4.No pain, no gain.

 近隣の立派な図書館を見た後、未春みはるはニムと共に見事なホールを見上げていた。

赤の市庁舎ロータス・ラートハウス

名前の通り、赤い煉瓦造りが特徴のベルリン市庁舎である。アレクサンダー広場近くのラートハウス通りに面し、市長やベルリン参事会の本拠地だ。一度はベルリン大空襲で破損した当施設は後に再建され、かつては東ベルリンの市庁舎として使われていたものだが、ドイツ統一の際に現在の役割に落ち着いた。大きな四角い建物に時計塔が一本立つ左右対称の姿は、幾つも設けられたアーチ状の窓や装飾・レリーフが聖堂の面影を感じる他、隅々まで正確に測って造られた印象の美しい佇まいだ。

「此処には、ベルリン全地区の紋章が飾られているの」

迎賓の間としても使われているホール・オブ・アームズのステンドグラスを指し、案内に立ってくれたニムの友人・アグネス・フィッシャーは言った。それほど高身長というわけでもないのに腰に届きそうなブロンドのロングヘアやシンプルなパンツスタイルがすらっとした印象を受ける彼女は、感心する二人の男と同様に窓のステンドグラスに三つずつ並ぶ様々な色柄の紋章を眺めて微笑んだ。

「あの赤と白の盾に熊が居るのがミッテ区の紋章よ」

指さすそれには、金色の百合の王笏おうしゃくを持つ黒い熊が居た。此処に来て、黒熊とは。未春が例の黒服の男を彷彿とする中、ニムが言った。

「ベルリンの紋章ってどの地区も熊が描かれてるけど……この辺りに熊なんて居たっけ?」

「フフ、居ないわよ。あれは語呂合わせで『Berlinベルリン』の『Ber』と、ドイツ語のBarクマが似てるからシンボルになったの。ベルリンベアって呼ばれてて、看板やお土産とか、あちこちに居るから探してみて。ぬいぐるみはとっても可愛いわよ」

彼女はそんな調子で他のものも説明していき、最後に付け加えた。

「……この市庁舎、クリスマス・マーケットの会場にも使うのよ。なかなか素敵でしょ?」

「素晴らしいや。前の時も中に入ればよかった」

ねえ、と、まるで前回も一緒に来たかのように同意を求められた未春はこくりと頷いた。月並みだが、世界は広い。図書館の規模が巨大であることにも驚いたが、此処は市庁舎というよりも厳かな教会か美術館のような造りだ。市のレセプションや儀式が開催される部屋や、高さ九メートルにも及ぶオレンジ色の天井をしたピラー・ホール、旧図書室等々……細かな装飾に覆われた外観も凄かったが、中も細部にこだわった施設だった。

「ああ、楽しかった」

図書館を出る時と全く同じ反応で市庁舎を出たニムは、アグネスを振り返った。

「アグネス、色々ありがとう。お礼は何が良い?」

「そうね。この先の聖ニコライ教会周辺は良いお店が多いの。ニムが大好きなコーヒーとアプフェルシュトゥルーデルが美味しい店もあるわよ」

「最高だ。お腹が空いて来た」

嬉しそうに頷くニムに、未春は思わず苦笑した。市庁舎に来る前の図書館巡りの最中、昼食に立ち寄った店で、彼がドイツの家庭料理をもりもり食べていた姿は見て間もない。あんまり美味しそうに食べるので、店のおかみが気を良くして自慢のコールルーラーデというドイツのロールキャベツをオマケし、常連のお婆さんがお菓子も食べなさいとバタースコッチキャンディをくれた。一体、このほっそりした体の何処に、あの大きなシュニッツェルは消えたのだろうと思っていると、アグネスも面白そうに笑った。

「ニムはお腹に牛を飼ってるって噂よ」

「牛?」

「お腹が減ると鳴くんですって」

「なるほど」

あの食欲は牛というより象の印象だが、いや……牛も象も草食動物か。肉食だと……ライオン? 猛禽類には見えないな……猫のスズにも負けそう……などと余計なことを考えつつ、未春は二人に従った。アグネスが言う通り、聖ニコライ教会周辺は素朴な石畳が敷かれたおしゃれな界隈で、屋外にパラソルを沢山出しているカフェやレストランが多い。往年の夫婦やカップルらしき人々とすれ違う中、未春は何とはなしに前の二人を眺めた。ニムが前回のベルリン訪問で知り合ったというアグネスは、明るくチャーミングな印象の女性で、陽気で人の良い作家とはお似合いだ。

……ひょっとして、急に飛び込んで邪魔をしただろうか?

「どうかしたかい、未春?」

ふと気付くとこちらを見ていたニムに、未春がぼそぼそと告げると、二人は顔を見合わせて殆ど同時に吹き出した。

「あ、ゴメン……最初に言えば良かったね」

「いやねえ、言ってなかったのね、ニム」

「うん、僕が悪かった。――あのね、未春……アグネスは男なんだ。元って言えば正しいかな? そして女性のパートナーが居る」

非常に小さな声での作家の言葉に、さすがの未春もぎょっとして振り向いた。

「とても……そうは見えません……」

Danke.ダンケ(ありがとう)」

クスクス笑う仕草も女性そのものだ。声は単にハスキーなのだと思えば、まじまじ見つめても充分、女性といって難が無く、しかも、濃い化粧をしているわけではない。何やら感心した様子の青年を見て、アグネスは苦笑混じりに肩をすくめた。

「貴方みたいなハンサムに見つめられたら恥ずかしいわ」

「あ……すみません」

「フフ、冗談よ。複雑な人間でごめんなさい」

周囲に人は居なかったが、彼女は小声で言った。

「私、性別違和で、もともと心は女なの。だから最初は男性に惹かれたけど、嫌な男にばっかり引っ掛かっちゃって、今は女相手が落ち着くってワケ。ああ、あなた達みたいな人は別よ? 女を殴ったりしなさそうだもの」

「……ひどいことをされたんですね」

「まあね。ドイツのLGBT事情は極端で、理解と批判が振り切れてるって感じ。ネオナチの連中以外にも、差別や偏見、憎悪による傷害事件や犯罪は多いのよ。大手を振って歩くにはまだまだだから、あまり大きな声は出せない」

「僕とアグネスが知り合ったのも、その辺りの調査の時なんだ」

「調査ということは……先生が前にベルリンに来たのは、ブレンド社としてだったんですか」

「うん。……あれ? 言ってなかったっけ?」

大した問題でもなさそうに首を捻ったニムだが、未春はようやく合点がいった。

どうりでスターゲイジーらが慎重になるわけだ。作家としてではなく、ブレンド社スタッフとしてベルリン入りしたということは、現地支部にマークされていたに違いない。それで何もなかったのなら、ニムの名はブラックリストに上がらなかったと見て良いのだろうか?

「あの時はLGBTの人権調査で、各地を点々としながら話を聞いて回ったんだ。ベルリンで何人か聞いた内の一人が、彼女だったんだよ」

「最初は気が進まなかったのよ。でも、ニムは何でもズバズバ聞くわりに、人の苦労話で勝手にメソメソし始めて、アンタはどうなのよって聞いたら捨て子だって言うじゃない。よっぽど深刻じゃないのって驚いたこっちに、『僕は気楽なもんだけど、泣いたらお腹が空いたから美味しいお店を紹介してくれない?』とか言うんだもの。食べに行ったら行ったでホントによく食べるし……なんて変なヤツ!って可笑しくなって、友達になったの」

「そんなこと言われたら食べづらいなあ」

ニムは恥ずかしそうに頭を搔いたが、これが彼の良い所なのだろう。

他人の痛みに共感し、同苦できる人なのだ。しかも、自分のこととなると明るく楽観的で、くよくよしない。

現に、遠慮しないでと言われるまま入った店のショーケースに並んだケーキやタルトを見ると、体裁などすぐに忘れたらしい。悩み抜いて選んだスイーツを前にしたニムの顔が嬉しそうだったので、未春はアグネスと顔を見合わせて笑った。

おすすめのアプフェルシュトゥルーデルは、日本でよく見かけるアップルパイとは異なる。パイ生地とも薄いピザ生地とも似て非なるシュトゥルーデル生地で林檎を巻いた焼き菓子は、淡いクリーム色のバニラソースを敷いた皿に載せられ、粉砂糖をたっぷりまぶしてあった。シンプルな食事もそうだが、ドイツの店は意外と家庭的で温かな雰囲気が多い。真四角の印象が強い建物が多い中、店の中は優雅なアーチ天井が有ったり、優しい色の照明や無造作に飾られた観葉植物、木製の家具や手書きのメニュー、テーブルの小さなコップに飾られた花などが愛らしい。

「美味しい?」

ぱくぱく食べる作家には聞く必要も無いのか、こちらに尋ねて来たアグネスに口に入れたまま頷くと、彼女はくすぐったそうに笑った。

「可愛い子ね、ニム。好きになっちゃいそう」

「うむ、気持ちはわかるけど、彼はウチのハンサムに恋をしてるんだ」

ナチュラルにのたまった作家に、未春は再び仰天した。

「せ、先生……!」

思わず口のものを飲み下して呻くと、アグネスがけらけら笑って片手を掲げた。

「ブラックね? あれは仕方ないわ。彼は相手がヒト以外でも引っ掛けそうだもの」

ブラックのことも知っているらしい。ニムは何味か不明のピンク色のクリームのケーキを咀嚼してから頷いた。

「恥ずかしがることはないさ、未春。恋愛は心が健康な証だよ」

「…………」

あっけらかんと言う作家に対し、コーヒーをずずずと啜って未春は押し黙った。微笑ましそうに眺めるアグネスは小首を傾げた。

「彼が好きだから、ニムのアシスタントなんてしてるの?」

「え? えーと……」

「それは違う。彼は大事な家族を探して、はるばる日本からベルリンに来たんだ」

甘いものを挟みながら言うニムに、核心を言いはしまいかと未春はハラハラしたが、かいつまんだ事情を聞いたアグネスは興味深そうに振り向いた。

「情熱的な話だけど、大変ね。どんな人?」

「……この人です」

未春が自身の端末で写真を見せた。――ちょうど、ブラックが帰還する日にDOUBLE・CROSSダブル・クロス実乃里みのりたちと撮った写真だ。穂積ほづみにさらら、看板猫であるスズとビビ、そして不遜な顔つきのハルトが写っている。カメラを好まないハルトの写真は少なく、これが最も新しい。

「ハルト・ノノといいます」

例のNoが二つ並ぶ名を打ち込んで示すと、アグネスは頷いた。

「家族って……兄弟か何か?」

「……いいえ。血は繋がっていないし、会ってまだ半年も経っていません。でも……俺にとっては大事な家族なんです」

アグネスは未春をじっと見つめ、写真を見下ろして頷いた。

「覚えておくわね。見掛けたら連絡してあげる」

「ありがとうございます」

「深刻な顔しちゃダメよ。そこのお気楽さんを見習って悠々としていれば、大抵のことはうまく行くと思うわ」

対岸の”お気楽さん”は何か言いたそうな顔をしたが、反論はしなかった。未春が少しだけ笑みを浮かべて頷くと、男性なのを忘れてしまう彼女は「その調子」と微笑んだ。その時、すぐ傍で女の声がした。

「あら、アグネスじゃない」

顔を上げたアグネスが意外そうに瞬いた。

「グレーテ? ま、驚いた……この辺りに居るなんて珍しいわね」

彼女が立ち上がって挨拶を交わした相手は、つい疑ってしまうが、普通の女性らしい。滑らかなブラウンの髪を長く伸ばした少しふくよかな女だ。

「ちょっと知り合いに用が有って、抜けて来たの。休憩してから戻ろうと思ったら、貴女が居たから……邪魔をした?」

「とんでもない、どうぞどうぞ」

口端にクリームが付いたまんまのニムがすかさず席を勧める。英国紳士代表とも言えるラッセル仕込みは伊達ではない様だ。女たちがクスクス笑い合う中、未春が叔父を思い出しながら作家の口元を拭ってやった。アグネスが互いを紹介し、グレーテ・シュッツと名乗った女性と未春も握手を交わした。

「グレーテはブルネン通りの方で美容師をしているの」

「それは凄い。手に職が有るというのは羨ましい」

「ニムは似たようなものじゃない」

「そうでもない。下手すりゃ僕はおつむと口さえあればどうにかなる呑気者さ」

大真面目に答える作家に女たちが笑い、ひとしきり話題に花が咲いた後に、グレーテが眉をひそめた。

「ねえ、昨夜……トール通りで事件が有ったみたいだけど、何か聞いてる?」

不安げな言葉に、三人は顔を見合わせた。

「僕らは今日、ベルリンに来たんだが……アグネス、何か知ってるかい?」

「いいえ。トール通りのどの辺り?」

くだんのトール通りは、ベルリンの中でも長い大通りらしい。

Nóttノートってバーよ。ウチのスタッフが、外を通りかかって銃声を聴いたって言うの」

――銃声?

未春が微かに表情を強張らせるが、他の二人は冷静だった。

「本当? 銃撃なんて有ったら朝一番でニュースになっていると思うけれど……」

「そうだね。ドイツも銃の所持には許可が要るし、簡単には取得できない。市街で使われたら大騒ぎになる」

首を捻るアグネスとニムに、グレーテは大きく頷いた。

「そうでしょう? だから私も、重機の音とか、何かが破裂したとか……そういう聞き間違いじゃないかって言ったのよ。だけど、彼女……親戚がクレー射撃をやるから、音はわかるって言い張って」

「仮に銃声なら、事件になっていないのはどういうことなのかしら。誤発射とか……怪我人が出なかったとか? 通報はしたの?」

「その場ですぐにしたそうよ。警察も救急車も来たようだけど、それだけ。誰か運ばれたり、規制線が張られたりすることは無かったんですって。彼女、通勤にも自転車で通るんだけど、今朝はいつも通りだったらしいの。そりゃそうよね……事件になってないなら――でも、今朝はテロが有ったじゃない? なんだか気味が悪くて……」

「確かに、変な感じね」

話の途中から、未春とニムは顔を見合わせていた。

「そのお店の場所、聞いてもいいかい?」

気軽な様子で訊ねたニムに、女二人は驚いた顔を向けた。

「ニム、見に行くつもり?」

「いやいや、逆だよ。僕のような余所者が、それと知らずに近付かない為に聞いておこうと思って」

賢明だわ、と頷いたグレーテが地図で説明してくれた。

トール通りは、現在居る聖ニコライ教会周辺からアレクサンダー・プラッツへ戻り、更に先へ進むとぶつかる大通りだ。しかし、その店はもっと中央に近い方に有った。

レベッカの病院であるヒルデガルト・クリニクムと距離が近いのを、未春の琥珀色の目がじっと見つめた。

「交通量が多いし、道路の真ん中を市電が通っているからすぐにわかるわよ。普通のお店も多くて変な通りじゃないけれど、夜に一人で歩くのは勧めないわ」

「ありがとう。良い話を聞けて良かったよ。余所者ってのは兎角、地元のルールに疎くて危なっかしいものだからね……僕なんて、綺麗な小鳥につられて何度、川に落ちそうになったことか」

ルールと小鳥は関係ないのではと誰もが思ったが、場は再び和やかな空気に戻った。

未春が「この寒さで水には落ちないでもらいたい」と真剣に考えていると、アグネスが面白そうな顔で肩をつついた。

「気を付けてあげて。前にニムは公園でリスを見たとか言って木にぶつかったから」

――リス。木。早くも現場が容易に想像できるようになってきた。

銃撃というパワーワードを瞬く間に吹っ飛ばした作家はにこにことコーヒーを嗜んで、どこ吹く風である。未春は迷うことなく頷いた。

……絶対に、ぶつからないようにしなければ。




 「行ってみるかい?」

アレクサンダー・プラッツの前でアグネスらと別れた後、ニムは呑気に言った。

未春は思わず硬直した。ぼんやりしているように見えて、常に意識があるらしい男は、薄曇りにも輝くようなグリーンアイを瞬かせた。

「でも……」

見透かすような目を前に、未春は不意討ちに言い淀んだ。

……出発前から悩んでいたことではある。

この作家を裏向きの事情に同伴させて良いものか悩ましい。正直、施錠したホテルに籠もっていろという方が安心できる。だが、ドイツ支部が一人になるのを待っている可能性が無いとは言えないし、彼はいかんせん、人が良すぎる。助けを求める人間が訪ねてきたら、それがオオカミだろうと安易にドアを開けてしまいそうだ。

レディこと、ペトラが、”二人で居ること”は互いの安全を守ると言ったのは、それなりの理由が有る筈だし……

「未春、僕なら大丈夫だよ」

寒風に肩をすぼめつつ、ニムはにっこり笑った。

「……はい。先生は大丈夫だと思うんですが……」

言い辛そうに答えるのに対し、作家は薄っぺらい胸をどんと叩いた。

「心配要らない。これでも僕は一般人よりも修羅場はくぐっているからね。銃撃戦に巻き込まれた時も一発だって当たらなかったし、過去に銃で脅された時も無傷だ。悪運は強い方だよ」

「はい……何となく、先生は弾丸なんかは当たらない気がするんですが、躱そうとして、違う怪我をしそうで心配です」

「あ……ああ、そういうことか……うむ、確かにその手の前科は……無い事も無い。でも、それは……うん、それほど大きな問題じゃあないさ。君が家族の手掛かりを掴む方が重要だ」

優しさと楽観主義の両方に眩暈がしそうになりつつ、未春は寂しい色の空を仰いだ。周囲はまだ明るいが、ニムが言う通りなら、あと二時間もすれば暗くなる。

彼女たちの話では、暗くなる頃から営業を始めるバーは多いというが、例のNóttノートは紹介型の会員制ということしか、情報は出回っていないらしい。

「先生、もう一つ気になるのが……グレーテさんが関係者だった場合です」

ニムとの約束が有ったのも含め、アグネスがBGM関係者である可能性は薄いが、グレーテは突然現れ、向こうから声を掛けて来た。仮に関係者なら、この話は罠だ。或いは無関係でも、この発言を言うように仕向けられていることは考えられる。

「僕もそこは気になる。偶然が活動圏外で起きることは滅多にないからね」

頷いたニムは自分の端末を取り出した。

「迷った時は、頼れる人に聞くに限るよ」

喪服の麗人に電話を掛けると、彼女はすぐに応答した。ネオナチらしき連中やドイツ支部の関係者と思われる女たちと遭遇したと告げると、ブレンド社の敏腕エージェントは殆ど間髪入れずに即答した。

〈Nóttは、レベッカの秘書に当たるラファエラ・ケーニヒが取り仕切る店よ。収益よりも情報交換に重点を置いている支部の社交場ね〉

「やっぱりクロなのか。自分たちの店なら、証拠隠滅も難しくなさそうだ」

〈それは間違いないけれど、銃声はイレギュラーな出来事かもしれない〉

未春とニムが怪訝な顔を見合わせると、麗人はそれが見えているように言った。

〈あんた達を店に呼びたいのなら、『日本人の男が出入りするのを見た』とでも言う方が確実でしょう〉

改めて二人は顔を見合わせた。その通りだ。銃声がしたと言えば、どんな呑気者でも危険を意識する。罠にかけるつもりなら、警戒させるのは非効率だ。

〈大通りに面した店で、防音もなしに銃を使用するのはBGMらしくないやり方よ。派手なやり方を好まないドイツ支部なら尚更ね。ウチのボスを騒音扱いしてるぐらいだから〉

「騒音……確かに、スターゲイジーは日本でカーチェイスをやりましたけど」

あれはスターゲイジーも嵌められた一件なので不本意だろうが、日本ではほぼ無いカーチェイスを――しかも相手のトラックは、一台は側溝にタイヤを引っ掛けて動けなくなり、一台は用水路に落下。どちらも滅多にない事情でレッカー車が出る始末――これを同時刻に二件、どちらも銃撃戦のオマケ付き。騒音どころの騒ぎではない。

「ボス……」

哀れむように呟いてから、ニムは端末に向き直った。

「まあ、とにかく……さすが、レディ。銃撃が有ったとしたら、それは向こうのトラブルなんだね?」

〈恐らく。今、ギブソンが調べているけれど、あんた達が遭遇した男たちの言い分からして、今朝のテロはNóttで起きた事件の報復とみて良さそうね〉

「ふーむ……じゃあ、どうする? 行かない方がいいのか?」

〈ニム……そもそもあんた達は、ドイツ支部の息が掛かった会員制のバーに、どうやって入り込むつもり?〉

二人の粗忽者は三度、顔を見合わせる羽目になった。

およそ正確と思われるペトラの推測通りなら、Nóttの話は罠や誘いではない。

しかも、彼女は店の存在を知っていた。手掛かりがあるのなら、事前に知らせるのがベターだ。

〈店に行けば、フライクーゲルに関する情報が得られるかもしれないけれど、あんた達は既にマークされている身なのよ。仮に、出入りする誰かと取引をするにしても、最低限のドイツ語は話せないと厳しい〉

「先生は話していますよね?」

〈そいつのドイツ語は子供以下よ〉

ぴしゃりと言われたが、ニムは軽く肩を上下させた。

「ごめんよ、僕は簡単な会話程度だ。アグネスみたいに英語が分かる人なら何とかなるけど……レディが此処に居ればいいんだが」

〈電話で交渉しろなんて言わない様に頼むわ〉

「魅力的な提案だが、それが可能なら、そもそもこういう旅にはならないね」

〈――わかって頂けて何より。私はこの後、ディナーの約束があるの。邪魔をしないように〉

「え、そうなの? 誰と?」

興味深そうに聞き返すニムだが、電話は既に切れていた。

「ドイツ支部の誰かと会えたのでしょうか?」

「うーん、レディの事だから心配は要らないと思うが、僕らに言いたくない相手みたいだ。君も知っての通り、僕らは現在進行形の調査や不確定な情報は身内にも話さない。話が纏まれば、教えてくれると思うけれど……」

端末をポケットに収めると、ニムは辺りを見渡して小首を傾げた。

「で、どうする? 行ってみるかい?」

「――え?」

話をあっさりと振り出しに戻した男に、未春はポカンとして目を瞬かせた。

「今の話だと……行っても無駄ということですよね?」

「レディの読みではね」

気楽そうに言うと、ニムは綺麗な緑の双眸を和ませた。

「でも、彼女は『行くな』とは言わなかったろ? 危険が確定しているなら、彼女はちゃんと教えてくれる。それに、『ドイツ支部で銃が使われるのは珍しい』、『罠ではない』ということは、Nóttには異例の”何か”が有るってことじゃないかな。ついでに、僕らがそこに行ってマズイことが有るなら、向こうが阻止する為に現れるか、別の何かが接触してくるだろう。収穫ナシなら、それでもいいじゃないか」

未春は唖然とした。

大胆不敵というか、屈託がないというか……この男は底が知れないところがある。

呑気そうにしながら、急に明晰な一面を覗かせるのは、作家の顔なのだろうか。

「レディはね、よく、僕を放置して”釣り”をするんだ。この好奇心旺盛な男をフラフラさせて、引っ掛かったら一気に釣り上げる寸法でね。彼女が僕に全部を話さない時は、大抵そのパターンだよ。今回は君が居る分、もっと踏み込んだ方法を取るかもしれない」

――作家じゃない。餌の顔だった。

「先生は……それで困ることはないんですか?」

「もちろん、困るとも」

大真面目に頷いたが、次の瞬間にはどこぞの叔父のようにへらへらと笑っている。

「でも、『No pain, no gain』って言うからね。『苦労無くして利益なし』さ。僕は自分が良いと思う方に歩く……それがいつも明るく楽しい道とは限らないよ」

何故か得意げなその顔を見下ろし、未春は意を決した。

「ありがとうございます。行ってみましょう」




 レベッカは、パソコン画面で一つの研究資料を見ていた。

午前中をオペに費やし、昼を摂るのももどかしく、打ち合わせに追われた後だ。

かつて、この病院のバックヤードで異端な研究が行われていたと知る者は、当院にも、ドイツ国内外にも殆ど居ない。

<Sternシュテルンplanenプラーン(星の計画)>

ある研究者が、父を知って始めた研究だった。

その発端が、危機感だったのか、憧憬だったのか、はたまた崇拝だったのか……或いは何かに”操作”された為なのかは定かではない。

表沙汰になれば社会批判を浴びて然るべき計画だったが、参加者は大勢居た。

しかも、ドイツ人のみならず、優秀且つ興味のある人間ならば歓迎された為、参加者は多国籍に渡った。

当時、まだ大学の研究室に居たレベッカも、ごく自然に誘われた。

初めは断った。

興味が無かったと言えば嘘だが、医学を学び始めて間もない娘の倫理は真新しい清らかさに溢れていて、生命を守り救うという医学と、この計画は結びつかないと判断した。……むしろ、命を弄ぶ行為に感じた。

実際、それは間違っていなかった筈だが、娘は一年も経つ頃には参加した。

「……お馬鹿さんなレベッカ……」

今は娘が居てもおかしくはない年齢に達した女は一人ごちた。

何故、研究に参加したのかはわからない。きっかけはやはり父かもしれないが、認めたくはなかったので「優秀ならば当然の選択だ」という研究者の言葉に漠然と納得した。血管の一本一本に、細胞の一つ一つに、父から受け継いだ悪魔の如き性質が潜んでいるのを感じながら。

私の手を離し、何も言わずにどこか遠くへ行った父。

――その才能を受け継がなかった娘の想いも知らずに。

小さく溜息を吐いた先には、数字の羅列がずらりと並んでいる。

全て関わった人間のデータだが、名前は無い。ナンバリングされた中から、生年を頼りに探すと、それらしき一人に行き着いた。

……が、フォルダを開いてみて、唖然とした。

生まれた際の体重や身長・性別など、普通の赤ん坊のデータ以外、何もない。

写真さえ見当たらず、誰かが消したか、あらかじめ無かったか、撮る間もなく姿を消したか……他の者には有る成長記録、実験結果などが皆無だ。

男児なのは間違いない。

こいつか。

データ収集を始めるより早く、研究員の誰かが連れ出し、行方不明となった赤ん坊。

確定だろうと思いながらも念のためデータを漁ると、レベッカは眉を寄せた。

赤ん坊のデータしか持たない者が、もう一人居る。

赤ん坊の状態で失踪したのが二人……? これはどういうことなのか。

――ペトラに尋ねるか? ……いや、安易に彼女を頼るのは危険だ。

ブレンド社は世界に誇る正確な情報を持つが、下手をすればこちらの情報をごっそり持っていかれてしまう。

「……」

気を取り直し、更に調べた。

どちらもデータはすっからかんだ。前後の人物のデータからして、彼らの誕生年月日は近そうだが、どちらも男児であることしかわからない。人種さえ不明だ。

仕方がないのでBGM側のデータに切り替え、ニム・ハーバーの経歴を確認した。

それは、ひどく淡白な印象だった。

赤ん坊の段階でブレンド社の前に置き去りにされ、親・或いは置いて行った人物の捜索が行われたが発見に至らず、ブレンド社にて保護。仮名を募るも変人だらけの社内からは珍名が続出、結果、代表のスターゲイジーがニックネームをもじってニムと名付け、包まれていたハーバー社のおくるみから姓を取った。

余談だが、ニックとならなかったのは社内に居た為とのこと。

「……」

あの豪快な男を思い出してうんざりしたが、挫けずに続きを読んだ。

ニムは少年期を、スターゲイジー、ラッセルの両名やその家族、多くの社員らと過ごし、同じく親無しで当社に保護されていたペトラとは姉弟のように育つ。

順調に大学を卒業後、ブレンド社に入社。武闘派の社員と過ごした割に、「白アスパラガス」のあだ名の通り、危険な案件には不向きであった為、表向きの業務に携わる。幼少期の段階で、常人ならざる距離を見通す視力を持つことが判明しているが、あくまで視力のみの才能とし、スターゲイジーはこれを放置。

数年後、ブラックの加入と入れ替わる様に作家として活動し始める。

ブレンド社には非常勤扱いで名を残すが、殆どを執筆に費やす。尚、作品傾向はフィクション・ノンフィクションのいずれもブレンド社に直接的な関与は無い。

「……それはそうでしょう」

データに対して呆れた独り言を吐く羽目になるが、データにも罪はない。

スパイがスパイアクションを書いたらリアリティはあるかもしれないが、間違いなくお役御免であろう。ニム・ハーバーの作品は多くが純文学という奴で、スターゲイジーのような派手な男が暴れるエンターテインメント作は無い。

少ないが、子供向けの作品などはほのぼのとしたストーリーだし、どの作品もハッピーエンドと言って難がない為、それなりにファンがいる。強いて言えば、女性誌のコラムに金ピカの昆虫に関して書いたり、ライオンを殺す植物に関して書くなど、妙なクセがある点は如何にもブレンド社の身内だが。

「どうして、エセ紳士どもはこいつを鍛えなかったのかしら」

傍らの冷めきった茶を含み、眼鏡を掛け直してから改めて思案する。

姉弟同然に育ったペトラは、女でありながら完璧なエージェントに仕立てられた。赤ん坊の段階からなら、才能も何も無い。まずは如何様にか育てようとする筈だ。しかも、一人の人間を育てるという行為はとてつもない労力を要する。どうせ育てるなら、それなりの教育をした方が、彼らにとっては得になるのに。

何故、ニムは一般人どころか、白アスパラガス止まりなのか……?

彼らが教育を棒に振るほど、才能が無かったのか? だとしたら、早々に切り上げて、ブレンド社との関係をっても良かったろうに。

画面を睨み、口元を撫でていると、控えめなノックが響いた。

『レベッカ、宜しいですか』

機械のようにぴたり揃った声掛けに、レベッカは画面を閉じ、眼鏡を外して顔を上げた。

「どうぞ」

しとやかに執務室に入って来たのは、見るからに双子と思しきナースだ。

立ち姿までよく似ている若い二人の女は、金の巻き髪を肩口に束ね、片方は白い花の髪留めを、もう片方は青い花の髪留めをしている。小柄な容姿は同世代よりも幼い印象だが、レベッカと同じスクラブスーツを纏い、挙動はきびきびしている。

「エマ、ラナ、どうしたの? 昼はちゃんと食べたわよ」

二人はそっくりな顔のまあるい頬をぷっと膨らませた。

「レベッカ、何とかして下さい」

白い髪留めの方――エマが、唇を尖らせて訴えた。青い髪留めの方――ラナもツンと顎を反らせて首を振る。

「これだから男は嫌なのです」

ああ、さてはと、気付いた主人は首を振った。

「今度は何を?」

「走りに行きたいって言うのです」

「腕立てを止められたばかりなのに」

「あらまあ……困った子ね」

レベッカは鼻で笑ったが、双子のナースは無表情に首を振った。

『お願いします、レベッカ』

「わかったわ。連れてきて」

早速と息巻いて出て行く双子を見送り、レベッカは苦笑混じりに立ち上がった。

ともすれば痛みそうになる腰を伸ばし、電気ケトルに歩み寄った。

丁度いい。せっかく居る者に意見を聞くのも悪くない。

……たまには、誰かの為にお茶を淹れるのもいいだろう。




 トール通りは、グレーテが言う通り、妙な通りでは無かった。

道路の中央に市電が走っているのは通りの中ほどまでで、目的のNóttノートが在る付近は普通の大通りになっていた。途中まで短い市電の旅を楽しんだ後、未春とニムは枝だけになった街路樹が並ぶ通りを歩いていた。

道路の左右を挟む建物は五階から六階建て程度の重厚感のあるものが、おおよそレンガ色やクリーム色、白などに整って並んでいる。車はそこそこ通る上、一階に設けられた商店は飲食店やら雑貨屋、家具や花を売るなど様々で、オフィスらしき施設の他、アートスペースなんかも在った。他の通りとぶつかる場所では多くの人が交差し、都会らしい賑わいを感じる。荒れた印象といえば、スプレーによる落書きが殆どの建物に見られる辺りか。いずれもグラフィックアートほど整わず、雑に書かれた文字が扉や壁をでたらめに埋め、元が整った建物だけに稚拙さが際立っていた。

「あんなところ、どうやって書いたんだろうね?」

森のようなグリーンアイが仰ぐのは、二階部分の壁に書かれた黒いスプレー文字だ。字体も羅列も酔っ払いが書いた様に崩れている為、何と書かれているのかはわからない。窓から乗り出して書くにも無理の有る位置に、未春も首を捻った。

「肩車して書いたのかも」

苦笑混じりに答えると、ニムは声を立てて笑った。

「君とブラックなら届きそうだね。日本にもこういうのはあるかい?」

「はい。高架下なんかのコンクリート壁や商店のシャッターに書かれたりします。最近は減っている気もしますが。子供やプロがアートを描いて落書きを防ぐ所もありますね」

「子供の絵は良い案だね。ロンドンも落書きはあるけど、グラフィティを描くのを公的に許されたトンネルもあるんだよ。上手く付き合えるなら、その方がいいよねえ」

大らかなことを言っていた作家は、はたと前方に目を細めた。

「おや……あれは――ちょっとマズいんじゃないかな?」

何気なく見た前には路上駐車が列を成している以外、目立ったものは何も無い。

が、ニムが歩調を速める頃には、未春にも”それ”の声が聴こえていた。

Hilfeヒルフェー‼」

切羽詰まった声にいち早く、ニムが鋭く叫んだ。

「『助けて!』だって!」

彼はこういう時、異様に素早い。

「行こう!」

既に身を翻している作家に従うと、叫んでいたのは若い男だった。

悲鳴はドイツ語だったが、ドイツ人ではない――大きめの鼻と濃い垂れ眉がおっとりした印象の男は、何人だろう? 何者かに取り囲まれ、VW社の白い乗用車に押し込められようとしている。

「先生、キャンディはまだ有りますか?」

「え、こんな時に?」

そうは言いつつも、走りながらあたふたとポケットから数個出てきたそれを、未春はむんずと掴み、ぐんとスピードを上げてから無造作に投げた。キャンディの包みは恐ろしいつぶてとなって寒風を唸り裂き、こちらに背を向けていた男の頭にヒットし、顔が向いていた男は脳天にぶつかってどちらもよろめいた。その隙にするりと騒ぎに入り込んだ未春は、助けを求めていた若者を、殆ど投げるかぶんどるように歩道に放り出した。ひいひいと息を切らしつつやってきたニムが、尻もちをついて呆然としている若者に手を貸す中、加害者の男たちは怒りと痛み、更には驚きに染まった目で未春を睨んだ。

「なんだ、お前は!」

問われたものの、咄嗟に意味を理解できずに未春は小首を傾げ、誰何すいかと理解してからも何と答えたものかと迷った挙句、突っ立ったまま沈黙した。

が、その物怖じせぬ様子は一種の迫力がある。奇妙なアジア人の言い得ぬプレッシャーにされた男たちがたじろぐ中、まだぜいぜい言っている声でニムが言った。

「そ……そっちこそ、誰だ?」

男たちは我に返った様子で、ニムの手に支えられた青年を睨みつけて吠えた。

「そいつに用が有るだけだ! 部外者は引っ込んでろ!」

「はー……やれやれ、さっきと同じパターンだなあ」

息を整えながらぼやいたニムが、いまだ動悸が治まらない様子の青年を見下ろした。

「彼らは君の知り合いかい?」

「し、知りません……! 僕はただ出勤するところで……!」

どもりながらの返事に嘘は無さそうだ。

「き、急に引っ張られて……何が何やら……!」

「と、いうことは君たちはどこの誰とも知れぬ誘拐犯か。警察を呼ぶかい? 僕は大事にならない内に帰るのをオススメするが、彼と戦う選択肢も有るには有る」

問われた男たちは恐ろしい目で闖入者をねめつけていたが、額にキャンディの包みをぶつけられた男がわずかに滲んだ血を拭って舌打ちした。今にも襲い掛からんばかりで睨んでいた仲間の腕を引いて車に戻ると、暴力的なエンジン音を立てて走り去った。よく見ると、ナンバーは何かで汚されて判然としなかった。すっかり走り去るのを見届け、被害者は項垂れるような溜息を吐いた。

「Thank you so much……」

「おや、君――トルコの人みたいだけど、英語がわかるのかい?」

青年はニムの支えからよろよろと立ち上がると、とろりとした人懐こい笑みを浮かべて頷いた。

「少しだけ……アナタたち、ドイツの人じゃないでしょ?」

一目瞭然の二人組が頷くと、彼は体つきは立派だが、か弱く微笑んだ。

「本当、助かりました。感謝します。……アナタ、そんなほっそりしてるのにあんな連中に立ち向かうなんて勇気が有る……」

未春はキャンディを拾い上げながら首を振った。包みが破れていないのを確かめ、作家に返却する。それを興味深そうな顔で受け取りながら、ニムはズボンやダウンジャケットの汚れを払う青年を振り返った。

「本当に、心当たりは無いの?」

「はい……その……難癖付けられることは以前から有りますが、こんなことされたのは初めてです……」

「難癖というのは……人種差別で?」

「あ、はい……お察しの通り、僕はトルコ系移民ですから、小さないざこざは慣れてるんですけど……」

「ふむ。警察に連絡した方が良いと思うが、勤め先は近いのかい? 送っていくよ」

「ありがとうございます、すぐそこです」

指さす店は、仰る通りのすぐそこだった。スプレーによる落書きが多い店舗が並ぶ中、ここだけは不可侵であると言いたげに綺麗でシックな木製扉には『Nótt』の文字が書かれた看板が掛けられていた。

未春とニムは顔を見合わせた。

「素敵なお店だね。せっかくだし、少し休んでいこうか?」

「そうですね」

「えっ」

彼は幾らか困った顔をしたが、きょろきょろと二人組を見つめ、悪党には到底見えないグリーンアイがにこにこしているのを眺めて、躊躇いがちに頷いた。

「ほ、ホントはウチは会員制なのでダメなんですけど……」

押しが弱いと見える青年は、困り顔なのか愛想笑いなのか定まらぬ表情でかくかくと頷いた。

「店が開く前……オーナーがお見えになる前なら……大丈夫だと思います。助けて頂いたし……何か温かい飲みものでも召し上がっていって下さい」

いそいそと扉を開ける青年の後に続いて、二人は店に入った。出来過ぎた偶然に警戒していた足が店内に入るや、囲まれる――ことは無かった。

オープン前という店内は暗く、辺りに人の気配は無い。青年が電気を点けると、天井から幾つも垂れ下がる優美な曲線と柔らかな光のガラスランプが輝き、一目で良い雰囲気とわかる店が浮かび上がった。全体に飴色の木製カウンターの背には、緩やかにカーブした棚にウィスキーやジンなどのボトルが美術品のように並べられ、どこかアンティークを思わす金色のビールサーバーがこれまたずらりと並んでいる。

「すごく良いお店だ。お高いんだろうな」

素直に感嘆するニムに対し、青年は恥ずかしそうにしつつも嬉しそうな顔をした。

「オーナーの趣味が良いんです」

「だろうね。女性的なセンスの良さを感じる」

「あ、わかりますか……? そうなんです、オーナーは若いお嬢さんなのにしっかりなさっていて、一流を見極める目があるんです」

雇い主の情報をあっさり漏らす男に、ニムは気付かぬ様子で頷いた。

「それは大したもんだ。君は此処で何をしてるの?」

「簡単なバーテンじみたことを。実際は準備や細々こまごまとしたことで……」

「それも素晴らしい。僕なら高い酒に緊張して、グラスをひっくり返しちゃいそうだよ」

本当にやりそうだ、と未春が失礼な事を考える中、青年は暖房のスイッチを操作しながら例の人懐こい笑みを浮かべた。

「僕も未だに緊張します。お客様は穏やかな方が多いですが、オーナーは仕事に厳しい方なので」

「床もテーブルもピカピカだものね。会員というのも紳士淑女ばかりなんだろうな……さっきのようなアウトローは間違っても入れないだろう?」

「そう、ですね……此処で喧嘩なんて――そう有る事じゃないです……」

何やら言い淀む青年は、ごまかすようにカウンター席を示した。

「どうぞ、お掛けください。すぐに温かくなりますから……上着はこちらに――」

「ありがとう。君がオーナーに叱られるのは忍びないから、すぐに退散するよ」

言いながら座った男に、青年は髭がないと少年みたいな顔で時計を確認してからはにかんだ。

「まだ大丈夫だと思います……何になさいますか?」

「うーん、どうしよう。まだ早い気もするけど、こんな素敵なお店でお酒を頼まないのも野暮な気がするね」

「あ、それなら……グリューワインは如何です? クリスマスは過ぎちゃいましたけど、冬の間はお出ししているんです。温まりますよ」

「それは有難い。せっかくだ、頂こう」

作家に任せきりで会話を聞いていた未春は、どう見てもエスプレッソマシーンである機械から、ドイツではグリューワインと呼ぶらしいホットワインが出てくるのを不思議そうに眺めた。ヨーロッパでは普通のことなのか、ニムも驚く様子はなく、すぐに出て来た温かい深紅の飲み物を喜んだ。アルコールが飛びきっていない赤ワインの香気にふわりと混じるのは、浮かべてくれたスライス・オレンジと、添えられたシナモンスティック。中には多分、クローブ、スターアニス……ふと、あのアップルサイダーを思い出して胸がきゅっとした。

「美味しい。この香りを嗅ぐと、なんだか子供の頃を思い出すよ。当時は葡萄ジュースだったけど」

「ああ、懐かしいと仰る方は多いですね。クリスマス・マーケットでの思い出を語られる方も居ます」

「風物詩だものねえ……君はドイツは長いの?」

「はい。子供の頃からです」

「じゃあ、君の思い出でもあるわけだ」

虫も殺さぬ顔で笑んだニムに青年は虚を突かれたような顔をしたが、目尻を下げて笑んだ。

「……そういえば、そうですね」

彼が店の支度をする姿を眺めながら、未春はワインを啜った。仄かに甘いそれが身の内をぽかぽかと温める中、他のスタッフは来ないのかと内心、首を捻る。

此処はいわば、日本で言う所のDOUBLEダブルCROSSクロスだ。ドイツ支部は女性中心というから、てっきり店員も女性ばかりだと思ったのだが。

先程の怯えた様子が演技ではないのなら、彼は一般人なのだろうか。

体格は悪くないが、戦闘員には見えない。BGMには殺し屋以外に、殺し・又は戦闘などの騒動で後処理を担うスタッフ、清掃員クリーナーが居るのでその可能性は有り得るが――そうだとしても、ちょっと頼りない印象だ。彼らがオートマチックに粛々と遺体を片付ける様子や、潜伏・諜報などのスパイ的な活動をする姿は何度が目にしているが、この青年はそんな場面に居合わせたら腰が引けてしまいそうだ。悪党がたむろする場所に、力也りきや倉子くらこのような一般人を置く支部なぞ、日本以外に在るのか……?

「お二人は、ご旅行ですか?」

開店準備をしながらの何気ない問いに、ニムは頷いた。

「ちょっとした仕事でね」

「それは――お手を煩わせてしまって……」

日本人みたいに恐縮する青年に、ニムは陽気に首を振った。

「僕は何も。お礼は彼に言ってあげて」

アジア人相手だからか、ぺこぺこと頭を下げる青年に、未春は無表情のままカップを持ち上げて言った。

Leckerレッカー.(美味しいです)」

礼を受ける前にぼそりと出た賛辞に、彼はホッとした笑顔になる。それを頃合いと見たか、ニムがひょいと身を乗り出した。

「ね、昨日、この辺りで事件が有ったらしいんだが――君は何か知らない?」

「……事件?」

胡乱げにする青年は、申し訳なさそうに首を振った。

「僕は昨日は非番だったので……オーナーに聞けばわかるかもしれませんが……」

やはりニュースにはなっていない様だ。ニムは未春と見交わし、呑気に頷いた。

「そうかあ。僕らも町で噂を聞いただけだから、何かの間違いかもしれないね」

「そ、そうですか……最近、物騒ですからね……今朝はテロ騒ぎが有りましたし」

気弱そうに肩をすくめる青年に同意しつつ、ニムは尚も突っ込んだ。

「ついでに、もう一つ聞いていいかな。ここらはアジア人――若しくは日本人なんかは見かけるかい?」

「アジア人ですか……? 中国人はそれなりに見かけますし、日本人も……観光客を含めて居ますよ。多く住んでいる印象はないですし、知り合いにも居ませんが」

「彼らは、こういうお店には来ないのかな」

「どうでしょう……バーに立ち寄ることは有ると思いますが、当店ではお見掛けしていません。此処は地元の方や、オーナーのお客様が多いので」

「なるほどねえ」

「どなたか、お探しでしたか?」

森のような目はさりげなくカップを傾け、未春に目くばせした。

「――いや。実は僕らも今日、君を襲ったような連中に突っかかられてね。アジア人を目の敵にしているようだったから、行動には気を付けた方が良いのかと思って」

「ああ……そうでしたか……災難でしたね。今朝のテロもそうですが……どうもここ数日、いきり立った連中が多い様です」

机などを拭きながら、青年は溜息を吐いた。

「白人系以外の外国人を目の敵にする人が居るのは昔からなんです。でも、それはほんの一部で……此処に出入りするお客様やオーナー、普通の市民にそんな人は居ません。難癖付けられた日にご安心をと言うのも……説得力がありませんけど、本当は親切な人が多いんですよ」

「勿論だとも。君を助けたキャンディをくれたのはこの町の素敵なご婦人だったし、お会いした店の女将とシュニッツェルも素晴らしかった。ああ、さっきのカフェのアプフェルシュトゥルーデルもね……美味しいものの近くに悪い人は居ないよ。今夜のディナーは何を食べようか、僕は今からワクワクしている」

弁舌家の食いしん坊に、青年と未春が小さく笑い合った。

「今夜はベルリンにお泊りになられるのですか?」

二人が頷くと、彼は自身の端末を取り出して地図を出した。

「もし、お食事に迷われたら候補に加えて下さい。ドイツ料理にも負けませんよ」

そう言いながら指し示す場所は、「Restaurantレストラン Tombiliトンビリ」と書かれていた。此処から距離は有るが、徒歩圏内だ。

「本格的なケバブが味わえます。看板に猫が描かれている店です。……あ、看板猫が居るんですが……猫は大丈夫ですか?」

猫か。未春がスズとビビを思い出しながら縁を感じつつ頷くと、ニムの方は聞くまでも無い――両の目の深緑をキラキラさせている。

「大丈夫も何も、大好きだ。昔ちょっとだけ生活を共にしたんだけど……猫ってのはまったく、何なんだろうね……可愛いったらない。僕が好きな虫にも鳥にも襲い掛かるわ、カーテンはよじ登るわ、仕事の邪魔はするわ、僕のシャツをおもちゃにするわ……それはもうおてんばちゃんだったが、何でも許してしまったっけ」

放っておいたら永久に語り続けそうな男に、幾らか気圧されつつも青年は微笑んだ。

「よ、良かった。そんなに猫が好きな人なら歓迎されるでしょう。店頭で、トゥナイに聞いたと伝えてください」

「トゥナイ……君の名前?」

「はい。申し遅れました、トゥナイ・エジルといいます。トンビリは此処のような高級店ではありませんが、サービスするように伝えておきます」

「有難い。ぜひ行こう」

嬉しそうに空いたカップを返却しつつ、ニムはごそごそと財布を漁った。

「さて、外も暗くなってきたし、そろそろ出ようか。幾らかな?」

「あ、いえ……これは助けて頂いたお礼ですから、お構いなく」

「じゃ、楽しい話にチップを払わせて頂くよ。彼の分も」

高そうな店で働く割に、青年は実に申し訳なさそうに受け取ってはにかんだ。

「ありがとうございます。良い旅になりますよう」

おっとり微笑んだ青年に手を振り、二人は外に出た。

一歩出ると、全身を冷たい空気がぎゅっと掴むような寒さだ。ワインの温もりが白い息となって吐かれる中、日本ではまだ夕方の時分だが、既に辺りは薄暗い。

周囲に妙な車両や人影がないのを確かめ、二人は通りを歩き始めた。

「名前を聞かれなかったね」

しばし歩いてから出たニムの言葉に、未春は頷いた。

――果たして、この反応はどちらの意味なのか。

あのお人好しと思しき青年を疑うのは気が引けるが、尋ねる素振りも無かったのを見ると、あらかじめ顔を知っていた可能性も有り得る。又は、脅迫されるのを踏まえて、本当に何も知らされていないか。聞かなかったのも、単に彼が客の事情に踏み込まないタイプの人間だったとも考えられる……

「今夜は猫とケバブか……何だか、思った以上に楽しい旅だなあ」

寒そうにコートの前を掻きよせながらぼやくニムに、本当にその通りだと思いながら、未春は店を振り返ってみた。

店頭は暗く静まり返っている。誰かがやって来る気配も無かった。




 レベッカの執務室を、規則的なノックが叩いた。

「どうぞ」

画面に目をやったまま応じると、扉が静かに開かれた。

『失礼します、レベッカ』

声を揃えて立っていたのは、先程やって来たばかりの双子である。そのそっくりな表情は、猫が捕まえて来た獲物を主人に見せに来たようなそれだった。

娘たちの後ろに立っていた人物は、さすがに引っ立てられてはいなかったが、うんざりした顔つきで入室してきた。焦げ茶の髪と目、整っているが目立つ特徴を欠いた顔立ちは、ひと目で日系とわかる青年だ。ラフなシャツとズボンに灰色のパーカーを引っ掛け、違和感でも有るのか、首元や肩口を擦りながらの様子は、不意に職員室に呼ばれた不良生徒のようだった。

「ごきげんよう、フライクーゲル」

振り向いて呼び掛けた女に、青年はいっそう眉間に皺を寄せた。

「……Hi、レベッカ」

「だいぶ、ウチのナースの手を煩わせているようね。ちょっと頼みが有るのだけれど、いいかしら」

「……その呼び方やめてくれるならいいですよ」

何を生意気なという双子の視線が見上げると、青年は鬱陶しそうに彼女たちを見下ろした。一触即発の空気に、女主人が教師の様にパンパンと手を叩く。

「ほら、ケンカしないの――いいわよ、フライクーゲル。何と呼びましょうか」

青年は気怠そうに溜息を吐いて答えた。

「ハル、で」

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