第3話 目が合った

 ソレは、存在を漆黒で塗り潰されていた。

 ソレは、カラスの翼を持っていた。

 ソレは、百獣の王の頭を持っていた。


 その獣は、血で濡らした口元を酔ったように歪ませていた。

 黒い獣は今、狩りをしている。


 異様な肉体を駆使して、逃げ惑う人間の背中を引き裂き、齧り付き、潰している。


 目の前の光景は地獄そのものだった。

 俺は動けなかった。

 目の前でクラスメイトが殺され、日常の風景が地獄に変えられている。俺は感覚が全て無くなったかのような錯覚を覚えた。

 目の前の景色がぼんやりとして、音も少しずつ遠くなっている。


 あぁ、俺は今日ここで死ぬんだ。

 不思議とそう納得した。


 出来れば眠るように死にたい。

 痛みもなく、絶望もない。

 そんな風に人生を終えたい。

 いつの間にか俺は眠っているような心地よさを感じ始めた。


 ……それなのに、俺を起こそうと揺さぶってくるやつがいる。誰だよ。気持ちよく寝れそうなのに。


「————!———ん!」


 うるさいって言ってんだよ。


「——くん!—りやくん!」


 しつこいなぁ。


「守屋ッ!」


 パシンという音が体に響く。


「え、せ、世羅ちゃん?」


 橘の驚いた声が耳に届く。


 今まで目を閉じていたかのように、視界も開く。目の前には世羅がいた。少し怒っているような気がする。


 右を向くと、橘が困惑した顔で世羅と俺を交互に見ている。


「私、その諦めた顔嫌い。早く逃げるよ」


 世羅に手を引かれて、走り始める。

 不思議と、この感覚が懐かしく思った。もしかして昔もこんなことがあったのではないか、そう思った。

 だけど、俺は足を止める。

 そして、世羅を引っ張って近くに寄せ、背中に乗せる。所謂おんぶってやつだ。


「な、なんでっ」


「こっちの方が速い」


 しっかりと背中に固定して、走り始める。

 後ろを見ると橘も走って着いて来ている。

 俺たちは猛スピードで駆ける。

 俺と橘は『敏捷』を持っている。それなら、こっちの方が速いのではないかと思ったが、大当たりだ。自転車より断然早く走ることができている。


 ライオンもどきに目をやる。

 狩りを楽しんでいて、俺たちに気づいてない。

 それに、もし今気づいても遅い。

 俺たちは10秒に満たないうちに、100メートルほど離れた場所まで走って来た。

 もう目の前に狭い路地がある。

 あそこに入ればアイツは追って来れないはずだ。路地は少し遠回りになるけど学校のすぐ近くまで繋がっている。


 最後の確認だと思い、黒い獣の方を見る。


 ——目が合った。


「……ッ」


 思わず息を呑む。

 いや落ち着け。大丈夫だ。

 あいつは意外と足が速くない。

 さっきからチラホラと背中を破られながらも、走って逃げ切ってる人もいる。

 大丈夫だ。大丈夫。大丈夫。


「あっ」


 横から、そんな声が聞こえた。

 黒い獣に背中を喰われた橘が、ゆっくりと倒れるのが横目で見える。

 橘は、そのまま動かなくなった。


 おい、嘘だろ。何でだ。速くないんじゃなかったのか——


 もしかして……騙されていたのか?


 ふと、一つの正解が導き出された。


 そうか、こいつはそういうやつなのか。

 こいつは狩りを楽しんでいたんだ。しつこく背中を狙っていたのもそれだ。こいつの趣味なんだ。


 なぜか、それが絶対に正しいと思えた。


 こいつは俺たちで遊んでいたんだ。

 僅かな希望を見出させて、それを容赦なく潰す。


 なんて悪趣味なんだろうか。

 ドロドロとした怒りが溢れる。


 それと同時に、背中に背負っている世羅の存在を思い出す。

 目の前の路地まであと約10メートル。

 目測では足りる。


 世羅を無理やり正面に向ける。

 一瞬目が合った。


「ありがとうな」


「え?」


 呆けた世羅を、正面に向けた慣性を使い、力一杯投げる。


 すると、背中から大切なものがごっそり奪われる感覚を覚える。そして、遅れて強烈な痛みが走った。

 痛い。痛い。痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。熱い。


「グゥッ」


 背中の痛みと熱さを我慢して、もうあまり見えない目で、無理やり世羅の方向を見る。どうにか、路地には入れたようだ。それに『防御』がしっかり仕事したのか、体を強く打っただろうけど出血はしてない。頭とかは大丈夫なはずだ。上手いこと投げれて良かった。部活の練習を頑張って良かったとここまで思えたのは初めてだ。


「—んで?」


 世羅がなんで、と言った気がする。

 声はもう出ないから答えることはできない。

 でも、これは声が出ても言えない気がする。


 それは、特に理由はないからだ。唯一思い浮かんだのは、格好つけたいからというもの。でも、それは命を賭けてまですることではない。自分でも何でこんなことをしたのか分からない。

 だから、答えることができない。


 世羅は泣きそうになっていた。

 今日は世羅の感情をよく見る日だと思った。

 もしかしたら、高校生活での合計より多いかもしれない。まじで。


 視界にギリギリ入っている橘を観察する。意識はなさそうだが、傷はそこまで深くないように見えた。この後ちゃんと手当をしたら死ぬことはないのではないか。まぁ、救急車なんてもの来ないだろうし、みんな自分のことで忙しいから放置されるだろう。可哀想だが俺と一緒にここで死ぬ運命だ。


 せめて世羅だけでも——そう思ったが、無理かもしれない。

 ライオンもどきは手前で寝ている俺たちを無視して、路地にいる世羅の方向に向かっていた。

 体がデカいから入れないと思ったが、少し首を振れば周りのコンクリートは砕けていく。


 そのスピードは決して速くないが、世羅は俺が投げたせいで捻挫でもしたのか、動きがあまりにも遅い。


 結末だけでも見たかったが、もう起きていられないらしい。目が開かない。耳も聞こえない。体はピクリとも動かなくなってしまった。


 ——だけど、終わりは来ない。


 どうやら俺は簡単には眠れないらしい。

 そういえば聞いたことがある。栄養不足だと眠れないと。

 じゃあ何か食べるしかないか。

 口に広がる血を飲み込む。

 何かあるかな。できれば肉がいいな。

 眼球を動かす。

 焦点は定まらないが、それでもいい。


「見ヅゲた」


 目の前に極上の肉がある。

 その肉へと向かい、這いずるように進む。

 段々それが面倒になり、ゆっくりと立ち、肉へと歩く。


 黒い獣は違和感を感じ取り、こちらを向く。


 ——目があった。


 その目は、何かに怯えるようだった。

 まるで、化け物に出会ったかのような目。


「おながすい゛た゛」


『『獣化』Lv0が活性化しました。』

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