『戦死者を選ぶもの』の意だ。今度のことで君は、生きる者と死ぬ者を決めるも同然だ。相応しいと思うよ」

「死神というわけね……」

女は差し伸べられた瓶に瓶をかち合わせて、低く言った。

「……望むところよ」




 『ただいまー……買ってきましたよ、居候』

愚痴の調子もぴたり合う双子に、当の居候は振り向いた。

「Danke. (ありがとう)」

礼を述べた青年に、エマとラナは怪訝そうに顔を見合わせた。

礼がどうと言うのではない。ケバブを買ってきてくれと言ったそいつが、キッチンに立っていたからだ。

此処、ヒルデガルト・クリニクムの一部には、BGMスタッフの為のごく簡単な生活スペースが在る。一般病棟とは別のエリアに、シンプルなキッチンや寝室、シャワールームを配したこの区画は小さなシェアハウスのようなものだ。奥には仮眠室程度のベッドルームが何部屋か並び、主に仕事中毒である代表のレベッカが使用し、その世話役でもあるエマとラナ、更にラファエラなどの中心スタッフも使う。手前には六人も居たら一杯のリビング&ダイニングがあるものの、此処が名前通りの用途に使われることは滅多になく、キッチンも最低限の調理器具や食器こそあれ、せいぜい湯を沸かして茶を飲むか、出来合いを温めるぐらいにしか使わない。冷蔵庫に至っては、飲料を冷やしておく程度で、今は居候が冬だというのに氷を常備している。

そんなキッチンで、少々離れたゲストルームに居候中の男が、何やらコトコト煮ている。しかも、鍋は二つ。蓋が開いている方には橙色の海に林檎やオレンジがとっぷり浮かび、室内は換気して尚、甘酸っぱい香りとシナモンやクローブの芳香が漂った。

『フライクーゲル、何をしてるのです?』

「その呼び方やめろっての」

鬱陶しそうに言うと、両サイドから鍋を覗き込んでくる双子に対し、彼は小さなカップに鍋の中身を注いで渡してきた。

「アップルサイダーを……ん? ドイツじゃ……”アプフェルプンシュ”だっけ? 飲むだろ?」

双子は両手でカップを掴んで顔を見合わせ、不審げな顔で動物みたいに匂いを嗅いでいたが、やがてふうふうして啜り始めた。

「どうだ?」

「……悪くはないです」

「……意外といけます」

「あっそ、良かったな」

苦笑混じりの男に、既にカップをぐいぐい傾けながら双子は首を傾げた。

『材料はどうしたのです?』

「炊事係のヨハナのとこに行って相談したら、快く分けてくれたぞ」

『じゃあ作ってもらえばいいのに』

「時間外労働させるのは悪い。片付け終わったキッチン借りるのも何だから、此処を借りた」

『なんでアプフェルプンシュなのです?』

「あー……それはー……」

何やら言い淀んだ青年は、掻き混ぜながらぶつぶつと答えた。

「……別に、どうって理由はない。俺もドイツに居るんだし、ホットワイン――グリューワインが相場だと思ったんだが……レベッカは酒は飲まないとか言うから」

「レベッカにあげるのですか?」

「ジュースも飲まないですよ?」

「……それなんだが、レベッカの舌は大丈夫か?」

急に失敬なことを言い出した男に、主人第一主義の双子が揃って眉を寄せるが、彼は肩をすくめて続けた。

「呼ばれた時、ハーブティーを振舞われたが、えらい不味かった。たかがティーバッグで淹れたやつだろうに、どうなってるんだ?」

双子は顔を見合わせた。

「それは最初からずっとそうなのです」

「レベッカが作ると不味くなるのです」

「なんだそりゃ……手先は器用だろうに」

ぼやいた青年に、双子はぱっとからのカップを突き出した。

『せっかくなので飲んであげます』

「はいはい、ケバブの後にしような」

青年は別のカップに夕焼けサンセットのような飲み物を注ぐと、もう一方の鍋で煮ていたアイントプフ――ソーセージやじゃがいもなどが入った、ドイツの定番スープをジャーに注ぎ、スプーンやケバブのボックスと一緒にトレイに載せた。

「レベッカに持っていってくれ。お前たちは此処で食べるだろ? 準備しておくから頼む」

双子は言い付けられたことに不服そうな顔をしたが、文句は言わずにトレイを受け取ると、仲良く主の執務室に向かった。

「ラナ、どう思うの?」

「エマこそどうなの?」

廊下を歩きながら、互いに思案顔で押し黙る。

「変な奴ですけど、嫌な奴ではないです」

「嫌な奴ではないですけど、偉そうです」

互いの評価に満足するように頷き合うと、そっくりな顔でふふふと笑った。

胸に去来するのは、嫌ではないが偉そうで変な居候が舞い込んだ時のことだ。

世界で指折りのガンマン、しかも”あの”アマデウスの元部下というから、どんなハードボイルドが来るのかと思っていたが、何もかもノーマルに見える青年だった。

二十八にしては髭も薄く、ドイツの男に比べたら随分幼い印象だ。尤も、向こうもこちらを幼いと見ているらしく、大して変わらないくせに、しょっちゅう子供扱いしてくる。おまけに、失礼なガンマンは腹に風穴を開けられ、右肩を負傷していた。

何故かは知らない。日本で成功したばかりという手術痕をレベッカが再確認し、必要と思われる処置をほどこしたのがひと月ほど前のこと。

この生意気な居候は日本人のくせにドイツ語を喋り、術後間もないというのに新聞を寄越せだの本を貸せだのとうるさく言い、体が鈍るから腕立てさせろ、走らせろ、何なら射撃訓練をさせろと患者の自覚は皆無だった。

現在でさえ、トレーニング並の運動をするような段階ではない。ゆっくりと負担のない運動が適切だというのに、ちっとも聞き入れない。

初めは「これだから男は」と眉逆立てた双子だったが、最近はこの青年との不毛な言い合いが楽しみになりつつあった。こいつは生意気だが、女をそしらないし、心底嫌そうな顔をしても、怒鳴ったり、手を上げることはない。だるそうに、面倒くさそうにしながら、それでも話はちゃんと聞く。

何より、生活態度そのものは悪くない。朝はきちんと目覚め、自分で身の回りを清潔にして過ごす。――だからって、男は信用できないけれど。

主人の部屋に辿り着くと、ノックしようとして、双子はぴたり止まった。

中から声がする。

声からして、ロッテとイルゼだ。随分、遅くまで外に居たらしい。

「やはり、フライクーゲル目当てと思われます」

「あれは私たちが対処できる相手ではないです」

双子は顔を見合わせて立ち止まった。

小動物のように気配を消して耳を澄ますと、レベッカの気重な声がした。

「そう……貴女たちから見て、どんな印象だった?」

レベッカの問い掛けに、ロッテとイルゼは順に答えた。

「こちらも、身体面は人間の域を超えます」

「多分、エマとラナでも力負けする筈です」

自分たちの名前が出てどきりとした双子は顔を見合わせる。小さな間を置いて、レベッカは言った。

「交渉は――無理でしょうね。そもそも話が通じるかどうか……」

「……私たちにも気付いていたかと」

「明日にはこの辺りに来るかも……」

「慌てないで。入ってくる場合は、予定通り、正規手続きで追い返しましょう。裏から入ろうにも此処は病院なのだから、まずは公的機関を使う。電気・水道設備への注意は怠らぬよう、監視と警備は徹底を頼むわ」

Alles klarアレスクラー(了解です)』

二人が頭を垂れる気配にハッとした双子は、慌てて部屋をノックした。

『レベッカ』

呼び掛けて入室すると、ロッテとイルゼが顔を向けた。

「エマ、ラナ、おつかれさま」

ロッテが片手を上げ、イルゼが微笑んだ。

「いつも遅くまでご苦労さま」

『……二人とも、おかえりなさい』

何となく気まずい気分ではにかむと、双子はレベッカの方にぎくしゃくとトレイを置いた。

「お使いご苦労様。私にも持ってきてくれたのね」

出来たて間もないケバブ・サンドはともかく、まだ湯気を立てるアプフェルプンシュとスープ・ジャーに怪訝な顔をするレベッカに、双子は頷いた。

「ケバブのお使いをしてきたら、フライクーゲルに頼まれて」

「アプフェルプンシュを作ったから、レベッカにもって……」

「まあ、ハルが作ったの? スープも?」

『私たちが味見したから大丈夫ですよ』

毒見の意味で伝えたかったのだが、つまみ食いをしたような言い分になって赤くなる双子に、レベッカは笑った。

「そう……ありがとう。ちゃんと頂くから、ハルにも伝えて。貴方たちも頂いてきなさい。ロッテとイルゼも休んでね」

母のような申し渡しに四人の女たちはそれぞれに頭を下げ、退室した。

並んで廊下を歩きながら、ロッテが面白そうに口を開いた。

「あの殺し屋、料理をするの?」

「意外ね。私たちもしないのに」

クスクス笑うイルゼに対し、頷いたエマとラナの面持ちはどこか浮かない。何やら思い詰めた顔つきの双子を、背の高い二人が見下ろした。

「エマ、ラナ、どうかしたの?」

「何だか具合が悪そうだけど?」

『平気です……ちょっとお腹が空いてるだけ』

ちらと見交わす双子は、顔を見れば喋らずとも意思疎通できた。


――さっきの話だと、誰かがフライクーゲルこと、ハルトを狙いに来るらしい。


ロッテとイルゼが対処の厳しさを訴える相手は、手強いとみて間違いない。

彼が本当に魔法の弾丸フライクーゲルの名の通り、世界屈指のガンマンなら対処できようが、銃が無ければ只の若造だ。

とはいえ、レベッカは殺し屋に銃は持たせないだろう。『死神』の名で知られたアマデウスが育てた男なぞ、武器を持たせたら何をするかわからない。

「お、戻ってきたか。ああ、ロッテとイルゼも居たのか……丁度良かった」

当の殺し屋は、ダイニングテーブルの前に立ちながら、事も無げに言った。

女たちが目を点にして見た先には、およそ健全で家庭的な食卓が広がっていた。素朴な木製テーブルは本来の役目を果たすように湯気を立てるアイントプフの鍋が置かれ、ケバブのボックス、取り分け用の皿にスプーンにコップ――抜かりのない準備をしながら、”居候”は「座れよ」と気楽に言った。

「作り過ぎたから手伝ってくれ。ラファエラは居ないのか?」

『ラファエラはまだなのです』

「此処は仕事中毒ばっかりだな」

言いながら新しい皿を出し、アイントプフをよそう姿に、目を丸くしたままのロッテがテーブルを指差す。

「あ、あなた、コレみんな作ったの?」

「ケバブは作ってない。エマとラナが買ってきてくれた」

何でも無さそうに返って来る返事に、見ればわかる、とイルゼが呆れたように肩をすくめた。

「それにしたって、大変な御馳走だわ。日本人は夜にこんなに食べるの?」

「ああ、俺も日本式に慣れちまって……まあ、どうせお前らは昼間も大して食べてないんだろ? たまにはいいさ」

双子は大人しく着席し、ロッテとイルゼは顔を見合わせつつも座った。

「あー……腹減った。いただきます」

座るなり、食卓に手を合わせる青年を見て、エマとラナがニヤニヤしながら真似をし、残る二人も怪訝な顔で真似をした。今夜はシェフと化した居候の殺し屋は、すまし顔でケバブ――ベルリンではパンに肉と生野菜やフェタという白いフレッシュチーズと挟むのが一般的なスタイルのそれに美味そうにかぶりついた。

「美味いなー……此処のが一番美味い」

しみじみと独り言を垂れる男の健康的な食欲に触発されてか、女たちも熱いスープに苦戦しつつもスプーンを口に運び、ほんのり温かいケバブを頬張った。

「……こういうの、久しぶりね」

「うん……昔は皆で食べたけど」

感慨深そうにこぼすロッテとイルゼの手前、早くもおかわりを所望する双子に、居候がスープをよそいながら振り向いた。

「ドイツの夕飯は、飲まなけりゃつまらないもんな。大体、冷たいし」

「日本は……いつもこういうものを皆で食べるの?」

「どうかな……夏場以外は温かい食事が多いと思うが、俺もあまり詳しくない。皆で一つの鍋をつつくのはやったが、一人で食べる奴だって多いだろうさ」

曖昧な笑みを浮かべる居候は、待ちかねた様子の双子の前に皿を置いた。

「毎晩こんなに準備しなくちゃいけないのは、大変そうね」

「まあな。……でも、それも良いんだろうな。美味いか?」

よく似た二人は顔を見合わせて、小さく笑って頷いた。すかさず、双子が言う。

『シェフに雇ってもいいです』

「そいつはどーも」

食事は和やかに済んだ。アプフェルプンシュが出てくる頃には、ロッテとイルゼは疲れた様に溜息を吐いた。

「食べ過ぎたわ……」

「眠れるかしら……」

と、言いながらもホットドリンクを飲む表情は満足そうだ。エマとラナは二回のおかわりを経て尚、ドリンクもよく飲んだ。

「お前ら、ちびっ子のくせによく食うよなー……」

想像以上の大食漢にぼやく居候がリフィルの対応に追われる中、ロッテが不思議そうに言った。

「ねえ、フライクーゲル、あなた……前の支部でもこんなことを?」

居候は、その呼び方やめてくれ、と断ってから頷いた。

「なし崩し的にやってた。俺より、同居人の方がしっかりしてたから、殆ど任せてたけど」

「同居人って……同じ殺し屋の?」

今度はイルゼの問い掛けに、ニュアンスでも違うのか、彼は曖昧に頷いた。

「ああ。あいつは家事全般、何でもこなす。料理は玄人だった」

問いかけた二人が顔を見合わせる。ナイフの刃を目にも止まらぬスピードで受け止めた身のこなしが甦る。あの十条未春も料理をするのか。

……一体、日本の支部はどうなっている?

「まあいいわ……それじゃ、私たちまだ仕事があるから」

『ロッテ、イルゼ、早めに休んでください』

「あなた達も。姉さまが戻ったら同じ事を言ってあげて」

席を立つ二人に、居候が声を掛けた。

「――そうだ。ロッテかイルゼに頼みがあるんだが」

『何よ?』

双子のように合唱した二人に、居候はさらりと言った。

「ニム・ハーバー著作の本を読みたい。買ってきてくれないか。代金は支払う」

「ニム・ハーバーの本……?」

「……どうして読みたいの?」

「さっき、レベッカにこの人物のデータ検証を問われて気になった」

サッと動いたロッテとイルゼの視線に、カップを掴んだまま、エマとラナは頷いた。

『確かなのです。レベッカから頼みました』

「お前ら、やっぱり立ち聞きしてたな」

うんざりと言うハルトに対し、双子は知らんぷりしながらジュースを飲んだ。その様子を不審げな眼差しで見ていた女たちは、顔を見合わせてから頷いた。

「……レベッカの許可を取るなら、いいわ」

「……ええ、それなら買ってきてもいいわ」

硬質の返答に、ハルトは苦笑いを浮かべた。

「ドイツ支部は何というか、ボスに忠実だが、子供ガキだな」

「何ですって……?」

「バカにしてるの?」

「いーや、バカにする気はないが、お前らもプロフェッショナルの自覚があるだろ? 一般に出回ってる本の購買に、いちいちボスの承認を求めるのはどうかと思うね」

女たちがきりりと眉を吊り上げた。

「居候の分際で、うちの支部のやり方に口を出さないで」

「エマやラナと仲良くなったからって、図に乗らないで」

居候は不遜にも鼻を鳴らし、勝手にどうぞと言わんばかりに片手だけ振った。

ロッテとイルゼも唇を尖らせたが、挑むように『いいわよ』と答えた。

「本屋にあれば買ってきてあげるわ」

「取り寄せになるかもしれないわよ」

確かに、と居候は苦笑した。英語圏や欧州の本は有る筈だが、話題作や世界的名作でも無い限り、並んでいる可能性は極めて低い。

「高くついてもいい。頼むよ」

フンと鼻を鳴らして女たちは出て行った。

『フライクーゲル』

「その呼び方やめろっつうに。何だよ?」

『どうして、怒らせる言い方をするのです?』

咎めるというよりはごく単純な疑問を述べた双子に、居候は二つ並んだ空っぽのカップをシンクに置きながら苦笑した。

「怒らせたくて言ってるわけじゃない。見たまま、思ったことを言っただけだ」

『ふーん』

「何だよ、文句あっか」

『無いです。おかわり』

言いながら、双子は空のカップを突き出した。

「お、お前ら……本当に大丈夫なのか……?」

緩急のないおかわりラッシュに引き気味の居候に、エマとラナはニヤッと笑った。

『おかわり』

「はいはい……」

受け取ろうとした居候は不意に明後日の方向にくしゃみをした。素早くカップを避けた双子は、揃って嫌そうな顔をした。

『ばっちいです』

患者や隣人には「お大事に」と言うナースも、殺し屋には容赦ない。厳しい一言に当事者は「悪かった」と片手を挙げ、いそいそとティッシュを摘まむ。

「一回だから凶ですね」

「悪い事が起きるです」

「おいおい……現役看護婦のくせに縁起でもないこと言うなよ……! そんなもん、只のジンクスだろ?」

『日本にはないのですか?』

「日本?……あー、何だったかな……誰かが噂してるとか、そんな感じのがあったような……?」

凶。しかも、誰かが噂してる。

顔を見合わせた双子は、無言で頷き合った。

どうやらこの居候はツイてない。レベッカの指示通り、私たちが守ってやらねば。

ごくごくと飲み干し、双子は同時にカップを突き出した。

『おかわり』

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