3.Berlin.

 「結局、レディとは会わなかったねえ」

航空機がロンドンを離陸して間もなく、ニムは微苦笑しながら言った。

一応は同行者である喪服の麗人とは顔も合わせぬまま乗り込んだのだが、周囲の座席には見当たらず、作家の呑気な様を咎めに来る気配も無かった。

「彼女が居ないと不安ですか?」

何気なく訊ねた未春みはるだったが、ニムは身を縮めて首を振った。

「まさか。頼りにはなるけど、魔王デビルに睨まれてるようなもんだよ」

魔王。女性に対してだいぶ失礼な表現をする作家は、軽く首を振った。

「ま……レディはあれでも苦労してるんだ」

「喪服は……弔いと仰ってましたね。先生もご存じの方ですか?」

「……うん。彼の事は機密情報だから話せないけど、良い人だったよ。酒好き、女好きの年上のお兄さんて感じでね、明るいとこはボスに似てるかなあ……」

機密の人物像を幾らかバラしてから、ニムは微笑んだ。

「故人の話はしんみりしてしまうね。何か他のことを――ああ、そうだ。そういえば、君がくれた炊飯器はウチにあるんだよ」

「ブラックにあげたものが、先生の家に?」

「うん。君と行くと決まった日にブラックから連絡があってね。炊飯器をくれた人だから感謝するようにって」

作家はにこにこしていたが、未春は気恥ずかしさに顔を赤くした。

炊飯器は、来日中のブラックが米を美味しいと何杯も食べた故に選んだ贈り物だが、プレゼントした日は彼が帰るのを子供みたいに引き留めてしまった。一体どんな話をされたのか気にしていると、作家はのんびり喋った。

「我が家で幾つか目撃したと思うけれど、どうしたわけか……彼は以前から、ちょっと珍しいものや、お気に入りのもの……ラッセルの目を盗みたいものは僕の家に置いていく異常癖が有ってね――あれは彼の宝物で、つまりは米も置いてある」

ハルトが「太ると叱られる」と言っていた通り、隠れて食べる気だったのだろうか。

この作家の家に行った際、風変りだと思った物は大抵、ブラックが持ち込んだものだった。ニムの作品にも登場するネペンテスこと立派なウツボカズラもそうだし、インドネシア産だという呪われそうなお面、見たこともない派手な色模様がびっしり描かれた絵皿、精巧に作られた小さな陶器の家等々……彼にとって、ニム・ハーバーの家は秘密基地か子供の宝箱みたいだ。

「おかげで僕も楽しませてもらっているが、最初にいたときは、ずっと機械の前で眺めていて、出来上がると子供みたいに喜んでいたよ」

「なんとなく……可愛いところが有るとは思っていました」

「僕もそう思う。アジア食を食べる為にお箸の特訓をしていたのが、ついこの間なのになあ……アレ、すごく頑張ったんだよ。今じゃ、僕より上手いんだ」

まるで子供の成長を振り返る父親のように言うと、作家はフライトアテンダントから愛想よくコーヒーを受け取ってから言った。

「ところで君、ブラックの事が好きなの?」

気を付けたつもりだったが、不意討ちに未春はいっそう顔を赤くした。それをまじまじと見つめて、ニムはにこりと笑った。

「そうかい。彼を好きになってくれた人と旅ができるのは嬉しいな」

「先生も……ブラックが好きですか?」

「もちろんさ。僕は彼の最初の友達にして、お互いに誰とも代えがたい親友だ」

ニムがのんびりとコーヒーを傾けつつ答えると、未春は言った。

「俺、恋愛的な意味で好きかもしれないんですけど……」

「うむ、それは君の顔を見ればわかる。ブラックは魅力的だから気にすることはないよ。彼のせいで、性癖に深刻な悩みを抱えた人は大勢居る」

「先生もそうですか?」

「ブッフオゥ……!」

声だか息だかわからない妙な音を発すると、ニムは慌ててコーヒーを置き、微かに吹き飛ばしたそれをナプキンでせかせかと拭いた。

「えー……違う。違うよ? 僕とブラックはそういう仲じゃないし、今後も予定はない。ブラックに聞かなかった?」

「親友とか、尊敬している話は聞きました。でも、相手が同じ気持ちとは限らないと思って」

「あ、あー……ウン、そうか。君が言うことは尤もだ。まあ、安心してくれ、僕らの仲はね……彼がハンサムで、他人から見ると“少々”、距離が近いから、新婚カップルとか、反対に熟年夫婦とか言われることもあるけれど、僕らはいちゃついてるわけじゃあない。大抵は本や共通の知り合いに纏わる話に花が咲いているだけだし、彼の旅先での話を執筆の参考にさせてもらってるとか……お互いが引っ張ったトラブルに対処してるとか、そういうことだけだよ」

「そうですか……」

トラブルの件が引っ掛かったが、未春は言及しなかった。

「それにしても、つくづく僕は美形と縁がある様だなあ」

妙なぼやきをした作家は、先日話したジョゼフとは違うタイプのお喋りだった。永遠に再生し続けるオーディオ機器みたいに、色々なことを喋る。叔父のとおるにも匹敵するそれだが、さすがは作家だろうか。彼の話は面白かったし、ブラックやブレンド社の話題は、知らない顔が垣間見えて楽しかった。これから挑む難題をうっかり忘れそうになるほど、人をリラックスさせる男だ。

「先生は……BGMについては、どれほどご存じなんですか?」

どう見ても殺し屋とは無縁だろう作家は、ごく普通にBGM関連の話題に参加し、ジョゼフについても知っていた。その上、殺し屋と旅する事態にちょっとワクワクしている。BGMに理解があるかと思いきや、彼はやや険しい顔つきで首を捻った。

「僕は、ブレンド社がBGMとして関わった事案の一部を知っているに過ぎないよ。可能な限り……踏み入るつもりもないね」

拒絶か否定にも受け取れる返答だったが、彼は人の良さそうな顔でのんびり言った。

「皆に危険な事や、”そういうこと”はしてほしくないけれど、皆が自分の為にやっているわけじゃないのも理解しているんだ。それが、僕の主張や説得ではどうにもならないことも知っている」

ふと、さららの事を思い出していると、ニムはにこりと笑い掛けた。

「だから、僕は僕にできることをする。せっかく、地獄を見て来た親友が認めてくれたんだ……生きている限りは書き続けようと思うし、さっきのような子を見掛けたら、声を掛け続けるさ」

親切心を示して足を踏まれ、罵声を浴びた作家の穏やかな声に未春はそっと頷いた。

「先生は……正しいと思います」

呟いてみて、殺し屋の意見では分不相応かと思ったが、作家は「ありがとう」と陽気に頷いてくれた。

「先生は、ドイツには来たことが?」

「二度有るよ。一度目はブレーメン界隈だったけどね」

「ブレーメン? 絵本のですか?」

「その通り。読んだことがあるんだね。僕、あの話が大好きでさあ……タイトルに入ってるのにブレーメンは出てこないんだもの。気になって見に行ったんだ」

未春は小さく笑った。やっぱり面白い男だ。

「ベルリンは二度目だ。尤も、その時は他の地方にも用事が有って、数時間しか滞在しなかったけど」

「その時は、何ともなかったですか?」

「良い意味でも悪い意味でも、婦女子に囲まれることは無かったよ」

苦笑混じりの作家が再びフライトアテンダントにコーヒーを所望した時、未春はふと顔を上げた。しとやかな笑みで差し出され、目の前を通過するコーヒーを無表情な琥珀アンバーが見つめ、作家が傾ける前に――カップに蓋するようにスッと片手を乗せた。既に、アテンダントは緩やかに去っている。

「ん?」

きょとんとした作家に、未春は首を振った。

「先生、これはダメです」

「え……」

呟いたものの、そこはブレンド社のスタッフか。察した顔でコーヒーを見つめた。

「ちなみに、何?」

「種類まではわかりません。でも、さっきと違う匂いします。豆が違うとか、そういうことじゃないと思います」

簡易的でもカフェに勤めている身だ。酸化などで状態が変わった匂いや、焙煎云々、そこに違うものが入り込んだ匂いは日常的に知っている。更に、殺人ストレスことキリング・ショックを解消する方法として、未知の飲料を必要とする身だ、常人ならばやらない様な組み合わせも多数知っている。

「へえ……凄いな。ブラックみたい」

感心した顔で呟くと、作家は当然のように手荷物のショルダーバッグから小さな容器を取り出した。子供用の薬用シロップでも入っていそうなそれに、器用にコーヒーを移してキャップを閉めた。

「どうするんですか?」

「用事はないけど、今回のような件は何でも情報になるからね。ウチには普通のお土産より、こういうのが好きなスタッフも居るからさ」

ブレンド社は変な趣味が入社条件というが、普段から社員の為にそんなものを持っているのだろうか。作家の大して大きくもない鞄を見つめてから、未春は椅子にもたれた作家に倣って背もたれに身を預けた。

「そういえば……君が会いに行くレベッカさんって、病院に居るんだろ? それなら救急車を呼べばあっという間じゃないの?」

呑気に言った作家に、未春は頷いた。

「俺も考えましたが、安易な怪我はすぐに治ってしまうので」

「おお、レディも言っていたけど……救急搬送より早い再生能力なのか。仮病はどう?」

「俺は演技は苦手なんです。先生は?」

「熱意は感じてもらえそうだが、自信はないねえ」

腕組みして唸る姿に思わず苦笑した。この場合、熱意が伝わっては意味が無い。徒労に終わりそうな演技は見てみたいが、未春は隣の作家に倣うようにぼやいた。

「……それに、ドイツは医療大国ですから、病院は沢山ありますよね? レベッカさんの病院に搬送されるには、その専門向けの症状になるか、その病院の傍で倒れないと難しいと思います」

喋っておいて、なんだかハルトみたいな分析だと思っていると、作家は首を捻った。

「全くその通りだ。ドイツは医療大国というほどでもないと思うけど」

「え? 違うんですか」

「うん。アジアではそういうイメージなのかな? 確かに高度な医療技術は有ると思うけど……質の話では僕は北欧やオランダ、ああ、韓国なんかのイメージもあるね。――ん? というか、日本も凄いんじゃないの? 長寿大国だよね?」

言われてみればという顔で未春は首を捻り、首を振った。

「長寿大国ですけど……元気な高齢者は少ないかもしれません。長生きでも介護が必要な人が増えて、人手不足も問題になっていますし、高度な医療はお金が掛かるので、皆にというわけにはいかないので……」

そう言いながら、守村もりむらのことを思い出した。日本も寒い季節だが、元気にしているだろうか。十は……きっと、きちんと世話してくれると思うが。

ニムはしみじみと頷いた。

「なるほどねえ……優れた技術が有っても、行き届かないのは何処も同じか。世知辛いものだなあ――」

と、言いながら不意に作家は小さなくしゃみをした。

「大丈夫ですか?」

「失礼――平気平気……環境が変わると、たまにね」

「誰か噂してるのかもしれませんね」

「噂?」

両眼の森を興味深そうに瞬かせる作家に、日本では、誰かが噂しているとくしゃみが出ると言うのを説明すると、彼は面白そうに頷いた。

「へえ、そうなのか。イギリスでは縁起担ぎの意味があるんだよ。曜日ごとに意味が変わるんだ。今日は月曜だから……」

あ、と作家が何やら表情を曇らせた。

「月曜は何なんですか」

嫌な予感と共に未春が突っ込むと、彼は言い辛そうに言った。

「……き、危険の前兆……」

縁起でもない話にした作家は、ペトラなら引っ叩いただろう笑顔で付け加えた。

「た、只のジンクスだから大丈夫さ! この調子でいっても木曜のくしゃみは”良い事がある”って話になるわけだし!」

必死の抗弁に未春は頷くしかなかった。

不思議な旅は、まだ始まったばかりだ。




 ベルリンの中心部には、巨大な病院が在る。

ニムが言った通り、ドイツ医療は他国と比較してしまうと、高額等の意味で後れを取る部分はあるが、高度な技術は確かに存在し、この巨大病院が優れているのは言うまでもない。当Hildegardヒルデガルト Klinikumクリニクムは、BGMドイツ支部のレベッカ・ローデンバックが本拠地とする病院だ。

彼女の裏の顔を知る者は、その組織系統に一度は首を傾げたかもしれない。

院長は別の人物だし、組織の中核を担う人物にすら、彼女は該当していないからだ。レベッカは表向きは一介の外科医であり、腕は良いが、世界的に著名というわけでもないのである。

あからさまに社長や代表職などを担う他の代表に比べ、普段のレベッカは他の医師同様、患者を診て、手術をし、黙々と業務をこなす――非常に一般的なキャリアウーマンに過ぎない。

それでも、この病院の支配者はレベッカであり、市政はこの女の一声で動く。

無論、それを知らないスタッフも居るが、当院では殆どの者が真の王が誰なのかを知っているのだ。

その執務室は、病院の一角にひっそりと在った。

そこへ向けて廊下を規律正しく歩いて来たのは、スーツ姿の若い女だ。ひし形のボブカットに整えたブロンドをふわりとさせ、すうっと息を吐いてドアをノックした。

「戻りました、レベッカ」

中からの応答にドアを開けると、主人であるレベッカはデスクに向かっていた。

プラチナブロンドを後ろに纏め、眼鏡をかけた妙齢の女は、いつものブルーのスクラブスーツに身を包み、青い目をパソコン画面に向けていた。

「おかえりなさい、ラファエラ」

視線は動かさず、何なら操作する手も止めぬままの主人に、娘ほどの女は頷いた。

「遅くなり、申し訳ありません」

「いいわ。どうせ私はこの有様」

往年の皺を刻んだクールな横顔は、化粧も程々の唇で苦笑した。

新たな患者でも舞い込んだのか、それとも別の仕事を請け負っているのか、彼女は常に忙しそうだ。どちらかといえば定時に上がり、休暇もしっかり取る働き方が主体のドイツ医師会に置いて、彼女は仕事中毒ワーカホリックに等しい。

一方、ラファエラもその傾向が有る。「家庭の仕事は女のもの」という意識が日本と同様に強いドイツに女の管理職は少ないが、その働きぶりは男共が対抗する気も起きないほど徹底している。

「日曜の夜から大変だったわね」

「いいえ、昨夜の件は予定通りに済みましたから」

やや浮かぬ顔で言いながら、持参したビジネスバッグから書類を取り出し、室内の棚にファイリングし始める。それが済むと、電気ケトルの脇に有ったカップを見下ろした。一体いつから浸っていたのか不明のティーバッグと中身を捨てると、新たに湯を沸かし、別のカップを二揃いとハーブティーを取り出す。

「”あの子”は、どうだった?」

不意に背後から響いた声に、カップにティーバッグを落としていたラファエラは振り向いた。シンプルな金とシードパールのピアスが揺れる。

「有能……だと思います」

歯切れの悪い返答に、主人は「そう」とだけ相槌を打ち、また仕事に戻って行った。

「……男は、信用できませんが」

言い訳のように呟いたラファエラも手元に戻り、ハーブティーを淹れ直してから主人のデスクにそっと置いた。

「ありがとう」

すぐに礼を述べたが、手を付けずに画面に集中している女の傍ら、ラファエラは運んできた椅子に腰かけ、黙って自分のカップを傾けた。のんびりしている様だが、彼女が座って一服するのは十時間ぶりといっても良かった。

そしてこちらも一体何時間働いていたのか、溜息を吐いた主人が眼鏡を外し、ようやくハーブティーに口を付けた辺りで、ラファエラは静かに切り出した。

「レベッカ、ブレンド社から通達が有ったと思いますが……」

「ペトラでしょう? 空港から市街地の様子に気付くなんて、エセ紳士に預けておくには惜しい才能だわ」

「ネオナチの犯行に付いて説明を求められていますが、如何致しましょう?」

「”見たまま”とでも答えればいい。防げないから”テロ”なのは向こうも知っている」

「彼女の市街地への立ち入りは」

「不可。こちらのイレギュラーに対して、あちらに損害は今のところ無い筈。寄越した坊やはテロに巻き込まれても死なないでしょう」

女は素直に頷いて、自身の端末を取り出して操作し始めた。

「未春に関してはそうなのですが……一点、断りを入れてきています」

差し出した画面に映っていたのは、空港らしき場所を歩く二人の青年の写真だ。片方はすらりとした日本人――とはいえ、アッシュの髪に琥珀色の目が日本人離れした印象の十条じゅうじょう未春。そしていま一人――ベージュの髪に森のようなグリーン・アイの痩せた白人にレベッカは眉を寄せた。

「この男……」

「ご存じでしたか。ニム・ハーバーです」

「――知ってるわ。ブレンド社に放置された正体不明の赤子……」

何かいわく有り気に呟くと、レベッカは首を捻った。

「今は作家になった筈じゃないの?」

「はい。彼はブレンド社としてではなく、所属する出版社関連の取材として、未春と同時期にベルリンに入る予定だったそうです。未春の申し入れが急であったのも有る様ですが……互いに認知していなかったらしく、ブレンド社とは”非常勤”として関係が切れていないので、別行動した際の彼への誤認被害を考慮し、未春を同行させたと言っています」

主人は忌々しそうに鼻を鳴らした。

「エセ紳士の考えそうなことね。ウチを猛獣の住処とでも思ってるのかしら」

「ですがレベッカ、当方のスタッフが未春に接触する際、作家に害が及ぶ可能性が有ります」

慎重なラファエラに、主人は思案顔でカップを傾けた。

”エセ紳士”こと、調査会社BLENDの代表にしてBGMイギリス支部代表でもあるスターゲイジーが、ドイツに出禁になった事件はラファエラも知っている。

もともと、スターゲイジーと、アメリカ北米支部のミスター・アマデウスはレベッカと旧知の協力関係だが、その仲はビジネスライクというにはプライベートに深入りし、悪友というには微妙な利害と憶測の上に成り立つ。

強いて言えば、この自称・紳士どもは彼女に譲歩することが多く、声高に非難されれば素直に引き下がる。それは彼女の素性にも由来するが、当のレベッカはこの二人を害虫か何かのように嫌っており、要求を飲むことは滅多に無い。

今回は、その”両方の”要求に応えている。つまり、異例ずくめの対応なのだ。

そこを更に突くようなニム・ハーバーの同行は、ブレンド社側でも頭の痛い問題だろうが、見方によっては未春の保身にも結び付く。下手にドイツ支部の者、或いは無関係の者にニムが攻撃を受けると、殺し屋とは無縁の彼は無事では済むまい。そうなった場合、レベッカが嫌いな紳士に何を言われるか、或いは更なる要求を強いられるかは想像に難くない。

――第一、未春がスターゲイジーを頼る点からして、作意が透けて見える。

「……ラファエラ、覚えておきなさい。真の悪党は、ああいう男よ」

「はい。男は信用できません」

事務的に頷いた女に、レベッカは衰えぬ賢さを湛えた目を向け、冷たく言った。

「ミハルに対してのテストは予定通り進めなさい。似た容姿の子を用意するなんてトオルにはわけもない。ネオナチについては動向に注意しながら扱って」

「作家に関しては」

「放置。障害になるなら死なない程度に排除。たかが目が良いだけの男、行動不能にする方法はいくらでもあるわね? スターゲイジーがガタガタ言うなら私が治す」

「かしこまりました」

ひとつも疑うこと無き眼を向けて、ラファエラは頷いた。

「では、市街の事は頼むわ――ああ、でも、程ほどに休むのよ? いくら貴女が若くても、無理は禁物なんだから」

「そのままお返しいたします、レベッカ。なるべく、エマとラナの言うことを聞いて下さい」

「……ええ、そうね――宜しく」

健康についてはルーズな主人に、ラファエラは若い娘らしい笑顔を浮かべ、スッと立ち上がると、深く頭を垂れた。

Alles klarアレスクラー(了解です)。仰せのままに」




 〈二人とも、ちょっと来なさい〉

到着後、本当に同じ旅客機に居たのか怪しい女からの連絡に、未春とニムは大人しく従った。ベルリン・ブランデンブルク国際空港は、物流や人の移動の中継地・地域拠点として建設され、かつてベルリンに三つ在った空港が路線分散による需要低迷で閉鎖されたことから、現在はこの空港のみとなっている。

かつて隣接していた空港の機能を利用した場を含めて開発途中であり、現状使われているターミナル1と2以外にも、3から5が計画段階で、2に至っては完成間もない為に真新しい。幾つかあるラウンジの一つで、喪服の麗人は、洒落たスツールに囲まれた明るい窓際の席に居た。

椅子にもたれて足を組み、外を眺める女に近付くと、刃のような目が振り向いた。

「どうしたんだい、レディ?」

「外を見て」

「?」

示されるままに二人が窓の外に目をやると、航空機が移動する巨大滑走路が広がっていた。様々な色柄の飛行機が並び、移動しゆく様は航空機ファンにはたまらないだろう光景だが、何か変わった様子はない。麗人――ペトラ・ショーレこと、『レディ』は冷たく言った。

「もっと奥。ニム、あんたは見えるでしょう?」

「奥……って、ベルリンの町かい?」

さすがに町は見えないよ、などとぶつぶつ言いながら、薄曇りに森のようなグリーン・アイを細めていたニムが、「ん?」と呻いた。未春も目を凝らすと、草地や道路の奥――空中にひとつ……いや、二つ、三つ……異様なものが見えていた。

煙だろうか。町が在る方角に、幾筋かの煙が上がっている。

「なんだい、あれ……火事?」

「火事といえば火事だけれど、違う。私達の便が到着する前の出来事よ。現地の情報が少ないから、ギブソンに頼んだ」

麗人が差し出す端末に並んだ情報は、ブレンド社のスパコンと呼ばれる男からだという。

「ネオナチによるテロだそうよ。尤も、ここ数年、頻発している事例に比べれば可愛い犯行ね。いつもの白人至上主義の連中が騒いだだけかもしれない」

「物騒なのは前からだけど……なんだか最近の連中は手軽にやるねえ……」

自分たちの街だろうに、と、眉をひそめるニムをよそに麗人は未春に向き直った。

「ネオナチについては知っている?」

「醜聞だけです」

「それでも充分ね」

大儀そうに頷いた麗人は、それでも一応、説明してくれた。

ネオナチとは、かつて存在したナチス・ドイツを支持する極右民族主義の団体というのが主な概要。白人至上主義と外国人排斥を主体とした政治思想を持つ過激派のことだが、中には肝心のナチズムを原初としていなかったり、攻撃対象もユダヤ人以外に、イスラム教徒や移民、アジア人、同国民のLGBTさえ排斥しようとする連中も居るという。

「要は手の付けられない暴徒。欧米各国で手を焼いているわ」

「イギリスでもテロが有ったね……白人至上主義なんて馬鹿げているよ。僕らは地球市民だってのにさ」

いずれも白人系である二人の意見に賛同しつつ、未春は小首を傾げた。

「レベッカさんとは関係ないのでしょうか」

「無関係かはわからない。レベッカが奴らに非協力的なのは知っているけど」

「じゃあ、これは僕らを脅すための行動じゃあなさそうだ」

「ええ。ただし、市民には妙な情報が出回ってるわ。ベルリンの全てのタクシーに緊急時以外の利用を禁じる通告よ」

「え、そんな横暴……誰が出来るんだ?」

狼狽えた作家を、黒帽子の下から鋭い視線が仰いだ。

「忘れたの、ニム? このベルリンを支配するレベッカはBGM内でも特殊な存在なの。同時にこの国は、彼女が居ることで滞りなく回り、女たちは彼女に楽園を作ってもらったと思っている。彼女たちを好み、恐れ、或いは崇め、助ける男も恩恵を受けられるのが此処のセオリーよ。この件がレベッカと関与がなくても、”理由にすること”は可能でしょう」

「じゃあ……彼女たちにとっても予定外の事が起きてるんじゃないか? レディも来るのかい?」

「いいえ、今のところは約束を守る。向こうも態度を変えず、私の市街への立ち入りは許可していない。空港内または隣接ホテルに待機するわ」

彼女が帰らないことに、ニムはどこかほっとした顔をした。憎まれ口を叩きつつも、彼が如何にペトラを信頼しているのかがよくわかった。

「良かったですね、先生」

思わずそう言った未春に、両者が揃って怪訝な顔をしたが、先にニムがにこりと微笑んだ。

「うん、レディが居るのは心強い。……なんたって、一人で一小隊並の武力があるんだからね」

小声で物騒なことをのたまった作家を麗人はじろりと睨んだが、訂正せずに未春を仰いだ。

「レベッカが状況をみて立ち入りを許可するか、向こうが約束を反故にしたら私も町に行く」

未春は小さく頷いた。

「レディ、航空機内で先生に何か飲ませようとしたスタッフが居ました」

ああ、そうだったとニムがバッグから先程のコーヒーを取り出すと、受け取った麗人は容器に目を細め、おもむろに蓋を開けると匂いを嗅ぎ、すぐに閉めた。

「毒では無さそうね」

「どうする?」

「どうもしない。不審物に名前は書いていないのを自覚して持ち歩きなさい」

ニムは肩を上下させ、捨てるかと思いきやバッグに戻した。麗人も咎めずに未春に顔を上げた。

「万事この調子で悪いけれど、こいつのお守りを頼むわ」

「はい」

当の作家は未春と麗人を眺めやり、やれやれと首を振った。

「次の作品は激しいアクション・シーンがリアルに書けそうだなあ……」

「ニム、あんたはとにかく未春の足を引っ張らない様に自重して」

ぴしゃりと言い付け、麗人はしょげる作家と起立している青年を見た。

「私の勘で悪いけれど、今はあんた達が一緒に行動するのが最良だと思う。別々になると、何が有るかわからない。一人になる時は特に注意すること。いいわね」

「大丈夫です。先生は……大丈夫な気がします」

根拠もなく出た言葉を、何故か麗人は否定しなかった。

当の作家も、過激アクションを想像しているとは思えない顔で微笑んだ。

「じゃあ、行こうか。鉄道が通っているからすぐに着くよ」




 喪服の麗人が、二人を見送った後。

彼らが空港を出るには充分な時間を経て現れたその客は、あらかじめ待ち合わせていたかのように、目の前に堂々と座った。

「ご機嫌いかがかな、『レディ』」

麗人は滑走路を眺めていた目を、鞘から刃を抜くように客に向けた。

にこやかに足を組んで座っていたのは、初老というにはまだ早く見える、スーツ姿の金髪碧眼の白人だ。頭の先から爪先まで一流品で固めている男に、麗人は先程よりも硬質の声音で言った。

「ごきげんよう、ミスター・アマデウス」

いつの間にか、入り口の方には同じくスーツ姿の大柄な白人が立っていて、辺りに他の客は居ない。それを見向きもしない麗人に、アマデウスは足を組んでにこやかな笑みを向けた。

「今回は、世話になったね。君の働きに感謝したい」

「いいえ。私はボスの命令に従っただけですし、まだ仕事は済んでいません」

「おお、ブレンド社は皆、謙虚な働き者で驚かされる。ロバートが羨ましいな」

何に対してか、麗人は帽子の下で不敵な笑みを浮かべた。

「ミスター、私に何の御用ですか」

「いや、なに、ディナーをご一緒して頂けないかと思ってね」

「ディナーですか」

「レベッカに断られてしまったんだ……ああ、勘違いしないでくれたまえ、代わりにというのではない。君には今度の件でお礼をしたいと思っていた」

「お気遣い、ありがとうございます。”見合うもの”が頂けるのでしたら、お付き合い致します」

「有難い」

足を組み替えてニヤリと笑う男に、麗人はそっと首を振った。

「私はレベッカとの約束で、空港近辺から動けません。それで宜しければ」

「フフ……まったく、彼女はいつまでも警戒心が強いお嬢様だ。さて、私は何処でも構わないが、女性を誘う場所は選ばなければね」

アマデウスがちょいちょいと片手の指を動かすと、すかさず、立っていた大柄な白人が自身の端末を操作し、主人に見せた。アマデウスは「おや」という顔をする。

「ジョン……ドイツは女性と向かい合うのに、家庭的な雰囲気が主流かい?」

大男は無表情に肩をすくめ、麗人の方に恭しく差し出した。

女はよほど主人めいた姿勢で確認して、軽く頷いた。

「ミスター、ドイツを味わうには程よい店です。私は構いません」

「宜しい。女性と向かい合ってシュニッツェルとビールというのも悪くはない」

大男がてきぱきと予約を取り始める傍ら、ところでとアマデウスは体の前で両の手を組み合わせた。

「レディ、君から見て、未春はどうかね?」

「殺し屋として、ですか?」

「いいや、人物的にだ。既に君たちは相当な下調べをしている筈。その調査が導き出すデータは、私の予測に対する検証を大いに助ける」

「――確かに、弊社は十条十じゅうじょう とおるを含め、調査は続行しています」

「素晴らしい。未春や十以外も調べているのだろうね……例えばそう、実乃里も」

「さあ、私は日本での調査には直接的に関与しておりませんので」

「フフ、まあいい。突然変異というものは実に厄介だ。”人工物アーティファクト”もまた然りだが」

女は今度はわかりやすく鼻で笑った。

「ミスター、私たちは情報を扱う企業です。先に魅力をご提示されるのは迂闊かと」

「おお、しまった。見返りが必要か。では、その”人工物”の話をしよう」

帽子の下でちらりと持ち上がった目が切れ味を増すが、アマデウスは表情を変えることなく続けた。

「少し前、君たちの”調査”によって、ドイツ医療を裏切り、学会を追放されていた男は死亡が確認されたね。彼が持ち去ったろうデータは、例の閉鎖国家にも無かった。今回、君ほどの人材が出張って来たのは、ドイツにそれがまだ有ると踏んでのことだろう?」

「申し訳ありませんが、事実の正否に関わらず、調査についてはお話しできません」

「ハハハ、知っているとも。いいんだ、レディ……君たちのその回答には、そう答える意味を持つ礼儀が有る」

「ご理解頂けて何よりです。……ミスター、私は今回、あくまで付き添いです。此処に居残るのは、弊社の身内である作家の件と、現在のベルリンで起きているテロという不測の事態が立て込んだ為に過ぎません」

「君がそう言うなら、そういうことだね」

ゆったりと背もたれに身を預けて、アマデウスは優雅に微笑んだ。

「ミスターの目的は、お話し頂けますか」

「私は此処で起きることを見に来ただけさ……東京に引き続き、”三者”が一堂に会するイベントだからね」

「東京見物を控えられた理由を伺っても?」

「君らの上司に会うと、殴られそうだからねえ」

満更ジョークでもなさそうな一言だが、はぐらかす調子の男を鋭い目が射貫いた時、予約を取り付けた大男がカフェで受け取ったコーヒーを運んできた。長く勤めたウェイターのように麗人の前に置き、主人の前にも置くのを、刃のような目が見つめた。

「お元気そうですね、ジョン・スミス」

鋭い一言に、大男は無言で目礼した。それを見たアマデウスがニヒルに口元を歪める。

「愛想が無くてすまないね、レディ」

「構いません。グレイト・スミスの血筋に愛は無いと聞いております」

「ほら、言われてしまったじゃないか、ジョン」

アマデウスの苦笑に、品よくコーヒーを嗜んだ麗人は静かに言った。

「ミスター、”人工物”の件ですが、一つ、御忠告致しましょう」

「何かな?」

「レベッカにも申し上げましたが、弊社のニム・ハーバーには、手出しなさいませぬよう、お気を付けください」

「ほう」

面白そうに顎を撫でると、首を捻った。

「それはつまり、君にとって大事な人物と言うことかな?」

「まさか」

麗人はこれまでで最も酷薄な笑みを浮かべると、カップを置いて両の腕をなめらかに組んだ。

「あれは、貧相な見掛け故に『白アスパラガス』と呼ばれますが、本質を知る者には、『グレムリン』と呼ばれております」

イギリスの妖精の名に、さすがのアマデウスも怪訝な顔をした。

グレムリンとは、人間の発明を助けてきた妖精が、人が感謝や敬意を忘れた為に、次第に人を嫌って悪さを始めたという存在である。悪さの代表格が航空機事故で、機械やコンピューターが原因不明の誤作動を起こすことを「グレムリン効果」と呼ぶ。

無論、科学的根拠など無いが――アマデウスが管轄する北米でも、航空機または航空機部品に対し、注意喚起が為された歴史も有る。

「ニムは時に、私の能力からも外れます。その理由は弊社でも不明――それでも、彼が予測不能の何かを呼び込み、不可思議な現象を引き起こす、或いは体験する要因となった事は一度や二度ではありません。単に運が悪いと見られることも多々有りますが、見方によっては幸運でもある。今回の件でも、あれが此処に迷い込んだことが、誰かの得になるのか、損になるのかはわかりませんが、何もない可能性は低いと見ております」

「面白い。今のところ、身近に居る未春が影響を受けそうだが、被害を被るのか、助けられるのかもわからないわけか」

「仰る通りです。私たちが二人に同伴を指示したのは、両者の為でもありますが、未春の能力をかんがみての判断でもあります。――そうした意味では、私どもは彼を高く評価していると思って頂いて宜しいかと」

「ロバートらしいね」

スターゲイジーの判断と見抜いている男に、麗人は答えることなくカップに口を付けた。

「安心したまえ。私は彼に興味は有っても、危害を加えるつもりはない。機会が有るなら話してみたいが」

「あまりお勧め致しませんが、話すだけならお好きにどうぞ」

気のない様子の麗人を眺めつつ、アマデウスは傍らの大男を見上げた。

「また、ハルの困り顔が拝めそうだね」

何処かウキウキした調子のアマデウスを、麗人は幾らか呆れた目で見たが、大男はわずかに灰色の眼を和ませると、重い程の低音で答えた。

「……先に怒りださないといいのですが」




 その頃、未春とニムは鉄道に揺られ、ベルリン市街地に辿り着いていた。

日本で言う東北の感覚だろうか、空気は身に沁みる冷たさだ。空は曖昧な薄曇りで、より寒々しい印象を受ける。ニムも寒そうに身を縮めて白い息を吐いた。

最初の降車駅は、アレクサンダープラッツ。

ベルリン中心部の手前といった辺りで、名前の通り、アレクサンダー広場に面し、ベルリンの景観ではひときわ目立つ尖塔のようなテレビ塔の目の前だ。広場には、世界中の時がわかるという旧東ドイツ時代の巨大なアナログ時計「ウーラニアー世界時計」が、巨大な円盤に金属の衛星を乗せたような不思議な姿でじっくり動き、駅周辺は近代的なビルなどが林立している。

シュプレー川方面に向かうにつれ、赤の市庁舎や聖ニコライ教会などが並ぶ中世の趣ある街並みに変わり、更に川沿いを行くとベルリン大聖堂へとたどり着く界隈は、観光のみならず、人が多い。駅から程近いホテルにスーツケースを置きに行くと、地図を確認しながらニムは首を捻った。

「僕の予定だと、今日は図書館を巡って……午後一番に『赤の市庁舎』の中をこっちの知り合いに案内してもらう約束なんだ。日が落ちるのが早いからね……四時頃には真っ暗になるから」

「はい。先生の予定通りで構いません」

「そうかい? でも、いつレベッカさんに接触するつもりなの?」

「考え無しですみませんが、タイミングが有ると思うんです」

普通、居所がわかる人を訪ねるなら、その場所をただ目指すだけでいい。しかし、既に此処はこちらを歓迎していない淑女の支配地である。

「門前払いされる可能性が高いことは、スターゲイジーに聞いています。患者には親切だという話なので、ひょっとしたら俺をボコボコにしてから院内に運ぶ算段かもしれない、とも言っていました」

「ボスはそういうこと言うから、嫌われるんじゃないかなあ……」

ご尤もと言わざるを得ない一言をぼやき、ニムは頷いた。

「わかった。門前払いも暴行も憶測だ。君を動けないほど攻撃するのはそう簡単な事じゃないし、紳士的なコミュニケーションを試す価値はある。明日はベルリン中央駅周辺に行くから、レベッカさんの病院の傍を通るし、行けそうなら入ってみよう」

「はい。ありがとうございます」

如何にBGM関係者の施設でも、表向きは正規の病院だ。全員が裏向きの人間であろう筈もないし、こちらも入場を断られるような怪しい出で立ちではない。

身軽になった二人は町を眺めながら歩き出した。ベルリンの街並みは、重厚な石造りの建物とガラス張りの近代的な建物が点在し、見通しの良い広場や幅広い道路や街路樹が葉を茂らせる歩道、自転車や車、人々が行き交う様子はロンドンや東京とも大差ない。朝一でテロが有った割に混乱した様子が見られないのは、果たして異常なのか、国民性なのか。

「小腹が空いてきたなあ」

こちらも空港での緊張感はどこへやら、ほんわかと呟いたニムである。

「まさか、あちこちで一服盛ろうとはしないよね」

楽観的な意見だったが、逆らう気のない未春は素直に頷いた。

ドイツの食は素材を頂く感じという意見も有るが、美味い料理は沢山ある。未春に至っては、何故かF市に人気のドイツ料理屋が有る為、妙に馴染み深い。本場仕込みのハム・ソーセージ等の製造工場が運営するその店には、定番のヴルストや地元製造のビール、アイスヴァインや煮込み料理が揃い、ホットドッグに至っては他の店でも市の名物として作られている。

ニムは殆ど吸い寄せられるようにカリーヴルストの屋台で立ち止まった。

食べやすくカットしたヴルストにトマト系のソースとカレーパウダーをどっさり乗せたそれは、ベルリンのソウルフードだ。少し歩けば販売店が見つかると言っても過言ではない人気の軽食で、太めのソーセージをこんがりと揚げ焼きにした香りとスパイスが、齧る前から漂う。待ちきれぬ様子のニムの手前、店員が素晴らしい手際でヴルストをカットしようとした時だった。手早い動きにか、それとも長年使った故か、すっともたげられた勢いでペティナイフの刃だけが柄からすっぽ抜けて吹き飛んだ。

――わくわくしていた、ニムの目の前に。

空気を唸らせて回転した刃は、作家の目の前――文字通り”目の前”で、止まっていた。遅れてやってきた恐怖と驚愕に硬直した作家の前には、何気なく刃を摘まむ手。

「……び、びっくりした……!」

何が飛んできたかは見えていたらしいニムが、微かに風圧を感じた前髪を押さえて総毛立つ中、怖じる様子もなく、刃を素手で摘まんでいた未春が見下ろした。

「大丈夫ですか?」

問いかけた未春の手は、いつ伸びて来たのかもわからなかった。空中に浮いていた刃をただ摘まんだかのような気軽さで、驚いた様子の店員にそっと返した。

当の店員は”普通の”店員だったらしい。ものすごく謝られたが、未春は気にしなくていいとかぶりを振り、辺りの客や目撃した通行人からは驚きと賞賛の拍手が出た。無論、顔面をカットされずに済んだ作家も惜しみない拍手をした。

店員がサービスの上、オマケを追加してくれたそれを受け取る青年を、遠くから見ていた二人の若い女が居た。互いにメンズライクなジーンズに白いダウンの装いで、金髪ロングヘアの背格好は姉妹か近親者のようによく似ている。

「ロッテ、今の見た……?」

「見た。ねえ、イルゼ……今のを撮っておけば良かった。普通の人間にあんなことできないでしょ……これ以上、何かする意味ある?」

「この距離じゃ撮れないんだから仕方ないわ。私は何もしないで帰って、ラファエラ姉様に叱られたくない」

「私だって」

女たちが居るのは、店が立ち並ぶ辺りを見下ろせるビルの中だ。

ターゲットは双眼鏡でようやく見える距離だが、相手は耳がずば抜けて良いと聞いている為の措置である。有効範囲は彼の調子にも左右されるそうだが、体調不良だからといって精度が落ちるわけではなく、むしろ鋭敏になることもある為、最新の注意を払えというお達しだった。テレビ塔周辺はもともと人通りも多く、商店も多いエリアだ。人の騒ぎに紛れることはできようが、彼も自身が危険な目に遭う可能性は考慮しているだろう――少なくとも、半径50メートル内に居る場合の会話は、建物内か、音漏れのない空間で行うのが安全というのだが。

「あの日本人も、ドイツ語がわかるの?」

「知らないわ。殆どの日本人は話せないと聞くけれど」

「もう一人はどう?」

「他の客と喋ってるから、多少はわかるんじゃない?」

双眼鏡越しに見るもう一人の男は、実に美味しそうにカリーヴルストを頬張り、青年に楽しそうに話し掛け、何なら隣席の見知らぬカップルとも陽気に喋り始めた。

「なんか……緊張感のない男ね」

「”あの”ブラックの親友って聞いたけど本当かしら」

代表のレベッカが、支部内で暴れたスターゲイジーことロバート・ウィルソンと、ラッセル・アディソンを嫌っているのとは別に、男嫌いの彼女が「女には強過ぎる毒」として注意喚起するのがブラック・ロスである。あの男が容姿・実力共に厄介なのは納得がいくが、その親友という男は危険な印象が全く無い。

「知り合いには、シュパーゲルって呼ばれてるらしいわ」

「確かにシュパーゲルだわ」

にこにこしている白アスパラガスシュパーゲルを眺めて、女たちは唇を歪めた。呑気そう、と付け加えられても致し方ない作家は、何かインスピレーションでも湧いたのか、カップルの話に耳を傾けながらしきりにメモを取り始め、今度は別の老人に話しかけられて、寒々しい空気の中で会話の花が咲いているようだ。その様子を未春は美味くも不味そうでもない顔でヴルストを食べながら眺め、時折頷いたり、首を振ったりしている。

「仕掛けるのがアホらしくなってくるわね……」

「しっかりして、ロッテ。こっちを油断させる為かも」

「そうだけど、私たちが今見てるのはカリーヴルストを楽しむ観光客よ」

「そうよ。BGM関係者のね」

互いに肩をすくめて、結局――彼らがヴルストを食べ終え、喋った連中と和やかに別れるのを見届け、女たちは顔を見合わせた。

「仕方ない。気が進まないけれど、行きましょ」

「そうね。行きましょう」

本当に只の観光客なら尾行するのはわけもないのだが、人の往来はごみごみしていない上、見通しの良い通りが多い為、後ろに人が付いてきていれば素人でもすぐにわかってしまう。故にというわけではないが、二人はビルを出ると、他の人間同様、上着のポケットに手を突っ込み、普段通りに歩いた。

目に入っても構わない。目に入る頃には、仕掛ける時だ。

「美味しかったし、楽しかったねえ」

一杯ひっかけた後のように話す作家の声が聴こえて来た。周囲には程々の通行人。

未春は彼の隣を歩きながら、何やらぼそぼそと受け答えしている。

女たちが何気ない様子で数メートルの距離まで近付いたときだった。

「おい! 止まれ!」

不意に横合いから響いた声に、女たちはそっくりの鬱陶し気な顔を向け、前方を行く未春たちも振り向いた。

「お前ら、ラファエラのとこの女だろ!」

別の通りから、四人の男が人相の悪いそれを向けて歩いて来た。その内二人はわかりやすいスキンヘッド。彼らの声に、間近に居た店のスタッフがびくりとし、慌てて奥に引っ込んでいく。一方の女たちは揃ってつんと顎を逸らせた。

「だったら何?」

「私たち、忙しいんだけど?」

臆す様子もなく問いかけた女たちに、男たちは苛立たし気に目を剥いた。

「今朝の騒ぎを知ってるだろ? いや、昨夜からだ!」

男は怒りに震える唇で喚いた。

「仲間をった奴を出せ!」

女たちは機械仕掛けの人形が向かい合うように顔を見合わせ、呆れ顔で首を捻った。

「私たちは知らないわよね、イルゼ」

「ええ、ロッテ。ラファエラ姉様を知ってるなら、聞きに行けば?」

そう言って立ち去ろうとした女たちを男たちは睨みながら取り囲む。通行人がざわめき、誰かが通報らしき電話を掛け始め、誰かが動画を撮ろうと端末を掲げる中、その男はすたすたと引き返してきた。

「こらこら、君たち! 女性二人に男四人で突っかかるとは何事だい?」

ベージュの髪にグリーン・アイを吊り上げ、細っこい肩をいからせてやって来た男に、アウトローは元より、女たちも驚いた顔をした。


――まさか、”シュパーゲル”の方が先に声を掛けてくるとは。


当然、男らは飛んで火に入る白アスパラを眺め回して面倒臭そうに片手を振った。

「観光客か? 怪我したくなけりゃ引っ込んでろ!」

「おっと、そんなこと言われたら尚更引っ込むわけにいかないね。落ち着いて、まずは紳士的に話し合おうじゃないか。そうすればどんなときにも無駄な争いは――」

「うるせえ!」

勇敢な身の程知らずを押し退けようと、男が手を伸ばした時だった。その手は瞬き一つで横から忽然と現れた別の手にがっしり掴まれていた。

「な……なんだ、お前……!」

「乱暴はやめてください」

アッシュの髪の下、涼し気な美男のぼそぼそした忠告が、カッと頭に血が上った男に伝わったかは定かでない。闖入者がアジア人だったことが尚気に喰わなかった様だ。

勢いよく手を引いた男の目は、もはや話し合いをする色ではない。

「お前……! アジア人だな? さては仲間を殺ったのはお前か?」

一瞬、怒りと共に出たドイツ語の意味がわからずにきょとんとした青年の袖を、白アスパラがちょいちょい引っ張ってから代わりに言った。

「彼は何もしてない。君らの仲間のことは知らないし、僕らはドイツに今朝着いたばかりで――」

「黙れ! 白人とアジア人がつるみやがって……怪しい奴らめ!」

無茶な言い掛かりに、又しても言葉を遮られた作家が幾らか不服そうな顔になる。

「ねえ、君たち、こんな往来で揉め事はよくない。困りごとなら警察に――」

「うるせえっつってんだろ!」

三度目の妨害は、作家が何か言うより早く拳が振られていた。威嚇に留まらない強打が勢いよく打ち込まれた筈だったが、次の瞬間、加害者は一人で転んだように前のめりに突っ伏した。他の男たちがぎょっとする中、片手だけ軽く宙に浮かせた青年は何もしなかったと言わんばかりに突っ立っているだけだ。

「な、何しやがったこいつ……!?」

「やっぱり、千間せんまさんみたいにはいかないな……」

倒れた男――否、片手を見下ろしながら何やら日本語らしき言葉を呟く青年に、残った男たちは慄きつつも、罵声と共に襲い掛かった。白アスパラや女たちが口を挟むいとまもない。次々に倒れる男たちが居なければ、青年は辺りを数歩、ゆらゆらっとステップを踏むように歩き回った様にしか見えなかった。

女たちが、通行人と同様に息を呑む。

目の前で凝視して尚、よくわからなかった。合間合間で、手や長い脚を引っ掛けたりしていたようだが、殆ど力を加えた様には見えず、何なら男たちは勝手に勢いよくすっころんで、勝手に石畳へと額を打ち付けたような印象だ。

――これが、”あの”スプリングの適合者。

「おお、すごいや、未春……さすがの僕もびっくりだ」

額を撫でながらぼやいた作家は果たして”見えて”いたのか、倒れ伏した男たちを森のような緑眼できょろきょろと見下ろした。彼らは一様に何かの痛みに呻いている。

最初にやられた男は悔しそうに顔を上げたものの、眩暈でもしたのか、すぐに重そうに頭を下ろした。

「今のはアレかい? 柔道かい?」

「いえ、俺のは只の人真似なので」

「へえ……スマートで美しい技だねえ。親友とは大違い」

「先生は、見えましたか」

「ほんのちょっぴり。いやはや、大したもんだ」

先程のナイフの件のようにストレートな賛辞を送るニムに、未春が少々照れ臭そうな顔をしていると、女たちがコホンと咳払いをした。

「あ、失礼、お嬢さん方。お怪我はないですか」

すっかり忘れていただろう姿勢からにこやかに訊ねた英国紳士に、女たちは曖昧に笑んだ。

「おかげさまで」

「何ともないわ」

引きつった笑みを浮かべつつも女たちが礼を述べると、それは良かったと作家は微笑み、ようやく響いて来たサイレンに小動物のように耳を澄ませた。

「行って頂いて結構よ」

「此処は私たちが説明するわ」

女たちの寛大な処置に、二人は顔を見合わせた。

「そうかい? じゃあ、失礼しようか……ドイツの聴取は厳しそうだから」

要らぬことを言い添えるニムに、未春も頷いた。

会釈しながら立ち去る二人に、女たちは揃って片手を振った。

「お気を付けて」

「ごきげんよう」

女たちの挨拶に倣うように片手を挙げ、しばし歩いてから、未春はぼそりと言った。

「先生、何か見えましたか」

「うん、見えた。両方のお嬢さんが隠しカメラを持っていたよ」

「俺は音が聴こえただけなんですが……カメラだったんですね」

「ああ。記者やスパイが使う、ペンに収まる様なやつだ。さっきのはさしずめ、君に対するテストということかな?」

「そうだと思います。男たちの方は偶然現れたようにも感じましたが……」

「ふむ。笑って手を振ってくれたということは、合格と見て良さそうだね。戻って、レベッカさんに会えるか聞いてみるかい?」

「どうでしょうか……彼女たちは交渉する立場にないのかもしれません」

「うーむ、確かに。こっちの質問に親切に答えてくれるなら、隠し撮りすることは無いものね。できれば、図書館では騒ぎを起こさないでもらいたいなあ……図書館は静かに本を読むところなんだから」

その通りとしか言い様のないことを呟いたニムは、ふと、思い出した様に言った。

「そういえば彼女たち、よく似ていたね。姉妹かな?」

気にしなかった未春は肩越しに振り返った。

そこでは到着した警察が彼女たちに敬礼し、男たちを有無を言わさずパトカーの中に引っ張り上げるのが見えた。女たちは被害者として成り行きを眺めているようにも見えるが、彼女たちが現場監督をしているようにも見える。

それを観光客が好奇の目で見る中、特に気にした様子もなく行き過ぎるのは現地の人々だろう。皆、一仕事片付いたような顔で立ち去り、商店は何も無かったように営業を続けている。

――似ているか、どうか。

服装や体形が揃っているので似ているといえば似ているが、髪型やメイクは微妙に違うので、欧米人の区別があまりつかないのも含めてよくわからなかった。

強いて言えば、声はそっくりだった。

自分の中で鋭い五感は聴力であり、ニムは視力が優れているのだから、その直感では姉妹といって難が無い……しかし、姉妹だからといって声まで似るのだろうか?

女たちの視線が持ち上がる前に、未春は前方に視線を戻した。

思ったより敵意は感じなかったが――女心に疎いハルトは、とっくにボコボコにされているかもしれない。

自分をまるきり棚に上げ、未春はニムに続いて図書館に続く道を歩き出した。

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