6.Attraction.

 焼き目のしっかりついた香ばしくてスパイシーなケバブ、真っ白で酸味のあるフェタチーズ、フレッシュなトマトにロメインレタス、ナスとパプリカと赤玉ねぎのソテー、ピリリと引き締める唐辛子とミントの葉、名店たらしめるオリジナルソースと共に、バゲットタイプの芳しい香りのパンで挟む――これぞ至福!これの為に何度でも通ってしまう味だ!

「あの、先生、ちょっといいですか」

控えめに出た問い掛けに、作家が変な盛り上がりを見せたメモから振り返ったのは、今夜のホテルの部屋だった。

レストラン・トンビリでの楽しいひと時を終え、アレクサンダー広場に程近いホテルに戻った後。当初は待ち伏せなどを警戒していたが、ビジネスマンの利用が多いホテルは、静かなものだった。

「何だい?」

濃い一日も間もなく終わる。ベッドに腰掛けて今日のメモを眺めていたニムの問いに、見上げた先の未春みはるはラフなスウェット姿で朴訥と言った。

「上に乗ってほしいんですが」

「……ん?……の、乗る? え、えーと……それはつまり?」

見る見るうちに青くなるニムの切羽詰まった形相を見下ろし、未春は片手を振った。

「あ、違います」

顔を見て察したらしい。何やら自分の背の方を示す。

「重しになってほしいんです」

「お……重し?」

まだ誤解は解けない。

「はい。腕立てしたいので」

「あ、あー……そういうことかい……って、どういうこと?」

関西人のようなノリツッコミをした男にジェスチャーを加えて説明すること数秒、ようやく理解したニムは、本当に大丈夫かと何度も確認した後、そろそろと未春の背に横から腰掛けた。ゆっくり上下に動くのを不安げに見下ろしつつ、ニムは訊ねた。

「重くない?」

「軽いぐらいです。多少動いても平気ですよ」

「凄いなあ……僕、そこまで痩せてないと思うんだけど」

腹回りが気になり始めたお年頃のニムからすると、この青年は痩せすぎて見えるくらいだ。無論、目にも止まらぬスピードで動けるのだから、殆どが無駄のない筋肉なのだろうが。

「僕も筋肉が付けばいいんだけどなあ……」

「先生は、力を付けたいんですか?」

「そう思ったことは何度かあるね」

未春は不必要に感じたが、どうやらニムにとってはコンプレックスらしい。

言われてみれば、ラガーマンさながらの筋骨隆々たるスターゲイジーや、ハルトが鬼教官と恐れるラッセルに育てられて、体作りを全くしない筈がない。事実、何度か鍛えられる機会は有ったという。

「何もしないで白アスパラガス扱いされるのは致し方ないけれど、鍛えても結果が出ないのは釈然としないだろ? 社内でミステリーの一つにされた事もあるんだ」

「ミステリー?」

「ああ、ブレンド社は経歴やプライベートに秘密がある人間が多いからさ、都市伝説みたいな噂が立つんだよ。例えば、弊社に隠された部屋や通路が有るとか、ボスはゲームをしながら仕事が出来るとか、ラッセルの背後には絶対に立てないとか、寝てる姿を誰も見たことがないからレディは眠らない……とかね」

その中で、「ニムには筋肉がつかない」がラインナップに加わったのは、少々シュールな話だ。

「ボスみたいになろうとは思わないが、トラブル体質に筋肉の恩恵が無いのは理不尽だと思わない?」

幾らかおどけて言うニムに、未春は慎重に屈伸を続けながら答えた。

「先生は、何か他のことにエネルギーを使っているのかもしれませんね」

「他のこと?」

「はい。あんなに沢山食べているのに、先生は太っていませんから。俺は難しいことは分かりませんが、脳とか……他の力で消費されてしまうのかも」

「ふーむ……どうかな。君の推測だと、僕は筋肉が失われるほど、頭を使ってることになるが……そんなにフル回転するのは締切前くらいだなあ」

陽気に笑うと、ニムは付け加えた。

「そういえば、ブラックもそんなこと言ってたっけ。僕は見えない手であっちこっち掴んで、トラブルや珍しいものを引っ張ってるから筋肉はそっちの手に付いてるんだろうって」

さすがは読書家だろうか。面白い発想に未春は小さく笑った。

確かに、トラブルを中心に捉えれば、ニムには別の腕が有るみたいだ。空想の目で見れば、その手は屋台のナイフを引っ張り、カフェにグレーテを引っ張り、トゥナイのピンチへ自らも引っ張ってきたことになる。

――いや……これはひょっとすると怖い想像かもしれない。空港でスリの少女たちが彼の目につく場所で犯罪を犯したのも、まるで彼と会うためにそうなったように感じる。更に現状、ニムに付き合う形でドイツ入りしている自分はどうなのか? ベルリンに入る為にブラックを経由してスターゲイジーの手を借りたのは自然な流れに感じるが、ロンドンを経由しないルートでも入るのは可能だった。

まるで、ニムさえ知らない何かが「一緒に行かない?」と誘ったかのように……

「ブラックは……どうしてそう思ったのでしょう?」

「どうしてかなあ……僕と一緒に居て、色々巻き込まれたからだろうけど……彼は僕に会えたことを奇跡みたいに感じてるらしいから、そちらの意味の筈だけど」

「奇跡……?」

「そう。彼の生い立ちは――詳しく知っているかい?」

「はい。本人から聞きました」

「そうか……うん――彼は本当に可哀想な子供時代を過ごしたと思う。そんな彼をボスがブレンド社に連れてきた時、彼と友達になるよう僕に指示したんだ」

友達。なんだかハルトを思い出しながら、未春は聞き入った。

「最初は、途方に暮れたよ。彼が穏やかな気性とは知らずにビクビクしたり、かと思うとすごく小さい子みたいだから、僕が子育てノイローゼみたいになっちゃって周りにも心配され……いや、それはともかく――ブラックは……精神的に安定してきた頃、僕が色々なものを持って、待っていてくれた気がしたって言ったんだ」

「待っていてくれた……?」

「僕が彼の為にせっせと色んなものを集めていた気がするんだって。彼が得られずに奪われたり落としてきたものも、僕が拾い集めていたから貰うことができたって言うんだよ。もちろん、僕は彼と会う予感なんて、レディみたいな予知能力があるわけでもなし、微塵も感じていなかったが――読んできた本や出会ってきたものは、何でもブラックに教えてあげられた。それをこんな風に表現する彼の発想が詩的で素敵だよね。確かにさ、彼は偶然一人だけ生き残って、ブレンド社に連れられたんだもの……運命的なものを感じても、おかしくない」

運命。

ニムはそれほど意識していないようだが、微かに未春はひやりとした。

ブレンド社は世界屈指の情報収集会社。しかも、ペトラは数分から数日程度とはいえ、かなり精度の高い予知能力を持つ。ブラックが居た民間軍事会社ジュガシヴィリの壊滅情報を掴み、調査に赴くのは自然にさえ思える。

……だが、ブラックが生き残ったのは――本当に偶然だったのだろうか?

ブラック自身、たまたま言い付けられた仕事を地下で行っていた為に爆撃をまぬがれたと言っていたが、偶然を疑うと、そこには妖精でも居た気さえする。そいつは何らかのやり方で彼を地下に留め、もし……声を発したなら、せわしく飛びながら言ったに違いない。

「おっと、危ないから今日は此処に居た方が良い。自由になったら、ロンドンで会おう!」

――わかる。

漠然と、未春は思った。

ブラックを引っ張ったのは、ニムだと思う。原理なんてわからないが、”だから”スターゲイジーは、ニムを友達相手に任命したのでは……?

彼は、”本当に”出自不明の――只の白アスパラガスなのだろうか? 単に「目が良い」では片付けられない、とんでもない視力が有るのに?

「未春、まだやるのかい? そろそろ休んだら?」

「あ、はい……」

乗る時と同様に、ニムは慎重に背中から降りた。

「ありがとうございました」

ぺこりと頭を下げる青年を、ニムは森のような目で見上げた。

「大丈夫かい?」

「え?」

「僕の所為もあるだろうけど、ずっと、気を張っているだろう?」

「それは……――いえ、先生は居てくれて良かったです。俺一人だったら……なんだか焦って……まずい事をしたかもしれません。今日のような食事もしなかったと思いますし……バーでは強引な手を使ったと思います」

「君がそう言うなら、良かったよ」

ニムはにっこり微笑むと、俯く未春の肩をぽんぽんと叩いた。

「食事をとらないなんて、僕の前でさせるわけにはいかないからね。明日も一緒に美味しいものを沢山食べよう」

作家の陽気な誘いに、未春はようやく淡い笑顔になった。

そうだ。ラッセルも「焦らないこと」と言っていた。純文学ではなく、グルメ誌の取材に来ているのではと思えてならない作家のように落ち着こう。

……少し、方向性を間違えている気もするが……今は彼と歩けば、いつの間にか目的地に着く気さえする。

「ハルちゃんも……ちゃんと食べているといいんですが」

互いのベッドに座り直して呟くと、ニムは森の如きグリーン・アイを瞬かせた。

「”ハル”も、君のように食べるのを忘れてしまいそうなのかい?」

「それは無いと思うんですけど、状況によるでしょうか」

「あ、そうか。もし、ドイツ支部に監禁とか軟禁されているなら、食事は厳しいかもしれないなあ……ドイツは、ここ最近でヴィーガンが増えているそうだしね」

ハルトが監禁というのは想像し辛かったが、節制にうんざりする様は容易に想像できた為、未春は少し気が軽くなった。

「ヴィーガンって、ベジタリアンとは違うんですか?」

聞いたことはあるが同義語だと思っていた未春に、ニムはイヤイヤと首を振った。

「ヴィーガンはね、『人間が動物を搾取せずに生きるべき』という思想から成る主義なんだ。つまり、肉や魚、卵や乳製品はもちろん、蜂蜜もダメ。更に毛やシルク、皮革製品もNGってわけさ。――動物愛護の意味から考えれば確かに一理ある。僕も毛皮や角をとるために野生動物を殺すのは反対だし、農園を作るために森を切り開くのも、安易にやっていいことではないと思う。……でも、乳牛は毎日搾乳しないと乳頭から細菌感染して病気になってしまうから、搾って使い切れない牛乳をチーズにしたりして保存するのはすごく賢いよね。寿命を全うしても僕らより先に死んでしまう動物の肉を無駄にするのだって、勿体ない。皮革製品にしろ、基本的には自然死した動物や亡くなった家畜の皮を使うのが基本だ。極端にならなくても、上手くやれるところは結構あると思うんだよなあ……」

本当に幅広い分野に詳しい男だ。動物が好きなところは倉子と気が合いそうだし、皮革について詳しいということは皮革製品のデザイナーである千間への理解もある。

ハルトとも……彼は上手く付き合うだろうか?

「いや、でもさ、未春――君のような男が追って来るぐらいだ、”ハル”はドイツ支部で、もてはやされているかもしれないよ?」

「もてはやす……?」

「だって、いくらBGMだからってドイツ支部は女性のそのなんだろ? ブラックが危険視されるのは何かわかるんだけど、彼は違うタイプのようだし、女にだらしないわけでもなさそうだ。案外、楽しい日々を過ごしているかも」

「……楽しい日々……ですか?」

急に地獄から這い出たような声に、ニムはハッとした。

――しまった。

おしゃべりがほぞを噛む中、未春は得体の知れない瘴気のような空気を漂わせ、険しい顔で押し黙る。ニムは慌てて救難信号でも出すように両手を振った。

「だ、大丈夫だよ、未春! 君のことを忘れてるわけじゃないはず……!」

「忘れて、楽しんで……?」

「アウ……」

もう何も言わない方が良いのかもしれない。親友の冷静且つ落ち着いたバリトンなら良い効果が期待できそうだが、白アスパラガスがピーチクパーチク言ったところで無駄か。

「お、おお……もうこんな時間だ……明日も早いし、や、休もう?」

もはや嘆願のように両手を組み合わせて言った作家に、幸い、未春は「お手」と言われた犬みたいな顔でこくんと頷いてくれた。

そのアンバーは、狼が獲物を見るような色で、闇にもぎらぎらしていたが。




 『ハル、寝ないのですか?』

ヒルデガルト・クリニクムの一般病棟は既に消灯していたが、奥深くにあるスタッフ専用ルームはまだ明るかった。金髪を肩口にまとめ、それぞれ白い花の髪留めと青い花の髪留めをした双子が顔を覗かせたのは、小さなシェアハウスさながらのリビング&ダイニングだ。

夕食の片付けを済ませた後もダイニングのテーブルで本を読んでいた青年は、可愛い二人組の登場にも嫌そうな顔をした。

「程々に寝るよ。ラファエラは帰らないのか?」

「まだです」

「何の用?」

「用はない。食わないのかなと思っただけだ」

双子は顔を見合わせた。

『待ってあげてるの?』

「俺がそんなことすると思うか?」

『じゃあ、此処で何してるの?』

「本読んでる」

双子は左右非対称に首を捻った。

『私たちも待つです』

「待ってねえっての」

『遠慮は要りません。患者の心的ケアもナースの勤めです』

「おい、俺にケアが要るみたいに言うんじゃない」

ナースの権限を振りかざしてきた双子は、向かいに並んで腰かけた。

「入院が長いと会話が減るのです」

「お喋りはボケ防止になるのです」

怒鳴っても出て行きそうにない二人を前に、ハルトは溜息混じりに本を閉じた。

仕方なさそうにカップを二つ取り出し、ポットにはカモミール・ティーを落とし、ケトルから湯を注いだ。

「俺と何を話そうって?」

『日本のお話を聞きたいです』

出て来たお茶にお礼を言いながら目を輝かせる二人に対し、ハルトの方はわかりやすくうんざりした。

「げー……もっと詳しい人に聞いてくれよ。若しくはAIの方が詳しいぞ」

言ってはみたものの、見た目より年上の女たちに退く気配は微塵も無い。

『AIは訊ねたことしか言わないからつまんない』

「……わからんでもないが……俺だって何を話せばいいんだか」

双子は見交わし、浮き浮きした様子で頷き合った。

『日本で良いと思ったことを教えて』

「良いことか……清潔で、そこそこ平和……」

「ドイツにもそういうところはあります」

「日本独自の文化のお話しが良いんです」

数カ月滞在の身には無茶な注文に腕組みして唸った後、ハルトはぼやいた。

「風呂……とか?」

『フロ?』

「そう。俺もシャワーが普通だったから最初は違和感あったが、浴槽にお湯溜めて入るのはやり始めるとまった。こういう寒い国に居ると恋しいな。温泉なんか凄いぞ。浸かるだけで疲れがとれるし、浴槽は泳げるぐらい広い」

温泉及び大浴場は、例のバス旅行と東北出張の際に行った。大衆浴場の概念が外国人並だったハルトは人前で素っ裸になるのにそれなりに抵抗したが、最初の時は上司たる十条じゅうじょうにがっちり掴まれて観念し、東北の時はその甥に全く逃がしてもらえなかった。

「まあ……不特定多数の全裸を拝んで、拝まれるのは慣れないが……」

双子は殆ど同時に、きゃっと口元に手をやった。

『全裸?』

「ああ。しかも、水着や浴槽にタオルを入れるのもダメだ。せっかくの湯が汚れるんだと」

『Ach was⁉(マジ⁉)』

「多くは男女で別れてるが、混浴なんて所もあるらしいぞ」

『Wow……!』

息を呑む双子を前に、ノッてきたらしい居候は、怪談でも喋るように片手を添えて言った。

「……俺も気になって調べたんだが、なんと日本の温泉地は三千近くあるんだ……! 日帰りを含めると更に増える。ついでに、温泉じゃない湯で、単に広い風呂を楽しむ場所を含めるともっと増える……!」

『不特定多数が全裸になる場所が三千カ所以上……⁉』

Oh Gott!と呟き、双子はそわそわと互いを見て首を振った。

「日本はかなりクレイジーです」

「アメリカよりクレイジーです」

「う? うーん……? クレイジーの使い所が違うと思うが、お前たちからするとそうなるか。日本人が普通だと思ってることは大体普通じゃないし……」

他にも他にも、と身を椅子の上でバウンドさせる二人に、ハルトは怪訝な顔をした。

「なんだってお前ら、そんなに日本の話が聞きたいんだ?」

双子は顔を見合わせ、幾らか真剣な顔になる。

『レベッカの為です』

「……そんな気はしてたが、どういうことだ? レベッカは日本に行く気か?」

何か神妙な面持ちで双子は首を振った。

「レベッカは、ドイツを離れないと言ってます」

「でも……本当は日本のことを知りたいのです」

「何でだよ……?」

『スプリングを作った国だから』

揃って出た単語に、ハルトが目を見開く。

「それは……身体機能向上薬のスプリングのことか?」

『そうです』

「なんでレベッカが、あんなものの事を知りたいんだ」

『スプリングの開発は、もともとドイツで始まったのです』

「なんだと……?」

「東ドイツ……旧ソ連の支配地だった頃に始まり、統一後は極秘に行われました」

「その拠点が、此処――ヒルデガルト・クリニクム。レベッカも参加しています」

「ちょっと待て……お前ら、俺にそんなこと話して大丈夫なのか?」

思わず、手で遮ってドアを振り返る。人の気配は感じないが、カメラやマイクの仕込みはどうにもならない。ドイツ支部の重大な秘密を聞いている気がして言ったのだが、双子は小首を傾げた。

『ハルは、レベッカを害しますか?』

「へ? いや、俺がレベッカを攻撃することは無い――筈だ。BGMは同士討ち禁止だし、身内の処分は身内でやるもんだろ」

『じゃあ、別に良いのです』

「別にって……俺はお前らが言う通り、一応、日本支部在籍中の居候だぞ?」

『”情報は集めるだけ集めた方が得”と、ペトラは教えてくれましたよ』

意外な人物の名に、ハルトは眉間に皺を寄せた。

「ペトラ・ショーレか……そういや、ベルリンに来てたんだってな……」

『はい。色々教えてくれました』

「だが、ブレンド社は情報を基本的には秘匿する。集めるのと喋るのは違う」

「そんなこと、わかっているのです」

「私たちは、ハルを利用するのです」

「俺を利用……?」

「さっき話したAIも、学習によって精度を上げます」

「私たちが持つデータで、あなたを強化してあげます」

「……何の為にだ?」

『レベッカを害する者を倒すため』

ふわふわと軽やかな双子から、唐突に鉄球を落とされたような響きに、ハルトは改めてドアの方を見た。

「お前らは……弱くないと聞いてるが?」

とてもそうは見えない双子は、当然のように頷いた。

『もちろんです』

「……だよな。ドイツ支部が女性中心で尚、BGM内――TOP13で発言権を持つのは、スターゲイジーやアマデウスのお膳立てじゃない。他の支部と拮抗するだけの実力が有るからだ」

双子は頷いた。

「ハル、私たちにとって重要なのはレベッカです」

「私たちを守ってくれたレベッカを助けたいです」

口々に言った後、呼吸さえぴったりではと思う口調で言った。

『でも、私たちにも苦手な相手は居る』

「……お前ら……その程度でめでたく感動した俺が、手を貸すと思うのか?」

ジト目になる殺し屋を、何故か双子は胸を反らせて見返した。

「ハルは手伝ってくれます」

「私たち、わかっています」

「……ズルいよなー……女ってー……」

ハルトがここ一番のでかい溜息を吐いた時、ドアが静かに開かれた。振り向いた三人の手前、立っていたスーツの女は一瞬、らしくもないぎょっとした顔をした。

「こ、こんな時間に何してるの……?」

怪訝な顔をする女を、三人はそういう一家のように何でもなさそうな顔で出迎えた。

『おかえりなさい、ラファエラ』

「よお、おかえり」

「……あなた達、ずいぶん仲良くなったのね……?」

気怠そうに冷蔵庫に向かって取り出した水を含む女に、ハルトが何気なく声を掛けた。

「ラファエラ、アプフェルプンシュ飲むか?」

「は?」

薄汚いものでも見るような視線が振り向くが、エマとラナも声を上げた。

「美味しいですよ、ラファエラ」

「心配なら毒味してあげますよ」

「おーい、お前らはもうやめた方が良いと思うぞー……」

何やら息の合う三人を気味悪そうに見つめ、ラファエラは肩をすくめた。

「……遠慮するわ。もう休むから……あなた達も朝早いでしょう。早く休みなさい」

シャワー室の方へ向かう女に双子は了承しつつ、どこか不安げに見送った。

『おやすみ、ラファエラ』

「おやすみなさい」

パタン、と扉が閉じる。残された三者は、しばし無言で見交わした。

「で……寝ないのか?」

ハルトの問い掛けに、双子はツンと顎を反らした。

『ハルが覗かないか見張ります』

「なんて恐ろしいジョークを言いやがる……」

呆れ顔で立ち上がると、空になったカップやポットを回収してさっさと洗った。

「エマ、ラナ……俺の監視は当然だろうが、ラファエラも注視してやれよ」

カップを洗いかごに置きながらの言葉に、きょとんとした双子が左右非対称に首を傾げた。

『どうして?』

「飲んできた匂いがした。誰かと会っていた可能性が高い」

「お酒なら、Nóttノートで出ます」

「付き合うこともあります」

ラファエラはドイツ支部の運営の多くに携わるが、その活動の大半はバーの様式であるNóttを仕切るのと、代表のレベッカが直接やり取りしない連中とのパイプ役だ。

積極的にアルコールを摂取しなくても、過程で飲むことはあるし、弱くはない。

「まあ、そうだな。……だが、ラファエラは支部内の人間相手なら、こんな時間じゃなくても呼び付けられる立ち位置だろ? ひと月、お前たちの生活スタイルを見た限り、酒を間に置く相手は見当たらないし、全員が無駄な事はしない性質タチだ」

『……』

じっとテーブルを見つめて押し黙る双子に、本を拾い上げたハルトは苦笑した。

「気に障ったなら悪い。只の部外者の勘だ……気になるならレベッカに相談してみてくれ。じゃあ、おやすみ」

『……おやすみ、ハル』

部外者の居候を見送り、双子は顔を見合わせた。ラファエラの様子がおかしいのは、ハルトに言われなくても気付いている。

レベッカもそう思っているが、ラファエラに直接的な監視は付けていない。Nóttや院内のスタッフに、それとなく気にするように指示は出ているが、深入りは避けるよう念を押されている。踏み込んでは危険な相手が関わっている可能性を考慮して。

もちろん、ラファエラは大切な身内だし、皆、彼女がレベッカを裏切ることは絶対にしないと確信している。

「でも……ハルのことは怒っているかも」

「アマデウスが押し付けたからなのかも」

額を突き合わせるようにヒソヒソと話し、二人は同時にシャワー室の方を見た。

ハルトの指摘通り、ドイツBGMの主要メンバーに、酒を好む者は居ない。容姿が幼い双子も含め、皆飲めるが、無くても構わないものをわざわざ用意したりしない。

並の女性なら、恋人が出来たのかも……などと考えて良いのだろうが、ラファエラに対し、その可能性は極めて低い。

私たちに言えない相手。

それは誰? その相手は……ハルトを狙っている者の関係者? 或いは本人か?

双子はじっとシャワー室を見つめていたが、立ち上がり、丁寧に椅子を戻して部屋を後にした。




 翌朝。八時の段階でようやく明るくなってきた空は、それでも薄い灰色を塗ったようなものだった。欧州の他の地域にも有ることだが、この日照時間の短さは、時に寒さよりも深刻で、通称ウィンターブルーとも呼ばれる冬季うつを発症するほどである。ビタミンDを作る為にも、日焼けサロンが有ったり、暖かい地方へバカンスに行く文化が有るのだが……

「お、また来た!」

未春が眺める先で、太陽そのものみたいに陽気なニムが、手すりの向こう側を指して言った。

ベルリン中央駅。

ドイツ首都の駅にふさわしい規模と、アーチ状のガラス張り天井と同じくガラス張りの駅舎が美しい景観を誇る。灰色の空が見下ろす中は、グレーとシルバーが主体の複雑な多層構造の吹き抜けになっており、ショップが居並ぶフロアやエスカレーターから下を覗くと、ホームや列車の行き来が見えるという、日本ではちょっとお目に掛かれない光景が見られた。行き交う人々は大きなリュックを背負ったり、スーツケースを転がすなど本格的な旅行者が多く、ざわめく館内には落ち着いたアナウンスとレールを走る音や電子音が響き、全てが機械仕掛けで動く工場に迷い込んだような感がある。鉄道好きにはたまらない魅力が有る駅なのだろうな、と――未春が思う中、どうもその一人であるらしいニムは、どこぞの子供達と手すりから底を覗き込んでいる。

通り掛かった際、リュックを背負った兄弟らしき少年たちが何を覗き込んでいるのか気になったニムが声を掛け、なんだかわからぬ内に意気投合してこうなった。

今はどうやら、眼下にお目当ての電車が来たらしく、興奮した少年たちと一緒に彼も何か言いながら写真を撮った。撮り終えると、彼らは同世代の同志のようにハイタッチを交わし、写真を見せ合う。

Tschüssチューズ!(バイバイ!)」

別れ際、たかが数分過ごしただけの少年たちは、可愛い手を振ってくれた。

「先生は、電車もお好きなんですね」

「好きだよ。便利だし、カッコいいじゃないか」

作家は手を振り返してから、森のような両眼を少年みたいにキラキラさせて答えた。

彼を見ていると、自分が如何に淡白な人間か思い知らされる。

――ハルトなら、趣味や興味を増やしても仕方ないとか言いそうだ。でも……なんだか彼でも、この作家には言い返せない気がした。……或いは言い負けて、ブラックの時みたいに面倒臭そうに匙を投げるのかも。

迷宮じみた駅を抜け出ると、見晴らしのいい道路が広がった。

淡いクリーム色のタクシーがずらりと並ぶ一方、看板や案内は乱立していない上、蟻の巣さながらに狭い道が入り組んでいる東京とは異なり、どの建物も実にシンプルで大胆な建ち方をしていた。

「ああ、あれだね。ヒルデガルト・クリニクムは」

ひと目で大病院とわかる出で立ちは、望遠鏡並のニムの視力には劣る未春でも容易に見えた。多くのガラス窓と白を基調にした、ところどころがアーチ状に造られているそれは、どこか優雅で近代的な印象の建物だ。

「ちょっと行ってみる?」

ホテルにスーツケースを置きに行くかと思いきや、気楽に言った作家に未春はしばし迷った。

「先生、午後から絵本についての打ち合わせですよね?」

なんだか本当に助手のようなことを言ってしまった未春に、ニムは頷いた。

「ダメ元なら、スーツケースが有っても一緒だから」

いや、『ダメ』の場合だと無事に帰れないパターンも生じてくるのだが……そこの辺りを講釈するのはもう蛇足かと思った未春は素直に頷いた。

昨夜、ホテルで何も起きなかったというのもある。レベッカがこちらを攻撃する気なら寝込みは絶好の機会なのに、盗聴器やカメラも見当たらず、騒ぎの類もナシ。

同じ騒ぎが起きるにしても、この病院は表の人間も利用するし、玄関先で騒がれるのは困るだろうか。

「先生が良いなら、行ってみます」

迷っていても仕方ない。人通りより車が多い気がする道を、二人は歩き始めた。

アレクサンダープラッツの辺りに比べ、こちらは何車線もあるだだっ広い道路と、新しいものも古そうなものも巨大な建物が立ち並び、背の高いビルこそ無いが、大都会の印象が強い。灰色の空の下、葉のない木々が等間隔に立つのは先日のトール通りにも似ているが、いかんせん、規模が違っていた。

ヒルデガルト・クリニクムはシュプレー川の傍に佇み、門の辺りからゴミ一つない石畳が敷かれ、落書きなんぞ描かれていない壁と柵に囲まれていた。きちんと剪定された枝のみの大きな樹と、葉を残した針葉樹が点在し、大きなひと棟に更に幾つかの棟がくっ付いているそれは、病院よりも城か大学か、どこぞの大使館のようなおもむきがある。辺りには駐車を案内する警備こそ立っていたが、そこまで物々しくはなかった。

格別、見咎められることもなく入り口を通り、ロビーへと入った二人は、大病院ならではの劇場ホールめいた吹き抜けの広さを見上げ、思ったよりほのぼのとした丸いフォルムの照明や、優しいペール・カラーのソファーや椅子が並んだ、清潔感のあるスペースを見渡した。案内を告げる放送、大きな観葉植物、物静かに時を待つ人々、忙しそうに歩くスタッフ、面会に訪れたらしい家族連れ……日本とあまり変わらない光景を未春が眺める中、ニムは受付に声を掛けた。

レベッカ・ローデンバックに会いたいとダイレクトに伝えたニムに、受付嬢は確認するまでもない様子で首を振った。

「申し訳ありませんが、ローデンバック医師は御予約の患者のみの対応となります」

門前払いというより、病院として普通の対応に聞こえた。

ニムが通訳すると、未春もちょっと驚いた。これが作戦云々ではないのなら、この受付嬢はこちらのことは聞いていないのかもしれない。

「えーと……知り合いの紹介なんだけど、ちょっとお会いするだけでも駄目かな?」

「お忙しい方なので、やむを得ない急患以外はお断りすることになっているのです。アポイントを取って頂かないと難しいかと」

未春と顔を見合わせ、ニムはシステマチックな受付嬢に温厚な笑顔を向けた。

「一応、お伺いするけど、次に取れそうなアポイントはいつだい?」

「少々お待ちを……――二ヶ月後ですね」

話にならない。なるほど、よくわかったと身を引きがてら、ニムは思い出した様に付け加えた。

「ちなみに……看護師のエマさんとラナさんには会えたりする?」

大胆不敵な作家に、未春がハッとする中、受付嬢は小首を傾げた。

「ブルーム姉妹ですか? 確認してみます。お名前を伺っても宜しいでしょうか」

ニムがすんなり本名を名乗ると、女は内線を掛け始めた。

安易に苗字を訊き返しただけに、彼女はBGM関係者ではなさそうだ。こういう人物を受付に置いておく辺り、こちらの来訪は警戒していないのだろうか。或いは表の事情で拒否する気なのか……? 未春が、どこかにハルトの手掛かりはないかと見渡す中、女は内線でしばらく言い交した。ざわめく館内に途切れがちな言葉は聴こえていたが、ドイツ語では意味がわからない。少し習っておけばよかったと思っていると、女は内線を切って顔を上げた。

「ブルーム姉妹でしたら午後にはお時間が取れるそうです。三時にこちらに来て頂ければ、短時間でしたらお会いできると」

「本当ですか。やあ、ありがとう……ドイツまで来た甲斐が有りました! 三時ですね。ご親切にどうも……お手数をおかけしました」

ちょっと恥ずかしいぐらいに大げさに言ったニムに、受付嬢はくすりと笑った。

「では、ミスター・ハーバー、念のため、ご連絡先をお願い致します」

差し出されたメモにニムがさらさらと書くと、受付嬢は「お待ちしています」と丁寧に見送ってくれた。まっすぐ院内から出て来ると、ニムは未春に振り向いた。

「まさか、OKが出るとはね」

「はい、ありがとうございます……連絡先は、良かったんですか?」

「平気さ。デタラメだもの」

いけしゃあしゃあと述べた作家に、未春は喉に何か詰まった顔をしてしまった。これだから、この男は侮れない。根っから人が好いのは間違いないが、叔父のとおるに勝るとも劣らない、清々しいほど匠な切り替え方だ。

「……先生は、あのナースさん達がBGM関係者だと思って問い合わせを?」

「うん。昨日のレストラン・トンビリでの会話が気になって」

「え……」

聴こえていたが、ドイツ語で内容がわからなかったことを告げると、彼は頷いた。

「昨日の内に教えてあげても良かったんだけど、あそこで教えてしまうと、君があの子たちの首根っこ掴んで問い質しそうな気がしてやめたんだ」

思わず、唖然とした顔で見てしまった。ニムは肩をすくめて苦笑した。

「ごめん。あそこで騒ぎになるのは良くないと思って。昨夜の話を聞いたら、僕の判断は正しいと思ったんだが」

「……それは――……先生が言う通りかもしれませんけど……でも、あの子たちは……なんて?」

「ケバブを”居候”の為に買いに来たって言ったんだ」

「居候?」

「あの時がお昼なら、僕も違和感は無かったんだが……イギリスもそうだけど、ドイツ人は夜に沢山食べる習慣はあまり無いんだ――日本人は夕飯が一番豪勢なことが多いんだよね? ブラックが教えてくれた。つまり、”居候”はそういう他国の文化を持つ可能性が高いと思った」

ニムやブラックがもりもり食べるタイプなので気付かなかったが、そういえばスターゲイジーが奢ってくれたディナーで、ラッセルやペトラは軽いものだけにしていたのを思い出す。

「まず、それが一つ。そして、彼女たちの一人は『居候がトンビリほど可愛ければ喜んでおつかいに来る』と言った。この言い分からして、居候は、彼女たちが”可愛い”と思う年齢や容姿ではないということが窺える。店主のイルハンが二人を『大人』って言ってたけど、さすがに三十代以上は無いだろうから、年配女性という可能性も無くはないけれど、そういう人が夜にケバブを買って来いというのは妙だ。よって、僕は成人以上の男性の可能性が最も高いと見る」

筋が通るので、大人しく未春は頷いた。

「それが二つ目。で、もう一つは、彼女たちがバリバリ働く凄腕ナースということ。この評価がイルハンの個人的な見解としても、”バリバリ働く”とか、”凄腕”って言葉はなかなか出ないもんだよ。それほど、命に献身的且つ多忙な二人が、揃って”居候”という言葉を用い、『居候が買いに来られないから来た』と告げた。面倒臭い相手らしい発言もしている。忙しい二人が”わざわざ”時間を割いて、患者や家族ではなく、”居候”の為に、夜のケバブ屋を訪れる……ちょっと違和感が無いかい?」

「有ります」

食いつくように未春は答えた。

「先生……よく考えたら、昨日のケバブ・サンドも、俺が知ってるハルちゃんの好みに合います。自分が動けないから、女の子に買い出しを頼むような無神経な感じも合っています」

何やら薄情な意見が出たが、ニムは苦笑混じりに腕組みした。

「そこの事情を汲むと、テロが有った日の夜に、誘拐されそうな可愛い双子がおつかいに出るのは変だが、彼女たちが普通じゃない……又は非常識な人物と関り有るなら、反対に自然な流れってわけだね――僕の判断は間違っていたかい?」

「……いえ……ドイツ語がわからなくて良かったです。先生が言う通り、俺は話を聞いていたら、あの店で騒ぎを起こしたかも……」

「そっか……では、黙っていたのはすまなかった」

ニムはベージュの髪を弄いながら、ぺこりとお辞儀をした。

「未春は、そんなに短絡的には見えないけどね」

「俺は……そうでもないです。ハルちゃんに関しては、特に……」

「そこはドイツまで飛んでくるぐらいだもの……君が真剣なのはよくわかる。だから、僕としても無事に会ってほしいんだ」

――お見通しなんだな。

子供っぽいのに、こういうところは達観している人だ。だが、少し安心した。居候がハルトなら、ちゃんと食べていた上、好きなものを食べられる環境にあるということだ。

「さて……では、どうしようか。僕は約束があるけれど、そこに君が付き合う必要はない。此処を監視するかい? 僕らが訪ねたことで、彼が現在地から移される可能性が出てしまったけれど……」

未春はヒルデガルト・クリニクムの大きな病棟を見上げた。監視カメラには映った。

日系人は皆無ではないが、自分の容姿が目立つのは自覚している。例の双子がBGM関係者ではないとしても、ドイツ支部には此処に来たことは認識されたろう。

「正直、ハルちゃんが此処に居るにしろ居ないにしろ、移動することはあまり無いと思います」

「ふむ?」

「彼が何か理由が有って、ドイツに呼ばれたのは間違いないと思うんです。理由のある場所に居ると考えていい筈。ハルちゃん自身、効率や合理性にうるさいので」

「確かに。グレーテさんの出現から全部が罠なら、誘導されたことになるけど……それはこの対応からすると、あんまり意味がなさそうだものね」

全くその通りなので、未春は憂鬱な空を仰いでから頷いた。

「はい。そうする意味は時間稼ぎぐらいしか俺には浮かびません……こちらの動きは先生の予定にのっとった行動なので、もともと一直線に此処を目指していませんし」

「うん。僕らは昨日踏み込んで行動したが、やったことは人助けとディナーだ。最初に接触したお嬢さん二人は関係者で間違いなさそうだが、あれから姿は見ていない」

「はい。尾行や監視も付いていないと思います」

そもそも、こちらをマークするのは無意味といえば無意味な行動だ。放っておいても此処には来るとわかっているだろうし、受付の対応からして、院内に誘い込んで料理する気もなさそうだ。変な支部だ。事前に聞いた警戒感と一致しないところが多い。ハッピータウンなんてアホみたいな支部から来た人間に言われたくはないだろうが。

「行き当たりばったりですが、その双子と交渉してみるのが最良だと思います。ハルちゃんが移動するしないに関わらず……会わせず、院内に立ち入り禁止なら同じことですから」

「確かにね」

こちらの行動は、双子の出方で変わる。

まず、攻撃してくるなら怪我をさせないように制圧しなくてはならない。交渉してくれるなら、うまく情報を引き出す。ニムがその辺りは抜かり無いとわかった以上、彼に任せた方が上手くいきそうだ。

「じゃ、僕らは約束の三時に、お嬢さん方を紳士的にお茶に誘えばいいってわけだ」

「はい、お願いします」

「任しといて。ちゃんとこの辺りの美味しいところはアグネスに聞いてあるよ」

それは多分、自分の為だろうが、サムズアップする作家に未春は苦笑した。

「頼りにしています、先生」

作家はどんと胸を叩いた。育ての親に比べて二倍以上は薄い胸板だが、セリフだけは一丁前だった。

「大船に乗った気でいてくれたまえ」




 その頃。ヒルデガルト・クリニクムの奥深いプライベートなフロアで、ドイツ支部代表のレベッカは唖然とした。朝一の手術オペを終えて戻った執務室の前に、日系人の青年が立っていた。近付くまで文庫本に目を落としていた彼は、顔を上げると、「Hi,レベッカ」と何気ない挨拶をした。

「……どうしたの、ハル?」

レベッカが訊ねたのは無理もない。青年の出で立ちが、どう見ても掃除夫だったからだ。一体何処から借りてきたのやら、院内の清掃業者と遜色無い作業着を身に纏い、キャップまで被った男は本当の意味で清掃員クリーナーと化している。傍らに掃除機を立て掛け、置かれたバケツには洗剤やらスポンジ、雑巾、掃除用シートの類が放り込まれていた。問い掛けに、青年は部屋に向けて顎をしゃくった。

「掃除させて下さい」

「此処を? なんで貴方が……?」

「前から気になっていたんです。仮にもドイツ支部代表の執務室ですから、専用スタッフでも入るのかと思っていたんですが、ひと月近く経ってもその様子が無いので」

「……ハル、言っている意味がわからない。専用スタッフの清掃が入らないから、貴方が掃除をする……?」

「それで合っていますよ、レベッカ」

さらりと言うと、渋い表情で首を振る。

「余計なお世話でしょうけど、最低でも月に一度は掃除した方がいい。最悪、体を壊します。此処に報告に来るスタッフも」

健康にまつわる正論に、外科医とはいえ医師には違いない女は何か言い掛けたが、一言も出ることなく押し黙った。少々ばつが悪そうに白髪混じりのプラチナブロンドを撫でる女を、青年は溜息混じりに見下ろした。

「エマとラナは貴女の健康や生活に関して注意はする様ですが、結局は甘いし、彼女達も忙しい。だから、暇な俺がやろうと思いました。……どうせ、積んであるものの中に機密文書なんか無いんでしょう? 黙って静かにやりますし、部屋のものを勝手に捨てたりしません」

レベッカは部屋を振り返り、毎日見ている為に見慣れた惨状を思い返した。

置ける所にはとことん積んだ書類、乱雑に重ねられた紙袋や箱、片隅に潜む埃や髪の毛、ケトルを最後に洗ったのはいつだったろうか……?

部屋の主は青年を振り返り、眉間に指先を当てて俯いたが、目を閉じて二、三頷いた。

「……わかった。お願いするわ」

「どーも」

鍵を開けると、青年はのっそりと部屋に侵入し、持参したマスクまで付けた殺し屋を、レベッカは心底、呆れ顔で見た。

「貴方、トオルの支部でもこんなことを?」

「あそこは同居人がしっかりしてたんで、それほどでも。――あ、レベッカ、マスクした方がいいですよ」

棚の上からガサゴソやり始める男の指示に、うんざり顔でデスクの前に座った女は、引き出しからマスクを引っ張り出してパソコン画面に向いた。実際、作業は静かな方だったが、掃除機の爆音はどうにもならない。度々騒ぐそれに神経を逆撫でられつつ、レベッカは音が鳴り止むタイミングで言った。

「ねえ……同居人って、どんな子?」

「はい?」

キーを叩きながらの問いに、ハルトも手を動かしながら声だけ応じた。

「同居人よ。十条未春じゅうじょう みはる。どんな子?」

「……えー、そうですね……あいつはー……」

返事は遅かった。積み上がった書類をまとめ、棚を掃いたり拭いたりする音がする中、ぼそっと答えた。

「よく出来たハウスメイド……」

「……は?」

「え? いや、これはあいつを慕う人の評価で……わかりやすいと思いますが」

慕う人の評価がハウスメイド?

「料理もそうだけど……日本支部はどうなってるの?」

「十条さんに聞いて下さいよ……俺だって、日本はカルチャーショックの連続、アップダウンと急カーブの連続で大変だったんですから。女子高生には突っかかられるし、青少年には悩みを聞かされるし、カフェのスタッフやら町会活動に犬猫の保護や世話……」

聞けば聞くほど殺し屋から離れていく羅列に、レベッカは思わず振り返った。

「スプリング適合者が三人も居る支部でしょう? 今、武器を除外したら最強クラスの支部から、メイドやボランティアの話が出るのは何なの?」

「そう言われても……実際、あいつは大した主夫でしたよ。俺なんて、とても敵いません。掃除は丁寧だし、料理は上手いし、洗濯物は店みたいに畳むし、買物やゴミ出しは絶対忘れませんし……」

遠ざかる殺し屋像に、女は頭痛がする気がしつつ、取りすがるように問い掛けた。

「主夫の評価はもういいわ……殺し屋としては?」

「殺し屋としてなら異常です」

臆すでもない調子で答えた。

「世界で五本の指に入るとは言い過ぎでも、十本の指には確実に入る」

研究者のように答えながら、書類を種類毎に仕分け始める。

「強い、ということ?」

レベッカは問い直したが、異常という言葉も強いという言葉も、殺し屋に必要かと言えばそうでもない。なるべく証拠を残さずに相手を確実に仕留める技術と、人目に触れずに、或いは気付かれずに逃走する技術があれば、強さは二の次でもいい。BGMの場合、清掃員が優秀ならば尚更だ。

「強いなんてもんじゃありません。戦う羽目になったら、正面からは絶対にやりたくないです。聴覚が優れているので暗所もハンデにならないし、遠距離もどれだけ優位になるか……回復力の速さも脅威ですから、銃なら頭に入れる必要がある。回避と回復を視野に入れると、銃以外の方が確実かもしれない」

「毒や水は?」

「毒に関しては、耐性があるのか不明なので何とも。どうやら細菌性・ウィルス性の疾患は、どちらも発病はする様ですが重篤化はしない様です。この辺りのメカニズムはレベッカの方が詳しいでしょう――水は……どうですかね? 達人の潜水士が十分程度ですから、水に留められれば、或いは。……ただ、生半な設備は破壊されますし、海なら泳げない状態にしなくちゃならないと思います」

流れるように言うと、再び掃除機のキンキンした爆音を響かせた。

女は無言でその内容を噛み砕いたが、不意に掃除機は止まった。

「あ、レベッカ、夕飯どうします? エマとラナがマッケンチーズに興味があるってうるさいんで、俺作りますけど」

「もう何でもいいわ……任せる」

それで終わりかと思いきや、いつの間にか青年は横に立っていた。物静かな様相で差し出されたものを見て、レベッカは瞠目した。

「チキンスープも作ろうと思います」

幾らか小さな声で出たそれに、女も倣うようにボリュームを低くして答えた。

「……マメね。買物は人に頼んでね」

受け取ったそれは、一見、USBメモリーにしか見えない。が、仮にもBGMのドイツ支部代表。それが何かはすぐに看破した。――盗聴器だ。

女がそれを確認してから返すと、ハルトは無言で有った場所に戻した。それきり、その場所には手を付けずに放置し、シンクの方へすたすたと向かう。

「ハル、掃除もいいけど書類の類は程々にして」

「わかってます。ケトルの辺りはきちんとやらせて下さい」

言いながら本当にシンクの周辺を磨き始める男に対し、レベッカはパソコンを開いたまま、可能な限り周囲を調べた。違和感がない程度に、時折……作業に戻りながら調べたが、それらしいものは見つからなかった。

そのまま、一時間ほど過ぎただろうか。ハルトが湯を沸かしていたかと思うと、程なくしてハーブティーが出て来た。心なしか、味まで綺麗になった気がした。

「貴方は何というか……仕事を選ばない感じね」

「冗談でしょう? 選んでいいなら選びますよ」

肩をすくめた男は溜息を吐いてからマスクを外し、自分もカップを傾けた。何かに納得する様な顔でカップの中身を見つめる青年を仰ぎ、レベッカは首を捻った。

「……この掃除にも、何か交換条件があるのかしら?」

「有るとしたら、一週間後の掃除ですね」

今度は女が両肩をすくめる番だった。

「もっと簡単なことにしてくれない?」

「じゃあ……ミスター・アマデウスの恥ずかしい話を教えてください」

盗聴器をそのままにしておいて言う青年は、なかなかの悪童のようだ。

「あの人が、貴女にフラれ続けているのは知っていますから」

「アマデウスねえ……あれが恥ずかしいと思っていないのなら、意味が無い気もするわね」

取り付く島もない言葉に、これっぽっちもフォローする気のない苦笑が出た。女も軽く鼻で笑う。

「例えば、どうやって口説くんです?」

「効率と合理性を論理立てて説明し、二人が交際した際の良き未来を提案する」

「俺でもわかる程度には鬱陶しいな」

そうね、と同意した女は笑った。

「最初は……あんな感じではなかったわよ。陽気で話し好き、寛容でポジティブ、私生活にはルーズなところもある、イタリア系アメリカ人」

「あんまり変わってない気もしますが」

「それじゃ、貴方の前では今も自然体なのかしら?」

「なんだか嫌だなあ……」

本当に嫌そうに身を引いてぼやくので、女はお茶を傾けて素知らぬ顔で言った。

「ハル……アマデウスの恥ずかしいところは、私を口説いていることじゃないわ」

「はい?」

告げられたのは、意外な一言だった。

「今も、夢を見ていることよ」

「夢……?」

「そう。子供が見るような……浅はかで、綺麗ごとで、不可能と思える無謀な夢」

ハルトの胸に、アマデウスの言葉が甦った。


――私はね、世界第一主義の団体を創りたいんだ。


確かに……無謀な夢だ。

アマデウスは言った。

BGMがそこに到達するのか、或いは別の団体がそうなるための協力者になるのかは不透明だが、私の目標はそこにある、と。

身近な人間関係や社会のごく小さな事象にかかずらうことなく、世界の大きな流れの一部であることを実感し、卑小であることを認め、互いに手を取り合って生きられる人間の集まりを創りたい……それは、神を信仰し、誠実に生きたとする人々さえ、成し得なかったこと。

100%、殺し屋が言うことではないことを、あの男は青く澄んだ目で言った。

「ハル、貴方はあの男の夢に付き合う?」

「……まさか。巻き込まないでくれと言いました」

「フフ、台風タイフーンを前に剛毅なこと」

レベッカは面白そうに青年を見た。

「貴方のキリング・ショック解消法は氷を食べることだったわね。冷え切った貴方なら、あのバカの熱を下げ、あらゆるものを巻き込んで進もうとするあれの威力を弱めることはできるかもしれない。無謀と言うのなら、同じことだけれど」

「……だったら、あの人のスーツの背中に直接、氷を突っ込んでやりますよ」

悪童の意見に、女が口元を歪めたとき、電話が鳴った。

「Hi……」

応じた女は電話を手にしたまま、やや意外そうな顔をした。

「そう……わかった。いいえ、それで構わない。良い機会だから、行ってらっしゃい」

電話を切ると、レベッカは掃除用具を持って出て行こうとする青年に声を掛けた。

「ねえ、ハル。午後にエマとラナが出掛けるそうよ。何か頼む?」

「ふーん……そうですか……」

バケツ片手に口を尖らせていた青年は、思い付いたように言った。

「なんかあのオッサン思い出したら、ドーナッツが食いたくなりましたね」

氷より甘い揚げ菓子を希望した殺し屋に、ドイツの殺し屋組織を率いる女は笑った。

「貴方も、台風かもしれないわね、ハル」

持ち上がった掃除機に顎をしゃくった女に、殺し屋は取り澄ました顔で軽く双肩を上げると、部屋を出て行った。

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